仏法雑談(第二部)
第七章 法に依らず人に依らずの篇
一、真の法に依らず人に依らずとは仏すらも依らないことである
『大宝積経』仏説入胎蔵会第十四原文:仏は言う。(如来は)道を知る者である。道を識る者である。道を説く者である。道を開く者である。大いなる導師である。如来・応供・正等覚・明行足・善逝・世間解・無上士・調御丈夫・天人師・仏世尊である。世間の人は無知で信仰心がなく、常に諸根(六根)の奴隷となっている。掌中(小さな利)のみを見て、大利を観ずることがない。容易なことは修めず、難しいことを常に行う。難陀よ、止めよ。このような智慧の境界について、汝は今、肉眼の見るところをもって観察すべきである。見るものはすべて虚妄であると知れば、すなわち解脱と名づける。
難陀よ、汝は我を信ずるなかれ。我が欲に随うなかれ。我が語に依るなかれ。我が相を観るなかれ。沙門の所有する見解に随うなかれ。沙門に対して恭敬を生ずるなかれ。「沙門喬答摩は我が大師である」と言うなかれ。しかしながら、ただ我が自証の所得の法のみに、独り静かなる処において、思量し観察せよ。常に多く修習し、用心に随って観ずる法により、すなわちその法において観想を成就し、正念に住せよ。自ら洲渚(依り所)となり、自ら帰処(帰依する所)となれ。法を洲渚とし、法を帰処とせよ。別の洲渚なく、別の帰処なし。
釈:仏は言う、如来は深く修する道を知る者、道を説く者、修道の道を開発する者、世間の大導師・如来・応供・正等覚・明行足・善逝・世間解・無上士・調御丈夫・天人師・仏世尊である。世間の人は無知で信根もなく、常に六根の奴隷となり、ただ掌中の小利のみを見て、より大きな利益を見ることができず、修道という容易なことを修めず、生死の苦業という難しいことを永遠に造作している。
難陀よ、まず止めて語るな。このような智慧の境界について、汝は今、肉眼で見える法を観察すべきである。そうすれば見る一切の法がすべて虚妄であると知り、これを解脱というのである。難陀よ、汝は私の言うことを信じてはならない。私の考えに随順してはならない。私の言葉に依ってはならない。私の相貌を観てはならない。沙門のすべての見解に随順してはならない。沙門に対して恭敬してはならない。「沙門喬答摩は私の大師である」と言ってはならない。
しかし汝は必ず私が自証した得た法について、独り静かな場所で多く思量し観察し、常に多く修習し、観ずる法に対して、もしよく用心して修習すれば、観ずる法において観想を成就するであろう。自ら観想を成就した法は、自ら証得したものであり、これより後は正念をもって法の中に住する。そうすれば、汝自身が洲渚(寄る辺)となり、汝自身が帰依する所となる。汝自身が証得した法が洲渚となり、帰依する所となる。別の洲渚はなく、別の帰依する所はない。
この言葉は仏が非常に精彩に富んで説かれたもので、弟子たちに必ず実証せよと教え、自ら証した法に依り、実証のない外法を盲信し依ってはならないと説いている。どのような法であれ、誰が説いた法であれ、すべて観察し検証し、観察した後に実証できて初めて信じ依るべきである。すなわち仏自身が説いた法でさえ、絶えず観察し思量し、実証した後に初めて完全に依るのである。これを法に依らず人に依らずといい、仏陀すらも依らず、必ず法に依り真理に依り事実に依らねばならない。もし検証を経なければ、盲目的に依ることになり、智慧は開けない。
これと対照的に、末法時代の衆生は福徳が薄く智慧がなく、必ず人に依る。ただその人が有名になり名声を得ると、無原則に寄り添い、帰属感を得ようとするが、法に対しては弁別し選択する能力がなく、完全に情執である。ある論を絶対真理と見なす人々は、目を覚ますべきである。名人の名声に依って法の正誤を判断することは、完全に人に依ることであり、正信ではない。正信とは仏陀の説くところで、観察し思量し、検証し実証すべきである。もし事実であれば初めて真理として依ることができる。もし検証できず実証できなければ、決して軽々に評判してはならない。三宝を誹謗する悪業を造らないためである。
二、智慧の低い者は真に教えや法に依ることが難しい
もし自身の智慧が低ければ、たとえ教えに依ろうとしても依ることができない。なぜなら教えが理解できず、教法の真の意味と指向が分からず、往々にして教法を誤解し、誤って解釈するからである。このように誤解した教法に依って、さらに他の人の説くことを比べると、参照物が誤っているので、比べた結果は当然誤りとなり、他人の説くことが正しいかどうかを如実に判断できない。
もし智慧が低ければ、法に依ろうとしても依る方法がない。同様に法理の真の意味と指向を判断できず、法理について誤解するか、朦朧として理解できないかのいずれかであり、他の人の説く法義が理解できず、真に理解することができない。そうすると他人の説くことが正しいかどうかを如実に判断できず、自身も法益を得られない。さらに好んで強引に頭角を現し至る所で評判すれば、誹謗の業を造りやすく、自身の道業を阻むだけでなく、愚痴による誹謗の悪報も受ける。したがって自身の智慧がまだ不十分な時は、学習と修行に没頭し、いかなる法や人も評判せず、明智な人となり、悪業を造らず悪報を受けないようにすべきである。
三、法に依らず人に依らないことの問題
もし実証があり、現量で観行できるならば、諸法の事実真相に依り、いかなる人にも依らない。ただ事実真相こそが真の法であり、究竟の法である。しかし事実真相は一般の人が知り証することができるものではなく、一般の人は人の言論に依るほかない。しかし人の言論にはすべて欠落と不足があり、たとえ仏の言論にも表面的な意味(語)と究竟の意味(義)があり、一般の人ははっきりさせられないので、究竟義に依ることができない。
