仏法雑談(第二部)
第五章 因縁果報の章
一、因果は空でありながら空ではない
因果には空でありながら空ではないという二面性があり、それはどの角度から見るかによる。空ではないという意味は、世俗諦の観点から見れば、因があれば必ず果があり、因果はすべて世俗の相であるということである。例えば、善業が因であり、この因があれば必ず善果がある。悪業も同様で、悪業が因であり、この因があれば必ず悪果がある。不善不悪の業が因であり、この世俗法相の因があれば、必ず世俗法相の不善不悪の果がある。因あれば必ず果あり、世俗法相は歴然として存在する。これが因果が空ではないという意味である。
一方、勝義諦における諸法実相と諸法空相の観点から見れば、善悪の業因も不善不悪の業因も、すべて如来蔵が変現し執持するものであり、生滅変異するものであって、その本質は空である。善悪の果報も不善不悪の果報も、すべて如来蔵が変現し執持するものであり、生滅変異するものであって、その本質もまた空である。もし業因が空でなければ、永遠に業因が存在することになり、衆生はいつ解脱できるだろうか。もし業果が空でなければ、衆生は永遠に業果の報いを受けることになり、果報はいつ終わるだろうか。衆生の果報が終わらなければ、いつ解脱し成仏できるだろうか。生滅変異するものは空であり、不生滅不変異のものは空ではない。世俗法相はすべて生滅変異するものであるから、すべて空なのである。
もし不生滅不変異のものが空でないということが因果が空でない原因であるならば、この不生滅不変異の法こそが本心如来蔵である。如来蔵以外に、もし不生滅不変異の法があるならば、その法が何であれ、それは空ではない。しかし、如来蔵以外に、実際に不生滅不変異の法を見出すことはできない。見出せるものはすべて、如来蔵本体に関わる如来蔵の体性である。不生滅不変異の如来蔵は、世俗諦の因を現起することもできれば、世俗諦の果を現起することもできる。如来蔵が空でなければ、因果は必ず存在する。したがって、如来蔵こそが因果の因である。如来蔵が空でなければ因果も空でなく、如来蔵が空であれば因果も空となる。
甚深なる唯識の観点から見れば、世俗諦の因は如来蔵の七大種子が変現したものであり、本質は依然として如来蔵の属性である。世俗諦の果も同様に如来蔵の七大種子が変現したものであり、本質は依然として如来蔵の属性である。したがって、世俗諦の全体が如来蔵の属性であり、如来蔵に帰属する。世俗諦の上に如来蔵の姿を見るべきである。
二、因縁果報もまた幻化して実体がない
衆生の因縁果報はどこに現れるのか。五陰の身に現れ、色受想行識に現れ、十八界に現れる。五陰の身は幻化したものであり、十八界は幻化したものであり、宇宙器世界は幻化したものであり、一切の人・事・物・理はすべて幻化したものである。因縁果報が依存する体がすべて幻化したものであるならば、それ自体もまた幻化して実体がなく、因縁によって生じ因縁によって滅する。種子は五陰の身が造作して落謝したものであり、五陰の身が虚妄で無常であるから、因縁果報も虚妄で無常である。
したがって、一切の因果もまた幻化したものであり、如来蔵以外のすべては幻化によって現れたものであって、如来蔵が業種と様々な因縁に依って幻化したものであり、実法ではない。例えば、衆生が造作する善悪の業と受ける善悪の報いは、すべてこれらの世間の虚妄法の上で造作し受報するのであり、五陰世間が虚妄であるから、これらの業行と果報も当然虚妄である。
