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仏法雑談(第二部)

作者: 釋生如 カテゴリ: 総説 更新時間: 2026年04月11日 閲覧数: 8885
<h2 style="text-indent: 2em;">第五章 因縁果報篇</h2><h3 style="text-indent: 2em;">一、因果は空でもあり空でもない</h3>

因果には空でもあり空でもないという二面性があり、それはどの角度から見るかによる。空でないという意味は、世俗諦の角度から見れば、因があれば必ず果があり、因果はいずれも世俗の相であるということである。例えば一つの善業は因であり、この因があれば必ず善果がある。悪業も同様で、悪業は因であり、この因があれば必ず悪果がある。不善不悪の業は因であり、この世俗法相の因があれば、必ず世俗法相の不善不悪の果がある。因があれば必ず果があり、世俗法相は歴然として存在する。これが因果不空の意味である。

一方、勝義諦の諸法実相と諸法空相という角度から見れば、善悪業の因も不善不悪の業因も、いずれも如来蔵 (tathāgatagarbha) が変現し執持したものであり、生滅変異するものであり、その本質は空である。善悪の果報も不善不悪の果報もいずれも如来蔵が変現し執持したものであり、生滅変異するものであり、本質もまた空である。もし業因が空でないなら、永遠に業因があり続けることになり、衆生はいつ解脱できるのか。もし業果が空でないなら、衆生は永遠に業の果報を受け続けることになり、果報はいつ終わるのか。衆生の果報が終わらなければ、いつ解脱して成仏できるのか。生滅変異するものはすなわち空であり、生滅変異しないものはすなわち空でない。世俗法相はすべて生滅変異するものであるから、すべて空である。

もし生滅変異しないものはすなわち空でなく、これが因果不空の原因であると言うなら、この生滅変異しない法こそ本心如来蔵である。如来蔵以外に、もし生滅変異しない法がまだあるならば、その法が何であれ、それは空でない。しかし如来蔵以外には、本当に生滅変異しない法は見出せない。見出せるものはすべて如来蔵の本体に関わる如来蔵の体性である。生滅変異しない如来蔵は、世俗諦の因を現起させることもでき、世俗諦の果を現起させることもできる。如来蔵が空でなければ、因果は必ずある。ゆえに如来蔵は因果の因であり、如来蔵が空でなければ因果も空でなく、如来蔵が空なら因果は空である。

甚深な唯識の角度から見れば、世俗諦の因は如来蔵の七大種子が変現したものであり、その本質はやはり如来蔵の属性であり、世俗諦の果も同様に如来蔵の七大種子が変現したものであり、本質は依然として如来蔵の属性である。ゆえに世俗諦の全体は如来蔵の属性であり、如来蔵に帰属するものであり、世俗諦から如来蔵の姿を見出すべきである。

<h3 style="text-indent: 2em;">二、因縁果報もまた幻化で実在しない</h3>

衆生の因縁果報はどこに現れるのか。五陰 (pañca-skandha) の身に現れ、色受想行識に現れ、十八界に現れる。五陰の身は幻化であり、十八界は幻化であり、宇宙の器世界は幻化であり、一切の人・事・物理はすべて幻化である。因縁果報が依拠する体がすべて幻化である以上、それ自体もまた幻化で実在しないものであり、因縁が生じ因縁が滅する。種子は五陰の身が造作して落謝したものであり、五陰の身は虚妄無常であるから、因縁果報も虚妄無常である。

ゆえに一切の因果もまた幻化であり、如来蔵のほかの一切はすべて幻化されたものであり、如来蔵が業種と種々の因縁に依って幻化したものであって、いずれも実法ではない。例えば衆生が造作した善悪業と受ける善悪報は、いずれもこれら世間の虚妄法の上で造作し受報するものであり、五陰世間が虚妄である以上、これらの業行と果報も当然虚妄である。

例えば今世この世間で国王になったり、天上に生まれて天主になったりする。国王や天主の五陰の身は幻化であり、宮殿や宝座は幻化であり、生存する宇宙の器世間は幻化であり、綾錦の衣や美食は幻化であり、すべての宰官大臣や身辺の侍従も幻化であり、国王と天主の一切は幻化である。また例えば人を殺すことや殺されること、これらの果報はいずれも五陰が造作し承受するものである。これらの悪報はどこから来るのか。いずれも如来蔵が業種と因縁に基づいて幻化したものであり、すべて五陰の身に現れる。善悪の業報を受けて苦楽などの覚受が生じるが、これらの受も如来蔵が幻化したものであり、いずれも生滅変異無常である。それならば、一切の因縁果報は我ではなく、我所有のものでもない。これを無我無一切法と称する。

