衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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仏法雑談(第二部)

作者: 釋生如 カテゴリ: 総説 更新時間: 2025年12月04日 閲覧数: 2146
<h2 style="text-indent: 2em;">第十一章 法義篇</h2><h3 style="text-indent: 2em;">一、名相を明確にすることの重要性</h3>

修学の第一歩として名相をはっきり理解することは非常に重要であり、名相すらはっきり分からなければ、仏法の敷居を越えることはできない。名相をはっきり理解した後は、自分の心の中で名相を取り除き、その義を得れば言を忘れることができる。しかし人と交流したり大衆の修行を指導したりするには、名相がなければ実際にはやりにくく、人はあなたが何を言っているのか分からなくなる。もしすべてその義を得ていれば、名相はもはやそれほど役に立たず、簡単な表現で互いに何を言っているのかが分かり、誤解も生じない。

<h3 style="text-indent: 2em;">二、唯識法における概念の解説</h3>

五法:相、名、分別、正智、如如;三自性:遍計所執、依他起、円成実;八識:眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識、末那識、第八識;二無我:人無我、法無我。これらの法はすべて五法に帰することができる。遍計所執は名に帰し、依他起は相に帰し、円成実は如如に帰し、前七識は分別に帰し、第八識は円成実に帰し、二無我は正智に帰する。

六識の依他起性もまた名であり、七識はすべて名であり、いずれも分別性を持つ。五陰は名であり、第八識を除く一切法はすべて名であり、五根六塵は相である。七識は分別であり、仏法を証得した後には正智があり、第八識は如如に属する。

正智はまた妄心である七識も具えているものであり、見道すれば正智があるが、問題はどの程度「正」であるかにある。顛倒しなくなれば、それが正である。顛倒しない程度が異なれば、それに応じて異なる程度の正がある。

<h3 style="text-indent: 2em;">三、無生忍と無生法忍の区別</h3>

無生忍とは、五陰身が如来蔵 (tathāgatagarbha) によって生じ、執持されていることを忍うことであり、五陰身は空で幻のように我なしと忍うこと、如来蔵 (tathāgatagarbha) は不生不滅であり、万法を生じ、五陰身の中に住し、生生世世にわたって自らの五陰を変生することを忍うことである。その証量の程度に従えば、三賢位の中に限られ、まだ聖位には入っていない。

無生法忍とは、無生忍の基礎の上に、諸法もまたすべて無生であると証入し、諸法の唯識性を証し、我執(未断)を降伏して、初めて聖位に入り安住して退かないことである。

<h3 style="text-indent: 2em;">四、一念無明と無始無明とはどういう意味か</h3>

一念無明はその名の示す通り、その思想観念が無明で染汚しているということである。なぜ無明で染汚しているのか? 心の中に我があり、五蘊十八界を我と我所とし、このいわゆる我が苦・空・無常・無我であることを知らず、その思想観念がすべて我と我所をめぐって展開され、このいわゆる我を堅固に執著しているので、生死もまた堅固なものである。我ありという思想観念で身口意行を指導するのだから、当然身口意はすべて染汚業であり、この染汚業によって、生死輪転がやむことがないのは必然である。それゆえ一念無明は諸々の生死を相続させ、解脱を得ることができないのである。

しかし一念無明もまた無始無明の一種であり、無始劫以来ずっと存在し続けてきたものであって、始まりの時点がない。もし始まりの時点があれば、その時点より前には一念無明がなく、衆生は阿羅漢であり、無余涅槃 (Anupadhiśeṣa-nirvāṇa) の中にあって、涅槃の中に衆生はおらず、阿羅漢もないことになる。すべての無明は無始劫以前から先天的に存在しているものであり、すべて無始無明であり、後天的な環境による薫染によって、無始無明が増加したり減少したりするのである。

