背景 戻る

書籍
作品

仏法雑談(第二部)

作者: 更新時間:2025-07-12 21:36:53

第十一章 修行の章

一、「人、求め無きに至れば品格おのずから高し」とはいかなる思想の境地か

人が一切を求めなくなったとは、あらゆる事柄に対して意図的に追求せず、得ようと策を弄することもなく、何事にも心を悩ませないことであり、これが無為である。心に無為を体得した者は、いかなる手段をもってしても何事かを謀ろうとはせず、たとえ正当なことでも意図的に得ようと争うことはなく、ましてや不正なこと、不正な手段を用いることなどは決して行わない。このようにして、人は事あるごとに人と争わず、世とも争わず、事とも争わず、争う心がなければ、ましてや奪う心や騙す心、盗む心などさらに起こらず、あらゆる事に求めがなく、縁に随って日を過ごすならば、その人の品德や品格は極めて高尚であり、思想の境地も渾然として我を忘れた境地に至るのである。

普通の人はただ時折こうした境地に至ることができ、ある特定の事柄においてのみそうできるに過ぎない。もしその人が常にこうした行いができ、心の在り方と行いがいつもこのように清浄で淡泊、無欲で求めがなければ、その人はもはや普通の人ではない。では何者か?必ずや我見を断った者、心中に我が無い者であり、しかも単に我見を断った初果や二果の者ではなく、必ずや煩悩を断除した三果・四果の者である。もちろん阿羅漢たちの品格は皆高尚であり、その徳行と修養は人の中で第一であり、天をも超え、人天の大衆の師であり、人天の供養を受けるに値する。

もしこうした阿羅漢がさらに多く衆生を利益することを行い、心の中に常に衆生を救う志を抱き、常に衆生の苦を思い、常に衆生を苦難から超脱させようと考えるならば、その阿羅漢は菩薩摩訶薩、初地から八地の菩薩である。もちろん八地以前の菩薩の心は、いかなる時も無為であり、自然のままであり、因縁に順応しているとはまだできず、いつでも無欲無求であることもできず、まだ煩悩習気の影響を受けている。ただ八地以上の菩薩の心こそが、常に無為であり、任運自然で、意図的に作為せず、心空で法空、禅定は極めて深く、智慧も極めて深く、永遠に因縁に随順し、自然のままに衆生救済の事業を成就させ、我にも執わず、法にも執わないのである。

いかなる人の品格や品德も、その修証と関係がある。修証が高ければ高いほど、心はますます空になり、心が空になればなるほど心量は大きくなり、ますます無為となり、品德は高くなる。修証の結果はすべて世俗法の中に現れ、その無為の心行も世俗法の中で表現され、衆生救済の過程の中で表現され、あらゆる事業を行う中で表現される。したがって、ある人に修証があるかどうか、道があるかどうかは、智慧ある者がその身・口・意の行いを観察すれば、見極め検証することができるのである。

二、辱めを受けても驚かないことこそが道器、師の教えを受けるに値する

古語に云う:およそ人を験(ため)すには、辱め罵られても受け入れられる者で足りる。抑えつけられ挫折を求められても与えられず、それでも素直に受け入れられる者で足りる。まず重みを担うことができてこそ、後に栄光を享受できる。仏法の修証において、道器たる者は必ずや一切の重みを担い、一切の辱めを受け入れることができる。なぜなら心が空で我が無く、道に相応しているからである。常に自分の意のままにしたいと考える者は器ではなく、用いることができない。なぜなら我の心が空でなく、道に相応しないからである。何事も常に自分を優先し主体とし、他人を後回しにする者は皆、我が重く、道器ではない。大器なる者は必ず大量であり、心量が大きいからこそ一切を担い載せることができる。宰相の腹には船が浮かぶほど広いが、心の狭い者はただ糞尿を入れることしかできない。志と責任を持つ大心大量の者に対しては、機会があれば試練を与え、その心性を鍛錬する。百回の鍛錬を経て初めて鋼となる。様々な逆境の鍛錬と試練をことごとく耐え抜けば、器もまた練り上げられる。その後は一切の苦楽の境界もどうすることもできず、心は頑石のようになる。将来、初禅が到来した時、魔王が乱そうとしても心は動じず、こうして初禅の関門を突破し、証果の後は必ず煩悩を断つのである。