要するに、実証があって初めて一部分の事実に依る方法があり、将来徐々にすべての事実真相に依るのである。大いなる智者は必ずこのようにし、諸仏はすべて事実真相に依る。特に第一尊仏である威音王仏はすべて実証の真理に依り、依るべき人はいなかった。したがって我々はやはり方法を考えて禅定を修め、定中で観行し、実証を目指すべきである。人に依ることは結局頼りにならない。仏は弟子に「汝の意は信ずべからず」と戒め、阿羅漢果を証して初めて汝の意を信ずべしと言われた。たとえ仏経を引用しても必ずしも正しいとは限らない。もし菩薩の論(例えば『瑜伽師地論』)が仏経と一致しないならば、仏経を基準とすべきである。しかし仏経もレベルが分かれており、義に依り語に依らずも難しい。実証がなければ真実の義を理解することは難しい。ここに仏が臨終の際に嘱託した四つの依(四依行)を、当時どのような心境で説かれたか、内心どれほど憂えられたかが分かる。
もし仏がどの菩薩がどのような証量であるかを印証していなければ、完全に100%依止することはできない。菩薩は仏の智慧を具足しておらず、その智慧にはまだ欠落がある。たとえ弥勒菩薩でさえかつて仏に智慧が欠けていると呵責された。すべての菩薩の説く法はもちろん依止できるが、100%依止することはできない。菩薩の論には必ずいくつかの欠落と不足があり、法眼のない人は観察できない。たとえ『瑜伽師地論』でさえ、弥勒菩薩本人が直接人間に説いたのではなく、中間に一人の菩薩が口述して伝えたものであり、この菩薩の証量が非常に高くなければ、その口述にも誤りがある。したがって一つの言葉を十人が口述すれば、おそらく十の意味が生じる。したがって学ぶ者はそれぞれやはり観行と我見を断つことに心を用い、さらに明心見性を目指す方が確かである。
四、法に依らず人に依らず
法に依るとは事実と真相に依ることであり、これは極めて困難なことである。なぜなら智慧が不足していると、事実を証得し検証できず、説法が事実と矛盾しないことは極めて重要であり、仏の説と矛盾しないことは非常に重要である。実証とは事実を証得し、事実と符合することで、これが修行の最も肝心な点である。いわゆる証拠とは、自ら検証し確固たるものとなって初めて信従できるのである。もし検証できない、あるいは検証する能力のない法は、依るべき法や事実として用いることはできない。
人に依るとは、名声のある人を主とし、人に依って法の是非を確立することである。純粋に法理・法義と事実の角度から法の是非を判定するのではない。もし人名を隠せば、この人の説く法について大多数の人はどうすればよいか分からず、選択できなくなる。このように人に依ることは過失が非常に大きい。学仏修行は法と事実に依るべきであり、人に依るべきではない。仏陀以外は他の誰も100%依従してはならない。そうでなければ仏陀が臨終に交代し繰り返し教えた「法に依らず人に依らず」は空文となり、我々は仏陀の教えと深い配慮に背くことになる。
もし仏陀がどの人の説くことが如何なるものであるか、あるいは100%正しいことを印証していなければ、慎重に選択し判定すべきである。ただ仏陀一人の説法が100%正しく、100%依止できる。他の人、弥勒妙覚菩薩を含めて100%正しくはない。すべての衆生、すべての菩薩は多かれ少なかれ欠点と誤りがある。智慧がなく十分な証拠がない時は軽々しく評論せず、智慧がある時は自らの現量観行を取り出して問題を説明すべきである。
そしていかなる人を評論するにしても、証拠が十分で確実でなければならず、一二三四五をはっきり述べ、問題を明らかにすべきである。もしできなければ、現量観行がなく証拠がないのであり、裏でひそかに努力し、自身の智慧のレベルを高め、自身の観行智を高めるべきである。もし証量がなく現量観行の智慧がなければ、沈黙を選び評判を下さず、もしどうしても何かを言わなければならない場合は、根拠がないため誤った評判を下しやすく、評論を誤れば果報も大きい。
もし自ら現量観行できなければ、名声ある人の言論に依らざるを得ないが、これは人に依ることであり、法に依ることではない。多くの人は名声と権威だけを信じるが、これはやむを得ないことである。なぜなら弁別する智慧がなく、名声と権威に依るほかないからである。もし名声と権威のある者の法義に誤りや欠落があれば、後世の人は永遠に誤りと欠落を引き継がざるを得ず、誰も法義に対して何ら補足や修正ができず、仏法はこのようにして扼殺され停滞する。世俗の科学技術界や学術界は決して人に依らず、科学技術は常に飛躍的に発展し日進月歩である。しかし仏教界で行われているこの人に依る規則は、数千年の仏教を発展させ続けることができなくしている。
五、智慧の貴重さと稀有さを観察する
「多くの高知能者は直感に依存する傾向が強く、理性的思考ではなく直感によって意思決定を行う」この言葉は世間人の認識である。我々多くの学仏者にはなぜこのような観察力と認識を持つ者がいないのか? すべての仏学大師たちを含めて。
世の中で哲学や心理学、社会学を研究する人々の観察する智慧は並外れており、我々学仏グループの修行者よりはるかに高い。なぜ仏教団体の人の智慧はこれほど衰微しているのか? 様々な論者たちは専門家であれ非専門家であれ、その思惟観察力は見るに堪えず、ただ人に依るだけで法に依ることができず、観察力がそれほど弱くてどうして法に依ることができようか? もし世の中の様々なエリートが皆、学仏修行すれば、仏教はどのような情景であろうか?