一切の法が幻化で実在しないと知れば、攀縁を減らし、造作を減らし、用心を減らし、できるだけ心を空にすべきである。なぜなら、どんなに造作してもそれは空であり、無意味であり、生滅法であり、得るものも失うものもないのだから、どうして心を休めて気を楽にしないのか。ある人は、すべて空なのだから、なおさら多く造作すればよいではないか、私が悪業を造っても空なのだから、悪業を造るのを憚る必要はない、と言う。しかし悪業を造作すれば、心は空にはなれない。心が空でないまま悪報を受ける時は極めて苦悩であり、その時になって苦受も空にできず、生きるより死んだほうがましという苦しみに苛まれる。そんなことを望む者はいない。ゆえに心が空であれば悪業を造ることはなく、一切の操作を減らせば心は次第に清浄 (viśuddha/pariśuddha) になり、次第に空になっていく。これこそが苦を了して解脱を得る道である。

<h3 style="text-indent: 2em;">三、仏法を謗る者が解脱を得られない原因</h3>

仏教界のある一グループでは、専ら小乗法を信じ、専ら解脱道を修めながら、大乗法を信じず、如来蔵の存在を信じず、意根の存在を信じていない。実は六識しか認めない六識論者であり、大乗法は仏の説いたものではないと謗り、大乗の祖師菩薩を否定している。これは仏と法を謗るだけでなく僧をも謗っており、三宝すべてを謗っている。三宝を謗った者は、仏法においては罪人であり、罪人には罪報があり、因果は昭然としていて、寸毫も違わない。もし懺悔して罪業を消さなければ、仏法上の殊勝な利益を得られず、すなわち解脱を得られない。もし三宝を謗っても我見 (satkāya-dṛṣṭi) を断じて解脱を得られるなら、それは世間に因なく果なし、あるいは因あって果なしということを示すことになる。しかし因果はかつて欠席したことがなく、善悪の果報はかつて機能しなかったことがない。

もし如来蔵の存在を認めないなら、阿羅漢が涅槃に入ることは断滅空 (uccheda-śūnyatā) となり、外道と異ならなくなる。小を回して大に向かうそれらの阿羅漢は、無余涅槃 (Anupadhiśeṣa-nirvāṇa) の中で大乗の因縁が成熟した時、人間に受生して大乗を修学し続けようとするが、どのように五蘊の身を得るのか。五蘊の身を得られなければ、一切の阿羅漢は定性阿羅漢となり、不定性阿羅漢はなく、回小向大の阿羅漢もいなくなる。そうすると、世尊が阿羅漢の涅槃入りの前に、特別に阿羅漢のために説いた大乗法は、無用の功となってしまうのではないか。しかし世尊のあの無量の大智慧は、かつて功の唐捐(むだ)になったことがなく、説かれた言葉と心願は必ず行となるのである。

もし意根の存在を認めず、意根は意識であると言い、意根はないとするなら、五蘊十八界を観行 (vipaśyanā-caryā) する時に、六根のうち意根を観ることができず、五根しか観ることができず、十二処は観ることができず十一処しか観ることができず、十八界は観ることができず十七界しか観ることができない。このような欠けた不完全な観行では、意根は我であるという知見を断除できず、これではどうして我見 (satkāya-dṛṣṭi-prahāṇa) を断てるのか。意根は六根の一つであり、根の作用があり、識の作用もある。意根の存在を認めなければ、観行は中途半端に終わり、解脱を得ることはできない。

安々と四禅を修めたと言い、安々と四果を証したと言う人々の中には、どれほどの誤解があるのか。衆生は我慢が重すぎるため、自分を高く推し、自分を高く掲げることを好み、事実に即して自分を検査することも、事実に即して自分を評価することも決してしない。そこで天下がいわゆる聖人だらけになり、仏教を支離滅裂にし、朝綱を乱し、衆生をして依り所を失わせ、仏法の是非を真実に択ぶことができなくしている。末法時代、衆生の業障はこれほど重いのに、どこにそれほど多くの聖人が住世しているのか。智者に望む、三思し、慎んで考え、善く択べ、流れに随って漂うことなかれ。

<h3 style="text-indent: 2em;">四、衆生の多くは不善業を造ることに慣れている</h3>

多くの人が毎日精進して法義を学んでおり、兢兢業業と言えるほどだが、仏・法・僧三宝を謗る言論に出会った時に、たまに讃嘆してしまう。この一つの讃嘆が、自分の修行の大部分の福德と功徳を壊してしまい、どんなに精進しても進功が大きくならない。無明は修道をひどく遮障する。もし自分の無明を懺悔する方法を講じなければ、最後には善業が大きいのか悪業が大きいのか、言えなくなる。あれほど多くの人が、なぜ自分の無明が重いことを知らないのか。なぜ自分が無智であることを知らず、仏法の肝心な部分で自分の無知無智な見解を発表しなければならないのか。このような修行の最後の結果がどうなるのか、なぜ考えてみないのか。悪業とは何か。三宝を謗ることは悪中の悪であり、これより悪いものがあるだろうか。むしろ殺生の悪業を造ったほうが、果報はまだ小さいくらいである。

悪業を造るのはとても容易で、一言で悪業が成就し、一文字でさえ大悪業が成就し、一つの表情や一つの記号でさえ悪業が造られてしまう。こうしたことに何の不都合があるのか、どんな悪果があるのかと感じる人は多くない。悪報を受ける時になっても、何のためにこのような果報を得たのかと連想することも全くなく、悪果の来源を思考分析することもなく、まして過去に造った不善の身口意行を懺悔することもない。多くの人はそもそも、どのような身口意行が善なのか、どのような身口意行が悪なのかを知らず、一般には自分の内心の無明煩悩に随順し、自分の不善心所に逆らうことを決してせず、自分の煩悩習気が顕れ、放散するにまかせている。

