衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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仏法雑談(第二部)

作者: 釋生如 カテゴリ: 総説 更新時間: 2025年12月04日 閲覧数: 1647
<h2 style="text-indent: 2em;">第五章 因縁果報篇(2)</h2><h3 style="text-indent: 2em;">十五、愚痴煩悩業の果報</h3>

貪瞋痴の煩悩の果報は、貪心は悪鬼道に生じ、瞋心は地獄道に生じ、愚痴は畜生道に生じるというもので、臨終の時に貪瞋痴の悪業相が現前すれば、必ず三悪道に行って受報し、逃れることはできません。煩悩業を消滅させるために、日頃から自分の心行を多く反観し、仏法の理をもって降伏するよう努め、持戒修定することによって、煩悩は比較的速く降伏できます。罪業を造作した後、それを消滅させようと思えば懺悔する必要があり、比較的重大な罪業を造った場合は、仏前で懺悔して瑞相とおぼしきものを見る必要があります。たとえば夢の中や定の中で蓮華が現れる、仏が来て頂を撫でて慰めるなどです。比較的軽い罪業なら、大衆の前で誠心誠意懺悔すれば消滅できます。

貪心が非常に重い者は、悪鬼道で苦を受ける時間が非常に長くなります。もし三宝に対して重大な貪心を生じれば、その罪過は実に甚だ重いものです。瞋恨心が比較的深刻な者は、地獄道で受報する時間が非常に長くなります。もし三宝に対して瞋恨心を生じれば、その罪業はなおさら大変なものです。愚痴が深刻な者は大きな悪業を造作することになり、それはもはや畜生道の問題ではなく、まず地獄に落ちて受報し、その後悪鬼道、さらにその後になってようやく畜生道です。一切の煩悩はすべて愚痴によって引き起こされるもので、愚痴は煩悩の根源であり、愚痴でなければ貪心と瞋恚心は生起せず、煩悩業を造作することもありません。将来煩悩を断除するときには、貪心と瞋恚心が先に断たれ、愚痴は最後に断たれます。愚痴は手に負えないからこそ、愚痴煩悩は最後に断たれるのです。

学仏の人が自分の煩悩を降伏しようと思わなければ、たとえ八地菩薩の理論を学んだとしても、煩悩業を造作した後、三悪道に落ちれば、八地菩薩の法をもってしても自分を救うことはできません。日頃はただ自分の煩悩の性情に随順し、後の結果を考えず、己の情に任せ、己の意を逞しくし、他人がどうしようと勝手にさせ、自分の心が心地よければそれでよしとしている。しかし果報が到来するときには、百万倍の不快感となるのです。心地よさと不心地よさの間に比例関係はあるのでしょうか? まったく成り立ちません。そのときになって初めて、自分は当初なんと無駄なことをしたのか、あまりにも割に合わなかった、悪報を得ただけで何も得なかったと考えるのです。

<h3 style="text-indent: 2em;">十六、畜生の殺業は人類より重いのか?</h3>

悪業・殺業の造作は意根が主宰し、六識が造作するものです。しかし意根が自分単独で行う心理活動も業行であり、意業と呼ばれ、種子も存し、果報もあります。それが生死輪回の苦なのです。

身口意の三種の業行の中では、意業が主であり、意業が最も重いのです。なぜなら身行と口行は直接意根の意行に指揮され制御されているからです。意根が貪瞋痴を起こして造作する身業・口業は故作と呼ばれ、意根が貪瞋痴を起こして造作したのではない業行は、無意に作ったものと呼ばれます。故意に悪業を造作すれば罪業は大きく深重であり、性罪・性業があります。無意に造作した悪業は罪業が軽微で、性罪・性業はありません。

畜生たちが互いに食べ合うのは、有意と無意の中間にあり、単に飢えのためだけで、殺心も瞋恨心もなく、造業は比較的小さく、悪業も比較的軽微で、性罪も性業もなく、借金は将来返せばそれで済みます。畜生の一期の悪業が終われば、人に托生することができ、人が再び悪業を造れば、また三悪道に行って受報します。衆生はこのように六道の中で生死輪回を繰り返しており、人身の業行が最も主要な決定要因なのです。果報のない業行は一つもありません。だからこそ、誰もが話をしたり事を行ったりするときは千万千万注意慎重でなければならず、恣意に妄為してはならず、口を開けばでたらめを言ってはなりません。とりわけ仏法については、当然のことと思い込んで自分がどう思うかのままにしてはなりません。仏は、阿羅漢果を証しないうちは己の意を信じてはならず、己の意は信ずべからずと説かれました。ひとたび仏法上で悪業を造作すれば、無間地獄の苦は人間界の無量倍であり、とても耐えられるものではありません。

<h3 style="text-indent: 2em;">十七、因果は心に由らず</h3>

もし心中に重大な「我」があれば、心が思う事柄は必ずしも実現できるとは限らず、思わないことは必ずしも避けられるとは限りません。人類が行うことは、往々にして自分の希望とは正反対です。たとえば人は皆長寿・健康・幸福を望みながら、造作しているのは自分を長寿でなくし、健康でなくし、幸福でなくする事柄です。たとえば殺生して肉を食べるなら、その結果どうして健康で長寿で幸福であれましょうか? 人は皆自由自在に解脱したいと望みながら、しっかりと「我」を握りしめて放さないのでは、どうして自由自在に解脱できましょうか?

