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仏法雑談(第二部)

作者: 更新時間:2025-07-10 13:30:06

第六章 善根福德篇

一、福徳についての話

仏法を学ぶ者が仏法において修得した福徳、あるいは弘法のために修めた福徳は、いずれも定まった量があり、限られたものである。限られた福徳を世俗法に多く費やせば、仏法の修証に用いる福徳は少なくなる。両者は天秤のようなもので、一方が下がれば他方が上がる。例えば、世俗法において仕事の待遇が良くなり、地位が上がり、名誉が得られ、権勢を持ち、収入が増え、人望が厚くなるなど、要するにますます得意になり、快適になり、家庭関係なども良くなるが、これらはすべて学仏や弘法において修めた福を消費しているのである。そうすると福徳は如来蔵銀行から現金化され、残りはわずかとなり、仏法の修証に用いるのに十分かどうかは定かではない。

もし仏法を学ぶ福徳が不足していれば、修行は依然として向上せず、再び福を修め続けなければならない。もし修めた福を再び世俗法に費やせば、修行に必要な時に福は依然として不足する。この循環の中で、いつ自身を修めきることができるだろうか。したがって福を修めると同時に、これらの福の何割かを修道に用いることを誓願し、できるだけ世俗法に費やさないようにすべきである。なぜなら割に合わず、現金化して使い切れば無くなってしまうからだ。金を多く稼げば稼ぐほど地位が高くなり、福徳はますます現金化され、如来蔵の預金は減っていく。それでは何をもって道業を支え、修行して悟りを得ることができるだろうか。

金を稼げば稼ぐほど良いとか、権力や名声が大きければ大きいほど良いと思ってはならない。ただし弘法や衆生の利益のために金を稼ぐ場合は除く。さもなければ、自身の如来蔵銀行の預金はますます減り、修行を支えられなくなる。賢明で智慧ある者は常に如来蔵銀行に相当な預金を残し、現金化して世俗法に用いることはしない。世俗法はそこそこに過ごせれば十分であり、衣食があれば足りる。修行に用いる福は必ず十分に、余裕をもって保証しなければならず、そうしてこそ修行は順調に迅速に進む。

二、福を修めることと福を消すことの原理

修道に用いる福は、衆生にとって常に不足している。したがって一方で絶えず福を修めつつ、他方でできるだけ福を節約しなければならない。福は急速に消え去る。福を享受すれば消滅し、自らを誇って他人を滅ぼしたり、あるいは他人から賞賛されたりすれば、福は消化される。悪業を造り、瞋恨・嫉妬・誹謗・両舌・悪口を行えば、福は消失する。もちろん善業を行えば福は増え、利益を与えた他人や団体が増えれば福は増え、自身の道徳的品質を高め、心を善良にすれば福は増え、禅定は福徳を増やし、多聞は福徳を増やし、持戒は福徳を増やし、忍辱は福徳を増やす。もちろん様々な布施はさらに福徳を増やす。

また、布施行を多く行うことを好む者もいる。本来福も少なくないのに、いつも福が何もないように感じ、何をやっても順調でないのはなぜか。実はこの人は煩悩が重く、悪業を造る習慣があり、よく怒りを発し、瞋心を起こし、人を嫉むことを好み、仕事ではいつも人を排斥し、競い合う。そうすることで他人の利益を損ない、他人の利益を損なうことは、自身の福徳を損なうことである。競い合いを好む者は福徳を蓄積しにくく、むしろ福徳を消耗する。他人を嫉み排斥し、他人の利益を損なうことは、もちろんすべて自身の福徳を損なう行為である。

心善・口善・身善は福を積む道である。逆に煩悩習気が重く、心が狭く、口が善からず、トラブルを好み、身が善からず悪行を好み、心が善からず利己のみを考えることは、福を消す行いである。煩悩は漏れとも呼ばれ、煩悩漏があると、善業は集めにくく、福も積みにくい。わずかな福も煩悩があると漏れ出てしまう。そのため福は常に不足しがちで、ちょっとしたことで問題が起き、心は安らかでなく、道は堅固でない。人は病苦に遭い、トラブルや災難に遭う時、いつも自然に起こったことだと思い、誰もがそう考えるので慣れっこになり、なぜ病痛や挫折などの不如意が生じるかを反省することはない。そのため教訓を汲み取って自身を変えることができず、苦痛や悩みは常に自身に付きまとい、何をやっても順調でなくなる。

三、有漏の福とは何か?無漏の福とは何か?