禅定の功夫がある者は定力が強く、往々にして心性が柔軟で、自分に加えられるいかなる屈辱も気にせず、不平を叫ばず冤罪を訴えず、心が空に相応している。昔、修行する者は一定の境地に修めると、師匠は彼を試し、忍耐力を高めるために、罵り辱め、理不尽に罪を着せても、弟子は屈辱を感じず、弁明もせず、ましてや怒って逃げ出すこともなかった。打たれても去らず、罵られても逃げない者こそが真の弟子であり、救うに値する道器である。心が空の者はどんな欺きや辱めも意に介さない。ただ学ぶべき法があり、修めるべき道があれば、心は寄る辺を得る。その後間もなく道を証することができる。道には目があることが分かるのである。

趙州和尚は言う、上等人は禅床の上で接し、中等人は門口で接し、下等人は山門の外で接する。下等人ほど心量が小さく、視野が狭く、我が重く、ますます柔らかな言葉や愛語が必要であり、たとえ間違っていても直接指摘できず、ましてや叱責してはならない。もし少しでも叱責すれば、逃げ出して手を引いてしまうか、師匠を罵り誹謗する逆恨みさえする。上等人は心量が大きく、我の観念は微細で、情は少なく執着も少なく、心は道の中にあり、道の外の人・事・物・理を無視する。したがって、自尊心が強い人ほど、尊重と包容を必要とし、言葉遣いは婉曲で丁寧である。一方、心が強い人には、ただ単刀直入に、頭ごなしに、遠慮する必要はない。なぜなら器量が大きいからである。道があるかないか、修めがあるかないかは、一目瞭然である。

三、大乗の人が持つべき修行とは何か

今、多くの人が自分は実修していると言うが、いったいどうすれば実修と言えるのか?ある者は、戒・定・慧を修行することは小乗の修行に属し、大乗の修行は戒律や禅定にこだわる必要がなく、ただ正しい知見さえあれば見道できる、いわゆる「ただ汝の眼が正しいことを重んじ、汝の行いを重んじない」と言う。これは大乗の実修の問題、すなわち仏法の実修の問題に触れている。なぜなら仏法を修行するには大乗も小乗も分け隔てなく、凡夫に無明があれば必ず断じなければならず、一つでも無明があれば成仏できず、最初の無明を断たなければ、どうして後の無明を断てようか?前の無明が断たれれば、覆い隠す障害も断たれ、後の無明が初めて断じられる。粗い無明を断たなければ、どうして深く細かい無明を断てようか?

大乗はどう実修すべきか?「実」とは何か?「修」とは何か?大乗は小乗から離れて存在する大乗なのか、小乗に背いて存在する大乗なのか、それとも小乗を含んで初めて大乗があり、小乗を超えて初めて大乗があるのか?小乗が持つ一切の修行を大乗菩薩は持つ必要がないのか?小乗の戒・定・慧を大乗菩薩が修めなくても菩薩と言えるのか?小乗は煩悩を断つが、大乗菩薩は煩悩を断つ必要がなく、煩悩を抱えたまま深く修行を進められ、成仏できるのか?小乗には定があるが、大乗菩薩には定が全く必要ないのか?小乗の人は悪を断ち善を修めるが、大乗菩薩は必要ないのか?小乗の人の人品や修行を、大乗菩薩は全く持つ必要がないのか?大乗菩薩は小乗の人品修行よりも劣っているべきなのか?

