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仏法雑談(第二部)

作者: 更新時間:2025-07-14 02:29:14

第八章 有情と無情の章

一、有情と無情の区別

有情と無情の根本的な区別は、有情衆生の色身は衆生自身の如来蔵によって単独で出生され保持されるものであり、かつ色身には七識の了別作用があるため五蘊の活動が存在するのに対し、無情の色法は共業の衆生の如来蔵によって共同で生み出され保持され、七識も五蘊も存在しない点にある。七識は単一の如来蔵が出力する識の種子から生じるものであり、多数の如来蔵が共同で識の種子を出力して形成されることはありえないため、無情物には七識・五蘊の活動がなく、衆生ではない。有情衆生の五蘊活動と無情の物質的色法活動の根本的な違いは、有情衆生の五蘊身には受・想・行・識の機能作用が備わっている点にある。

もし衆生の意根が、ある物質的色法が自分にとって有用であり自身の色身となり得ると感じた場合、その如来蔵と意根はその物質的色法の中に入り込むか付着し、五蘊活動を生起させる。これが有情衆生の憑依現象である。衆生が転生を望む理由は五蘊活動を行いたいからであり、色法がなければ五蘊活動を行うことができないため、衆生は何とかして転生しようとする。転生の福徳と機縁がどうしても得られない場合、物質的色法を自身の色身として利用し、その物質的色法の上で五蘊活動を行うことになる。したがって、衆生の色身には必ず受蘊、あるいは想蘊・行蘊・識蘊の機能作用が存在し、これらの作用が合わさって初めて五蘊衆生が形成されるのである。もし物質的色法が衆生に利用されず五蘊活動を生じさせることができないならば、衆生はその物質的色法に付着することはない。

ミミズは二つ、三つ、あるいは数個に切断された後、それぞれの断片が生存する可能性がある。この時、それぞれの身体は独立した一匹のミミズとなり、独立したミミズは単独の衆生であり、それ自身の如来蔵が単独の五蘊活動を促す。他の断片で生存するミミズも同様である。ミミズの身体には特別な再生機能作用があるため、その身体機能を利用することができ、衆生の如来蔵と意根が投入されれば自身の色身を有し、五蘊活動を持つことになる。他の動物の身体は切断後再生できず、色身として再利用できないため、衆生はそこに投入せず、切断された肢体は壊滅する。

転生の福徳と縁のない衆生は、利用可能なあらゆる物質を自身の色身として利用する。大千世界の衆生の数はあまりにも多く、色身を持たず遊離状態にある孤魂野鬼の類の衆生は非常に多く、あらゆる転生の機会を見逃さず、あらゆる手段を尽くして転生または憑依し、自身の五蘊活動を持とうとする。色身がなければよりどころがないと感じ、非常に苦しく感じるのである。色身を利用して世の中で生活できればよりどころができ、誰も無身であることを望まない。もし温度・湿度などの環境条件が適しているならば、転生・憑依する衆生は特に多くなり、彼らは様々な細菌類の衆生となるか、あるいは極めて微小な蜎飛蠕動(ケンヒゼンドウ)類の衆生の中に転生するかもしれない。どのような衆生に転生しようとも、色身をよりどころとできるならば彼らは喜んで転生する。細菌の生命の生住異滅は非常に速く、転生しては死に、転生しては死ぬことになるが、それでも彼らは転生する。無身の感覚は本当に苦しいからである。

二、ウイルスを消滅させることは殺生に当たるか?

ウイルスとは人類に益なく害をもたらす細菌類の衆生である。すでに衆生と呼ばれている以上、それを殺すことは殺生と呼ばれる。しかし、仏陀が制定した不殺生戒の中には、細菌類の衆生は含まれていない。なぜなら、娑婆世界の人間界において、大神通者を除き、誰も細菌を避けて生存することはできないからである。

菌類の衆生は天地に満ち溢れ、数えきれないほどである。身体の中や体表、空気中、至る所に細菌が存在し、食品中にも存在する。発酵パンなどの麺類は菌類に依存して初めて発酵し、各種酵素、漬物などの食品もすべて菌類に依存している。菌類がなければ、多くの飲食を人類は享受できない。人類の生存は必ず菌類の衆生に依存しなければならず、そうでなければ生存できない。例えば、飲食の消化吸収と排泄、胃腸の蠕動運動はすべて細菌の助けに依存しており、身体の中には細菌のいない場所はない。もちろん菌類には有益菌と有害菌が含まれる。有害菌とは人類の色身を傷つけることができ、人類を病気にしたり死に至らしめる細菌であり、薬を飲んで消毒することはこの部分の細菌に対処することである。この部分の細菌が死滅して初めて、人類の身体は健康になり、生命は保障されるのである。

