衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

生如法師ウェブサイトロゴ

仏法雑談(第二部)

作者: 釋生如 カテゴリ: 総説 更新時間: 2026年05月09日 閲覧数: 2698
<h2 style="text-indent: 2em;">第九章 修行篇(2)</h2><h3 style="text-indent: 2em;">十四、大乗学人の誤区</h3>

大乗法を修行する人の中には、基礎の修行を重視せず、基礎である阿含経の解脱道を重視せず、大乗と小乗を完全に切り離し、これこれはこれこれ、あれはあれだと考え、互いのつながりはあまりないと思い込み、仏法を切り裂く現象が非常に深刻になっている。中学の課程を学ぶ人が自分を高く見て、小学の課程を見下すようなもので、小学の課程を修め終わらなければ卒業して中学に進んで学ぶことができないこと、小学の基礎がなければ中学の課程もついていけず学びきれず、中学も卒業できないことを知らない。

大乗を学ぶこれらの人々は三十七道品・八正道などの実修の法を軽視し、これらの法をすべて小乗人が修める小乗法とみなし、あってもなくてもよいものと考え、そのまま飛び越えて如来蔵法を修めようとする。戒定がないため、十年二十年あるいはそれ以上学んでも、身心は少しも変転せず、真実の受益もないのに、仏教通のように饒舌に語り、その学問の高さは状元に合格できるほどである。しかしながら学び得た理論は、空中楼閣のようで、理は高空にあり、人は地下に匍匐し、両者は全く関わりがない。このようなあり方でどうして理に順じて道に入ることができようか?高望みした結果、どの法も修めきれず、いたずらに時間を浪費し、命終のとき修むるところなく証するところがないため、業風に漂い流され、自らを主宰することができない。

我々はみな心を静めて理性的に考えてみるべきである。大乗学人は七覚支を具足すべきではないのか?択法覚支がなければ盲人の象を摸するようであり、喜覚支がなければ、学んだものが心に入っていないことを示す。心に入らなければ心は喜を生ぜず、心に喜がなければ身は軽安でなく、身が軽安でなければ心は定まらず、心が定まらなければ空でなく、いかなる智慧を語ることがあろうか?大乗学人は四正勤を修めるべきではないのか?悪を断ぜず、善を増さず、心が変転しなければ、依然として一個の具縛の業障凡夫であり、一品の煩悩も断じていないのに、どうして初果向さらには初果に進趣することができようか?初果がなければ、どうして大乗の明心があろうか?

大乗学人は八正道を修めないのか?正見がなければ、何の道を修めるのか?正思惟がなければ、どうして参禅できようか?正語がなければ、どうして心を守り五戒を守れようか?正精進がなければ、道に背馳することになる。正念がなければ、どうして心を正せようか?心が正しくなければ、どうして道に入れようか?正定がなければ、どうして正慧があろうか?身心がともに正しくあってこそ、正道に入ることができる。だから三十七道品を修行しない人は、修行がまだ門に入っておらず、大乗小乗のいずれとも言えない。今の世間で一人の修道人に出会うことは非常に難しく、人心はみな浮ついて近道を好み、短期の効果を追求する。衆生の前世の根基が浅く、福德に欠けるところによるものであり、さらに伝法者の扇動が加わって、このような局面を作り出した。改良しなければ、仏教から人材は出ない。

<h3 style="text-indent: 2em;">十五、修行の誤区</h3>

学仏修行の中で、知らず知らずのうちに誤区に陥ることがある。ある人が陥る誤区は、すべてが空で虚幻なのだから、何があってもどうでもいいと考え、受が空なのだから受けるなら受ければよい、苦が空なのだから苦しむなら苦しめばよい、煩悩が空なのだから煩悩するなら煩悩すればよい、生死が空なのだから生死するなら生死すればよい、輪回が空なのだから輪回するなら輪回すればよい、と考える。

またある人は別の誤区に入り、福を修めるということが空なのだから、私は何のために福を修め布施 (dāna)するのか?禅定が空なのだから、私は何のために禅定を修めるのか?菩薩道が空なのだから、私は何のために六度を修めるのか?成仏が空なのだから、私は何のために成仏を追求するのか?どうせすべて空なのだから、修めても修めなくても同じだと考える。ある人は如来蔵 (tathāgatagarbha)法を学ぶと、別の誤区に入り、如来蔵は从来戒を持たないのだから、私は何のために戒を持つのか?如来蔵は从来禅定を修めないのだから、私は何のために禅定を修めるのか?如来蔵は从来福を修めないのだから、私は何のために福を修めるのか?如来蔵は从来輪回しないのだから、私は何を恐れて輪回を怖れるのか?如来蔵はもともと仏なのだから、私は何のために成仏しなければならないのか?と考える。

これらの人はしかし、从来語ろうとしない。如来蔵は从来貪欲でないのだから、私は何のために貪欲するのか?如来蔵は从来煩悩しないのだから、私は何のために煩悩するのか?如来蔵は从来殺盗淫妄酒をしないのだから、私は何のために殺盗淫妄酒をするのか?如来蔵は从来無明がないのだから、私はなぜ無明がなければならないのか?空だと考えるなら、すべての法を空にせよ。一か月の給料の半分を減らされたら、それを気にするな。なぜ選択的に空にするのか?責任は空にするが、利益と貪欲は空にしない、これはいかなる空か?