小乗の人が備えるべき資質は、大乗菩薩も皆備えているべきである。すべての大乗菩薩は、一歩一歩小乗の修学から歩んできたのである。大乗の実義菩薩は如来蔵を証得し、現前に如来蔵の体性と働きを観察しているため、心行は一層清浄無為である。この点は小乗で証悟していない者には想像も理解もできない。学人が大乗菩薩を自任するならば、小乗の修行を備え、戒・定・慧を具足し、粗重な煩悩を降伏・断除し、必ず定慧を具足し、心根は善であり、品性や修行は絶対に凡夫や小乗人よりも高くなければならない。そうでなければ、大乗人であると自己弁護できず、かえって小乗を蔑み大乗を掴めない狂人や愚人となってしまう。

四、仏法理論を修学する目的は何か

法を学ぶ目的は、五陰の束縛から解脱し、様々な法の束縛から解脱するためであるべきである。誰が解脱するのか?六識・七識が解脱し、前七識が解脱するのである。前七識には五陰の我という束縛、我執があり、法の束縛、法執がある。したがって法や理論を学ぶことは、七識に五陰の虚妄で実体のないこと、執着の生死における過患を十分に完全に認識させ、法の虚妄で実体のないことと法の束縛を十分に完全に認識させ、それによって束縛から脱却し、解脱を得させることである。もし法を学ぶことが単に理論的知識を得て、意識が口先で至る所で誇示し、博学をひけらかすためであれば、これは心の使い方を誤っており、これは別の執着であり、依然として無明と束縛である。

少なからぬ人々が如来蔵の法を学び、何を話しても如来蔵に当てはめ、七識・五陰がどう修学すべきか、どう変わり、無明と煩悩の束縛を消すかには一切触れず、如来蔵の清浄な心行と対照して、七識・五陰の染汚した心行を懺悔し消滅させることも全く知らない。如来蔵の清浄なる理と五陰・七識を二つに分断し、如来蔵の理は口先だけのものとし、七識の心行は相変わらずで、理論の追求に熱心で、自心の無明と煩悩をひたすら内観せず、ましてや内心の染汚をどう治めるか思索しない。そうした学法の仕方は修行とは無関係であり、慢心を増長し、自分が多くを知っていることで慢心を生じ、人を見下し、結果として無明煩悩を増やすだけである。こんなことをして何の得があろうか?

我々は皆、はっきりと理解すべきである。如来蔵がどうであれ、それは七識の心行を代表するものではない。如来蔵は皇帝であり、あなたの七識・五陰は依然として卑しい者、庶民、貧しい者であり、互いに代わりになることはできない。ただ如来蔵の清浄性・無我性を学び、染汚を取り除き、福徳と智慧を得て、初めて一歩一歩昇進できる。いつ福徳・智慧・品行が如来蔵と遜色なくなった時、初めて如来蔵のように帝王となり、尊貴無比となるのである。自心を観ずることもなく、自心の煩悩を懺悔することもなく、自分を変えようとせず、身心に何の変化もなく、実際に戒・定・慧の修行に着手しない者は、皆修行とは言わず、修道とは全く縁がない。学んだそれらの理論が自分の重荷とならなければ御の字である。したがって、如来蔵を口にしながら、一方で貪・瞋・痴の煩悩が重く自覚もないということは、どうかおやめいただきたい。

五、己に打ち勝ってこそ一切に打ち勝つ

何かを成し遂げた人は皆、非常に厳格に自らを律する人である。世俗の世界でも仏法の上でも、自律してこそ成就し、己を乗り越え、無我の成就は一切に優り、一切の事業を成就できる。逆に我ある者は、事あるごとに細かいことまで気にし、心量が小さく、自分は許しても人を許さず、いかなる事業も成し遂げるのは難しい。ただ一人一人が私心なく無我で一心に仏教のために事を行えば、得られる福徳は非常に大きく、この福徳によって大いなる智慧と解脱を得るのである。