厳密に言えば、すべての人は細菌を殺したことがあり、能動的にも受動的にも含まれる。免疫力の強い人体細胞は侵入してくるウイルスに出会うと、能動的にこれらのウイルスを貪食するが、人類はそれを知らない。もしウイルスを消滅させることが殺生に当たるならば、仏陀が制定した戒律を守り得る者はいなくなり、得道する者もいなくなる。これによって、ウイルスを消滅させることは殺生に当たらず、人類という高級な生命を保護するために有害な最低級の生命を消滅させることは、やむを得ないことであり、生命の進化はこのように行わなければならないのである。しかし因果は存在し、未来劫において、これらの細菌がいくらかの福徳を持つ大型畜生や鬼類の衆生、および人類の衆生に転生した時、人類に対して瞋心を起こし、わだかまりや怨みを持つことになる。

三、細菌は将来人類になれるか? それらはどのようにして人類の衆生となるのか?

細菌は将来、人類になれるだけでなく、仏法を学び修行し、仏道を成就することもできる。重要なのは、それらがどのようにして人類になるかである。どの道の衆生になれるかは、必ずその道の衆生の福徳と相応しなければならず、欲界天・色界天・無色界天の天人となることさえ、これらの天界の衆生の福徳と相応しなければならない。将来、他の仏国土に往生する場合も、その福徳はこれらの仏国土の衆生の福徳と相応しなければならず、そうでなければ共に生活できない。人類の中の一家庭の成員でさえ、その福徳は相応しなければならず、そうでなければ一つの家族にはなれないか、あるいは家族は離散し、各々が自らの福徳に従って生活することになる。一つの団体も同様であり、福徳が異なれば、一緒になることはできず、共同で事を謀ることはできない。

細菌は衆生界で最も低級で、最も劣り、最も微小で、最も福徳のない衆生である。彼らは人類の身上やより大きな畜生の身上で徐々に福を積み、これらの衆生にサービスを提供し、これらの衆生の基本的な生命活動を維持する。福徳が一定の程度に蓄積されると、やや大きな畜生に転生し、畜生同士が互いに助け合うことで福徳がさらに増えれば、より大きく自主性・生存力の強い大型畜生に転生し、遂には人類に転生するのである。もし因縁が良く仏法に出会えば、仏法に迷信し、最終的に仏法を正信するようになる。

衆生が積み重ねるすべての福徳は、他の衆生に奉仕することによって得られるものである。したがって、私たちがより大きな福徳を持ちたいと思うならば、もう利己的にならず、自分自身のことだけを考え、他人を利益しようとしないのはやめるべきである。事実は、人を助けることは自分を助けることであり、自分が修めた福徳は決して他人のものにはならず、福を修めることは決して他人のために修めるのではなく、できる限り他人に利益を得させることによって、初めて自分自身が得るべき利益を得られるのである。

四、有害菌や肉食畜生はどのように人身を得るのか?

細菌がどのようにして細菌になったか、その根源を遡ろうとすれば、実例や証拠はなく、仏経の根拠も見つからない。有害菌がどのようにして有害菌になったかも同様に根源を遡ることはできない。しかし有害菌は一部の衆生にとって有害であるだけで、必ずしもすべての法界の衆生に有害とは限らず、また永遠に有害菌のままで変化しないとも限らない。生命種は生死輪廻の中で変異を起こす。なぜなら、菌類の衆生は非常に愚痴ではあるが、それでも極めて微弱な識心の活動があり、非常に微弱な業行があるからである。業行があれば必ず果報があり、生命は変異を起こす。大型畜生類については、その業報が終われば、徐々に人類に転生する。詳細は『楞厳経』における仏の説く六道輪廻の真相を参照されたい。

大型の肉食畜生は一般に前世で人間であったことがあり、悪業を造ったために大型畜生に転生したのである。悪業が消滅すれば、当然また人類に戻る。人身は重要な転換点であり、上にも下にもなれる。人類が再び最も愚痴な細菌に転生できるかどうかについては、現時点では未だ知られていない。

五、細菌と細胞の区別

ある者は細菌が霊を分けることができると言う。もちろん霊とは識心、七つの識を指す。もし細菌が霊を分け、複数の意識や複数の五識を分けることができるならば、それは分身・意生身・化身を持つことであり、それは大神通であり、人間よりもはるかに優れていることになる。人間よりもはるかに優れているならば、なぜ細菌などになっているのか? 細菌は最も劣り愚痴な有情衆生であり、四大で構成された色身を持ち、識心の微弱で劣った機能作用があり、一つの細菌が一つの如来蔵を持って身体を保持している。

細胞は無情物であり、七識の機能作用もなく、如来蔵による身体保持もない。なぜなら細胞は色身ではなく、衆生の色身を構成する基本単位であり、有情の色身上の微小な粒子であり、四大種子によって構成されているからである。細胞分裂は有情衆生の如来蔵の最も基本的な機能作用の一つであり、衆生の色身の生滅変異の一つの特徴である。色身のあらゆる変化、生住異滅はすべて有情衆生の如来蔵の機能作用である。細菌は細胞に侵入して細胞を破壊し、それによって衆生を病気にしたり死に至らしめることができる。