福は有漏の福と無漏の福に分けられる。有漏の福は解脱の彼岸に至ることはできず、無漏の福こそが修行者を解脱の彼岸へと導く。世俗法に求めるものがあって修める福は有漏の福であり、世俗法的な功利的な心を持って修める福は有漏の福であり、我ありの心で修める福は有漏の福であり、世俗法の見返りを得るために修める福は有漏の福である。無漏の福は無所求・無所得の心で修める福であり、功利的な心がない福であり、自我のためでなく世俗的な見返りのためでない福である。

有漏の福は享(う)け尽くすことができ、世俗法で享受すれば消滅する。絶えず福を修め続けなければ福を享受できない。無漏の福は享け尽くすことができず、修め出せば成仏の時まで保持される。なぜなら無漏の福は功徳と繋がっており、功徳が失われなければ福も失われないからだ。有漏の福は世俗の煩悩と相応し、無漏の福は成仏して衆生を救う清浄な大願と相応する。願いが大きければ大きいほど福も大きくなり、願いを発すれば福が生じる。有漏の福は一個人の我見と我執を強化するが、無漏の福は逆に、修行者が我見を断ち、我見を消し、様々な証量と智慧を高めることを支える。

仏法を学び始めた者は皆、有漏の善と有漏の福から修め始める。心はますます空(くう)になり、ますます無為になり、ますます無所求になる。功が積み重なれば自然に成就し、最終的に無漏の善と無漏の福を修め出すことができる。これが修行の過程である。仏法を学ぶ最初の段階では必ずまず有漏の善と福を修めなければならない。なぜなら衆生の心には悪不善の法があるので、善法で対治しなければならないからだ。相当な程度まで修めると、心は空と相応し、心中の悪不善の法は消え尽きる。この時はもはや善法に執着してはならない。善法があれば心は空でなく、道と相応しない。

我々は今、四正勤を努力して学んでいる段階にあり、皆が努力して悪を断ち善を修めている。悪をすべて断った後は、善も特に修める必要はなく、心中で善悪のどちらにも執着しなければ、真の無漏となる。四正勤:未生の善を生じさせ、已生の善を増長させ、未生の悪を生じさせず、已生の悪を断つ。この段階は誰もが経験しなければならない。修行が精進であればあるほど、四正勤はより早く修め終わり、無漏を証得できる。

四、福徳の差が正報と依報の差を生む

三界六道において、福徳の大きい衆生は天界で楽しみ、一部は人間界にいる。福徳の小さい衆生は三悪道で苦しみ、一部は人間界で苦しむ。福徳が大きければ大きいほど寿命は長く、福徳が小さければ小さいほど寿命は短い。もし苦しむならば寿命は長くなる。天人は人間の寿命を長くても数分と見なし、一生は速やかに滅び、また速やかに生まれ、非常に退屈である。人間は畜生、特に細菌の生命を非常に速いものと見なす。

蟻や蜂は一生懸命働き、真面目に生き、チームワークは整然としているが、人間から見て何の意味があるだろうか?人間も同様で、一生懸命働き、真面目に生き、名利権位、様々な第一第二を追い求めるが、天人から見て何の意味があるだろうか?人間同士の様々な争いは、蟻が蟻の卵を争うようなもの、蜂が花粉や蜜を争うようなものである。人間は自分を偉大だと思うが、蜂や蟻も自分を偉大だと思う。自惚れは所詮この程度であり、すべて眼界に制限され、福徳が衆生の生存様式と理想・道徳を制限している。