例えば、今世でこの世間の国王となったり、天に昇って天主となったりするが、国王や天主の五陰身は幻化したものであり、宮殿や玉座は幻化したものであり、生存する宇宙器世間は幻化したものであり、錦衣玉食は幻化したものであり、すべての宰官大臣や側近の侍従は幻化したものであり、国王や天主の一切は幻化したものである。また、例えば人を殺したり殺されたりするこれらの果報は、すべて五陰が造作し承受するものであり、これらの悪報はどこから来るのか。すべて如来蔵が業種と因縁に依って幻化したものであり、五陰の身に現れる。善悪の業報を受けて苦楽などの覚受が生じるが、これらの受もまた如来蔵が幻化したものであり、すべて生滅変異し無常である。そうであるならば、一切の因縁果報は我ではなく、我の所有するものでもない。これを無我無一切法という。
一切の法が幻化して実体がないと知れば、攀縁を減らし、造作を減らし、用心を減らし、できるだけ心を空にすべきである。なぜなら、いかに造作しても空であり、無意味であり、すべて生滅法であって、得るものも失うものもないからである。どうして心を休め省みないことがあろうか。ある者は、すべて空であるならば、どうして多く造作しないことがあろうか、悪業を造っても空であるならば、悪業を造ることを忌憚する必要はない、と言う。しかし、もし悪業を造作すれば、心は空でなくなる。心が空でない時に悪報を受けると、それは極めて苦悩に満ちたものであり、その時には苦受も空じることができず、生不如死の苦しみを味わうことになる。誰もこれを望まない。したがって、心が空であれば悪業を造らず、一切の操作を減らせば心は次第に清浄になり、次第に空になる。これによって初めて苦を了え解脱を得るのである。
三、衆生は多く不善の業を造ることに慣れている
多くの人々は毎日精進して法義を学び、兢兢業業と言えるが、たまに仏・法・僧の三宝を誹謗する言論に出会うと、それを賞賛してしまう。この一つの賞賛が、自らが修行してきた大部分の福徳と功徳を破壊してしまう。そのため、いかに精進しても進歩が大きくならない。無明は修道を深刻に遮障する。自らの無明を懺悔する方法を考えなければ、最後には善業が大きいか悪業が大きいか、一概には言えない。なぜそれほど多くの人々が自らの無明が甚だ重いことを知らないのか。なぜ自らが無智であることを知らず、仏法の肝心な部分で無知無智の見解を発表せざるを得ないのか。このような修行の最後の結果は何か、どうして考えようとしないのか。悪業とは何か。三宝を誹謗することは悪の中の悪であり、これ以上に悪いものがあるだろうか。むしろ殺生などの悪業を造ったほうが、果報はまだ小さい。
悪業を造ることは容易である。一言で悪業は成就し、一文字で大悪業が成就し、一つの表情や記号で悪業が造られる。これが何か不都合か、どんな悪果があるかを感じる者はほとんどいない。悪報を受ける時になっても、何が原因でこのような果報を得たか全く連想せず、悪果の源を思考分析しようとせず、ましてや造った不善の身口意行を懺悔しようともしない。多くの人々は、どのような身口意行が善であり、どのような身口意行が悪であるかさえ知らない。一般的に、自らの内心の無明煩悩に随順し、自らの不善心所に逆らうことは決してなく、自らの煩悩習気を露わにし、発散させるに任せている。
大多数の人の覚悟性は非常に低く、自らの心行に気づかず、反観する能力がなく、反観しようともせず、ただひたすら随順し、自らの欠点を庇うだけである。このように随順した結果は何か。結果として、誰もが苦悩と苦痛を持ち、障害があり、思い通りにならず、命終には三悪道に堕ちて極大の苦しみを受ける。三悪道から出た後も依然として覚悟せず、悪性循環が止まず、六道輪廻が止まらない。