六、情と無情が共に種智を円満する意味

「同円種智」とは智慧が円満で妨げがなく、識を転じて智とし、究竟して仏となることを意味する。「情」とは有情衆生を指す。有情衆生が仏になる時、五蘊身の三十二相八十種好は正報であり、無情の器世間の環境である仏国土は依報である。依報は正報に従って転じ、仏が存在する仏国土も極めて美しく殊勝なものとなる。心が変わるとき、周囲のあらゆる法はそれに従って転変する。いわゆる「福のある人は福地に住み、福地には福のある人が住む」とはこのことである!

植物には生長期があり、年輪があるが、その生命の中に七識・八識の活動はない。したがって植物は衆生ではなく、輪廻もない。それは衆生が生存する依報の環境であり、衆生の業力によって感得されたものである。もし衆生に福があれば、感得する植物はすべて豊かで貴重なものとなる。そうでなければ荒廃し腐敗する。

七、四生九有二十五種の衆生の中で、細胞はどの種の衆生に属するか?

細胞は衆生の生命体を構成する基本組織であり、四大種子によって構成され、識心を持たない。したがって独立した生命体ではなく、衆生ではない。四大種子の構成と生滅変異は如来蔵の機能作用であるため、細胞のあらゆる機能作用は如来蔵の運行メカニズムであり、あらゆる生命の活動は如来蔵の運行メカニズムである。この部分の内容は特に深く細かく、観察が非常に困難であり、意根の活動を観察するよりも何倍も難しい。これはすべて唯識種智の範疇に属し、意根の運行メカニズムを観察することさえ唯識種智を必要とする。一般の人が意根について持つ見解は現量観行によって得られたものではないため、すべて信頼できず、過信すべきではない。

顕微鏡下で細胞の一連の活動を観察すれば、如来蔵の運行メカニズムがいかに細密で深遠か、いかに知り難く測り難いか、またいかに神秘的か、そしてどのように生命体を構築し、生命体を運行させ、生命体を消失滅亡させるのかがわかるであろう。これらはすべて極めて深遠で微細であり、知り難く証し難い。これによって、生命体全体がすべて如来蔵の機能作用であることがわかる。したがって生命体は如来蔵に属するものであり、意根である私に属するものではない。意根には生命体を我がものとする理由はまったくなく、終日「我、我」と際限なく、自らを知る明もなく、他を知る明もない。あらゆる法を知らないからこそ、終日「我、我」と煩悩が尽きず、これが最も根本的な無始無明なのである。

八、色蘊と色塵の区別

色塵は四大で構成された物質的色法であり、無情物である。それは識別され作用される対象であり、能動性がなく、自我性がなく、無明も煩悩もなく、清浄か不清浄かを論ずることもない。色蘊は色塵の上での蘊集作用である。色塵自体には能動性がないため蘊集作用もなく、識心が色身に付与する一種の機能作用である。識心によって推動される色身を色蘊と呼ぶ。識心が色身に作用する時、色身は生きた生命体である。識心が作用していない色身は無情物であり、死体であり、色塵の一つである。識心が色身に及ぼす作用とは、すなわち身口の行であり、行があれば業があり、業があれば業種を残す。こうして業果が蘊集され、後世には苦果・楽果・不苦不楽果が生じるのである。

九、なぜヘラ(HeLa)癌細胞は体外で59年間も絶えず分裂増殖し続けられるのか?

この癌細胞は実は細菌であり、ウイルス性細菌であり、人体に危害を及ぼす。細胞と細菌には区別がある。細胞は四大種子で構成された物質的色法であり、七識を持たず、有情衆生ではない。細菌は四大種子で構成された物質的色法だけでなく、意根・如来蔵・意識・身識などの識心も持ち、有情衆生である。身体の中の細胞は自身の如来蔵によって単独で生住異滅が保持されるが、身体の外に出ると四大が分解し、徐々に散乱壊滅していく。

一方、細菌という衆生は身体の中では細菌自身の如来蔵によって単独で生住異滅が保持され、身体の外に出てもなお細菌自身の如来蔵によって単独で生住異滅が保持される。各種ウイルスは実際にはすべて細菌類の衆生に属し、体外でも生存可能であり、おそらく比較的良好に生存できるであろう。したがってウイルス・細菌は生活環境が適していれば、体外でも体内でも生存・発展できる。ある癌細胞もウイルス性細菌であり、身体を離れても生存できる。ここ数年出現したコロナウイルスはすべて細菌の衆生であり、低温の物質の上でも生存できる。様々な物質の上で適切な環境条件があれば細菌の衆生が生じ、もし環境が変化し細菌の生存に適さなくなれば、細菌は滅亡する。

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