福徳が不足している者は皆、世俗法に没頭し、世俗法において何らかの達成を得ようと一心に努める。福徳の大きい者は、出世間法に没頭し、出世して自在解脱を得ようと努める。福徳が人心と理想的行動を制限する。ある者に多くの福を修め功徳を行う機会を与えても、彼の福徳が不足していれば、福を修めることや功徳を行うことを好まない。欠けているものは補いにくく、福徳が欠けていると福徳を修めにくい。

五、福徳の重要性

福徳は仏法修証の礎である。もし福徳が不足していれば、禅定は向上せず、禅定がなければ、あるいは禅定が不足していれば、法義を理解することは非常に困難である。福徳が不足していれば、あることは非常に容易に見えても、どうしても達成できない。戒律を守ることは非常に容易に思えても、戒律を守れない。ある法は非常に容易に理解できると思えても、深く観行することができない。福徳がなければ、何事も思い通りにならず、世俗法上の様々な事業も含まれる。禅定と福徳が具わった後は、あらゆる法において観行の智慧が生じやすく、空を証得させてくれる。心は空で我もなく物もなく、解脱自在である。修行もまた様々な見道の因縁を円満にする過程であり、因縁条件が具わって初めて見道して法眼浄を得、空三昧を証得できる。

六、福報と福徳の違い

衆生は布施によって福を得るが、布施の心構えが異なれば得る福も異なる。ここで言う心構えとは、有所得の心、利己的な心、有所求の心、貪欲の心などがあるかどうかである。もしこれらの心行・心構え・考えを持って布施を行えば、福報は得られても福徳は得られない。徳は心行が清浄で、無我無私、見返りを求めず、求めるところがなく、あるいは個人的な私利私欲のためでなく求め、不純な目的がないことを表す。純粋な心こそが徳であり、清浄で欲のない心こそが徳である。このような心で布施を行って初めて福徳を得られ、道を成じ、道を持つことができる。

徳があれば波羅蜜(はらみつ)があり、智慧の彼岸に至ることができる。徳がなければ波羅蜜がなく、智慧の彼岸に至ることができず、修道は成就しない。有所求の心量は非常に小さく、得る福も当然小さい。無所求の心量は非常に大きく、得る福も大きく、徳も大きい。

したがって布施を行う時は、できるだけ求めるところなく、貪欲なく、功利的な心を持たないようにすべきである。何事を行うにしても、貪求や貪欲、私心、目的が不純で、心が清浄でなければ、功徳はありえない。有所求の心量は非常に小さく、得る福も当然小さい。無所求の心量は非常に大きく、得る福も大きく、徳も大きい。

よく布施行を修める者は、静かに心を落ち着けて自らを内観し、布施や福を修める目的は何か、純粋に道業のためか、あるいは衆生のためかを反省すべきである。もしその中に貪欲が混じっていることに気づけば、絶えず自心を清浄にし、染汚を除き、覆いを取り除かなければならない。なぜならば、これほど努力して布施しても福報は得られても波羅蜜はなく、福報を使い切れば何も残らず、徳は存在せず、道業において功を進めることができないからだ。逆に無所求・無所得の心で、他者を利する心で布施を行い福を修めれば福徳を得られ、福だけでなく徳も得られる。そして徳は永遠に自身に属し、消滅せず、道業を成就させる資本と資糧となる。

七、享楽は福を消すこと

仏法を学び修行する者は常に自らを反省し、どのような点で絶えず福徳を消耗しているかを内観し、気づいたら改め、自身の福徳を簡単に浪費しないように注意し、道業の迅速な進展を図るべきである。現代社会は物質生活が発達しているが、これは現代の衆生の福徳が大きく、仏在世の衆生の福徳が小さいことを意味するのか?決してそうではない。福徳の大小は表面的な豪華さではなく、精力と福徳を道業に、善業に用いられるかどうか、絶えず智慧の宝庫を開くことができるかどうか、福徳をすべて如来蔵に残して後世の修道に用い、世俗法に空費しないかどうかにある。