人は皆、自分の私心と戦うことは全く問題なく、自分の貪欲心と戦うことは全く問題なく、自分の瞋恨心と戦うことは全く問題なく、自分の嫉妬心と戦うことは全く問題なく、自分と人との是非の心と戦うことは全く問題なく、自分の権力争いの心と戦うことは全く問題ない。要するに、自分と戦い、己を鍛えることは全く問題ない。ただ他人と戦ってはならず、他人と争ってはならない。名利に遭遇したら避けて通り、首を突っ出してはならず、奪い合い盗み合いをせず、他人の利益を損なってはならない。ただ責任を担い、権利を争ってはならない。

六、悟りの後の変化

禅師たちは言う:悟った後もなお旧時の人であるが、ただ旧時の行いの場ではない。これは悟った人は、外見では相変わらず元のその人だが、その心行・徳行などの面はすでに元と同じではなく、変化があり、変容があり、もちろん清浄に、良く変わり、徳行や修養は皆向上し、心性はより善良で、純真無垢になるという意味である。なぜか?彼は五蘊無我を証得し、心の奥底が通じた。すでに無我である以上、一部分の私心や雑念が取り除かれ、道徳は自然とずっと高尚になり、情操や修養は自然と向上し、物事を行う出発点や着眼点、構想は皆変化し、人の心行全体が変わってしまう。人相は相変わらず元の人の容貌ではあるが。

七、生死輪廻は最も損をする

もし仏法を学んで愚かな者のようになり、愚者のように自己の私的利益を顧みず、無我となれば、成就する。自分が存在することを知らず、人が自分を欺き罵り辱め貶めることを知らず、他人の言葉に無関心で、いかなる計算もせず、まるで自分とは無関係であるかのようであれば、無我の大いなる果報を得るであろう。人は非常に賢く、少しも愚かでないことを恐れる。あれこれ計算し、利益を求め害を避け、私利私欲に走る。我ある者は皆愚かではなく、計算高く、損をしたがらず、結果として因果に計算され、生死輪廻の損をする。六道に身を置くことは非常に損であり、何の殊勝な果実も得られない。どうして損をしないでいられようか?

八、磁場効果とは何か

磁場、磁とは一種の強力な力であり、大衆を引き寄せ一つに集める力である。場とは場所、道場、所、依り所である。磁場は物質的磁場と非物質的磁場を含む。物質的磁場は四大種子が形成する引力・求心力であり、非物質的磁場は識・心・心所法が形成する引力・求心力・熏染力である。

もちろん磁場には反発力もあり、負のエネルギーもある。負のエネルギーとは邪気であり、磁場効果は負であり、あなたの正のエネルギーを吸い取り、あなたからいくらかの正気を失わせる。一部の負のエネルギーを持つ人々から離れ、自分自身が毎日楽観的で向上心を持つようにする。負のエネルギーで磁場の弱い人は依然として非常に多い。もし皆を処理するとなると、容易なことではない。しかし、ある人が負のエネルギー・弱い磁場かどうかは相対的である。ある人にとっては負のエネルギーでも、他のある人にとっては正のエネルギーであり、ある人にとっては弱い磁場でも、他のある人にとっては強い磁場である。これもまた縁が異なり、勢いが異なることによって生じる差別現象である。もし善縁であれば、磁場には吸引力があり、悪縁であれば、磁場には反発力がある。物質的磁場には重力波があるが、非物質的磁場は何によって引き付け合い反発するのか?

もし外道があなたの向かいで法を聞いているなら、あなたはすぐに強い圧力を感じるであろう。道が異なれば磁場も異なり、彼の磁場の干渉は非常に大きく、邪見が大きければ大きいほど阻害力も大きい。あなたが元々話そうと準備していた殊勝な仏法は、外道の前では話しにくく、ぎこちなく滑らかでなくなる。人々の間の差が大きすぎると一緒にいられず、そうでなければ不愉快になり、双方に圧力がかかり、深刻な場合は紛争や矛盾が生じ、誰も良い思いはしない。婚姻や家庭も同じで、見合った者同士がこそ愉快で調和して暮らせる。一つの団体も同類が集まり、志を同じくし、レベルがおおむね一致してこそ、団体は調和する。そうでなければ紛争や矛盾が生じ、それぞれが心理的圧力を感じる。レベルの低い人はレベルの高い人の磁場を衝撃し、レベルの高い人の水準を引き下げ、レベルの低い人もレベルの高い人に取り入ることができず、心に怨みを抱く。互いに関係を落ち着かせることが容易ではなく、磁場のバランスを達成できない。