一念無明を断じ尽くした後も、さらに無始無明を断じ尽くしてこそ、成仏できる。無始無明とは、衆生が無始劫以来ずっと五蘊世間を真実と思い込み、それが如来蔵 (tathāgatagarbha) が幻化した仮相であることを知らず、空であることを知らないことであり、それによって我執と法執があり、分段生死 (pariccheda-maraṇa) と変易生死 (parināma-maraṇa) があり、解脱できないのである。無始無明を断除するには参禅が必要であり、如来蔵 (tathāgatagarbha) を実証し、一切法の真如性を実証し、一歩一歩一真法界性を証得し、すべての一切法の上で真如法性を証得すれば、完全に転識成智し、仏道を成就する。

<h3 style="text-indent: 2em;">五、分段生死 (pariccheda-maraṇa) とは何か?</h3>

分段生死 (pariccheda-maraṇa) とは、生命が一段一段に分かれており、この一段の時間がどれほど長いかは一定しないものであり、八地菩薩以前はすべてこのようである。畜生たちの生命の期限を観察してみると、人間界の数時間・数分から数千年・数万年まであり、鬼道衆生の生命の期限、地獄衆生の生命の期限、人間の生命の期限、各層天の天人の生命の期限、阿修羅の生命の期限、さらに各階層の菩薩の生命の期限があり、どれほど長く生きられようとも、最終的にはすべて死を迎えるのであって、永遠に死なないのではない。生命に期限がある以上、段落があるのであり、これを分段生死 (pariccheda-maraṇa) と呼ぶのである。

分段生死 (pariccheda-maraṇa) の後は変易生死 (parināma-maraṇa) であり、八地菩薩から等覚菩薩・妙覚菩薩まで、いずれも変易生死 (parināma-maraṇa) がある。その生命は無期限に長くすることはできるが、終わりには死がある。なぜなら、きわめて微細な無明がまだ断じ尽くされていないからである。無明は生滅変易を感召し、生命を堅固でないものとする。分段生死 (pariccheda-maraṇa) の中の衆生は無明が最も重く、生死と苦難もまた最も重い。人が念頭を持てば喘ぎがあり、息脈があり、風動があり、風災を感召するのと同様に、念頭がなければ風動・喘息・心臓の脈拍の動きもなく、一切の災難を遠ざけることができる。無明が滅し尽くされれば、いかなる種類の生死もなくなり、この時に成仏するのである。

<h3 style="text-indent: 2em;">六、証量とは何か?</h3>

いわゆる証量とは、通常から言えば、大小乗の法を証得した程度であり、大小乗の法を実証した、あるいは観行 (vipaśyanā-caryā) した程度のことである。証とは証得することであり、量とは度量と程度、水準という意味である。

禅定の修行にも証量が関わり、禅定の証量と呼ばれる。いかなる法を学ぶにも証量というものがある。何も証得していなければ、当然証量はないのである。

<h3 style="text-indent: 2em;">七、万法唯識</h3>

世界のいかなる科目も、すべて唯識の科目であり、すべて仏科心科であり;いかなる法門も、すべて唯識の法門であり、すべて仏法心法であり;いかなる教も、すべて唯識の教であり、すべて仏教心教であり;いかなる宗も、すべて唯識の宗であり、すべて仏宗心宗であり;いかなる派閥も、すべて唯識の派であり、すべて仏派心派である。世出世间の一切法はすべて唯識であり、すべて仏法である。

<h3 style="text-indent: 2em;">八、一切法はすべて相を持つ</h3>

法には色法と心法があり、真法と妄法がある。色法には色法の自相と共相があり、心法には心法の自相と共相があり、妄法には妄法の自相と共相がある。真法には自らの本体の相があり、共相はない。

色法の共相は、四大から構成される物質であり、質碍性があり、空ではなく、伝播でき、拡散でき、磁場効果があり、触れることができ見ることができ、生滅変異する。色法の自相は、色声香味触がそれぞれの相貌と特徴を持ち、混同できず、それゆえ触れるもの・見るものの根識が異なる;たとえ同じ種類の色法であっても、それぞれの相貌特徴があり、それぞれ異なる用がある。たとえば花草樹山、机や椅子や板凳などである。