大多数の人の覚りの資質は非常に悪く、自分の心行に対して知らず覚らず、反観力 (pratyavekṣā-bala) がなく、反観しようとも思わず、ただひたすら随順し庇うばかりである。このような随順の結果は何か。結果は、誰もが苦悩と苦痛を持ち、障害があり、思いどおりにならず、命終には三悪道に行って極大の苦を受け、三悪道から出てきてもなお覚めず、悪循環がやまず、六道を輪転し続けるということである。

善業を造るのも実はとても容易で、一言で一つの善業が成就し、一文字でも一つの善業が成就し、一つの表情や一つの記号でも一つの善業が成就する。しかし多くの人はこのような善業を造ることをしない。そのような習慣がないからである。毎日、不善心所が善心所より大きく、多く現行する。ゆえに誰もが悪業が善業より大きく多く、だからこそ、多くの人が仏を信じ仏を学んでも、命終にはなお三悪道に行って苦を受け、人身を保証できず、三悪道に行く割合は九割以上、さらにはそれ以上である。

<h3 style="text-indent: 2em;">五、鬼道衆生となる根本因</h3>

鬼の特徴は貪吝である。ゆえに貪吝の心がある人は、命終には必ず鬼道に生じる。何を貪吝するかを問わない。貪の範囲は広すぎる。衆生は金銭や財物の面だけでなく、五陰世間においてどんな法に対して貪っても、それは貪であり、大衆がごく正常だと考える身口意行でさえ貪であり、鬼となる因である。

餓鬼と悪鬼はいずれも鬼道衆生に属する。餓鬼の心性は非常に貪欲で吝嗇であるから、何一つ持たず、非常に貧困で、飲食にありつけず、水を飲めない。水に近づけば、水は火に変わり、非常に苦悩する。悪鬼の心性は悪であり、しばしば出てきて他の衆生を禍害する。人類も含まれる。鬼道衆生の大多数は鬼と呼ばれ、普通の鬼であり、餓鬼や悪鬼と区別される。

あるおばあさんは生きている時に、庭の三人の老人とよく麻雀を打っていた。三人の老人が相次いで死に、最後におばあさんも死んだ。彼女は鬼道に生まれてしばらくした後、娘の夢に現れて麻雀一式を求めた。娘が紙の麻雀一式を焼いて送ると、後にまた夢で娘に、今も死んだ三人の老人と麻雀を打っていると告げたという。彼らはまだ比較的福のある鬼で、生前大きな悪業を造っておらず、ただ遊び好きだっただけで、死後も鬼道で遊び続けているのである。生前音楽・美術・芸術をやっていた人は、死後に鬼となり、それから仏を信じるようになると、仏を信じる人の体に憑依して寺院に行き、福を修め功徳を積む。芸術をやっていたこうした人々も貪であり、芸術に対して執着し感情を持ち、貪執して手放さないので、死後には鬼となり、琴棋書画などを好むこともすべて貪に属する。過去の文人墨客、詩人、作家、随筆家などは、大多数が死後にも鬼となっており、いずれも貪の習気がある。何を好めば何に縛られ、解脱を得られないのである。

もう一種の深刻な貪は、色を貪り、愛を貪り、感情を貪ることであり、死後には多情鬼や色鬼となる。多くの人は情を誰もが当然持つべきものと考え、他人に対して情を生やすことを誇りに思い、多情な人を讃嘆し、愛情や感情などを讃嘆する。実は情こそ最も深刻な貪であり、生死輪回の主因でもある。仏陀は楞厳経の中で私たちに、情が重ければ必ず三悪道に下堕すると教えている。九情一想は水輪の下に沈み、これすなわち地獄。七情三想は鬼道に生まれる。情想が均等なら人間に生まれる。情少なく想多ければ、心は飛昇でき、天上に生まれる。想は理智を代表し、心が軽ければ高く飛昇し、善道に生まれる。情は重く濁ったものであり、心が重ければ必ず三悪道に下堕する。

情は人間の法律と道徳の角度から言えば、合理的か否かを問わず、後果と因果の上から言えば、いずれも不合理であり、あってはならないものである。情とは貪愛であり、貪があれば水があり、水があれば必ず下流する。多くの人は感情が生じると、詩を詠み絵を描いて自分の胸の内を抒発し、自分の感情を表現し、それを非常に美しく真摯でロマンチックだと考え、多情こそ善だと思う。実際には多情は不善であり、人を害し己を害して共に三途に堕し、輪回の苦を受け、多情の苦を受ける。多くの苦受は、情執があってこそ感召されたものであり、情がなければ執もなく、苦受も生じないのである。

正当な感情でさえ悪報と苦報があるのだから、不正当な感情、生じてはならない感情、他人の利益を損なう感情、不道徳な感情、他人が嫌悪する感情には、なおさら悪報と苦報がある。正当とは法律が許容し保護し、道徳規範も許容するものであり、不正当とはその逆で、法律が許容せず保護せず、道徳規範も非難し許容しないものである。