世の人の福徳が不足している時は、往々にして浮華の世に生まれ、簡単に福徳の種を現金化し、世の楽しみを享受し、自身の権勢を誇示するために用いる。もし学仏者が覚らずに世俗の享楽に順じ、自身の福徳を無造作に消耗し、無益な俗事を行い、道業を考えなければ、それは智慧も善根もない証拠である。善根と智慧ある者は福徳を修道に用いるために残し、現金化して世俗法の享楽や見せびらかしに用いない。多くの者は世俗の名利や権勢を持つことを誇りとし、虚妄の生滅法にこだわり続け、富貴栄華が空華の如く、まもなく滅び、有ることも空であることを知らない。世の人は空を理解し難く、有ることしか知らない。だからこそ、後世を考えずに、時を逃さず享楽する心構えがあるのだ。

八、無為の福を得る方法

世の人の多くは有為の福を享受できるが、無為の福を享受することはできない。なぜなら大多数の人の心は有為であり、無為になれないからだ。しかし無為の福は非常に大きく、有為の福をはるかに上回る。一般の人は無為の体験がなく、両者の差を理解できない。有為の人は世の中で心が空でなく、様々な心の動き、様々な執取、様々な造作が止まず、休むことを好まず、非常に忙しく、絶えず心身を消耗している。苦労して得た有為の福をいくらか享受できても、代償は大きく、割に合わない。したがって妄想を減らし、心身を平らかに休養させることが必要であり、次第に災いのない清浄な無為の福を得られるようになる。

心身を平らかにして無為の福を得るにはどうすればよいか?五蘊世間の一切の法の空を多く観察し、動きや行いを少なくし、あらゆる人・事・物に心を動かさず、感触を少なくし、喜怒哀楽など心身を傷つける感情を少なくする。なぜならすべて不要だからだ。生滅し幻の如く無常な法、因縁によって現れる法は、因縁が滅すれば法も滅する。執取しても無駄であり、結果はすべて空である。それにもかかわらず多くの時間、精力、心血を消耗する。大智大心の者は長久と永久に目を向け、無心の工夫を多く行い、感情的な反応を減らすべきである。どのような境界に遭遇しても心は空で、他の念いはなく、次第に心は平淡で清浄になり、消耗は少なくなり、心身は健康で、心は無為になり、道業も進歩する。

心の状態が平穏で、念想が非常に少ない人は、心が比較的純粋で善良であり、複雑な考えがなく、心身は健康で調和がとれ、磁場が良く、親和力があり、人間関係も良い。無意識のうちに無為の福が集まる。ある者は世の一切の法に執着して離さず、思想・感情・心境は無常に変化し、心身ともに苦しみがある。いくらか有為の福を得られるが、代償は大きい。したがって心を空にすることができれば無為の福が得られ、心を空にすることこそが世の中で最大の享受であり、心が清浄であることの果報である。

九、福と苦の関係

多くの小動物は夜行性の衆生であり、昼は眠り、真夜中に活動し餌を探す。なぜなら光や人を恐れ、明るい時はできるだけ出てこないからだ。これは彼らの色身の仕組みによって決まり、また福がなく自力で生きられず盗み食いをしなければならないことによって決まる。要するに業力によってもたらされる。小畜生は福徳がないため、人を恐れ、自分より福徳の大きい衆生を恐れなければならない。同類の衆生も同様で、福の大きい者が指導的地位を占め、同類の長となる。

したがって各人がもし福徳を使い果たし、三悪道の業があれば、必ず三悪道に行って苦しまなければならない。三悪道はほとんど福を必要とせずに生きられるが、福がなければ必ず苦しみがある。福と苦は天秤のようなもので、一方が下がれば他方が上がる。もし学仏者も多く福を修め、福徳の消耗を少なくすることを知らなければ、それは非常に残念なことであり、福が使い果たせなくなることを知らず、福徳がなければ大苦を受けることを知らないのは無知と愚痴である。一人の人が福を修めることを好まず、手を挙げるだけの労力で他人に利益を与えることさえ好まなければ、決して賢い人ではなく、心に自分しかいない者は皆、賢く智慧ある人ではない。

十、なぜ「徳が位に伴わなければ必ず災いがある」と言うのか?