人は皆自分が富貴で発達することを望みながら、常に意識するかしないかのうちに盗みや強盗のような事をしていては、どうして富貴で発達できましょうか? 人は常に自分が尊重され重んじられることを望みながら、常に傲慢で他人を見下し、他人を尊重しないのでは、どうして他人の尊重を得られましょうか? 人は常に至高無上の権力を望みながら、常に他人の権利を剥奪していては、自分にどうして権利が持てましょうか?

<h3 style="text-indent: 2em;">十八、因果の恐ろしさ</h3>

我々はすでに学仏修行しているのですから、因果の問題を必ず重視しなければなりません。一言を発し一事を行うごとに、必ず相応する結果を考慮しなければならず、何事も大したことではないと思ってはなりません。大したことではないのではなく、多くの大きな事があるのです。なぜなら中間に孽息があり、千万倍、千万億倍、さらには無量倍の業報があるからです。皆さん決して油断してはなりません。さもなければ大損をします。六道輪回の中の無量の苦は、まさに大損ではありませんか?

どれほど多くの人が三宝の身に身口意の悪業を造作したことでしょうか。日々罪を懺悔し業を消さなければなりません。たとえ一つの悪心念であっても、その業報は相当に深刻です。因果を重視し、因果を顧慮するのは賢明な人です。さもなければ、どれほど仏法を学んでも無駄骨であり、依然として先に悪報を受け、悪報を受け終わったとき、学んだそれらの仏法が、どれほど残って使えるでしょうか? 不敬や指図ごとき、このような些細な事でさえ悪業に算されます。事が小さく見えても、実際には非常に大きな事なのです。『因果経』の実例と比べれば分かります。

大乗法を数十年学び菩薩道を修めながら、毎日三宝に対して悪業を造作し、身口意が清浄になったことが一度もない人が少なからずいます。このような人々は死後、まず地獄に行って悪報を受け、次いで鬼道の悪報、最後に畜生道の悪報を受けます。畜生道から出て再び人身を得たとき、学んだそれらの大乗はほとんど忘れ去っているでしょうから、また一から学び直し、途中でまた悪業を造作し、また三悪道に行って受報する。このように周而復始して流転し、いつになったら終わりが来るのでしょうか? 人中の苦でさえ嘆き悲しむほどなのに、三悪道の苦痛を、無始劫以来、どうやって耐えてきたのでしょうか?

<h3 style="text-indent: 2em;">十九、悪人をどう処置するのが適切か?</h3>

世俗界では常に人の本性が本来的に善か悪かという問題が議論され、論争が絶えません。この問題は仏教から見れば問題ですらありません。明らかに、もし人の本性が本来的に善なら、三悪道の衆生は存在しないはずです。もし人の本性が本来的に善なら、衆生に貪瞋痴の三毒煩悩はあるはずがなく、社会にこれほど多くの重大犯罪現象はなく、監獄にこれほど多くの人がいるはずがなく、さらに何度も監獄に入っても悔い改めない人さえいるはずがありません。天人でさえその心性はすべて善いわけではなく、煩悩もあります。とりわけ愚痴は、それは極めて大きな煩悩です。煩悩のない衆生は輪回しません。輪回がある限り煩悩があり、人の性は悪多く善少なく、まったく善のない人もいるのです。

なぜ人の性は本来的に悪なのでしょうか? 無明があるからです。この無明は衆生が存在する時からすでに備わっているもので、後天的に生じたものではありません。無明のために、衆生は皆悪業を造作し、それゆえ無量劫また無量劫の生死輪回があるのです。各衆生は圧倒的多数の時劫を三悪道で過ごしており、人身で人間界に生存する時劫はその生命の長河の中の百分の一、千分の一、万分の一にすぎず、さらには今に至るまで一度も人身を得たことのない、畜生道から出たことのない畜生道の衆生もいます。これらは極めて愚痴な衆生であり、愚痴こそが悪なのです。

無始劫の中で三悪道から人の中に生まれたばかりの人々は、極めて愚痴で極めて悪質であり、人の性とはまったく相応せず、心性は畜生に非常に似ており、非常に相応しています。彼らにあるのは愚痴のみであり、愚痴に加えて残暴な者もおり、殺戮を嗜む性分で、人の中に生きている限り人を害します。人を害することが彼らの本性であり、殺性・傷害性こそが彼らの畜生の本性なのです。このような人が人間性を持ち、善性を持つには、人道の中で多生多劫にわたって人類の中で善法に熏染され続けることによってのみ、徐々に畜生の悪性を剔除し、人類の習性を染めることができます。人類の習性もそれほど善いわけではありませんが、畜生性よりは善いのです。このように累生累世の熏習を経て、初めて完全な人格と完璧な人間性を具えるのです。

しかしこの過程において、多くの人がこれらの人々に残暴に傷つけられ殺されることになります。善人が悪人と付き合えば、当然善人が災難に遭い善人が損をします。法界の中では永遠にこのルールであり、善人と悪人が混在すれば、永遠に悪事を働くのは悪人で、善人は悪人の悪を忍ばなければならず、絶えず問題を引き起こすのはほとんどが悪人、底辺の人々であり、問題があるのは永遠に修養のない人々です。なぜなら善人は悪業あるいは大悪業を造作せず、故意に人を傷つけないので、傷つけられるしかないからです。悪人は必ず悪業を造作し、必ず人を傷つけ、最初の本性は変えられません。では、これらの悪人が極大の悪業を造作した場合、彼らの生命を剥奪して人を傷つけ続けさせないようにすべきか、それとも彼らの生命を残して、人の中で善法の熏習を続けさせるべきでしょうか?