心法の共相は、いずれも識別性・了別性を持ち、いずれも心所法を持ち、いずれも無形無相であり、いずれも識の種子から形成され、第八識を除いて、いずれも生滅変異するものである。各々の心識はそれぞれ独自の識別対象を持ち、それぞれ対応する法が見える。第八識には共相がなく、それこそ唯一無二の法であり、世俗から離脱したものであり、不生滅不変異であり、不増不減であり、衆生の依止するところなのである。

<h3 style="text-indent: 2em;">九、気とは何か?</h3>

気には心気と、物質四大の身気とがある。心気が体現するのは意根の気息であり、意根の心所法である。たとえば心高気傲、心気満々、気宇軒昂、意気風発、骨気、志気、傲気などである。身気には腎気、肺気、胃気、脾気、肝気、心気が含まれ、五臓六腑はすべて気を持ち、さらには全身の経絡の中にも気がある。気は血を運行させることができ、これを血気と呼び、身体は血気によって滋養・運営されている。ひとたび血気の供給が追いつかなくなれば、六識は力なく運行できなくなり、五陰の活動は弱まる。あるいは血気の運行が乱れれば、六識も乱れ、さらには狂乱することさえある。

心気は身気を牽引し影響を与えることができ、身気は心気を高め影響を与えることができ、両者は互いに影響し合い、禅定への影響も非常に大きい。心気が平穏でなければ禅定は生起せず、身気が調和していなければ禅定は現れない。それゆえ心気と身気を調理しなければならない。心気の調理は、一つには理によってであり、道理を説いて心気を平穏安穏とさせること、二つには身体の素質が良く、気血が暢通でなければならず、そうしてこそ禅定が現れる。身気の調理は、一つには必要な四大の養分を十分に供給すること、二つには呼吸と運動を調整すること、三つには心気・意念の調理によるものであり、心気が平穏になれば、身気も次第に平穏になっていく。これを心平気和と呼ぶ。もし身気が乱れて不足していれば、心気も乱れて不足し、両者は相輔相成である。

心気と身気のほかに、さらに業障気というものがある。いわゆる業障気とは、実は過去世の業行の勢力の一種であり、あるいは業の慣性と力と呼ぶべきものであり、これが最も調理し難く克服し難いものであり、多くの場合、受動的に受け止めるしかない。もし一人の人が覚悟性が比較的強く、自分の業障の所在を発見し、自分の不良な習性を発見したなら、扭转し克服する方法を考えなければならない。一つには懺悔という方法によって業障を懺除し、二つには発願という方法によって業障を圧し、三つには新しい良い習慣を培養することである。

<h3 style="text-indent: 2em;">十、分別心を離れることは死人と同じか</h3>

まず言っておくが、分別心を離れることは死人と同じではない。この分別心とは意識心を指しており、意識心を離れるときには多くの場合があり、最も平常で最も普遍的な場合は寝ているときで、分別心はなくなるが、人は死なない。意識の分別心を離れても死にはしないが、多くのことができなくなり、日常生活も送れなくなる。それは事を誤ることであり、このような状況は死人と大差なく、遮障が甚だしい。

多くのことは頻繁にやっていれば非常に熟練し、意識心で分析・思考しなくても、速やかに直接的に完成できる。たとえば足を上げて歩くとき、どちらの足を先に出すか考えなくてもよいし、食事のとき食べ物が口元に来れば口を開けて食べるなどである。しかし意識がなければ、これほど熟悉した事柄でもできなくなる。それゆえ、神通のない人にとって意識の機能・作用はきわめて重要であり、多くの場合、意識は分別していないように見えても、了別性はずっと働き続けており、それによってこそ衆生は種々の身口意行を持ち、生存することができるのである。

