仏法雑談(第二部)
有情と無情の根本的な区別は、有情衆生の色身は衆生自身の如来蔵 (tathāgatagarbha) によって単独に出生され執持されており、しかも色身の上に七識の了別作用があるため、五陰の活動が存在するのに対し、無情の色法は共業の衆生の如来蔵によって共同で産み出され執持されており、七識と五陰がないという点にあります。七識は単一の如来蔵が出力する識種子から生まれるものであって、多数の如来蔵が共同で識種子を出力して形成されることはあり得ないので、無情物には七識五陰の活動がなく、衆生ではありません。有情衆生の五陰の活動と無情の物質色法の活動の根本的な区別は、有情衆生の五陰身には受・想・行・識の機能作用があることにあります。
衆生の意根が、ある物質色法が自分にとって有用であり、自分の色身として使えると感じれば、その如来蔵と意根はこの物質色法の中に入り込みあるいは付着し、五陰の活動を生じさせます。これが有情衆生の憑依現象です。衆生が投胎しようとする原因は、五陰の活動を持ちたいからであり、色法がなければ五陰の活動を行うことができないので、衆生はみな投胎の方法を考えます。どうしても投胎する福報と機縁がなければ、物質色法を利用して自分の色身とし、その物質色法の上で五陰の活動を行います。それゆえ、衆生の色身には必ず受陰があり、あるいは想陰・行陰・識陰の機能作用があり、これらの作用が合わさって初めて五陰の衆生が形成されるのです。物質色法が衆生に利用され得ず、五陰の活動を生み出せないなら、衆生はその物質色法に付着しません。
ミミズは二つ、三つ、あるいは数個に切断された後、その一つ一つが生存し得ます。このとき一つ一つの身体が独立したミミズとなり、独立したミミズは単独の衆生であり、それぞれ自身の如来蔵が単独の五陰の活動を促します。他の生存したミミズの断片も同様です。ミミズの身体には特殊な再生機能作用があるため、その身体機能が利用され得るのであり、衆生の如来蔵と意根がそこに入り込めば自分の色身を持ち、五陰の活動ができるのです。他の動物の身体は切断された後は再生できず、色身として再利用できないため、衆生はそこに入り込まず、切断された肢体は壊滅してしまいます。
福と縁がなく投胎できない衆生は、利用できるあらゆる物質を自分の色身として利用します。大千世界の衆生の数はあまりにも多く、色身を持たず遊離状態にある孤魂野鬼の類の衆生は非常に多く、投胎の機会に遭遇すれば決して逃しません。生を受けたり憑依したりするあらゆる手段を尽くして、自分の五陰の活動を持とうとします。色身がないと依り所がないと感じ、非常に苦しく感じます。色身を利用して世間で生活できれば依り所ができ、誰も身を持たないことを望みません。温度や湿度などの環境条件が適していれば、投胎・憑依する衆生は特に多くなります。彼らは様々な細菌類の衆生に変わり、あるいは極めて小さな蜎飛蠕動の類の衆生に投じるかもしれません。どの類の衆生に投じようとも、依り所としての色身さえあれば彼らは喜んでそうします。細菌の生命は生住異滅が非常に速く、投じては死に、投じては死にするのですが、それでも彼らは投じ続けます。身がないという感覚は本当に苦しいからです。
<h3 style="text-indent: 2em;">二、ウイルスの撲滅は殺生に当たるのか?</h3>ウイルスとは人類に無益で有害な細菌類の衆生です。衆生と呼ばれる以上、これを殺すことは殺生と呼ばれます。しかし、仏陀が制定した不殺生戒の中には、細菌類の衆生は含まれません。なぜなら、娑婆世界の人間界では、誰も細菌を避けて生存することはできないからです。大神通力を持つ者は例外です。
菌類の衆生は天を覆い野を満たし、まったく数え切れません。身体の中や身体の表皮、そして空気中の至る所に細菌があり、食品の中にもあります。パンなどの発酵食品は菌類に頼って初めて発酵させることができ、各種の酵素や漬物などの食品もみな菌類に頼っており、菌類がなければ、人類は多くの飲食物を享受できません。人類の生存は必ず菌類の衆生に依拠しなければならず、さもなければ生存できません。例えば飲食物の消化・吸収・排泄、胃腸の蠕動は、いずれも細菌の助けに依拠しており、身体の中に細菌のないところはありません。もちろん菌類には有益菌と有害菌が含まれます。有害菌とは人類の色身を傷つけ得る細菌であり、人類を病気や死に至らしめ得る細菌であり、薬を飲んで消毒することはこの部分の細菌に対処することです。この部分の細菌が死んでこそ、人類の身体は健康になり、生命に保障が得られるのです。
厳密に言えば、すべての人は細菌を殺したことがあり、能動的にも受動的にもそうです。免疫力の強い人体の細胞は、侵入してくるウイルスに遭遇すると、能動的にこれらのウイルスを飲み込みますが、人類はそれを知りません。もしウイルスの撲滅が殺生に当たるなら、仏陀が制定した戒律を守れる人は誰もおらず、道を得る人もいなくなってしまいます。ここから、ウイルスの撲滅は殺生には当たらないことが分かります。人類という高級な生命を守るために、有害な最下級の生命を撲滅することは、やむを得ないことであり、生命の進化はそうするしかないのです。しかし因果は存在しており、未来劫には、これらの細菌がいくらかの福徳を持つ大型の畜生や鬼類の衆生、および人類の衆生として生まれ変わり、人類に対して嗔心を起こし、わだかまりや怨みを抱くことになります。