<h3 style="text-indent: 2em;">十六、一切の法はいずれも我に帰属しない</h3>

世間の一切の法は我が用いることができるが、一つとして我の所有するものはない。なぜなら私はこの一切の法の主人ではなく、一切の法は私が生み出し変化させたものではなく、私も一切の法を主宰できないからである。所有権は私のところになく、私は使用権だけを持つ。だから世間の一切の法に対しては縁に随う態度を持つべきで、使えるならしばらく使えばよく、使えなければ無理に求めるな。どうせ私は一無所有であり、永遠に一無所有なのだから、使えるもので十分であり、なぜ自分のものではない法を苦苦しく追求するのか。求めないときにのみ、心が空のときにのみ、大福德が現前し、殊勝な世俗が絶えず湧いてくるが、それも我が用いるだけで、我に帰属するのではない。

<h3 style="text-indent: 2em;">十七、いかに解脱に向かうか</h3>

一切の法を真であり有であると認めれば、即ち一切の法に縛られ、遂に生死があり、解脱を得られない。だから常にあらゆるところで一切の法の生滅変異の無常性と空性 (śūnyatā)を観察すべきである。法を観察するほど深く細やかであればあるほど、法の現起と滅去は、来ることもなく去ることもなく、所従来するところなく所去するところもなく、主宰なく、空であるとますます感じるようになり、こうして解脱の智慧はますます深くなるが、解脱者もまたない。一方では世間出世間の有為法を造作し、一方では有為法の空と無為を感受し、心は有を廃せず空にも著せず、空にして有、空でなく有でもなく、有に非ず有ならざるにも非ず、空に非ず空ならざるにも非ず、断常と一異に落ちることなく、輪転して仏道を成就する。心が空で法が空であってこそ、はじめて次第に世間の煩悩の深淵から跳び出すことができる。心が空であると同時に有を廃さないことで、はじめて次第に仏法の大道に趣向し、解脱の終点に向かって歩むことができる。

心が空と相応するだけで、すでに解脱の道の上にいる。心が法を空と観るほど、終点に近づき、空にする法が多ければ多いほど解脱し、空の程度が深ければ深いほど解脱する。究竟に空、徹底的に空、すべて空になれば、終点に到達し、究竟涅槃である。我空法空、遅かれ早かれ必ず空にしなければならない。早く空にして早く成就することを願い、有を執して諸法を取ることなく、自分を甘やかすことなかれ。煩悩は遅かれ早かれ捨て去らなければならない。早く捨てれば早く解脱し、遅く捨てれば多く苦を受ける。

<h3 style="text-indent: 2em;">十八、論理思惟力は智慧力を生み出す</h3>

智慧とは何か?智慧とは問題を発見し、問題を認識し、問題を解決する能力であり、厳密な論理思惟の能力があれば、問題を漏れなく円満に解決できる、これが智慧である。論理とは何か?論理とは思惟の方法、思惟の次第、思惟の角度、思惟の深さ、思惟の階層であり、これらの思惟を通じて、問題の着手処と着眼点を見出し、一歩一歩深く入り、問題の根本をつかみ、問題の核心に直達し、全方位的に徹底的に問題を解決し、遺漏がない、これが智慧力である。

論理思惟をうまく運用すれば、尽きることのない智慧を生み出し、尽きることのない問題を解決できる。論理思惟をうまく把握できなければ、私の書いた一篇一篇の短文、あるいはグループでの発言を仔細に観察し、私が各問題に対してどのような思惟の方式・方法・角度を用いているかに注意し、私がどのように層層と進めて問題を論述し、問題の実質を暴き、文や段落の前後の論理関係に留意せよ。

問題を解決する次第をはっきりさせれば、糸を引き繭を剥くように、智慧の増長は非常に速くなる。これが論理性を帯びたものである。例えば先日みんなで一緒に討論した超抜超度のあの問題、私のあの思惟の次第、問題解決の全過程を観察すれば、私の思想の脈絡が非常に明晰で、有条不紊であり、最後に合理的な結論を導き出すことが分かる。実は問題を論述する過程においては、まだ最後の結論が果たして何であるか分からず、ただ一歩一歩順序通りに問題を展開しているだけで、過程に差し支えがなければ、最後の結論は正しいものになる。最初の着手処・着眼点および次第が正しいことが非常に重要であり、こうして問題の根源に直達し、根本問題をつかむことができる。これが論理思惟力であり、この能力を具備すれば、智慧が生み出される。この方法で問題を思惟すれば、いかなる問題も如理如法に解決できる。