私たちは仏を学んでからは、自分の心を多く管理監督し、降伏できる貪愛と情執はできるだけ降伏し、抑制できるものはできるだけ抑制すべきである。貪愛は善法ではなく悪法であり、煩悩に属するのだから。多くの人が、人と多く縁を結べば後世に度せると思い込み、それで男女の別を顧みず異性と頻繁に付き合い、不正当な感情が生じても抑制せず、その発展にまかせ、これで善縁を結んだのであり、互いに度し合えると思っている。実は知らないのだ、自分には一大劫の内に異性を度す能力があるとは限らず、感情の絡み合いは自他を悪道に堕して多劫の苦受を受けさせ、何劫も悪道から出てきても、なお異性を度す能力がないことを。貪愛煩悩を断除していない以上、必ず貪愛によって悪道に堕ちるからである。衆生を度す心があるのは善であるが、理を明らめ法をわきまえることも必要であり、さもなければ善は悪に変わり、衆生を度せどころか、衆生に度されることになり、損して得なし。これを口実にする人々は、なおさら崖っぷちで手綱を引き締めるべきである。因果はかつて誰をも赦したことがない。

まとめると、娑婆世界においては、どんな一つの法、一つの境界に対してでも貪愛を起こし、心が喜び、歓喜し、粘着し、捨てようとしなければ、すべて貪に属する。それゆえ貪は一般に鬼道に堕ちて業果を酬いることになる。因果は虚しくなく、因があれば必ず果がある。

<h3 style="text-indent: 2em;">六、獄卒と閻魔王に果報はあるか</h3>

問:万事に因縁果報があるなら、地獄の中で毎日刑を行い刑を掌る鬼卒はどのような果報を得るのか。森羅殿で審判し刑を司る閻魔王はまたどのような果報を得るのか。 

答:地獄の獄卒や閻羅などは、いずれも衆生の悪業が感召したものであり、いずれも自分の悪心が現した幻影である。地獄業のない人が地獄に行っても獄卒は見えず、獄卒の懲罰を受けることもない。悪業のない人も、閻魔王に自分の審判を受けることに遭遇しない。ある衆生が獄卒や閻羅などになるのも、彼ら自身の業力によるのであって、これは一份の正業ではなく、因果と正義を伸張してはいるが一定の意義はあるものの、悪をなす衆生は喜ばず、縁は不善である。衆生に罪業を悔恨させ、洗心改革を誓わせることができてこそ、初めて衆生といくらかの善縁を結ぶ。ゆえに多くの表面的に見える善と悪は、実質的には必ずしも定まらない。 

また例えば人間の監獄の刑務官が囚人を管理するのは罪があるのか。瑜伽師地論の中で、刑務官は正業ではないと説かれている。このような問題は、数言で明らかにできるものではなく、因果の問題は非常に複雑な問題である。人がどのような仕事をするのも、やはり業力によって決定される。衆生と関わるいかなる仕事にも、善業と悪業が存在し、完全に当事者がいかに正しく処理するかによる。教師という職業は非常に良いものであり、これも衆生を度すことであるが、それでも悪業を造作する人が少なくない。経を講じ法を説くのは衆生を度す事業であるが、それでも地獄業を造作する講法の人が大勢いる。

医者として病を治し人を救う、この職業は良いのか。これもいずれも定まらない。病人はなぜ病気なのか。極大多数は業果の酬いであり、ただの果報である。この果報は受けるべきものであり、しかも実際には、かつて傷つけたことのある衆生が来て借財を追索しているのである。しかし医者は因果の酬いを断ち切り、債主が望む通りに得られないようにするので、医者は一定の因果を背負うことになる。

出家僧衆が居士たちのために超抜超度をすることも同様であり、善悪はいずれも定まらない。例えば前世で甲が乙を殴り殺し、今世乙が借財を討ちに来て、甲を殴り殺そうとする。そこであなたが甲を救い度すと、乙は借財を討ち取れず、仇を討つこともできなかった。これは乙にとって不公平であり、乙は逆に報復するかもしれない。超度の時についでに乙も超度できればよいが、乙は超度されたくなく、甲が悪報を受けることを望んでいるなら、超抜超度は因果に介入したことになる。例えば甲が乙に一千万元を借りており、乙が甲に借財を討ちに来た時、あなたがその間に介入して乙に借財を討たせなかったとする。乙のこの一千万元と利息はどうなるのか。彼はあなたに討ち求めるだろうか。自分の父母親族のために超抜と超度をするのは、自分の本分であり、恩に報いる行為であり、自分の父母親族のために業障を背負うのは当然のことであり、自分に恩のある人のために業障を背負うのも当然のことである。