徳とは、福徳・品德・人格・教養・才能・力量など利用可能な資源を含む。位とは、地位・権勢・名声・名称・眷属・利益などを含む。これらの資源を投資してその位を得る。もし資源が不足していれば、それは高利貸しのようなもので、最終的に資産が負債を賄えず、倒産・破産・負債を抱え、家が潰れ人も亡くなる可能性もある。生命をもって借金を返済しなければならない。もし生命さえ借金を返済するのに足りなければ、福徳の欠如が大きすぎて三悪道に堕ち、三悪道の最下層に沈み、再び上がるのは非常に困難になる。

世の名声や権勢は誰もが良いと思い、欲しがる。しかしそれには福徳が不足している。もし手段を弄して強奪すれば、高利貸しは人に多大な代償を払わせ、最終的には無名で堅実に過ごす方がましだと気づく。人生で何を争うのか。手に入れたものはすべて相応の福徳を消耗し、福徳を使い果たせば、人としての資格も失われる。したがって名声や利養を求めず、他人に自分を高く評価させようとせず、尊重や権勢を求めず、他人に敬慕されようとせず、手段を選ばず、人より上に立とうとせず、人より下にいる者の方が利益は大きい。謙虚で譲る心は福を生み、慎み深さは福を生む。

逆に、自身の様々な欲望がすべて実現した時、すなわち福徳を消耗し、名声が上がった時、すなわち福徳を消耗し、志を得て満足した時、すなわち福徳を消耗する。福徳を最も大きく最も速く消耗するのは、悪事を働き悪業を造ることである。戒律違反や規則違反はすべて福徳を最も大きく消耗する行為であり、五戒十善に背き、殺生・偸盗・邪淫・妄語・貪欲・瞋恚・嫉妬・両舌・悪口を行い、奸逆の小人となること、一切の悪心悪行はすべて福徳を極めて大きく消耗する。福徳が尽きれば、人間界の一切の事業は廃れ、もはや人として存在する必要もなくなる。

得ることは、すなわち福を消すこと。失うことは、すなわち業を消すこと。他人から尊重されることは、福徳を消耗する必要がある。他人から罵られることは、業を消すことができる。したがって忍辱は徳であり、忍辱は福を生み、忍辱は大業を成し遂げる。見道して道を成じることが大業であり、最終的に成仏し、頂業を成就すれば、もはや修行する必要はなく、大楽である。したがって忍辱は大業と大楽を成し遂げる。福は享け尽くしてはならず、辱は受け尽くしてよい。福があっても享けず、辱は必ず受ける。大志ある者は心に留めよ。

十一、福厚くして実、福薄くして軽浮

種を蒔く前に、まず種をしばらく水に浸してから土に蒔く。種は事前に水をたっぷり吸い、土に埋めて発芽を早める。浸している時、水面に種が浮かぶ層がある。これらの種は成熟しておらず充実しておらず、発芽して作物を育てることはできない籾(しいな)であり、種として使えない。したがって水面に浮かぶ種を取り除き濾過し、残った実のある重い種だけを土に蒔く。これは何を喩えているのか?生きた人間が海に飛び込めば海に沈むかもしれないが、死体は海の中で海水に持ち上げられて海面に浮かぶ。これは何を喩えているのか?秋になると、高粱畑で成熟した高粱は粒が充実し、高粱の頭を垂れさせ、高粱の茎さえも腰を曲げさせる。しかし成熟していない高粱は茎が真っ直ぐで、風に揺られて漂い、特に誇示する。これは何を喩えているのか?