善業を造ることも実は容易である。一言で善業を成就し、一文字で善業を成就し、一つの表情や記号で善業を成就することさえできる。しかし、多くの人々はこのような善業を行うことを軽んじる。なぜなら、そのような習慣がないからである。毎日、不善心所が善心所の現行よりも大きく、多い。したがって、誰もが悪業が善業よりも大きく、多い。そのため、多くの人々が仏を信じ仏法を学んでいるにもかかわらず、命終には依然として三悪道に堕ちて苦しみを受け、人身を保証できず、三悪道に行く割合は90パーセント以上、あるいはそれ以上である。
四、鬼道衆生となる根本因
鬼の特徴は貪吝である。したがって、貪吝の心を持つ者は、命終には必ず鬼道に生まれる。何を貪ろうと関係ない。貪の範囲は非常に広く、衆生は金銭や財物の面だけでなく、五陰世間において何らかの法に対して貪ることはすべて貪であり、大衆が正常だと思う身口意行さえ貪であり、鬼となる因である。
餓鬼と悪鬼はどちらも鬼道衆生に属する。餓鬼の心性は非常に貪で吝嗇であるため、何も所有せず、非常に貧困で、飲食を口にできず、水を飲めない。水に近づけば水は火に変わり、非常に苦悩する。悪鬼の心性は悪であり、しばしば現れて他の衆生、人間を含めて害をなす。鬼道衆生の大多数は鬼と呼ばれ、普通の鬼であり、餓鬼や悪鬼とは区別される。
ある老婦人は生きている時、よく庭にいる三人の老人と麻雀をしていた。三人の老人は相次いで亡くなり、最後に老婦人も亡くなった。彼女が鬼道に生まれ変わってしばらくすると、娘に夢枕に立ち、麻雀牌一式を欲しいと告げた。娘は紙で作った麻雀牌一式を焼いて供えた。その後、夢枕で娘に、亡くなった三人の老人とまだ麻雀をしていると告げた。彼らは比較的福のある鬼であり、生前に大した悪業を造らず、ただ遊び好きであっただけである。死後、鬼道で遊び続けている。生前に音楽や美術などの芸術をやっていた人々は、死後鬼となり、その後仏教を信じると、仏教徒に憑依して寺院に行き、福を修め功徳を積む。芸術をやる人々も貪であり、芸術に執着し情を持ち、貪執して捨てない。死後は鬼となり、琴棋書画などを好むことはすべて貪に属する。過去の文人墨客、詩人、作家、随筆家などは、大多数が死後鬼となった。すべて貪の習気を持っている。何かを好めばそれに束縛され、解脱できない。
もう一つ深刻な貪は、色を貪り愛を貪り感情を貪ることである。死後は多情鬼や色鬼となる。多くの人々は情を当然誰もが持つべきものとし、他人に情を抱くことを誇りに思い、むしろ多情な人を賞賛し、愛情や感情などを賞賛する。実は情は最も深刻な貪であり、生死輪廻の主因でもある。仏陀は『楞厳経』で、情が重ければ必ず三悪道に堕ちると教えている。九情一想は水輪に沈み、つまり地獄である。七情三想は鬼道に生まれる。情想均等であれば人間に生まれる。情少想多であれば心は飛翔し、天上に生まれる。想は理性を代表し、心の思いが軽ければ高く飛翔し、善道に生まれる。情は重く濁っており、心の思いが重ければ必ず三悪道に堕ちる。
情は、人間界の法律や道徳の観点から見れば、理に適っているかどうかに関わらず、結果の因果から言えば理に適っておらず、あるべきではない。情とは貪愛である。貪があれば水があり、水があれば必ず下流する。多くの人々は感情を持つと、詩を吟じ絵を描いて自らの感情を発達させ、とても美しく誠実で、ロマンチックだと思い、多情は善であると考える。実際には多情は善ではなく、人を害し自らを害し、共に三途に堕ち、輪廻の苦しみを受け、多情の苦しみを受ける。多くの苦受は、情執があるからこそ感応するのであり、情がなければ執もなく、苦受もなくなる。
正当な感情でさえ悪報と苦報があるならば、不当な感情、生じるべきでない感情、他人の利益を損なう感情、不道徳な感情、他人が反感を持つ感情は、さらに悪報と苦報がある。いわゆる正当とは、法律が許容し保護し、道徳規範も許容することを指す。不当とはその逆で、法律が許容せず保護せず、道徳規範も非難し許容しないことを指す。