仏陀もかつて全ての弟子から離れ、一人で森の中に静座し、弟子をそばに近づけさせなかった。侍者アーナンダ(阿難)さえも傍に付き添うことはできなかった。仏陀は長期間、自分より弱い衆生の磁場の衝撃を受け、心力や体力は影響を受けるのである。仏陀は永遠に衆生から求められ、求められ、常に与え、出すだけで入らず、その心力はどれほど強大であろうか。諸仏はなぜ孤独なのか?それに相応する磁場を持つ人がいないからである。仏陀は常に与え施す者であり、他の人は皆施しを受ける者であり、差別があり同等ではない。したがって孤独なのである。菩薩がこの世に来ることも孤独である。同等の者がおらず、皆外に向かって施し救済し、磁場は外に放出され入らず、長い時間が経つと、自分の磁場エネルギーは消耗し、エネルギー不足となり、体力と心力は弱まる。これもまた衆生の業を背負う原理である。

諸仏はすでに一切の法を円満している、大雄大力であるのに、なぜ依然として衆生の影響を受けるのか?肉体があるためエネルギーを消耗し、エネルギーの補充が必要だからである。仏陀が人々から離れて静座するのはエネルギーを補充するためである。肉体でなければ影響を受けない。仏教史上の一切の修道者は皆、孤独に一人で修行し、付き添う者はいない。付き添う者がいれば修行は成就しない。同じ道を行く者が互いに付き添えば、磁場は弱まり、修行は成就しにくいからである。

九、磁場と加持力の原理

問:もしある人が特別に静かで穏やかであれば、周囲の人も彼のそばにいるとすぐに静かになり、とても心地よく感じる。その人には特に変わったところはないようだが、ただ一種の感染力がある。これはなぜか?

答:心識が静かで徳行の良い人は、摂受力と加持力があり、磁場が比較的良く、影響力も良い。彼の身体は比較的明るく柔らかい光を発し、そばにいる人は見えなくても、この清浄で穏やかな光を摂取し、心境も愉快で心地よく穏やかになり、身体も清浄で健康になる。天眼通を持つ鬼神は、人の色身から発せられる光芒から、その人に修養や修行があるかどうか、その人の徳行の善し悪しを見分けることができる。鬼神は徳行の良い人に対しては自然に尊敬し敬愛し、徳行や修養の良くない人を見下し、時にはいじめることさえある。天人や神通を持つ諸大菩薩は、さらに人の外見の光から、その人の修行の道行がどうかをよりよく見分けることができる。

修行のある人が使用する物品には、一定の加持力があり、他人を吉祥にし心を安穏にさせることもできる。なぜなら彼が接触し使用する物品には、自らの心力の作用があり、彼の心が吉祥で安穏であるため、物品に吉祥で安穏な磁場が生じる。修行が高ければ高いほど、その磁場の力は大きく良くなり、人をより安らかで愉快に感じさせる。他人がこの物品に接触すると、吉祥で安穏な磁場の感染力を受ける。各人が使用するものは、皆それぞれ自身の信号、自身の情報を持ち、あたかも物品が記憶力を持っているかのようである。あるものは誰が使うかで付き従い、物理的な性質さえ異なる。