福が薄ければ衝動的な習気を抑えきれず、福が薄ければ何も抑えきれず、煩悩習気はすべて浮かび上がる。なぜ分かっていないのに分かったふりをして人に指図するのか?なぜ毎日軽薄な言葉がそれほど多いのか?重厚な人は決して多くを語らない。

十二、善を積み福を得ることを最大限にするには

善行を人に知られずに行うことが陰徳を集めることであり、人に知られずに得る福は人に知られ敬われて得る福よりも大きく、陰徳は陽徳よりも大きい。なぜなら人に知られれば人から尊敬され賞賛され、そうして福徳は一部報いられ、後に得る福は少なくなるからだ。尊敬・賞賛・羨望の見返りは何の意味もなく、ただ自己良好感を得るだけで、我が心を強めるだけであり、そのような見返りを得る価値はない。

善行を人に知られなければ知られないほど、得られる賞賛は少なくなり、将来得る福は大きくなる。心が自身の施しを気にしなければしないほど、福を得ようとする心がなければないほど、将来得る福は大きくなる。心が無為であればあるほど、得る福は大きくなる。仏が無為福勝と言うのはこの意味である。心量が大きければ大きいほど福は大きく、無所求の心量が最も大きいので、得る福も最大になる。

十三、小善と大善

小善は跡をたどることができ、人に発見され知覚されやすい。大善は形がなく、知覚されにくく、発見されにくく、理解されにくい。おそらく誤解されることもある。小善は短期的効果しかなく、眼前の世話しかできない。大善は根本と究竟に目を向け、長い未来に目を向け、眼前の得失を気にしない。小善は善と見なされやすいが、大善は悪と見なされるかもしれない。小善は偽装できるが、大善は人に知られることを潔しとしない。小善は人に賞賛されるが、大善は理解する者が少なく、憎まれることさえある。要するに、智慧のない者は常に倒錯した見解を持ち、正しい道理を理解しない。もし世の人の倒錯した見解に従えば、破滅と輪廻に至るだけである。もし世の人の指す方向に背けば、必ず世の人から唾棄される。大善は行い難く、大道は歩み難い。これがその道理であり、すべて世の人に障られるからだ!世の人は目が曇って花が生じるのに、他人に珠がないと言い、横槍を入れる。実は肺病が発作を起こしたようなものである。病膏肓に入り、医者の指示を信じず、救い難く治り難く、ただ業に従って苦しむのみである。

十四、主観的故意の布施の果報は何か?

主観的に自発的に布施し、個人のために福を修めれば、後世の果報はもちろん福を得ることである。その中で他人の利益を侵害・損なわず、他の者が利益を得ることを妨げず、しかも布施の対象も利益を得る。したがって結果は双方にとって利益となる。もし仏道を成じるために福を修め、衆生を救うために福を修める心で行えば、今世後世の福徳はさらに大きくなる。もし何のためでもなく、何も図らず、ただ布施の機縁に遭遇し、縁に従って布施を行い、機縁に応じて行う布施で心が空であれば、この福徳はさらに大きく、無為の福が最大である。これは『金剛経』で仏が説いたことである。

布施行を修めるには次第がある。まずは自身が福を得るために布施を修め、心がさらに広くなれば、衆生が利益を得るために布施を修める。この布施には波羅蜜があり、解脱の彼岸に至ることができる。心がさらに広くなり、心が空で願いがなければ、修めるのは無為の布施であり、仏から授記を得ることができる。心の広さはすべて福徳によって決まる。福徳が小さければ心量も小さく、福徳が大きくなれば心量は広くなる。したがって菩提心を発し、大願を発することも、福徳の支えによる。福徳が大きくなれば視野は広がり、遠くを見通し、智慧は広大で障りがない。

十五、福が大きければ魔を降伏できる

もし福徳を勤めず修めず、智慧を勤めず修めず、信根が具わらず、善根が具わらなければ、修めていくうちに魔が憑依し、その人も魔が憑いていると知らない。『楞厳経』第九巻には多くの悪魔憑きの事例が説かれている。自ら多く照らし合わせてみよ。悪魔が憑依する時、最初は多くの世俗法の利益を与え、心身を快適で楽しくさせ、禅定を得させ、財産を得させ、病が退いて心身の健康を得させ、神通があるように見せかけ、自身が偉大だと感じさせる。しかし実際はすべて魔力であり、自身の道行ではない。悪魔が利用し尽くし、利用価値がなくなると、魔は嫌気がさして見捨てる。そしてお前は何者か?正体を現し、死後は地獄である。