<h3 style="text-indent: 2em;">三、細菌は将来人類になれるのか? どのように人類の衆生になるのか?</h3>細菌は将来人類になれるだけでなく、仏法を学んで修行することもでき、仏道を成就することもできます。鍵となるのは、彼らがどのように人類になるかです。どの道の衆生になれるかは、必ずその道の衆生の福徳と相応していなければなりません。欲界天人・色界天人・無色界天人になることも、これらの天界の衆生の福徳と相応していなければなりません。将来他の仏国土に往生する場合も、その福徳はこれらの仏国土の衆生の福徳と相応していなければならず、さもなければ共に生活することはできません。人類の中の一つの家族の成員でさえ、福徳が相応していなければなりません。さもなければ一家になれないか、あるいは一家がバラバラになって、それぞれ自分の福徳に応じて生きていくことになります。一つの団体も同様で、福徳が異なれば、共に集まることも、共に事を謀ることもできません。
細菌は衆生界の中で最も低級で、最も劣っていて、最も微小で、最も福徳のない衆生です。彼らは人類の身体ややや大きな畜生の身体の上で少しずつ福を積み、これらの衆生に奉仕し、これらの衆生の基本的な生命活動を維持します。福徳が一定の程度に集まると、少し大きめの畜生として生まれ変わり、畜生同士が助け合ううちに福徳がさらに増えると、さらに大きく自主性と生存力の強い大型の畜生として生まれ変わり、ついには人間として生まれ変わります。もし縁が良く仏法に出会えば、最初は仏法に迷信し、最後には仏法に正信するようになります。
衆生が集積するすべての福徳は、他の衆生に奉仕することから来るものです。それゆえ、私たちがより大きな福徳を持ちたいなら、これ以上利己的にならず、自分の些細なことばかり考えて他人を利益しようとしないことです。事実、人を助けることは自分を助けることであり、自分が修めた福徳は決して他人の身に落ちることはありません。福を修めることは他人のためではなく、できる限り他人に利益を得させこそ、自分に利益が得られるのです。
<h3 style="text-indent: 2em;">四、有害菌や肉食の畜生はどのように人間の身を得るのか?</h3>細菌がどのように細菌になったのか、その本源を遡ろうとすると、実例も証拠もなく、仏経の根拠も見つかりません。有害菌がどのように有害菌になったのかも同様に本源を遡ることができません。しかし有害菌は一部の衆生に対して有害なだけで、すべての法界の衆生に有害であるとは限らず、永遠に有害菌のままで変わらないとも限りません。生命の種は生死輪廻の中で変異が生じます。なぜなら、菌類の衆生は非常に愚痴ではあるものの、やはり極めて微弱な識心の活動があり、非常に微弱な業行があるからです。業行があれば必ず果報があり、生命は変異が生じます。大型の畜生類については、その業報が終われば、次第に人間として生まれ変わります。具体的には楞厳経の中で仏が説かれた六道輪廻の真相を参照してください。
大型の肉食畜生は一般に前世で人間だったことがあり、悪業を造作したために大型の畜生として生まれたのであり、悪業が消滅すれば、当然また人類に戻ります。人間の身は重要な転換点であり、上にも下にもなり得ます。人類が再び最も愚痴な細菌として生まれ変わるかどうかは、今のところ分かりません。
<h3 style="text-indent: 2em;">五、細菌と細胞の区別</h3>細菌は霊を分けられると言う人がいますが、もちろん霊とは識心、すなわち七つの識のことです。もし細菌が霊を分け、複数の意識と複数の五識を分け出せるなら、分身・意生身・化身があることになり、それは大神通であり、人間より優れていることになります。人間より優れているなら、なおさら細菌でいる必要があるでしょうか? 細菌は最も劣っていて愚痴な有情衆生であり、四大から構成される色身を持ち、さらに識心の微弱で低劣な機能作用があり、一つの細菌が一つの如来蔵を持って身を保持しています。
細胞は無情物であり、七識の機能作用がなく、如来蔵が身を保持することもありません。なぜなら細胞は色身ではなく、衆生の色身の基本的な構成部分であり、有情の色身上の微小な粒子であり、四大種子から構成されているからです。細胞分裂は有情衆生の如来蔵の最も基本的な機能作用の一つであり、衆生の色身の生滅変異の一つの特徴です。色身のあらゆる変化・生住異滅は、有情衆生の如来蔵の機能作用です。細菌は細胞の中に侵入して細胞を破壊することができ、それによって衆生を病気にしたり死なせたりします。
<h3 style="text-indent: 2em;">六、情と無情同円種智の意味</h3>同円種智とは、智慧が円満で無碍であり、転識成智によって究竟に成仏するという意味です。情とは有情衆生を指します。有情衆生が成仏するとき、五蘊身の三十二相八十種好は正報であり、無情の器世間の環境である仏国土は依報であり、依報は正報に随って転じるので、仏の所在する仏国土も極めて美しく殊勝になります。心が変わるとき、周囲の一切の法もそれに伴って転じます。所謂、福徳ある人が福地に住み、福地には福徳ある人が住む、というわけです!