表面の善が、実際に善なのかどうか、善果があるのかどうか、一般の人には開眼して見証することはできない。仏経の中の記載では、超抜超度のことはただ一件しかなく、それは仏陀がすべての出家者の力を合わせて、大目犍連の地獄の中の実の母を超度したことであり、二例目はない。仏経には、諸仏菩薩および阿羅漢・辟支仏が衆生のために超抜超度をしたという記載はかつてなく、出家僧衆が衆生のために超抜超度をしたという記載もなく、過去の僧団にはこのようなことは決してなかった。過去の寺院には出家者が非常に多くいたが、集まって敲打唱念し居士のために超抜超度をしたということは決してなく、仏の戒律も許さなかった。当時の出家衆は個人の修行を主とし、弘法の能力のある人は法を講じることができたが、その他のことはすべてしてはならず、特に金銭などの世俗の利益に関わることはなおさら許されなかった。

<h3 style="text-indent: 2em;">七、天賦はどのように現れるのか</h3>

世間のあらゆる業種、あらゆる分野には天賦が重んじられる。天賦とは何か。天賦を平易な言葉で言えば、上天が賦与したもののように見えるが、実は出生時に前世から持ち込んだものであり、熟練工であり、生まれつき少し熟しているのであり、接触した後、因縁が具足するにつれてますます熟練していく。それは前世の業種が生発したものであり、前世に業種を残していなければ、今世初めて接触しても、どんなに努力しても素人である。ゆえに天賦のある人も、みな長劫の生死輪回の中で、人道にいる時間が相対的に長く、人間のことを多く熏習し、人間の事に比較的熟しており、ある方面を多く熏習して種子を植えたので、後世にはある方面に天賦を持つことになる。ゆえに衆生が人道の中で多く徳を積み善を行い、多く福を修めれば、多く人道に生まれ、人間の業行種子を多く積めば、天賦のある人になる機会がある。

仏を学ぶという分野にはなおさら天賦という言い方がある。一生一世、短い数劫の時間では何も学び出せず、どう学んでも幼児クラスのようで、修行の門路に触れることもできない。しかし気落ちしさえしなければ、いつか必ず熟練工となり、老修行となり、生まれつき天賦を持ち、専門家となり、久修の菩薩となる。ほとんどすべての人がそうであり、六道輪回の中で出会う機縁が異なり、植えた種子が異なるため、仏を信じ仏を学ぶのに早い遅いがあり、その違いはただ時間差だけである。ゆえに他の衆生が一日も早く仏法の縁に出会えるように、先に仏を信じ仏を学んだ私たちは、まだ覚醒していない一切の衆生に多く回向 (pariṇāma) し、彼らに善因を植え付けるべきである。そうすれば彼らには将来仏法に出会う機縁があり、仏を信じ始め、信じる時間が長くなれば仏を学ぶようになる。このような心量のある人は、自分自身も速く成長し、多く人を顧みるほど、わかることが多くなり、自分自身が速く成熟し、知らず知らずのうちに菩薩の大人になっていくのである。

<h3 style="text-indent: 2em;">八、臨命終時の覚受</h3>

楞厳経に説かれる:一切世间生死相续,生从顺习,死从变流,临命终时,未舍暖触,一生善恶俱时顿现,死逆生顺,二习相交。ここに言う臨命終時未だ暖触を捨てず、とは、臨とは接近してはいるがまだ過ぎていないという意味であり、すなわちまだ死亡していないという意味である。死亡していない以上、少なくとも意識と意根が存在している。そして仏が未だ暖触を捨てずと言われるのは、すなわちまだ暖触があり、暖触の覚受があり、身識も存在しているということである。この時四大はまだ分解しておらず、あるいは分解し始めたばかりであり、色身の一切の覚受はすべて存在し、すべて感知でき、六識はいずれもまだ滅していない。この時はどのような感受なのか。仏は衆生の四大が分解する時は生きた亀の殻剥きのようだと喩えられるが、それはどれほどの苦痛と疼痛か。

この時に感知がある以上、意識は滅しておらず、独頭意識 (mano-vijñāna-eka-citta) も現前しうる。独頭意識はこの時何をするのか。専ら如来蔵が発する情報を受け取るのである。如来蔵は自分がこの一生に造作した一切の善悪業行を、すべて放送する。映画を上映するように、しかも高速の再生であり、極めて速い場面転換で、瞬時に再生し終える。如来蔵が導出する速度は極めて速い。意識にとっては高速の回想のようであり、独頭意識に何かを考える余裕はなく、受け取るだけでよい。そして意識はすぐに、自分がこれらの業行に従ってどこへ行くのかを明白にし、知るが、もう身近な人に告げることはできない。

臨命終時、意識はいくらか朦朧としているが、如来蔵が神様に押し付けてくる録画の内容に対して、なお非常に鮮明に了別することができ、はっきりと分かり、しかも自分がどの道に行って受報するのかを判断することもできる。誰かに因果報応の理を説いてもらう必要は、全くなくなるのである。