仏は人身を得る者は爪の土のように少なく、人身を得ない者は大地の土のように多いと言われた。仏陀のこの言葉は完全に確かか?現代の衆生を観察すると、善根福徳ある者は非常に少なく、たとえ仏法を学んでも無数の貪・瞋・痴の煩悩が心に付着している。したがって無数の学仏者が命終しても依然として三悪道で報いを受け、真に我見を断った者のみが三悪道を免れる。しかしどれほどの人が真に我見を断てるか?極めて少ない。もし仏を謗り法を謗れば、通常の三悪道ではなく、無間地獄道であり、非常に長い年月の苦しみで、出る期はない。衆生は確かに哀れだが、その哀れな者には必ず憎むべき点がある。

一部の衆生が精進して仏法を学び、無明煩悩が軽減し、福徳が増えれば、必ず自心の器世間を変える。同時に共業の衆生の如来蔵もその感応を受け、美しく豊かな器世間を顕現し、世界は美しく見え、様々な資財は豊かになる。世の中がますます美しく豊かになると、これに相応する善根福徳ある衆生が生まれ変わり、世の中をさらに美しく明るくするよう影響を与え導く。一方、福徳が不足する衆生はこの世と相応せず、悪業の衆生はますます少なくなる。これは良性循環である。逆は悪性循環であり、悪業の衆生が増え、善業の衆生が減り、菩薩もこの世に来ることを好まず、この世の生活環境は悪化する。

十六、善根を植えることの重要性

一闡提(いっせんだい)が善根を断つとは、一般的に真如心如来蔵があることを信じないことではなく、信じないと同時に悪口を浴びせ、非常に重く誹謗し、非常に悪い影響を与えることを指す。如来蔵があることを信じない人は大多数を占めるが、一闡提の罪人は多くなく、極めて少数である。さもなければ無間地獄は収容しきれない。

文殊菩薩が五百人の比丘に大乗法を説いた時、比丘たちは信じないと同時に席を立ち去り、心に瞋心、特に文殊菩薩の説法に対する瞋心を持った。この罪は一般人に瞋心を起こすよりも何倍も大きい。そのため彼らは地獄に行き苦しんだ。これらのことは文殊菩薩が予め予見していた。舎利弗が文殊菩薩に、この結果を知っていながらなぜ彼らに大乗法を説いたのかと尋ねると、文殊菩薩は言った。彼らは地獄に堕ちたが、善根はすでに成熟している。地獄に堕ちて後悔し、一念悔いれば地獄の罪は消滅し、天に昇り、再び人間に生まれて大乗法を学び、最終的に道を証得する。もし彼らに大乗法を説かなければ、地獄に堕ちることはないが、善根福徳を植える機会もなく、大乗を学び道を証得することはできない。

したがってあることは一時的に見ると不善で不利だが、長い目で見れば非常に大きな利益がある。大菩薩の見識は広大で、長い目で見て長期的利益を見ることができ、行うことはすべて有情を利益する。しかし普通の人は眼前の利益しか見えず、長く見ることができない。したがって見識が浅い。

学仏者は仏法を学ぶ以上、多くの仏経を読み、仏の三大阿僧祇劫の修行の経歴を多く理解し、諸大菩薩の修行の歩みを多く理解し、仏菩薩の大智慧行を多く理解すべきである。そうすれば自身の修行に非常に大きな指導的意義があり、茫然として無知でなくなる。仏経に説かれていることは全面的で究竟であり、内容は豊富で詳しい。多く読めば必ず大きな利益を受ける。後世の基礎を築き、仏菩薩を見分ける慧眼も得られ、各々の法を伝える者が善知識か邪師かを識別でき、人に騙されず、邪道に陥らず、成仏は迅速である。

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