両者の選択にはそれぞれ利害があります。彼らの生命を残せば、相次いで人が再び傷つけられ殺され、他の生命が脅かされることになります。悪人の生命を剥奪し、彼らが同類を傷つけ続けるのを阻止すれば、これらの悪人は善法の熏習の機会を失い、悪性を改める機会がなく、心性の進化が阻害されます。これも大きな損失です。この事について、一体どうすればよいのでしょうか? 善人と悪人が各々その所を得て、相安んじて争いのないようにする、より良い方法は何でしょうか? 極楽世界で阿弥陀仏はどのように善人・悪人を管理しているのでしょうか?

解決の方法は、物は類をもって聚まり人は群をもって分かれる、つまり善人と悪人は分け、異なる階層・異なる属性の有情はすべて分けることで、共住混在してはなりません。法界の中ではすべてこのルールです。極楽世界などの仏国土は、娑婆世界のような仏国土とは分けられています。二つの世界の衆生の心性は異なり、関わってはならず、混在共住してはならず、面倒を避けるのです。衆生の階層は数多くあり、各階層の衆生の思想観念はそれぞれ異なり、千差万別で、統一も調和もできません。混在すれば是非が絶えませんが、隔離すれば事はなくなります。

仏教の戒律でも同じように要求されています。同戒同行の原則を遵守し、受ける戒が異なれば同住できず、出家と在家は混在共住できず、同じ出家戒律でも修持が異なれば共住できず、同じ在家戒律でも修持が異なればできるだけ別々に住むべきです。さもなければ面倒が生じ、仏戒に違反します。世俗界においても大体自動的にこのように群体が形成されており、福德と智慧が異なり、社会的地位が異なり、修養と素質が異なれば、一般には分かれて居住し共住しません。そして罪を犯した悪人は監獄に収監され、罪を犯していない人々と隔離されています。衆生は全体として、その業行と心性の違いに応じて六道に区分され、善悪の衆生はいずれも共住しません。

<h3 style="text-indent: 2em;">二十、中陰身はどのように生起し入胎するのか?</h3>

問:爆発などの突発的な状況に遭遇して肉身が粉々に砕け散ったり、瞬間的に気化して屍骨も残らなかった場合、中陰身は突然現行するのでしょうか、それともゆっくり現行するのでしょうか? 中陰身の中ではどのように受精卵を執取して入胎するのでしょうか?

答:中陰身が生起するたびに、それは前の色身が壊れて使えなくなったためです。意根は再び色身を必要とし、神様に使ってもらう必要があり、中間に空白があってはならないので、中陰身は迅速に生起するのです。意根は世間万法に対応するために五蘊の活動を必要とします。これは意根の心が空ではなく、我見・我執があり、法見・法執があるからです。執着するがゆえに世間を捨てることを望まず、五蘊を捨てることを望みません。生きている間に未来世の業種を集めており、この種子があるので、人が死んだ後には未来世があり、断滅することはありません。大爆発という突発状況を経験し、肉身が爆発して崩壊し使えなくなったとき、業種の支えがあり、意根は再び肉身を自分のために欲します。如来蔵は意根のこの願いに応じ、生前の業種に基づいて、臨時の色身を現起します。これを中陰身と呼び、一時的に意根の必要を満たすのです。

もし実在の肉身を生起させるなら、四大が徐々に集積する長い時間が必要ですが、意根は待てないので、臨時に実在しない四大の色身を現起するしかなく、これによって人身との区別が生じます。実の四大種子の集積ではないため、実の四大種子が集積した肉身のような質碍作用がなく、それゆえ中陰身には小五通があるのです。意根が急を要するため、中陰身はゆっくり生起するわけにはいかず、速やかに生起します。

突発事故に遭遇して死亡した場合、心理的準備がないため、伝説ではこの種の死亡は再び投胎することができず、霊性の形で存在するしかなく、空中の幽霊のようにあちこち漂い、実の色身に依り所がなく、非常に苦悩だと言われています。再び投胎するためには、別の亡霊を捕らえて自分が替え身とならなければ投胎できないとされます。そこでこの人は自分が死亡した現場に留まり、機会を待って同じような突発事故を起こし、他人を死亡させて自分が投胎しようとします。だから世間で我々が発見するのは、意外事故が発生した場所では、何年もの間に同じような意外事故が何度も繰り返し発生するということです。これが替え身を捕らえるという説です。