臨命終時、意識と意根は後世の果報を受け入れざるを得ない。これが業力であり、一生の業行の力であり、意識に反抗を許さず、意根にも反抗を許さない。両者とも業力の手配と呼びかけに従わなければならず、怨言はない。たとえ中陰身の中で閻魔大王の審判を受けても、弁明せず、苦情を訴えず、冤罪を叫ぶこともない。なぜか。事実がそこにあり、誰もがはっきりと見ることができ、閻魔大王が調査取证する必要がないからである。事実の前で、まだ何を言うことがあろうか。おとなしく閻魔大王の手配に服従し、運命の手配に服従する。運命はどのように形成されるのか。命は我が造るものであり、自分が造った業は、当然自分が受けなければならない。さもなければどうするのか。誰があなたに代わって受けるのか。実の父も実の母も実の息子もあなたに代わって受けることはできない。各人の業は各人が受け、誰も代わりにはなれない。

人に知られたくなければ、自分で為さなければよい。自分の一生の中で為した大小の業行を、如来蔵は事の大小を問わずすべて記録し、他の如来蔵もすべて知っており、意根は如来蔵に依って知ることができ、他人の意識が神通を得た時には、他人は自分の為したこと、思ったこと、考えたことを完全に知ることができる。誰も欺くことはできず、悪を為して全くごまかし通すことはできない。果報のことは自然の成り行きであり、誰をも恨むことはできない。地獄三悪道もまた自分の如来蔵が自分の悪業に基づいて変造したものであり、他人とは関係なく、他人は自分のために地獄を変造することはできない。ゆえに自分の運命は完全に自分自身が責任を負い、他人は代わりに受けない。人は利己的になるなら、自分自身に責任を負い、自分自身に対してできるだけよくし、自分のためにいかなるわずかな悪業も造作しないことである。このような利己主義は仏も賛成される。これは智者の利己主義である。

悪報を受けて苦しむことを避けるために、自分の身口意行は厳格に管理監督すべきである。身行の面では、いかなる人も損ない侵害しない。口行の面では、聞こえの悪い言葉、言うべきでない言葉、人を傷つける言葉、他人の利益を侵害する言葉、特に三宝を謗る言葉はすべて言ってはならない。口に出せば表面は人を傷つけるが、実は自分自身を傷つけるのであり、千万倍、無数倍の果報があり、その時になって非常に受け止めがたい。一言で完全に地獄に入って無量劫苦しむことができる。果報はこのようなものである。意行の面では、貪瞋痴があってはならず、思想は純潔で単純であるべきである。これらの因果法則は仏が制定し創造したものではなく、菩薩と護法神が制定し創造したものでもなく、まして自分の冤親債主や宿敵が制定し創造したものでもなく、すべて自分の如来蔵の所為である。もし恨みたいなら、如来蔵を恨みに行きなさい。如来蔵があなたの愚痴に耳を貸すかどうか見てごらん。

敢えて悪業を造作する人、悪業を造作することを意に介さない人、軽々しく悪業を造作する人は、いずれも無智の愚痴な人であり、愚痴であればあるほど度胸が大きくなる。愚痴な人は後果を顧みず、後果を知らず、果報を畏れず、それほど多くのことを考えることもできない。自分の無明煩悩に順従してこそ心が安らぐのであり、悪業を造るのは自分の一時の気持ちよさのためであり、後にどれほど気持ちが悪くなろうとも構わない。知力が足りず、定力が足りず、これらを管理することができず、発作してしまえば気持ちよければそれでよいのである。因果を語ると、煩悩の重い人は聞きたがらず、でっち上げだ、人を脅かすためのものだと言う。仏経に記述されたすべての真実の因果事件を信じようとしない。しかし信じないのは信じないで、果報はやはり現れる。あなたが信じようと信じまいと関係ない。

<h3 style="text-indent: 2em;">九、重罪軽報の原理</h3>

後世の罪業を今世に受けると、すべて重罪軽報に属する。修行がよいほど、罪業は早く受けられ、利息が少なく、非常に割に合う。今世もし交通事故を起こしたら、こう思うとよい:なんとよいことか、後世は地獄に堕ちて果報を受ける必要がなくなる、あるいは突然夭折する必要がなく、短命にならずに済む。もし誰かに意地悪をされたり、冤罪を着せられたり、殴られたり罵られたりしたら、こう考えるべきである:この人は私に本当によくしてくれる、これからはガンのような大病にかからず、交通事故などの事故に遭わずに済み、あの罪業はこうして消費された、なんと割に合うことか。

修行が感召した小さな挫折は、後世の大きな挫折を避けることができる。今世の修行が感召した大きな挫折は、後世のさらに大きな挫折や危難、病苦、死亡、三悪道の報などを避けることができ、非常に割に合う。ゆえにどうであれ、どうか引き続き努力して道を修めてほしい。

<h3 style="text-indent: 2em;">十、花報と果報</h3>

花は未成熟の果であり、結果する前の状態であり、当然、果ほどの栄養価はない。果は花の昇華と結晶であり、栄養価は花より高い。仏教ではしばしば花果をもって善悪業報を比喻し区分する。善悪業報は花報 (puṣpa-phala/dṛṣṭa-dharma-vedanīya-karma) と果報に分けられる。花報とは現世に受ける報いを指し、果報とは未来世に業縁が成熟して受ける報いである。一つの業行に、花報があれば果報もあり、花報がなくても果報はある。花報が大きければ果報は小さく、花報がなければ果報は最大である。