<h3 style="text-indent: 2em;">十九、覚醒の後は天下無事</h3>

ある人が回想して語る:私はかつて夜明け前に夢を見た。夢の中で二つの非常に重要な荷物をなくし、周りは混乱した見知らぬ人ばかりで、この二つの荷物は取り返しが難しいと思った。このとき心はまだ慌てておらず、むしろ非常に冷静で明晰で理性的で、自分が夢を見ていることを知っているようで、速やかに目を覚ますことに決め、そこで心に力を込めると、目を開けて目が覚めた。心は非常に清明で、安詳にしばらく横たわり、先ほどの夢を回想すると、夢の中で荷物をなくしただけで、実際にはそんなことは全くなく、私は何もなくしていないことが分かった。この夢は非常に明晰で、今も記憶に新しい。各自の夢の中ではどんなことでも起こりうるが、ひとたび目を覚ませば、何事もなくなる。目覚めて夢のないとき、内心が確かに舒坦で、掛礙も負担もないことが分かる。

講評:この人の夢は短く、覚めやすい。しかし生死の大夢は非常に長く、覚めにくい。人々は夢の中でしばしば迷い、貪瞋痴に耽り、業行が絶えず、すべての人事物物理が真実であると思っている。悟道覚醒して初めて、もとはすべて夢であり、実際には何事もなく、目覚められることは本当に良いことだと気づく。しかしいかにして速やかに覚醒するか?夢の中で心地が清明であること、夢であることを知ること、夢境に留恋しないこと、覚醒の発心があること、定力があること、智慧があること、善根があること、福德があることが必要である。夢の中でしばらく出られないとしても、必ず多く善業と清浄業を行い、悪業を造ってはならない。悪業は心地に対する遮障が非常に重く、心を混沌とさせ、目下が夢境であることを弁別できなくなり、幻夢から出離する発心を起こさなくなるからである。

生死の大夢の中で、一切の法は幻化されたものであり、真のように見えるが、実質は偽である。心が清明でないとき、偽を真とし、種々の業行、特に悪行を造作し、夢境に流連して目を覚ますことができない。夢の中の人にとって、善行と清浄行、特に清浄行を行うことは絶対に必要である。清浄行は心を清明にし、夢境の本質を見抜き、迷執せず、出離の願力が強く、定力が足り、智慧が深ければ、速やかに覚醒し、太平盛世の中に生き、清心寡欲、雲淡風軽、何事もなく、一片の閑である。だから無事に事を探すことなく、身心は常に暇なく、貪瞋痴の煩悩悪業が重重であってはならない。世間には執るべき事も、放せない事も、掛礙すべき事もない。心の中の事はすべて夢中の事であり、執しても無用であり、財色名食睡は一つとして手に入らない。世間はただ一場の夢に過ぎず、多くの人が名利のために忙しく楽しんでいるが、実に値しない。

<h3 style="text-indent: 2em;">二十、楞厳咒を暗誦する利益</h3>

修行が肝心なところに至るほど、魔が来て妨害し、殊勝なところほど、魔が来て妨害する。修行の階層が高ければ高いほど妨害が大きく、修行が痛くも痒くもないような者には逆に魔は来て妨害しない。だから修習する法が肝心であればあるほど、修習が深い法であればあるほど、ますます小心謹慎でなければならない。特に神通を好む人がいると、魔は神通を与え、その後魔に制御され、魔の掌から脱することができない。楞厳咒は護身符であり、常に念誦し、できればいつでも暗誦できるようにすれば、魔はあなたにどうすることもできない。学仏人がみな楞厳咒を念誦・暗誦できれば、魔王は娑婆世界から退去し、仏法は継続し、楞厳経は滅ぼされない。

楞厳咒には加持力があり、咒の中はすべて諸仏・菩薩・辟支仏・阿羅漢・護法神の名前であり、念仏 (buddhānusmṛti)と同じであり、あるいは単なる念仏より効力が大きいかもしれない。護法神が具体的に護持し執行するからである。具体的には、念咒者の戒定慧の修行を加持し、一部の業障を遮り、一部の業障を消除し、大きくて抵抗できない業障は身に着きにくく、修行を順調にし、知らず知らずのうちに戒律が清浄になり、禅定が向上し、智慧が増長し、心が清浄になる。念咒が専注すればするほど効力が大きく、心が誠であればあるほど効力が大きい。専注できなければ、行住坐臥で事をする中で念咒し、心が少し散って一心にならなくても、心が誠でさえあれば、加持力は依然として大きい。散心で念咒しても加持力があり、心で口で念咒しさえすれば、みな護持を得ることができる。