十、磁場効果

朱に近づけば赤く、墨に近づけば黒くなる。熏染は無形の間に起こり、最初は毛に染まり、次に皮に染まり、次に肉に染まり、次に筋に染まり、次に骨に染まり、最後に髄に染まる。髄に染まれば根深く固まり、抜くことはできなくなる。赤も黒も皆そうである。したがって周囲の磁場は非常に重要であり、付き合う人々が最も重要である。自分は抵抗力が強いと言って、善き友を選ばずにいてはならない。熏染を受けないのは八地以上であり、絶対に熏染を受けないのは仏地である。隔陰の謎を持つ再来人も、迷いの段階では依然として軽微な染汚を受け、意識は染まるが容易に抜け、それでも影響力はある。

なぜ一つの団体は一つの風潮なのか?一つの家庭は一つの習気なのか?伝染によって起こり、気づかないうちに習慣となり、さらに気づかないうちに習気が髄に入り込み、世々に現行する。善も悪も皆そうである。我々は皆、良い団体の中で熏染され、朱に近づいて生まれ、強い煩悩習気のある団体の中で熏染されず、墨から離れて生きることを願う。そうすれば福徳の集積は非常に早く、自身の磁場の変化も非常に早い。

十一、いつも香りを嗅ぐのはどういうことか

ある人は仏法を精進して学ぶと、時折特別な香りを嗅ぐことがある。一つは体香であり、心が清浄になり、気脈が通じ、体内の香気が出てくるためである。もう一つは外からの香りであり、天人或いは護法神がそばに付き添い、彼らが持ってくる天香である。もしあなたがそばにいる人に粗浅な法を少し話すことができれば、天人が聞きに来る可能性があり、周囲は非常に香ばしくなる。これは天人の香りである。よく真言を唱えると、護法神が付き従い護法し、彼らが持ってくる香りであり、これも天香である。

天界の香りは、我々の人間界にはなく、見つからない。あの香りは非常に特別で、人の心境を明るく愉快にし、心を清浄で静かに開けさせ、煩悩を消すことができる。善根の良い人には、護法神が常に付き従い護持し、進歩は非常に早い。もし戒律を厳格に守れば、護法神もあなたに対して責任を持ち、常に管理し護り、あなたの煩悩を軽減し、習気を改め、善業を多く作り、悪業を作らせない。

したがって、ただあなたが力の及ぶ限り福行や善行を多く行えば、最も利益を受けるのは自分自身である。表面的には他人のために行い、他人が利益を得ているように見えるが、実際には自分が得る利益が最大で最多である。多くの人に福を修める機会を与えても、何も要らないと言い、非常に損をしているように見えるが、実際には自分が福を修め他人や仏教のために事を行うことを望まず、多くの既得の利益も得られない。これは自分が損をしていることにならないか?

もし人の利己的な心理が改まらず、ただ自分の利益だけを考えれば、どれほど大きな利益も得られず、ただ自分が損をしないことだけを考えれば、実際には大きな利益は得られない。これは既に失っていることであり、最終的には自分が現在持っているわずかな利益さえ保てず、守れない。心量が狭すぎれば、道業は進まず、修行は心空無我である。毎日利己的な我を守りながら、無我を修めるとは、どれほど矛盾しているのか?一つの我を抱えて無我を修める、いつ無我を修められようか?自ら少しずつ自我を手放すことを学び、初めて無我になれるのである。

十二、仏法を学ぶ者は株式を扱っても良いか?

八正道には正命と正業がある。正命とは、合理的で人を欺かず他人の利益を損なわない方法で自分と家族を養うことであり、そうでなければ行う道は正しくなく、邪である。正業も同様に、行う一切の業行は正しく、人を欺き利益を害する邪な業行や邪法を用いてはならず、人の利益を損なうことは菩薩行ではなく、すべての修道者が行うべきことでもない。そこには因果関係があり、将来は因果に報いなければならない。菩薩は因果を善く知り、因果律を遵守し、過ちや患いが無いようにすべきである。菩薩の心行は己を捨てて人のためであるべきであり、行う世俗の業は、最も基本的な行持は衆生の利益を害さないことであり、少なくとも双方が利益を得る(ウィンウィン)に達しなければならず、自分が勝ち他人が損をするものではない。もし双方が利益を得られなければ、むしろ自分が損をしても他人に損をさせてはならない。株式を扱う心理は、自分が損をしても他人が勝つことを願うものだろうか?双方が利益を得ることに達することができるだろうか?