報いは酒造りのようで、長いほど醇厚であり、銀行預金のようで、長いほど利息が高く、報いが豊かになる。善業にとっては、善業を造作する人が貧しいなら、できるだけ早く花報を得たいと望み、早ければ早いほどよく、目の前で享受できる。福德が足りないので、急いで報いを必要とするのである。ある人は無知のためであったり、あるいは善業を造る時に何かを求める心を抱いており、目先の利益を得たいと考え、花報のみを求める。すると花報を得た後には、未来世の果報があるかもしれないが、非常に微小かもしれない。

悪業を造作する人にとっては、花報が早く大きいほど、果報は遅く小さい。もしこの人に良知があり理を明らめれば、進んで花報を受け入れ、できるだけ早く悪業の影響を消して、後世の果報の苦を免れようとする。無知で因果を信じない者だけが、あれこれと花報を避け、侥幸の心を抱いて悪業を隠す。もちろん、善業が非常に大きければ、自然に花報が現れるように感召され、人の求めは要らず、後世の果報も大きい。悪業が非常に大きければ、同様に花報が現れるように感召され、避けても無駄である。善悪はいずれも自然に報いがあり、時節因縁さえ具足すればよい。

<h3 style="text-indent: 2em;">十一、超度で金を稼ぎ利を図るとどのような果報を得るか</h3>

まず明らかにしなければならないのは、このような金儲けの方式が公平で正当な取引であるかどうかである。もしそうでなければ、その性質は欺瞞あるいは詐欺である。ならば騙す行為と性質に従って罪を量り果報を評価する。公平で正当な取引とは何か。売り手と買い手がそれぞれ期待する利益あるいは利点を得るべきであり、もし一方だけが利益を得て、他方が何も得ないなら、不公平な取引である。

次に、この取引が正当であるかどうかを検討する。この件の正当・不正当は、多方面から衡量される。1、この人に超度を行う資格があるか。2、この人に超度を行う能力があるか。3、衆生を苦海から度し離れさせるのに、料金を取るべきか、料金の基準は何か。

上の問題を明らかにするには、超度という語彙の概念と内包を整理しなければならない。超度とは何か。超度とは、高エネルギー、高徳行、高素質の高位の菩薩あるいは衆生あるいは僧宝が、仏経・仏の真言・仏語を誦念する方式を通じて、諸仏菩薩の加持力を祈求して得て、三悪道の衆生を加持して業障を軽減させ、一定の福德を得させ、三宝を信受させ、それによって三悪道から離脱できるようにすることである。ゆえに超度ということは、諸仏菩薩三宝と、超度者本人の共同の功徳力 (puṇya-bala) と福德力、および慈悲力によって、悪道の衆生を苦海から救い上げ、罪報を軽減するのである。

もし超度者が金銭のために超度を行うなら、まず彼の徳行が具わらず、福德も具わらず、慈悲も具わない。このような人は諸仏菩薩三宝の護持と加持に感応できず、すべての誦念には功徳がなく、罪業の衆生は利益を得られない。超度ということはもともと一己の力で完成できるものではなく、個人の徳行修為に、諸仏菩薩三宝の威神力が加わって共同で完成するものである。個人の威神力がないのは仕方ないとして、何の権利があって三宝の威神力を個人の金儲けに使うのか。どんな人が三宝によって金を稼ぎ家を興し富を得る胆力と資格を持つのか。これは三宝の金を稼いでいるのではないか。三宝の金を、誰が稼げるというのか。命が要らないだけでなく、何も要らなくなったのか。

本当に因果をわきまえ事理を明らめ、諸仏菩薩三宝に感恩戴徳する人は、どうして三宝で金を稼ぐことが敢えてでき、忍び得ようか。菩薩たちが衆生を度すのは菩提心のためであり、苦難の衆生のためであり、諸仏菩薩三宝の恩徳に報いるためであり、一己の私利のためではない。菩薩たちは衆生を教化するのに決して料金を取らず、金を稼がず、どれほどの精力を費やして執筆した教義や書籍も、すべて無料で衆生に提供して学ばせる。

これは一己の力で完成できる偉大な事業ではないからである。菩薩のすべての智慧は諸仏菩薩三宝から来ており、恩に報いる暇もないのに、どうして三宝の威徳を利用して己の私利を営もうとするのか。もしこうするなら、すなわち菩薩に非ず。三宝で金を稼ぐ人、三宝の書籍などの製品を売って金を稼ぐ人は、真の菩薩に非ず、真の善知識に非ず。このような恩を忘れ義に背く販売行為を裨販如来と呼ぶ。裨販如来はすなわち魔業であり、魔の果報を受ける。三宝を利用して金を稼ぐことは、すなわち三宝の金を稼ぐことであり、このような金は稼げば稼ぐほど貧しくなり、最後には悪道に流落して貧苦の悪報を受ける。