植物には生長期があり、年輪がありますが、その生命には七識・八識の活動がありません。それゆえ植物は衆生ではなく、衆生でなければ輪廻もありません。植物は衆生が生存するための依報の環境であり、衆生の業力によって感得されたものです。衆生に福があれば、感得される植物はみな豊饒で貴重ですが、さもなければ荒れ果てて腐敗します。
<h3 style="text-indent: 2em;">七、四生九有二十五種の衆生の中で、細胞はどの種の衆生に属するのか?</h3>細胞は衆生の生命体を構成する基本的な組織であり、四大種子から構成され、識心がないので、単独の生命体ではなく、衆生ではありません。四大種子の構成と生滅変異は如来蔵の機能作用であり、それゆえ細胞の一切の機能作用は如来蔵の運行メカニズムであり、一切の生命の活動は如来蔵の運行メカニズムです。この部分の内容は特に深細で、観察するのが非常に難しく、意根の活動を観察するより何倍も難しく、これはすべて唯識種智の範疇に属し、意根の運行メカニズムの観察を含め、いずれも唯識種智を必要とします。一般の人の意根に対する見解はいずれも現量の観行 (vipaśyanā-caryā) から出たものではないので、いずれも信頼できず、あまり自信を持ってはなりません。
顕微鏡の下で細胞の一連の活動を観察すれば、如来蔵の運行メカニズムがどれほど細密で深密であり、どれほど知り難く測り難く、どれほど神秘的であるかが分かります。神様はどのように生命体を構築し、どのように生命体を運行させ、どのように生命体を消滅させるのでしょうか? これらはすべて極めて深細で、知り難く証し難いものです。ここから、生命体の全体がすべて如来蔵の機能作用であり、それゆえ生命体は如来蔵に属するものであって、意根の私に属するものではなく、意根には生命体を自分のものにする理由が少しもないことが分かります。一日中「我、我、我」と終わりなく、自分を知る明もなく、他人を知る明もありません。一切の法を知らないからこそ、一日中「我、我、我」と煩悩が尽きないのであり、これこそ最も根本的な無始無明です。
<h3 style="text-indent: 2em;">八、色蘊と色塵の区別</h3>色塵は四大から構成される物質色法であり、無情物であり、識別され作用される対象であり、能動性がなく、自我性がなく、無明や煩悩もなく、清浄 (viśuddha/pariśuddha) とか不清浄ということも言えません。色蘊は色塵の上の蘊集作用であり、色塵自体には能動性がないので蘊集作用もなく、識心が色身の上に加える一種の機能作用であり、識心によって推動される色身を色蘊と呼びます。識心が色身に作用すれば、色身は生きた生命体であり、識心がその中に作用していない色身は無情物であり、死骸であり、色塵の一つです。識心が色身の上で作用することは、すなわち身口行であり、行があれば業があり、業があれば業種が残され、こうして業果が蘊集され、後世には苦果と楽果、および不苦不楽果があるのです。
<h3 style="text-indent: 2em;">九、なぜヘラがん細胞は体外で59年間生存し、絶えず分裂・成長できるのか?</h3>この種のがん細胞は実は細菌であり、ウイルス性の細菌で、人体に危害を及ぼします。細胞と細菌には区別があり、細胞は四大種子から構成される物質色法であり、七識がなく、有情衆生ではありません。細菌は四大種子から構成される物質色法を持つだけでなく、意根・如来蔵および意識・身識などの識心を持ち、有情衆生です。身体の中の細胞は自身の如来蔵によって単独に執持され生住異滅しますが、身体の外に出ると四大が分解し、次第に散壊して滅していきます。
一方、細菌という衆生は、身体の中では細菌自身の如来蔵によって単独に執持され生住異滅し、身体の外に出ても依然として細菌自身の如来蔵によって単独に執持され生住異滅します。各種のウイルスは実はすべて細菌類の衆生であり、体外で生存でき、おそらく比較的良く生存できるでしょう。それゆえ、ウイルスや細菌は生活環境さえ適していれば、体外であれ体内であれ、生存し発展することができます。ある種のがん細胞もウイルス細菌であり、身体を離れてもなお生存できます。この二年間に現れたコロナウイルスはいずれも細菌の衆生であり、低温の物質の上でもなお生存でき、各種の物質の上でも適切な環境条件の下では細菌の衆生が生じ得ます。もし環境が変化して細菌の生存に適さなくなれば、細菌は滅亡します。