十三、衆生はただ仮の仏である

善知識が愚かな弟子に尋ねる:お前は仏か?弟子は躊躇する。善知識は言う:どうしてまだ担当できない、お前は仏ではないのか?弟子はここに大悟する:私は仏だ!どうして違う?善知識、あなたも仏、私も仏、我々は互いに皆仏である。皆で集まって互いに賛嘆し、あなたは仏、私は仏、あなたは神、私は神、あなたは衆生を救う、私は衆生を救う。各自が仏であると互いに印可した後、善知識は言い含める:仏は修めず証せず得ず、我々は今後修行する必要もなく、保任すればよい。こうして愚かな仏たちは毎日高く雲の上に立ち、楽しそうに仮の仏を務め、何も学ばず修めず、これを保任と言う。

どれほどの人々が虚栄心に燃え、騙されることを好み、虚名を好み、ただ自分が特別だという感覚さえあれば何でも良く、騙されても価値がある。彼らはその感覚を生きている。次第に牛鬼蛇神が皆善知識として現れ衆生を救い、衆生を皆牛鬼蛇神の仲間に救い込む。これらの人々は偏って牛鬼蛇神のようなものを好む、誰に何の方法があろうか?三千大千世界は一つの器の中の如く、百匹の蚊蚋(ぶんぜい)を貯え、啾啾(しゅうしゅう)と乱れ鳴き、狂ったように騒ぎ立てる。

十四、衆生の無明病の現れ

衆生の無明とは最も根本的な精神疾患であり、六識・七識の顛倒した知見と錯乱した思想である。社会大衆の精神疾患については言わないが、ただ仏法を学ぶ者の精神疾患について述べる。仏法を学ぶ者の精神疾患にはどのような現れがあるか?根本は何から来るのか?精神病は集団精神病と個人精神病に分かれる。個人精神病ですらすでに手に負えず、集団精神病が発作を起こせば、仏でさえ一時的に対処できない。衆生は大染缸(大きな染め物の甕)の中で痛痛快快と熏染され、気づかないうちに、まるで数壇の古酒を飲んだようで、目を覚ます方法がない。

仏法を学ぶ者の精神病は、自我の顕現に現れ、根本は根深い我、あの強い自我から来る。衆生のあの我がどれほど深刻か例を挙げると、かつて下海(ビジネス起業)が流行り始めた頃、社会に忽然と無数の総経理や董事長(社長)が現れ、数え切れず、工商局で営業許可証を処理する者は言った:お前の会社はたった二、三人だ、職位はマネージャーと書けば十分だ、総経理や董事長には及ばない。それでも街中は総経理だらけで、もし天から石が落ちれば、一瞬で二、三十人の総経理と数人の董事長が死ぬだろう。

今、仏法を学ぶ者の集団の中でも、衆生の我の現れは同じで、どうすれば自分を際立たせられるかどうかで行動し、善知識、悟った菩薩、再来菩薩、等妙覚菩薩は無数で、導師は大勢、天下に大聖人が満ち溢れている。もし天から大きな石が落ちれば、一瞬で二十人ほどの悟った菩薩、十人ほどの善知識、五人ほどの等妙覚菩薩、そして三人以上の導師が死ぬだろう。皆死ねば良い、娑婆世界は聖人で既に満員状態だ。これらの聖人を急いで他の仏国土へ行かせ衆生を救わせよ。娑婆世界にはこれほど多くの人は必要なく、一緒にいれば喧嘩もする。行かないなら強制的に去らせよ。