正常な死亡であれば、中陰身の存在時間は最も多くて七つの七、つまり四十九日です。一般には三つ目の七で投胎します。生きている間の善悪が鮮明であるほど、結果が確定しやすく、投胎も早くなります。善悪が実に分けがたい場合は、四十九日を期限として、やはり投胎します。投胎の機縁が現れたとき、中陰身は後世の父母のもとへ駆けつけ、受精卵とともに入胎し、中陰身は直ちに消えて見えなくなります。意根がなければ、中陰身は散じます。意根のあるところ、そこに必ず色身があるのです。

中陰身の中で意根はどのように受精卵を執取して投胎するのでしょうか? 意根は欲を断っていないため、中陰身の中で父母の縁に出会うと、父母の淫欲に引き寄せられ、さらにそれに参与します。業力が男性となるべき者は母に対して貪欲を生起し、業力が女性となるべき者は父に対して貪欲を生起し、父母の淫行を自分と父母との淫であるかのように捉え、父母の精子と卵子が結合して受精卵となる瞬間、受精卵とともに母の子宮に入ります。男身となるべき者は子宮の中で母と向き合い、女身となるべき者は子宮の中で母と背き合うため、胎身が成長した後、女胎は腹が大きく見え、男胎は腹が大きく見えません。

突発事故に遭遇すると、肉身が崩壊するだけでなく、識心も極度の驚愕を受け、魂飛魄散します。散じるのは前六識であり、前六識は肉身の依り所がなければ滅して消失します。残るは意根のみが肉身の外へ飛び出し、肉身と分離して孤家寡人となり、後ろには如来蔵が従っています。それは神様の一切の財宝ですが、意根はそれを知りません。このとき意根は仕方なく、再び色身五蘊を自分のために欲し、再び世間法を追求しますが、背後の摩尼宝珠には聞きも見もしません。学仏は意根さえ掌握すれば、一切法を掌握したことになり、如来蔵があることを知らなくても当面は構いません。このことから見れば、意識で証果し意識で明心するのは、いかにおろかで笑うに足ることでしょうか? 瞬時にして灰飛煙滅する法に希望を託すのは、いかにおろかなことでしょうか? 智慧ある人が自分の財宝を化城に置き、空中楼閣に置くなど、どこにありますか?

極楽世界への往生も中陰身の中から往生するのです。だから極大の神通がなければ、誰が中陰身が蓮華に乗って極楽世界へ飛んで行くのを見ることができましょうか? 世間の人の言う往生は、すべて推測と憶測であり、現量に見たものではありません。

中陰身の中にも性別の差異があり、性別の差異も業です。意根はいつどんな段階においても、常に業・業種・業力と相応しており、男女の業さえあれば男女の性別があります。未来世の性別は固定不変のものではなく、業種によって決定されます。自分がこの一生で男の業行を造作したか女の業行を造作したかが、後世の性別を決定します。これらの業行には心行・心性も含まれ、業行は心行・心性と相応し、心性に緊随して変化します。

だから、ある人が男の心性であれば後世には男身が現れ、女の心性であれば後世には女身が現れます。願力のある者は別です。我々の出家戒では、比丘尼への制約が多く重いのは、女性の習気・習慣を制約し、徐々に女の習性から離脱し、男の習性に近づき、女身の転換に備えるためです。現実の生活でも、我々は発見します。ある女性は非常に豪快で度量が大きく、大人の大量があり、男子気概・男の風格を具えています。彼女は前世で男子であったことがあり、後世にも男子に変わる可能性があります。逆もまた同様で、ある男は生まれつき女の習気があり、彼は前世で女であったことがあり、後世にも再び女身に転じる可能性があります。

性別は福德によっても決定されます。色界天以上には性別の差異がなく、男女の区別がありません。それは四禅八定の福德に支えられ決定されたもので、定福は非常に大きく、衆生を一時的に三悪道から脱離させ、人身から脱離させ、欲界天から脱離させることができます。色界天の境界は、実にあまりにも享受に満ちており、欲界天では比べものになりません。私は初禅定に修到したとき、日々神仙のように楽しく、形容できない種類の楽であり、言葉では表現できず、世間人が想像できる楽ではなく、禅定の楽は世間の楽をはるかに超えていました。学仏する前の私は、毎日気分が重く、心に大きな石が圧し掛かっているように、ずしりと重く、十三歳から「死」という字を考えていました。初禅定以後は、地獄から天国に来たようでした。

極楽世界でも男女の区別がありません。それも大福德に支えられ決定されたものです。だから学仏念仏において、福德を修出していなければ、至る所が障害となり、どうして極楽世界に往生し、諸上善人と聚会できましょうか?