私たちは仏教を学んだ後、自らの心を多く見守り、降伏できる貪愛や情執はできるだけ降伏し、抑制できるものはできるだけ抑制すべきである。何しろ貪愛は善法ではなく、悪法であり、煩悩に属するからである。多くの人々は、多く人と縁を結べば後世に度脱できると考え、異性と頻繁に付き合い、不当な感情が生じても抑制せず、その発展に任せ、これで善縁を結び、互いに度脱できると思う。実際には、自らが一大劫の間に異性を度脱する能力があるとは限らず、感情のもつれは自他を悪道に堕として多劫の苦しみを受けさせ、何劫も悪道から出た後も依然として異性を度脱する能力はない。なぜなら貪愛煩悩を断じていないからであり、必ず貪愛によって悪道に堕ちる。衆生を度す心は善であるが、理を明らかにし法を理解しなければならない。そうでなければ善は悪に変わり、衆生を度せないだけでなく、衆生に度されてしまい、得るものより失うものが大きい。これを口実にする者はなおさら、崖っぷちで手綱を引き締めるべきである。因果は決して誰も見逃さない。
まとめると、娑婆世界では、いかなる法、いかなる境界に対しても貪愛を起こし、心喜び、歓喜し、粘着し、捨てることを肯んじなければ、すべて貪に属する。したがって、貪は一般的に鬼道に堕ちて業果を償うことになる。因果は虚ろではなく、因あれば必ず果がある。
五、獄卒と閻魔王に果報はあるか
問:万事にはすべて因縁果報がある。では、地獄で毎日刑を執行し刑罰を司る鬼卒はどんな果報を受けるのか。森羅殿で裁判し刑罰を司る閻魔王はどんな果報を受けるのか。
答:地獄の獄卒や閻魔などは、すべて衆生の悪業が感応したものであり、自らの悪心が現した幻影である。地獄業のない者は地獄に行っても獄卒を見ず、獄卒の罰を受けることはない。悪業のない者は閻魔王の裁判に遭うことはない。ある衆生が獄卒や閻魔などになるのは、彼ら自身の業力によるのであり、これは正業ではない。因果と正義を伸張し、一定の意義はあるが、悪をなす衆生は喜ばず、縁は不善である。もし衆生に罪業を悔い改めさせ、心を改めることを誓わせることができれば、初めて衆生と善縁を結ぶことができる。したがって、表面上の善悪は、実質は必ずしもそうではない。
また、例えば人間界の刑務所の看守が囚人を管理することに罪があるか。『瑜伽師地論』では、看守は正業ではないと述べている。このような問題は、数言で説明できるものではない。因果の問題は非常に複雑な問題であり、人がどのような仕事をするかも業力によって決定される。いかなる衆生と関わる仕事においても、善業と悪業が存在し、すべて当事者が如何に正しく処理するかによる。教師の職業は非常に良く、衆生を度すことでもあるが、少なからぬ者が悪業を造作している。経典を講じ法を説くことは衆生を度す事業であるが、多くの説法者が地獄業を造作している。医者が病気を治し人を救う、この職業は良いか。これも必ずしもそうではない。病人はなぜ病気なのか。ほとんどが業果の報いであり、果報に過ぎない。この果報は受けるべきものであり、実際にはかつて傷つけた衆生が追いかけ債権を請求している場合もある。しかし医者は因果の報いを遮断し、債権者が望むものを得られなくするため、医者は一定の因果を背負うことになる。