もし修行が順調でなく、心が散乱して集中できなければ、計画的に毎日行住坐臥で楞厳咒を暗誦すべきである。各自が学仏の最初に、一定数量の楞厳咒を念誦し、修行が順水推舟のようになるまで続けて、はじめてやめてよい。これは諸仏菩薩・四聖・護法神の加持力の作用に依拠するものであり、その後に初めて自らの心力が生じ、自力と他力が結合して、修行がはじめて正軌に乗る。加持力は自らの心性の変化を促し、心性が変われば、性障 (kleśāvaraṇa)が消除される。また過去の業行種子の障害があり、大きい業障は護法神が遮止し、小さい業障は自分が少し業報を受けても構わず、受けるべきであり、避けられない。大きい業障は将来受けられるときに受ければ、そのときにはそれほど気にならなくなるか、大きい業障も将来はそれほど大きくなくなる。心が空であるほど、業報に対する承受力が大きく、坦然として受け入れ、責任を担い、業債を償うのは当然のことである。

<h3 style="text-indent: 2em;">二十一、いかに速く楞厳咒を暗記できるか</h3>

楞厳咒の加持作用は非常に大きく、福德を増やし、戒律を円満に守持して犯さず、心念を専一にして雑念なく、仏法の修行に精進させ、道心を堅固にし、択法眼を持ち、魔の妨害を遠ざける。具体的には楞厳経第七巻の世尊が楞厳咒を持誦する種々の利益を開示するところを読誦せよ。だから学仏人は最初に学仏したとき、毎日楞厳咒を誦持・暗誦できることは非常に必要であり、仏菩薩と護法神の加持の下で、多くの妨害と違縁を省き、世俗心を修道心に転じ、修行の進歩が非常に速い。

いかに速く楞厳咒を暗記できるか?これは記憶力次第である。楞厳咒を読誦するとき、専心一意で、心に雑念がなく、全注意力が楞厳咒の上にあれば、楞厳咒を読み慣れたときにはほとんど暗誦できるようになっている。読咒するとき、念頭が多く、心念が専一でなければ、注意力が分散し、咒語を覚えられず、どれだけ読んでも暗誦するのは難しい。雑念を混ぜないために、速読や読誦を選び、一気呵成にすることができる。しかし弊害があり、気を傷つけやすい。短時間なら影響を受けないが、長時間は影響がある。本当に専注して読誦できれば、短時間で暗誦できる。注意力を集中するために、木魚を叩くことを補助方法として選ぶことができ、木魚がなければ手で机を叩いてもよい。鼓点は均一で、韻律がなければならない。興味を引き出せば、注意力が集中し、読誦を好み、速やかに暗誦の程度に達する。

<h3 style="text-indent: 2em;">二十二、人性を変えることは習性を変えること</h3>

ある人は、人性を知るには動物の世界を多く見るとよい、動物の世界が分かれば、人性の一部も分かると言う。この言葉に道理があるか?なぜか?

六道の低いものから高いものへの順序は:地獄、鬼道、畜生道、人道、天人道、阿修羅道である。そのうち阿修羅の衆生は以上の五道に分布し、五道の中に算入できる。衆生は輪回し、畜生道は人道と隣接し、習性が近い。畜生道から人道に転じた後は、人性と畜生性が近く似ており、我見 (satkāya-dṛṣṭi)を断じていない人はみな再び畜生道に戻り、畜生性を具足する。この言葉は耳障りである。前回煩悩の問題で畜生道の問題に触れたとき、誰も話を引き受けたがらなかった。みんながこの問題を避けていることが分かった。しかし避けても問題は解決せず、問題に向き合ってこそ理を明らかにし、それによって問題を解決できる。

習性は意根のところに現れる。人が畜生から人類に移行しても、意識は変わったが、意根は変わっておらず、骨の髄まで畜生あるいは鬼類の衆生と同じである。そうすると後世の輪回ではまた三悪道に輪転し、三悪道の衆生性を具足する。

だから誰も人であるときのこの少しの福報をあまり気にするな。名利権勢地位種族、一たび三悪道に行けば、やはり何者でもなく、普通の人にも及ばない。だから仏法に出会ったら、重点的に意根を修め、意根を変えるべきである。意根がひとたび変われば、心性の属性が変わり、三悪道の衆生と区別がつき、果報も変わる。

自分を変えたいなら、自分を知らなければならない。自分を知りたいなら、自分を観察するだけでなく、自分の同類を観察するだけでなく、畜生類と鬼類も観察しなければならない。近いので、大体似ている。すべてを知れば、自分を十分に知ることになり、自分を知ってこそ、自分を変える方法がある。