<h3 style="text-indent: 2em;">二十一、相貌の秘密</h3>

人の声はその人の性格・気性・秉性・修養を反映することができ、その人の心性が単純率直なのか、虚偽狡猾なのか、光明なのか陰湿なのかをも反映することができます。人の五官の相貌も、その人の修為・性格・気性・秉性・学識・風度などを反映することができ、さらには骨格・筋肉・形体・皮膚などまでも、その人の性格・気性・秉性が精進なのか怠惰なのか、厳謹厳粛なのか弛緩懈怠散漫なのか、陽気なのか陰沈なのかなどを反映することができます。

誰もが自分の相貌に対して責任を負うべきです。外在の相貌もすべて因果の一部であり、業行の正報であり、すべて自分が生生世世にわたって修出したものであり、内心の善悪の品質を反映しています。相貌が思い通りでないとき、父母や天を恨んではならず、自分自身を責めるべきです。前世あれほど傲慢であれば、今世は背が低く、筋肉があれほど弛んでいる人は、この人はおそらく懈怠懒散で、思想が厳謹でなく、その日暮らしのタイプです。身形が歪んで不正な人は、往々にして心も不正です。正直な人は、心正く身正く、五官も正しく、皮膚は締まり、面容は厳粛です。さらには眼神までも正しく、目を斜めに向けることなく、心地は光明です。面相からも、この人の前世がどの道から来たのかを見分けることができます。若いほど見分けがより正確で、後世どの道に生まれるかは、年齢が上がるほど見分けがより正確になります。

<h3 style="text-indent: 2em;">二十二、熏染の力</h3>

衆生の間には互いに熏染し合う作用があります。どんな人と一緒にいるかによって、知らず知らずのうちにその人の習気・性格・秉性・善悪の心行などに熏染されます。ある人が犬を飼い、常に犬と一緒にいると、犬には犬の習性があり、人には人の習性がありますが、時間が長くなり、常に犬の眼神・動作・飲食や行走坐臥の習慣を見ていると、知らず知らずのうちに犬の習性・心性に熏染され、しかも自分では自覚せず、外見までも非常に気づかれない形で熏染されることがあります。しかし犬は人に熏染される方が強く、人の力は犬より強いため、互いの熏染の中で犬はより多くより重く熏染されるので、犬の習性は人に近づき、後世には人身に投胎しやすく、人身を得た後は、人の心をよく理解し、聡明伶俐になります。

犬が人に熏染されるのはもちろん良いことですが、人が犬に熏染されるとどんな結果になるでしょうか? 物は類をもって聚まるものです。人は常に犬を見ていると、外見もこっそり変化し、気づきにくくなります。今世は変化しないか少ししか変化しなくても、後世に熏染の種子が成熟するときには変化します。もし犬と一緒にいることに慣れ、感情が深く、関係が非常に親密であれば、中陰身の時になると、犬の境界が変現し、あなたは知らず知らずのうちに犬について行き、犬の胎に投じられることになります。

たとえば、あなたが常に吃音の人と一緒にいるとします。その人は話しが滑らかにできずどもってばかりいます。あなたは最初は気にしないと思っていても、吃音にはならないでしょうが、時間が長くなると話しに障害が出てきます。時間が長いほど障害は大きくなります。これは徐々に熏染されていくのです。熏染される面には、相貌、話し方、口調、習慣があり、飲食の習慣、行走や坐臥の習慣も含まれます。

我々の今の修行段階は熏染されやすく、悪法は善法より熏染されやすいのです。なぜなら我々の心はすべて煩悩が善をはるかに上回り、煩悩に慣れていて善に慣れておらず、善法には抵抗の情緒があり、悪法にはかえって受け入れやすいからです。たとえば人混みの中で人の是非を言う場面に遭遇すると容易に興味を持ち、是非の紛争にも参与しますが、他人の善いところを讃嘆する場面に遭遇すると、従うことを好まず、往々にして口を閉ざしてしまいます。自分と関係の良い人や自分に用のある人は例外で、井戸に落ちた人に石を投げる者は常にいますが、雪の中に炭を送る者は稀です。だから修行して自分を変えようと思うなら、善人に近づくことを選び、煩悩の重い人から遠ざかり、是非の人も是非の地もすべて遠ざけるべきです。そうすれば心は徐々に善に寄り、悪から遠ざかり、煩悩は降伏され、煩悩業を造作しにくくなり、悪業の種子を残さず、後世は楽になり、煩悩の障害がなくなります。

<h3 style="text-indent: 2em;">二十三、因果がもたらす一時的な争いの停止</h3>

凡夫に六道輪回の苦があるのは、悪業があり、悪心と煩悩心所法があるからです。断我見の後には三悪道の苦がなくなるのは、三悪道の悪業と悪心を消滅し、一部の煩悩心所法を滅除したからです。だから断我見は煩悩を断除すべきかどうかは、明白な問題であり、論争する必要はありません。では断我見には禅定が必要か、未到地定具足が必要か、これも明白な問題であり、論争する必要はありません。禅定がなければ、どうやって煩悩を断除できましょうか?