出家僧侶が居士のために超拔(ちょうばつ:苦しみからの救済)や超度(ちょうど:成仏への導き)を行うことも同様で、善悪は必ずしも一定ではない。例えば前世に甲が乙を殴り殺した。今世、乙が債権を請求しに来て甲を殺そうとする。そこで甲を救うと、乙は債権を請求できず、復讐もできない。これは乙にとって公平ではなく、乙は逆に復讐するかもしれない。超度の際に乙も一緒に超度することもできるが、乙が超度されたくない場合、甲に悪報を受けさせたいと望むならば、超拔や超度は因果に干渉することになる。例えば甲が乙に千万元の借りがある。乙が甲に債権を請求するのを、あなたが干渉して乙に債権を請求させなければ、乙の千万元に利息はどうなるのか。乙はあなたに請求するだろうか。もし自分の父母や親族のために超拔や超度を行うならば、これは自分の本分であり、恩に報いる行為である。自分の父母や親族のために業障を背負うことは当然のことであり、自分に恩のある人のために業障を背負うことも当然のことである。
表面上の善が、実際に善であるか、善果があるかは、一般の人は天眼で見て証得できない。仏経の記述では、超拔や超度の事例はただ一つ、すなわち仏陀がすべての出家者の力を合わせて、地獄にいる大目健連の実の母親を超度した例だけである。第二の例はない。仏経には、諸仏菩薩や阿羅漢辟支仏が衆生のために超拔や超度を行ったこと、出家僧侶が衆生のために超拔や超度を行ったことは一切記されていない。過去の僧団にはこのようなことは決してなかった。過去の寺院では、出家者は非常に多かったが、集まって居士のために超拔や超度のために打ち鳴らし唱えるようなことは決してなく、仏の戒律も許さなかった。当時の出家者は個人の修行が主であり、弘法の能力がある者は法を説くことができたが、それ以外のことは一切行えず、特に金銭などの世俗的利益に関わることはなおさら許されなかった。
六、臨命終時の覚受
『楞厳経』は、一切の世間の生死相続は、生は順習に従い、死は変流に従うと述べる。臨命終時、未だ暖触を捨てず、一生の善悪が同時に頓現する。死は逆、生は順、二つの習気が相交わる。ここで言う臨命終時未だ暖触を捨てずとは、臨は近づいてまだ過ぎ去っていないという意味で、まだ死亡していないことを意味する。まだ死亡していない以上、少なくとも意識と意根は存在する。仏陀が未だ暖触を捨てずと言うのは、まだ暖触があり、暖触の覚受があり、身識も存在することを意味する。この時、四大はまだ分解しておらず、あるいは分解し始めたばかりで、色身の一切の覚受は存在し、すべて感知でき、六識はすべてまだ滅していない。この時、どのような感覚か。仏陀は衆生の四大分解を生きた亀の甲羅を剥ぐようだと喩えている。どれほど苦しく痛むことか。
この時に感知があり、意識は滅しておらず、独頭意識も現前しうる。独頭意識はこの時何をするのか。専ら如来蔵が発する情報を受け取り、如来蔵がこの生涯に造作した一切の善悪の業行をすべて報告する。映画を流すように、しかも高速で再生し、極めて速い速度で、一瞬で再生し終わる。如来蔵が導き出す速度は極めて速い。意識にとっては高速で回想するようであり、独頭意識が何かを考える余地もなく、ただ受け取るだけである。そして意識は直ちに、自らがこれらの業行に従ってどこへ向かうかを理解し、知る。しかし、すでに周囲の人に伝えることはできない。
臨命終時、意識は多少ぼんやりしているが、如来蔵が無理に押し付ける映像の内容に対しては、依然として非常に鮮明に了別し、はっきりと認識できる。さらに自らがどの道で報いを受けるか判断することもでき、誰かに因果応報の理を説明してもらう必要は全くない。
臨命終時、意識と意根は後世の果報を受け入れざるを得ない。これが業力であり、一生の業行の力である。意識も意根も抵抗を許されず、両者とも業力の配分と召喚に従わざるを得ず、怨言はない。中陰身で閻魔大王の裁判を受けても、弁解したり苦情を言ったり冤罪を叫んだりしない。なぜか。事実がそこにあり、誰もがはっきりと見えるからである。閻魔大王が調査や証拠集めをする必要はない。事実の前で、何を言うことがあろうか。素直に閻魔大王の配分に従い、運命の配分に従う。運命はどのように形成されるのか。命は我が造る。自ら造った業は当然自らが受ける。そうでなければどうするのか。誰が代わって受けるのか。実の父母や実の息子でも代わって受けることはできず、各人の業は各人が受け、誰も代われない。