<h3 style="text-indent: 2em;">二十三、雑学は正精進ではない</h3>

我々が学仏修行するのは、実際の根本の生死問題を解決するためであって、理論を学ぶためではない。理論知識は実修に足るだけ掌握していればよく、それ以上深く掘るな。心思は肝心なところに使うべきである。意根の智慧が開発されさえすれば、元来分からなかった法もみな明らかになり、元来知らなかった知識もみなはっきりする。そして自分の智慧を総括して伝えれば、他人に必要な理論知識となり、人にも己にも利益無量である。

周利槃陀伽は四果阿羅漢を証得した後も、なお法を講じることができず、口が下手であったが、事はすべて成し遂げており、解脱智はあるが生智がなく、表現できず、知識の面も不足していた。それでも聖者であることを障げない。三界の生死を解脱する智慧があり、リンゴを腹の中に食べたのは実実在在のものである。百冊の本を書ける、誇大に語る、貪瞋痴煩悩具足の凡夫より何倍強いか?

多くの人は学仏修行を分かっておらず、日々あちこちで知識を収集することを津津楽とし、有用か無用かを問わず努力して収集し、ゴマばかり拾い、収集した後またいくらか忘れる。無尽の宝蔵を開発せず、金の鍵を手に取ることを知らない。努力しているように見えて、実は邪精進であり、精進すればするほど道から遠ざかる。

ある人は万華鏡の中の花模様を研究するのが好きで、第一の模様を研究し終わらないうちに第二の模様に変え、一万の模様を転換し、各模様を追いかけ、結局目が眩んで、研究し尽くせない。無智の人は万華鏡を製造する研究を知らないだけである。万華鏡があれば、すべての花模様図形を自分の思いのままに掌握できるのはなんと快適か。世界の知識は無量で、爆発的に発展し、日々追いかけて何を得られるか?大菩提心を発し、努力して知識庫になり、一切の知識が自分の心から絶えず湧き出し、衆生がみなこの知識庫に依拠して知識の栄養を汲み取れる、それはなんと美しいことか。

なぜある人は修行して長くないのに禅定が非常に深く、観行 (vipaśyanā-caryā)の智慧もよく、三昧 (samādhi)を失わず、ある人は何十年も修行して禅定が現れず、智慧力が弱いのか?痴犬が塊を追うように、外のどんなものにも関心を持ち、興味を持ち、毎日各プラットフォームを回り、どんな知識も学び、今に至るまで何一つ成し遂げていない。しばしば何一つ成し遂げていない人ほど自信満々である。何を根拠に自信があるのか?

ある人の後脳勺を開いてみれば、そこは乱れた糸くずの山で、雑然として秩序がなく、思惟に論理性がなく、前の文と次の文がかみ合わない。さらに乱れた論理性のないものを学びに出て、学べば学ぶほど脳の中の乱れた糸くずが増える。人の思惟の路線と方式は熏染性があり、誰について学べばその人の思惟特性を学び出す。弁別力がないとき、やみくもに学べば、もともと自分の智慧が弱いのに、さらに雑乱な思惟方式を熏染され、自分の思惟はますます直線を走れず、話がぐるぐる回って、根本と重点に触れられない。思惟の路線が間違っていれば、証果と明心ができるか?

修行のうまい人は、長く定中と観行の中にいる。外の雑乱なものを学ばず見ないは言うまでもなく、師である私の話さえ聞く気がない。私がこちらで話している間、あの人は心の中で観行している。結局、功夫をすることが肝心であり、生死の大事が肝心である。一方、何十年修行しても何も出ない人は、毎日雑然と各種の雑乱な知識を吸収するのに忙しく、楽しくてたまらない。あなたは一体何が楽しいのか?脳はぐちゃぐちゃに詰まり、一本の明晰な糸もない。

<h3 style="text-indent: 2em;">二十四、持戒は修行と言えるか?</h3>

甲が言う:修行の最終目的は我執を破り、さらに法執を破ることである。我執・法執を破るには般若 (prajñā)智慧がなければならない。般若智慧を成就するには、禅定の助縁がなければならず、禅定の助縁がなければ心が散乱し、般若智慧を熏習していても力を使えない。だから定功がなければならない。禅定の基礎は戒にあり、持戒を通じてはじめて、悪い業を遮止し行わず、身口意の三業を清浄に保つことができ、このとき般若智慧で内心の貪瞋痴・我執などを破る力が生じる。

甲の意味は、持戒は禅定に助け、清浄心を保ち、悪業を造らず、禅定の力の下で貪瞋痴煩悩を断除し、我執と法執を破る、このような持戒は修行と言える、ということである。しかし私は、単に悪業を造らない持戒だけではまだ足りないと考える。初発心で学仏する角度から言えば、これで十分に良いのだが、まだ修行の段階に入っておらず、したがってまだ修行とは言えない。