<h3 style="text-indent: 2em;">十一、いつになれば取相分別をしないことができるのか</h3>

初果で断我見 (satkāya-dṛṣṭi-prahāṇa) して初めて、我相・人相・衆生相・寿者相を破除できるが、それでもなお衆生の五陰相に対する取着と分別から離れられない。開悟した後でも取相しないことは非常に難しく、とりわけ禅定が退失した後は、大多数の場合、なお取相分別を要し、八地以前の菩薩はまったく取相分別をしないということは根本的にできない。凡夫は小さな試練一つにも耐えられず、いかに自分を訓練して着相せず取相しないようにしても、凡夫は相の上で回ってしまう。凡夫は口では取相分別をしないと言いながら、一分一分ごとに取相分別をしており、取相せず分別しないことは根本的にできない。

禅定と智慧の証量が甚だ不足しているのだから、取相分別をしないことは根本的に不可能であり、意識で無理に一分間抑えることはできるかもしれないが、二分間は持ちこたえられない。取相分別をしないことは実行するのが非常に難しく、考えるのは容易であり、口で言うのも容易だが、実行するにはすべての相が不実であることを証得していなければならない。どれだけ証得すればどれだけできるのであり、考えるだけでは役に立たず、口で言うのはなおさら役に立たない。凡夫はたとえさらに無量劫修行しても、どの程度まで取相分別をしないことができるか分からない。阿羅漢も同様に完全に取相分別をしないことはできない。なぜなら阿羅漢は大乗法をまったく証得していないので、取相分別をせざるを得ないからである。もし阿羅漢が取相分別をしないことができるなら、娑婆世界の苦を取着せず、一心に娑婆世界の境界を避けて無余涅槃 (Anupadhiśeṣa-nirvāṇa) を取ろうとはしないはずである。

<h3 style="text-indent: 2em;">十二、雑思</h3>

ある外道が仏と弁論し、一つの論題を立てた:「私は一切の受を受けない」。仏は言った:「おまえが一切の受を受けないというその受を、おまえはまだ受けるのか?」外道は言葉がなかった。帰る途中で思量 (manasikāra/manana) した:私は何と言っても敗れた、仏は勝者である、私は帰依すべきである。そこで戻って仏のもとを訪ね、剃度して出家し、仏に随って法を学んだ。

ある人が言う:「私は取相分別をしない」。お尋ねするが、あなたのこの言葉は取相分別か否か? 「私は取相分別をしない」というこの言葉を、あなたはまだ分別するのか否か? 相手は話題をそらして他を語った。敗北は疑いようがないのに、勇敢に認めることができず、外道ほど誠実ではない。ある人が言う:「私はもともと仏である」。お尋ねするが、あなたはいつ供卓の上に座って世人の礼拝・供養を受けたのか? あなたはいつ供卓の上から這い降りたのか、何の因縁で供卓から這い降りて、今日这般の落魄ぶりになったのか?

今生から無始劫以前に遡っても、あなたは一度も仏になったことがなく、一日たりとも一刻たりともない。無始劫また無始劫以前から、あなたの無明は少しも破除されたことがなく、終始生死業障の凡夫であり、終始六道の中で生死輪回し、断絶したことがなく、終始純大苦聚と共にあった。それゆえ結論はこうなる:あなたはもともと仏ではない。円覚経曰く、黄金は金鉱から精錬して取り出した後は、再び不純物と融合して金鉱に戻ることはなく、黄金は永遠に黄金である。成仏した後は、無明が滅し尽くされ、再び無明が生じることはなく、それゆえ再び衆生に戻ることはない。成仏すれば永遠に仏であり、衆生とはならない。成仏の拠り所である本心については、もともと仏であると言えるが、あなたの五陰七識は衆生であって、仏ではない。仏に拠り頼んで生死業障の衆生でいることは、川辺に座りながら強い渇きに耐えて水を飲むことができないようなものであり、誰を恨むというのか?

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