人に知られないようにするには、自ら行わないことである。一生の間に造った大小の業行を、如来蔵は事細かく記録している。他の如来蔵もすべて知っており、他人の意識が神通を得た時、他人は自らが行い考えたことを完全に知ることができる。誰にも隠せず、悪事は決して天を欺き海を渡ることはできない。果報のことは自然であり、誰をも怨むことはできない。地獄や三悪道も自らの如来蔵が自らの悪業に基づいて変造するものであり、他人とは関係ない。他人が自らに地獄を変造することはできない。したがって、自らの運命は完全に自らが責任を負い、他人は代わって受けない。人は利己的であるならば、自らに責任を持ち、自らにできるだけ良くし、自らのためにいささかな悪業も造らないことである。このような利己主義は、仏も賛成する。これは智者(ちしゃ)の利己主義である。
悪報の苦しみを避けるために、自らの身口意行を厳しく見守るべきである。身行の面では、いかなる者も損害したり侵害したりしない。口行の面では、聞き苦しい言葉、言うべきでない言葉、人を傷つける言葉、他人の利益を侵害する言葉、特に三宝を誹謗する言葉は言わない。口に出すと表面上は人を傷つけるが、実質は自らを傷つけ、千万倍無数倍の果報となり、その時は特に耐え難い。一言で完全に地獄に堕ち無量劫の苦しみを受ける。果報はそういうものである。意行の面では貪瞋痴を持たず、思想は清浄で純粋であるべきである。これらの因果法則は仏陀が制定し創造したものではなく、菩薩や護法神が制定し創造したものでもなく、ましてや自らの怨親債主(怨みを持つ親族や債権者)や死対頭(宿敵)が制定し創造したものでもない。すべて自らの如来蔵のなせる業である。もし怨むならば、如来蔵を怨むがよい。如来蔵があなたの怨みを聞くかどうか。
悪業を造ることを敢えてする者、悪業を造ることを気にしない者、簡単に悪業を造る者は、すべて無智の愚痴な者である。愚痴であればあるほど大胆になる。愚痴は結果を考えず、結果を知らず、果報を恐れず、それほど考慮することもできず、ただ自らの無明煩悩に従うことで心が安らぐ。悪業を造るのは自らの一時の快適さや暢快さのためであり、後々どれほど不快で暢快でなくなるかは考えない。知力が足りず、定力が足りなければ、これらを管理できず、発散させて暢快であればよい。因果を説くと、煩悩の重い者は聞きたがらず、作り話だ、人を脅かすだけだと言う。仏経に記述されたすべての真実の因果事件を信じようとしない。しかし信じないにせよ、果報はやはり現れる。信じようと信じまいと関係ない。
七、重罪軽報の原理
後世の罪業を今世で受けることは、すべて重罪軽報に属する。修行が良ければ良いほど、罪業は早く受ける。業の利息が少なく、非常に得である。今世で交通事故に遭えば、こう考えよ:良かった、後世で地獄の報いを受けずに済む、あるいは突然夭折したり短命になったりせずに済む。もし誰かがあなたに意地悪をしたり、冤罪を着せたり、殴ったり罵ったりすれば、こう考えるべきである:この人は私に本当に良くしてくれた、これで後世に癌などの大病にかからずに済む、交通事故などの事故に遭わずに済む、それらの罪業はこうして消えてしまった、なんと得か。
修行が感応する小さな挫折は、後世の大きな挫折を避ける。今世の修行が感応する大きな挫折は、後世のさらに大きな挫折や危難、病苦、死亡、三悪道の報いなどを避ける。非常に得である。したがって、いかなる状況でも、どうか引き続き努力して道を修めよ。