修とは自分の思想観念と身口意行を修正することであり、行とは身体力行し、具体的に操作し、善法善業に対して造作することであり、悪をしないだけではまだ足りない。衆生の身口意行はみな貪瞋痴煩悩を具足し、無明を具足している。これらの無明煩悩は善法で対治する必要があり、善が来れば悪が去り、善があれば福があり、福德は一に持戒を助け、二に禅定を生じさせ煩悩を降伏するのを助け、三に智慧を生じさせ、誤った思想観念を変え、身口意行を清浄し、身心世界を変転させるのを助ける。ただ持戒して悪を作らないだけでは、善法を具足できず、大福德を得られず、したがってまだ修行とは言えない。

乙が言う:小乗戒を持つことは真の修行仏道ではなく、せいぜい修行の保障に過ぎず、菩薩戒を持ってこそ修行である。修行仏道は苦海を行く一艘の船のようなもので、船の行く方向・路線が第一に重要である。仏世尊が開示する修行路線図が第一に重要であり、法船が第二に重要である。ただ小乗戒を持つだけでは、なぜ修行仏道とは言えないのか?例えば自分の小舟を座礁させず水漏れさせないことだけを守り、ぽつんと苦海に漂い、自利できず、利他もできず、これがどうして自他兼利の修行と言えようか?

乙の観点は、ただ小乗戒を持つだけではまだ修行とは言えず、大乗戒を持ってこそ修行と言える、ということである。しかし大乗小乗ともに純正の発心があれば修行であり、ただ各自の目標が異なるだけで、小乗は中途で下車し、大乗は終点駅で下車する。持戒が修行かどうかは、どのような心行で持戒するか、持戒が指向する結果は何かが鍵である。もし持戒が人天福報のためであれば、人天福報を得た後、あるいは悪業を造り、あるいは福が尽きてまた堕落し、このような持戒は依然として堕落を招くので、修行ではない。外道も戒を持ち、多くの人が五戒を決して犯さず、心も清浄であるが、最終的には依然として外道であり、仏道を行かない。このような持戒も修行とは言えない。

小乗修行の目標は我見を断じ、無我を修め、五蘊是我という思想観念を変え、五蘊の束縛から解脱することである。もし無我無私の心で戒を持てば、我見を断じて解脱に趣向し、涅槃の果証を得ることができ、このような持戒は修行に属する。逆に、有我の心で無我の事を行わず、心中いたるところ我を計較するなら、このような持戒は修行ではなく、無我の果徳を得られず、戒福を得た後また堕落する。大乗は無我の心で利他の事を行い、大菩提心を発する。このような持戒は修証の基礎であり、心性を変え、定慧を増長し、明心証悟に導くので、修行とみなされる。

<h3 style="text-indent: 2em;">二十五、精進に学法することは修行と言えるか?</h3>

金剛経云:法尚应舍,何况非法。法とは三蔵十二部の清浄妙理であり、理論と知識の範疇に属する。これらの理論知識は実証した後、相応の無明を破除すれば、もう用がなく、棄捨しなければならない。もし心に留めておけば、心識を窒碍するだけで、心が空で無碍になることができず、いたずらに法縛を増す。例えば薬で病を治したら、薬を捨てるべきであり、さもなければ薬に執してかえって病となる。法に対する非法とは無明、貪瞋痴煩悩である。無明の範囲は極めて広く、誤った、不如理の、生死を絶えさせない思想観念はすべて無明である。これらの非法はなお捨て去らなければならない。我々の学仏修行の全過程は、絶えず無明を破除する過程であり、無明が滅し尽きるまで、彼岸に到れば、もう修行を必要とせず、法理も空にし尽くさなければならない。

こうして法と非法の関係は非常に明確になる。両者は薬と病の関係であり、対治と被対治の関係である。法は非法を対治するために用いられ、非法の対治がなくなれば、法も捨てなければならない。こうして心は空になり、清浄になり、常楽我浄になる。法は無明を対治するために用いられるのだから、それは修行の一つの道具と方法であり、修行の対象は無明煩悩であって、法そのものではない。法は理であり、無明煩悩は事であり、事は身口意行に現れ、身口意行も事であり、善・悪・不善不悪の三種に分かれる。悪が滅すれば心は純善と清浄に変わる。だから理で事を破り、事を円融し、種々の事行事相を円満にすることこそ、修行の最初と最後の標的と宗旨である。