今、大部分の論争は、内部と外部の様々な原因により、ついにやむを得ず停止しましたが、決して最終的な停止でも永遠の停止でもなく、一時的なものであり、業報がこれ以上の論争を支持しないだけです。未来世はまだ分かりません。衆生の業障は深重で、煩悩は絶えないのですから。多くの人が悪業を造作するのを見ながら、多くの人が悪報を受けるのを見ながら、多くの人が生死輪回するのを見ながら、何の方法があるでしょうか? 衆生はこのようでなければならず、誰にも制御できず、因果がやむなく出てきて語るしかないのです。

<h3 style="text-indent: 2em;">二十四、悪取空の果報</h3>

世間には二種の断滅空 (uccheda-śūnyatā)、あるいは悪取空があり、人を害すること甚だしく、直接に衆生を三途に堕落させ、六道に輪転させます。一つは外道の無所有空で、前世後世などないと考え、死ねば一了百了で、因果はなく、善悪の業報はなく、何をしても構わず、ただ自由自在に思い切り楽しむのが良いとするものです。

もう一つの悪取空は、大乗如来蔵法を修学する人々のもので、因果業報があることを認め、前世後世があることを認め、身中に如来蔵 (tathāgatagarbha) が滅しないで存在することを認めながらも、五欲の享楽を貪り、苦修実修を望まず、持戒修定を望まないため、五陰 (pañca-skandha) 十八界の一切の虚妄の功能作用を否認し、すべてを如来蔵に押し付け、如来蔵をもって五陰の一切の功能に代えさせ、五陰を何もさせず、学仏して成仏する必要もなく、如来蔵はもともと仏であるとします。あるいは五陰の勝手な振る舞いを放任し、五陰が何をしてもすべて如来蔵がしたことだと言い、もし如来蔵がしたことなら、五陰身には因果がなく、業報がなく、それゆえ五陰身は縁に随って自在であり、持戒する必要も修定する必要もなく、如来蔵はもともと戒を犯さず、もともと定があるとします。この二種の断滅空・悪取空論は、性質こそ異なりますが、結果は似ており、因果を撥無し、形骸を放縦にし、断悪修善ができません。

如来蔵を我と執取 (upādāna) するがゆえに、無相をも執取し、相あるものはすべて擯棄し、自分はすでに有相を超越して無相に達したかのように振る舞います。実は無相なのは如来蔵であり、五陰身は依然として全部が有相の中にあり、現時点では根本的に超越できません。持戒がなく禅定がなく、般若 (prajñā) 智慧が甚だ不足しており、心心念念すべて相の中にあるのですから、これらの相をあえて遮掩しようとすれば、悪取空しかありません。果報が到来したときには、必ず直面相対しなければならず、悪報の相はもはや避けることができません。

しかし、すでに有相を超越して無相に達したと言う人々は、なお肉を食べることを選びながら肉を食べる相に執着せず、菜食を選ばず、縁に随って残飯を食べることをしないのでしょうか? すでに相がないなら、すべては縁に随って簡素にし、生きて修行できればそれで良いはずなのに、なおあれほど選り好みして身を護り養生するのでしょうか? 有相の戒を持たず、専ら無相の戒を持つと言いますが、飲食や衣食住行を選ぶことは相ではないのでしょうか? なぜ享受の相を選んで苦労の相を選ばないのでしょうか? 無相は偽りであり、有相こそが真であることが分かります。大乗を学ぶのは非常に良いことですが、まじめに学ばなければ、大乗法も毒薬となり、これを食して捨てなければ、必ず死にます。良薬が毒薬に変わるのは、誰の過ちでしょうか?

<h3 style="text-indent: 2em;">二十五、丹霞禅師はなぜ木仏を焼いたのか</h3>

丹霞禅師は開悟して自性仏を証得した後、心中で四相――我相・人相・衆生相・寿者相を破除しただけでなく、仏相をも破除し、真の仏のみを認め、偽の仏を認めませんでした。木彫や石造の仏像は当然さらに真仏ではないのですから、焼いて何の差し支えがありましょうか? しかし真の仏を証得していない人は決してこれに倣ってはなりません。真を証していない以上、偽相がなお存在し、偽相を焼くことは真相を焼くのと同じであり、これには大きな罪過があり、仏を毀り仏を辱める果報は非常に悪いのです。古代に、開悟した比丘に倣った一人の凡夫比丘が、仏菩薩の名前をすべて褌に書いたところ、一二日のうちに吐血しました。死亡したかどうかは覚えていません。また現代の人で観世音菩薩像を川に投げ捨てた人がおり、家に帰ってから何年も全身が湿って冷たく、罪業を懺悔し、いくつかの補救措置を講じて、ようやく大病が治りました。

丹霞禅師は宿世の善根が深厚で、開悟後の道行も浅からず、心は空で無相であり、よく橋の上に横たわり、悠々自適、何もせず、人々はよくこれを怪しみました。得道の人に、まだ何の事がありましょうか? 五蘊世間はすべて空であり、無相・無願・無求であり、人生とはただ食事と睡眠だけです。両足を伸ばして横たわるのは至極当然のことで、それほど多くの事があるでしょうか? 終日東に求め西に求め、東奔西走し、忙しく立ち回って、何を図ろうというのでしょうか? 心が徹底的に空になるまで、一切法は自然に任運し、仏陀は自然に来て成仏の授記を与えてくれます。まだ一法も空でなく、まだ一つの求める事があり、なお成仏作祖を望むなら、仏陀の授記は望むべくもありません。衆生を度するを名目として一己の私利を図り、仏教を烏煙瘴気にする人々は、おそらく仏陀の授記を得られないだけでなく、因果の制裁をも受けるでしょう。因果は恐ろしいものです。

ある人はこう言うでしょう。私も木彫や石造の仏像は真仏ではないと思っているし、私が焼いても大丈夫だと。では一つ焼いてみなさい、五臓倶に焚かれ、苦痛に耐えられないという果を感得するかどうか見てみなさい。自分が思うことでは駄目で、意識が感じることでは役に立ちません。意根が認めなければ、因果は狂いません。自分が証果したと思い、自分が明心開悟したと思っている人々は、仏菩薩の名前を褌に書いてみたり、木仏を焼き石仏を毀ってみたりしなさい。何事もなければ、破相の真悟と見なすことができます。丹霞禅師のように敢えてこれをする人はいるでしょうか?