<h3 style="text-indent: 2em;">十二、個人が紙に書いた法義と仏経は焼いてよいか</h3>

個人が書いたもので仏経や真言でないものは、直接焼いてよい。仏経・真言・仏菩薩の名号で、どうしても修復と保存ができず、縁を結んで人に贈ることもできないものは、滅罪真言を誦念してから焼く。もし修復して完全にでき、保存でき、縁を結べるなら、いずれも焼いてはならない。ある人は寺院で出家者が破損した仏像や仏経を焼くのを見て、自分も仏経を焼けると思う。他人がどのようにしているかを見るのは、表面現象を見ることであり、実際には他人の処理の方式と用心は、容易に見出せるものではない。ある時は、他人がその事をしても罪を犯さず、戒も犯さず、何事もない。しかし自分が同じ事をすると、罪があり戒を犯すことになる。人の用心が異なり、福德が異なり、道行が異なり、戒律と職責が異なれば、結果と果報も異なる。やみくもに他人のまねをして事をしてはならない。

<h3 style="text-indent: 2em;">十三、どのように果報を得るのが最も割に合うか</h3>

問:某甲がある乙のために一つの良い事をし、某乙は某甲の助けを得た。某甲は某乙からの返礼と報いを得たいと思う。某甲は、今あるいは某乙からの報いを得るのが割に合うのか、後世に某乙の報いを得るのが割に合うのか、それとも因果の自然の報いを得るのが割に合うのか。

答:何も求めない心で、因果が自然に償うのを待つのが最も割に合う。某甲は良い事をしたが、報いを考えたことがない。これは報いを求めない心で事を為すのであり、某甲は報いを図らないが、因果法則はやはり自然に報いを生じさせる。この時果報が最大である。無為の心で善事を為せば、善報は最大であり、有為の心で悪事を為せば、悪報は最大である。

無為の心で善事を為せば善報は最大であり、心が大きければ報いは大きい。如来蔵がなぜこのような規則を持つのかは分からない。善事の果報を最大化したい人は、この抜け穴を利用することができる。抜け穴を利用したいという心があれば、なお心があり、心があれば心は小さく、無心でこそ心は最大である。報いを求め、目的があって善事を為せば、心があり、心があれば心は小さい。報いを求めず、善事を為すのに個人的な目的がなく、私心がなければ、心は大きく、心が大きければ果報は大きい。三宝のために善事を為せば、果報は最大である。もしその中に私心があり、金銭・名利・地位・権力などのためなら、大きく割り引かれる。もし強烈な私心を抱いて善事を為し、三宝を商売の道具にし、三宝がもたらす利益を図るなら、悪事に変わり、悪報があるかもしれない。

もし煩悩が重すぎて、三宝がもたらす利益を図り、図って果たせず、瞋怨を起こせば、地獄の果報になる可能性がある。一切の罪業はすべて煩悩から生じ、一切の煩悩はすべてあの我から来る。ゆえに我見 (satkāya-dṛṣṭi) を断じてこそ、煩悩は軽微になり、さらには煩悩を滅除して、煩悩を永遠に尽きさせ解脱を得ることができる。世間のいたるところ、大きくは国家の間、中には団体の間、小さくは個人の間に至るまで、衆生の貪瞋痴の煩悩が見られ、煩悩が盛んに氾濫していると言え、救い抜くことが非常に難しい。末世はやはり末世であり、衆生は業が重く障りが深く福が薄く、罪業は善業をはるかに上回り、悪報は善報をはるかに上回る。ゆえに後世には極めて多くの人が三悪道に行って果報を受けることになる。これは避けられないことであり、死亡や病苦はもう小さなことである。

<h3 style="text-indent: 2em;">十四、人の代わりに業を背負うにも因果がある</h3>

問:家の老人が足が痛く、私は毎日マッサージして治療してあげた。三ヶ月余りで老人の足は良くなったが、私は自分の腕に老人の足と同じような症状が現れたのに気づいた。時々同僚の治療をしてあげると、同僚は良くなるが、自分の体に類似の症状が現れる。なぜこのようになるのか。

答:これは他人の業障を、あなたが背負ってきたからである。業障は理由なく消えるものではなく、果報を受けてこそ初めて消える。彼が受けなければ、あなたが受けなければならない。仏を学ぶ人がいつも人の業障を背負いに行けば、修行ができなくなり、最後には誰も成就せず、みな生死輪回の中にある。

医者が病を治すのはもちろん一定の因果を背負うが、それは職業であり、特意に人の業を消し業障を背負おうと思うのではなく、医者はそうしなければならないのである。特意に人の業を消せば、当然債主(冤家)が借財を討ち取れず、心に瞋恨と不満を抱くことになる。例えばあなたの家族が借財をしており、債主が借財を討ちに来た時、あなたが家族を保護し、債主が借財を討ち取れなかったら、どうなるのか。

因果法則は、業種が成熟してこそ果報を受けることができる。ある冤親債主は体に憑依すると、すぐに報復する。あるものは臨終に報復する。もし背負った業障が大きければ、冤親債主が体に憑依していなくても、因果は速く来る。ここには多くの種類のケースがあり、非常に複雑で、数言ではっきり言えない。ある病人の病は業障によるものではなく、業種がなければ環境によるものか、不注意によるものであり、その治療をしても報復を受けず、業障がなく、悪報がなく、善報がある。

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