最後には心中の法は必ず消除しなければならないが、事行も消除するのか?無明煩悩の事行は必ず消除しなければならない。無明煩悩を消除した後、身口意行は徹底的に清浄になり、染汚がなく、こうして種々の事行を円満にし、無上仏道を成就する。しかし諸仏の成道は無余涅槃 (Anupadhiśeṣa-nirvāṇa)に入らず、無住処涅槃の中で、円満清浄の事行は常に現起しなければならない。諸仏は因地で無量の衆生を広く度すと発願したから、成仏の後は因地で発した種々の清浄大願を円満に実現しなければならず、だから事行は断つことも滅することもできず、衆生を度し尽くすまで続く。

こうして明確になる。智慧があって事理を円融でき、種々の事行を円満できることこそ真の修行であり、自慢し人に示せるのは、無明のない清浄な身口意行であって、何の法を学んだか、どれだけの法を学んだかではない。だから方法と用具は人に示す必要がなく、結果が重要であり、結果を人に示してこそ、人を激励し、教導し、導き、無明を破除する成仏の道に歩ませることができる。健康な体の人のように、健康な体を人に示すだけでよく、自分に癌を治す薬がある、白血病を治す薬があると到る所で宣伝する必要はない。無病こそ自慢できることである。法で非法を対治し、そのあるべき作用を果たし、無明を消除し、貪瞋痴煩悩を去り、我法二執を滅すること、これが根本である。作用がなければ、念仏も非法であり、作用があれば、外道の非法も法である。

今一部の人は理論は理論、事は事で、両者に関係がない。では修行は一体何を修めているのか?多くの人が学仏とは理論知識を学ぶこと、仏法を多く知ることだと考え、仏法を知ることは何のためかを知らず、修行の目標と方向が何かを知らない。もし学仏がただ理論知識を掌握するためだけなら、学富五車で仏学博士になっても、依然として無明の衆生であり、一丝毫も解脱できない。理論知識は衆生を成仏させることができず、理に執して事を廃すれば、かえって法執となり、法に縛られて生死をますます増す。このような学法は愚痴行であり、修行とは言えない。理論は事のために奉仕するものであり、事が円満になれば理論は用がなく、捨てるべきである。智慧ある人が一日中理論を抱えて事を顧みない、本末転倒ということがあろうか?

人は事において解脱するのであって、理論において解脱するのではない。ある人は本当に顛倒していて、理論を高く掲げながら、大いに悪業を造り、理論が手にあれば目的が達成され、事行は構わないと思う。しかし実際には、有用なのは事であり、円満にする必要があるのは事であり、事が円満になってこそ仏である。事を円融よくするためにこそ理論を学び、理論で事行を指導し、事行を変え、事行を円満にする。そうでなければ、三蔵十二部の中に埋没して孜孜として求めるところ、何のためか?学ぶために学ぶのは、無用の功ではなかろうか?いくつかの法を学んだだけで群生を傲視する人は、なんと愚痴で顛倒していることか。学んだものが貪瞋痴を軽減できず、かえって無明を増すなら、学ばないほうがましであり、学んでも学んでもただの禍害であり、衆生に仏法と仏教を誤解させることは、大悪業を造っているのである。総括して言えば、事行を円融できない学法は、いかに精進しても修行とは言えない。

<h3 style="text-indent: 2em;">二十六、邪精進とは何か?</h3>

邪精進は正精進と正反対であり、努力の方向が正しくない。方向が正しくなければ、努力すればするほど目標から遠ざかる。正精進の努力の方向は無我を証得し、空を証得することであり、ますます無我になり、ますます空になり、徹底的に究竟するまで、この目標をめぐって戒定慧の三無漏学を修行する。邪精進の人は心中我が盛んで、有に著して空ならず、何を修めるにもすべてそのいわゆる我の世俗的利益のためであり、世俗の有に著し、名聞利養に対して心に希冀と追求があり、道に背馳する。このように、日夜休まず坐禅し経を読み念仏し、学法し甚至弘法しても、すべて自我を中心とし、自身の利益を中心とし、自分が利益を得、自分に関係ある人が利益を得ればよく、他人が良いか悪いかは構わず、甚至他人の利益を損なう。このような修行は、精進すればするほど無我の道から遠ざかり、空から遠ざかり、法界実相から遠ざかり、最後には魔に修成しやすい。

清浄大願・正願のない精進は、邪精進とは言えないが、正精進でもない。一切の修行は願が先導であり、願がなければ事は成らず、願があれば事半功倍である。願は加速器のようであり、願は深坑の中の梯子のようであり、願は泥の中の牽引縄のようであり、願は業力の絡みを脱して、涅槃の彼岸に直達できる。小願は自身のため、大願は衆生のため、邪願は仮有のため、正願は真空 (samyag-śūnyatā)、清浄のためである。大願と正願が発せられないのは修行がまだ浅いからであり、ひとたび善根福德が深厚に積まれれば、自然に願が起こり、願あるものは皆成る。