ある人はこう言うでしょう。私に印証した人は相当に道行がある人で、私はそれを信じていると。しかし私が言うには、仏こそ最も道行があるのです。もし仏が印証したことが事実と合わなければ、如来蔵は認めず、因果はなおさら認めません。もちろんこれはあくまで仮定であり、仏陀が印証したものは当然絶対に事実に合い、如来蔵に合っています。ある人は非常に強情で、何を言っても聞かず、自分の感覚だけを信じます。しかし如来蔵はさらに強情で、事実だけを問題とし、因果はとりわけ強情で、すべての人と対抗することを恐れません。事実の前で頭を下げない人には、因果がその人と対抗するのです。

<h3 style="text-indent: 2em;">二十六、衆生の業縁にはどのようなものがあるか</h3>

業績とは、その名の通り身口意の業行が生み出す縁であり、五陰身が善悪の業報を受ける縁でもあります。これらの業縁があってこそ、五陰身は一切法の中で生活し、造業し、受報することができるのです。一切法には、周囲の一切の人・事・物・理が含まれ、他の五陰身や生存環境、宇宙器世間のすべての自然現象が含まれます。衆生はこれによって造業し受報します。生存方式・生存条件・生存資具が業縁であり、家族親族・友人同僚が業縁であり、これらの縁があってこそ、善悪の果報を受けることができるのです。

そのうち色身は正報の業果であり、命終前の色身と後世の色身の業因業縁となることもできます。環境は依報の業果であり、業因業績となることもできます。一つの法は因となり、縁となり、果となることができ、法は不定であり、果もまた不定なのです。

<h3 style="text-indent: 2em;">二十七、非器は器に変わり得るか</h3>

いわゆる器とは、物を載せる容器を指します。この物は物質であっても、智慧・思想・観念であってもかまいません。仏法で言う器とは後者を指し、すなわち道器であり、仏法の道に対する受容の程度です。多くの人は無始劫以来の福德の不足により、蓄積された経験が不足し、自分の認知以外の法を受け入れられないため、これらの人々は根器 (indriya) が悪く、深い法の修学に適さないと言われるのです。

では、非器は本当に非器のままで、器に改造できないのでしょうか? 法に定法はなく、永遠に不変の法は一つもありません。因縁の時節が来れば、どんな法でも変化します。ある非器の中には大器が隠されており、巧妙に遮障を取り除き、因縁を聚拢すれば、非器は大器に変わります。石さえ黄金に変わるのですから、まして非器の人の心量と心性がどうして固定不変でいられましょうか?

実を言えば、衆生は本来すべて非器です。無始劫の間、心から進んで生死の苦海に沈淪し、根本的に覚悟しようとせず、どんな法も受け入れられませんでした。諸仏菩薩が密かに衆生のために法種を植え、さらに因縁の早熟を促したことによって、衆生は次第に器となり、仏法を容れることができるようになったのです。衆生は最初、皆五蘊を我と執し、堅固で揺るぎません。小乗の非我の法にとっては、一切の衆生はすべて非器です。しかし、衆生が非器だからといって小乗の断我見の理を説かないでよいのでしょうか? 当然できません。仏陀は十二年の時間をかけて衆生を器に仕上げ、無数の衆生が四果大阿羅漢を証得しました。その中には非器であった外道衆も含まれています。だから器と非器は、研磨する者の智慧と研磨の功夫にもあるのです。研磨の法を知らない者は、往々にして器を非器に研磨し、器を壊してしまいます。

仏法にはある説があります。非器者に深法を説くと、相手が信じきれず、誹謗の言行を生じさせることになると。この説は最初に仏陀が説かれたもので、仏陀は衆生が謗法して悪業を造作し、長劫の地獄の苦報を受けることを心配されたのです。仏は衆生に慈悲ですが、仏は大智慧をも持っています。それゆえ仏のこの説は死んだ教条ではなく、人により時により柔軟に運用されるものです。