もし幸運にも精神病のような善知識に巡り会えれば、数日で導かれ開悟し、長くとも一ヶ月は超えない。悟ってから三、五日、あるいは数ヶ月で、団体を組織し法を説き衆生を救いに行く。聖人があまりに速く繁殖し、娑婆世界はすぐに救うべき衆生がいなくなり、釈迦仏は完全に一休みし、気を楽にできる。それからこれらの大聖人を他方世界に拡散させ、他の諸仏が衆生を救うのを助け、十方諸仏も皆休ませ、気を楽にさせる。

今後、あなた方がもし善知識だとか、等妙覚菩薩だとか、再来人だとか、阿羅漢だとか、導師などに再び出会ったら、彼らにできるだけ分散するよう勧め、善知識も聖人もいない他の場所へ行き衆生を救うよう促し、皆で小さな娑婆世界に押し合いへし合い騒がしく人を悩ませないようにせよ。娑婆世界はもうほとんど聖人ばかりで、救うべき衆生はほとんどいない。聖人の才徳を無駄にするな。今後、もし誰かがあなた方に自分は開悟し証果したなどと言ったら、あなた方は言うがよい、これはもう珍しいことではない、至る所で証果開悟している、何がおかしく誇るべきことか?至る所で法を説き衆生を救う善知識であり、全く珍しくもなく誇るに値することでもない、と。

しかし一つおかしなことがあり理解できない。娑婆世界が生み出す聖人がますます多くなるにつれ、なぜ天災人禍もますます多くなるのか?もしかするとこれらの聖人が天災人禍をもたらしたのではないか?本当に理解できない!なぜ聖人の繁殖速度がこれほど速いのか、ゴキブリの繁殖のようだ?なぜなら衆生はあまりに愚痴で愚かだからだ。あまりに愚痴で愚かであり、あまりに自己中心的で、求め過ぎる。仏経を学ばず、道しるべの灯を求めず、自ら目を閉じた猫になりたがる。目に五枚の黒い布を巻き、人にぶつかれば善知識と認められ連れ去られ、言うことは何でも信じ、深く催眠をかけられたように、頭を働かせられず、人から何を教え込まれてもそれを信じ、全てを受け入れる。

これらのいわゆる善知識は仏陀本人よりもはるかに強く、衆生を完全に服従させる。したがって開悟は非常に速く、仏陀の指導水準をはるかに超える。不思議ではないか?なぜこれらの精神病の衆生は開悟した後、全く自分が騙されたと疑わないのか?愚痴も一因だが、最大の原因は我性が強すぎることであり、ただ開悟という虚名を得るだけで、すぐに自分が高貴で威厳があると感じ、人を超え、心の満足感が爆発する。そしてこの一切の感覚は、非常に深刻な我性の氾濫であり、自分では全く気づかない。

十五、初果を証得していない者が他人に仏法を紹介し解説できるか?

自分がいくつかの仏法を理解している限り、皆如実に人に紹介し解説できる。しかし、知っていることを話すべきであり、度を超えてはならず、確信のないことは言わず、知っていることは知っているとし、知らないことは知らないとする原則に基づくべきである。同時に、意図的であれ無意識であれ、自分に実証があると誤解させてはならず、証果していなければ、人にどう証果しどう明心するかを教えず、ましてや強引に人に印可を与え、人を誤らせてはならない。どこまで修行したかでその言葉を話し、境界を越えず度を超えず、誠実に他人に自分の実際の修行水準を伝え、超えた部分は参考としてのみ、指導としてはならず、そうすれば過ちはない。

修行もないのに強がる者は少なくない。こうした者は自己顕示欲が強く、誇示を好むため、常に度を超えた言葉を口にし、皆深刻な我執のためである。心の中のあの我は自分を破裂させそうであり、我相・衆生相は固く破り難く、結果として妄語などの悪業を造る。実際には何の利益も得ておらず、たとえ得ても他人の羨望や尊敬を得ることはなく、ただ自己満足に過ぎない。衆生の煩悩結使はこのようにしっかりと自心を縛り、解脱の味を知らず、哀れで悲しいことである。

目次

ページトップへ戻る