<h3 style="text-indent: 2em;">二十七、修行を勧む</h3>

年が明けると、農村では豚を殺し羊を屠る。最後の食事を豚に与えるとき、豚はまだあんなに楽しそうに食べ、これが有生の年最後の食事であることを少しも感じない。一生何もせずに食べ、肥えた脂身を養ったが命を失った。愚痴な畜生ほど、覚悟がない。人もまた然りである。人類の一切の災難はすべて目の前に、明々と、少しも遮掩なく置かれている。山に頼れば山は倒れ、水に頼れば水は流れ、人に頼れば人は走る。何も頼りにならない。災難が四起するとき、なお山や水を遊覧し、山を見水を見また雪を見る心があり、遊べれば遊び楽しめれば楽しむ。まるで豚が最後の晩餐を享受するようである。人と豚の区別はどこにあるのか?

一生が長いと思うな。それは錯覚であり、天人から見ればただ数分数日の時間にすぎない。自分がまだ若いと思うな。黄泉の道に老い少なし。白髪の人が黒髪の人を送ることはしばしば起こっている。自分は大丈夫と思うな。大災大難に遭う人の多くは自信満々な人であり、ベッドに横たわって動けなくなって初めて悔恨の涙を流すが、すでに手遅れである。

仏法に出会ったのに、なお覚らず、なお努力して修行し生死の悲苦の運命を変えたくない、このような人にどんな薬が救えるのか?私が誰のことを言っているか、誰であるかは分かっているはずである。まだ分からなければ、まさに豚のように愚鈍である。分かっていても改めなければ、他に何の良い言葉があろうか?

<h3 style="text-indent: 2em;">二十八、実修は単なる理論学習よりさらに困難である</h3>

インターネット時代には、理論が爆発し、知識を学ぶことは非常に容易になり、ほとんど難しさがなくなった。難しいのは実修のところにある。一つには、参考にできる実修の事例経験が多くないこと、二つには、実修実証した人の指導がないこと、三つには、幾重もの障害を突破し、自ら力を尽くさなければならず、誰も代われないこと、四つには、衆生の根基が概してあまり良くなく、業障の関が越えがたく、修行を実際に落とし込む手だてがないことである。

我々のここでは実修を主とし、前期の理論知識を主とせず、口先だけの功夫を弄せず、到る所で弁論して勝を争わない。ひとたび実修の段階に入り、実修の基礎とこつがあれば、今生で何を証得しなくても、三悪道に落ちにくく、後世再び仏法に触れれば、自動的に実修の状態に入り、修行は速くなる。皆この機縁を珍惜し、世俗の無益な事を攀縁することなく、まして世俗の中の享楽を追求するな。世間には楽しむべきものはない。皆しっかりして、認知の中の智慧の含有量をもっと高めてほしい。

<h3 style="text-indent: 2em;">二十九、修行とは境界を空にすることか、自分を空にすることか?</h3>

境界にはどんな法が含まれるか?境界とは塵であり、塵とは我の識心と相対する一切の色声香味触法であり、人事物物理の一切の法を含み、自他の五陰 (pañca-skandha)身を含む。根塵相触れて識を生じ、識があれば分別があり、起心動念がある。では修行は境界を空にするのか、我を空にするのか?我先に空であり、我が空になれば境界も空になるのであって、境界が空になって我が空になるのではない。

境界がなければ我もなく、境界があれば我もある。これを何の修行と言うのか?これも修行と言うなら、外道が四禅八定を修めて境界相を空にし、ただ我だけを残したが、彼らは我見を断じたのか?誰が外道より空にできるのか?境界を修める者は、もとは境界に随って転ずる者であり、境界に随って転ずる者は凡夫である。我が空になれば、なお塵があるか?塵はそれに随って空になる。あなたが空でなければ、一切の境界が起こり、あなたの心が空であれば、一切の境界は無に化す。

<h3 style="text-indent: 2em;">三十、ただそれほどのことでもない</h3>

山を移し海を填め、偉大なる工程、砂を挥い石を運び、衆志城を成す;

高樓大廈、宏伟壮観、安居楽業、人生の栄華。

天より之を見れば、蟻の穴を造るが如く、群蟻力を合せ、砂を搬び土を運ぶ;

穴成りて群居し、蛋を安じ卵を孵し、天災之を毀れば、穴を移し再び造る。

汝の偉大なるも、我も劣らず、劫を歴て如此、循環往復;

碌碌たる一生、終に寂滅に帰し、首を回らして一望すれば、尽きせぬ蒼穹。

衆情之を執り、渾然として覚えず、迷いて之を争うも、ただ塵沙に過ぎず;

身生きて身滅し、塵は幻にして埃は亡ぶ、唯一つ化せざるは、一土にも如かず。

ページトップへ戻る