大智慧の文殊菩薩は非常に柔軟な運用がおできになりました。神様はかつて五百比丘の小乗根器者に般若大法を説かれ、この五百比丘はこの大法を信じなかったため、命終して皆地獄に堕ちました。ある人が文殊菩薩に尋ねて言いました。あなたは明らかにこの結果を知っていながら、なぜこの五百比丘に般若大法を説いたのですか? 文殊菩薩は答えて言われました。私が知っているのは、彼らが地獄に入った後、自分が地獄に堕ちた原因が般若大法を信じなかったことだと反省し、それによって般若大法がこれほどの威力を持つことを知り、心から粛然として敬い、真心から懺悔すれば、地獄から出てこられると知っていたからです。地獄から出た後、まず天に生まれ、後に人の中に戻り、般若大法に出会い、そして般若を修学する機縁を得て、智慧は速やかに増進し、まもなく大乗菩提を証得し、修行の時劫を縮め、成仏を早めたのです。

等覚菩薩と呼ばれるにふさわしく、大智慧をもって非器を無理やり大器に仕上げられたのです。文殊菩薩はまさに非器を研磨する能工巧匠であり、智慧は非凡で、法眼は無量劫の因縁を照破し、まず非器を毀り、熔断した後直接大器に造り上げました。使えない非器の物を分解し、再び組み立てて使える器にするのに相当します。五百比丘が文殊菩薩に出会えたのは何と幸運なことでしょう。この大因縁は、大福德者でなければどうして出会えましょうか? もし智慧のない阿師に出会っていたら、大乗般若には口を閉ざして触れず、五百比丘の運命にこれほど大きな転機はなかったでしょう。最後に総括して言えば、器と非器、法に定法はなく、善縁に出会えば、非器もまた器となるのです。

<h3 style="text-indent: 2em;">二十八、神通の使用原則について</h3>

問:神通を使用する際、相手の家に直接自分のすべての動機や行跡を埋め込むことになるのでしょうか? 因果を負担しなければならないのでしょうか? 神通をどう見るべきでしょうか? 神通の短所を避けて菩薩道をどう行えばよいでしょうか?

答:現代人のいわゆる神通は多くが報通 (vipāka-abhijñā) であり、前世に修した福德などによって得た果報であり、報が尽きれば神通は消失します。真の神通は四禅を修得した後に発起されるもので、禅定が消失しなければ、神通は常にあります。四禅定による神通は、菩薩たちが持ち、阿羅漢と辟支仏たちが持ち、外道たちも持っています。

菩薩たちは皆因果を理解しているので、神通を乱用せず、行動に節度があります。阿羅漢と辟支仏は心が清浄 (viśuddha) で、世間の人や事に興味がなく、戒行があり、ある程度因果を明かにしているので、神通を乱用しません。外道たちは四禅定があり、心も清浄で、世間の人や事に興味がなく、同様に神通を乱用しませんが、彼らは煩悩がまだ断尽しておらず、完全に降伏してもいないため、何らかの私利のために神通を使い、いくつかの因果を干渉し、いくつかの悪業を造作することが避けられません。だから禅定によって神通を発起した人は、神通を利用して軽々しく法に反し衆生の利益を侵害するような事を造作しません。

一方、報通を持つ人は皆ごく普通の人であり、煩悩が降伏されておらず、智慧が不足し、修為は概して高くないため、神通を利用して因果を干渉し、他人を侵害することはむしろかなり普遍的で、私はいくつか見たことがあります。神通の使用について私の提案は、一人の人が煩悩を十分に降伏しておらず、因果の利害関係を十分に理解し認識する前に、その中の節度と限界を把握できないため、いかなる通も使用しない方がよく、因果を背負い悪業の果報を受けることを避けるべきです。もし大心を発した人が神通を利用して衆生のために福を成そうとするなら、因果を明かにした善知識の指導の下で、慎重に神通を使用すべきです。たとえば神通を利用して他人の心思や過去を覗き見ようとすることは、うまくやらないと盗戒を犯すことになります。他人が許可していないものを得れば、それは盗であり、非法の所得です。盗戒の関わる範囲は非常に広範で細緻であり、一般の人は心が細緻でなく、考慮が周到でないため、戒を犯しても知らないのです。

ある人は言うでしょう。諸仏菩薩は神通によって衆生の無始劫の前後のすべての事柄を知っており、まだ発生していない未来世の事柄さえ知っているのだから、これは盗戒を犯すことにならないのかと。これはもちろん盗戒を犯すことにはなりません。第一に、これは諸仏菩薩が無心に知ることであり、自然に知ることであって、盗心がないからです。第二に、諸仏菩薩と衆生は一体であり、いかなる利益の衝突もなく、なされるすべては衆生のためであり、護法神の護法も衆生を保護するためであり、個人的な私的目的がないので、盗のような事には関わりません。阿羅漢・辟支仏は衆生の事を自然に知るのであり、覗き見る心がなく、心が清浄で、衆生の利益とも衝突がなく、なされる事も盗のような事には関わりません。外道たちも心が清浄で、一般には他人の事に無心ですが、特殊な場合は存在します。しかし少しでも因果を明かにし品徳のある人は、他人の忌避する事柄を回避し、神通で知った事柄について選択を行い、沈黙を保つこともします。

以上を総括すると、現世に報通を感得した人は、禅定によって煩悩を十分に降伏しておらず、智慧も具足していないため、節度を把握しにくく、できるだけ神通を使用しない方がよいのです。自分の家族を保護する場合は別で、自分の家族や親しい人の事柄を探知したい場合は、かろうじて許容できます。

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