仏法雑談(第二部)
誰もが業障を持っている。まず無明があり、心の中に無明があって如法でない業行を造作したからこそ、その後に障害が生じたのである。どのような業行が、何を障害するのか? どのような面での障害として現れるのか? 誰に障害があるのか? 障害の原理は何か? どのように障害を取り除くのか?
いわゆる障害とは、たとえば私は定(じょう)を修したいのに、どうしても修めらず、定を修するたびに人・物事・環境の妨げが現れたり、あるいは心の攀縁が極めて重いのに止めるすべがなかったりすることである。福を修したいのに、どうしても修めらず、いかなる実際の行動も取れず、決心して行動しようとするたびに、ある思いが浮かんで、もうやめておこう、後でにしよう、そんなことをする必要はない、と思ってしまい、懈怠してしまう。仏法を思惟観行 (vipaśyanā-caryā) しようとするたびに、頭の中がぐちゃぐちゃで、心が落ち着かず、手のつけようがなく、一つの文章すらはっきり理解できない。さらには善事をしようとするたびに、さまざまな妨げがあって、なかなか成し遂げられない。要するに、すべての計画が実現できず、決心ばかりしても無駄で、何一つ変えられない。これらすべての妨げこそが障害であり、業障であり、前世の自分の貪瞋痴という無明の業行によって感召された心理的障害と逆縁なのである。
前世の悪業は業種となって、どのように今世の修行に影響するのか。業障は前因後果とも呼ばれ、因果は相互に関連し結びついている。甲において悪業を造作し、如法でない行為を行えば、甲において果報が現れ、甲の事は成就しない。同様に、乙において如理でない業行を造作すれば、乙において果報が現行し、乙の事は成就しない。たとえば前世で三宝を誹謗すれば、今世では仏法僧に出会っても歓喜心が生ぜず、三宝に親しもうとすれば遮障と抵抗がある。たとえしっかり修行したいと思っても、白紙黒字の文字が読み解けず、仏法が心に入らず、三宝を誹謗した悪業が今世の修行の重大な障害となるのである。
<h3 style="text-indent: 2em;">二、今まさに業障を消している兆候</h3>誰もが無始劫以来、極めて多くの悪業を造作しており、極めて多くの業障が修道を障害している。障道の主要な業障を取り除かなければ、見道はあり得ない。修行がある程度得力して、いくらかの成果が出て初めて、業障の一部が消除され、障道の因縁が取り除かれる。どのようにすれば修行が得力したと言えるのか。学法を通じて善悪の道理を明らかにした後、自分に多くの煩悩があり、多くの悪業を造作してきたこと、多くの業障があることを知り、悔いの心が生まれれば、業障は少しずつ消除されていく。
業障を消除する経路や方法は数多くある。たとえば悪報を受け、種々の不順が現れ、身体の病気、人から欺辱や誹謗を受け、軽賤や差別を受けるなど。金剛経に説かれるように、金剛経を読誦するがゆえに、本来ならこの人は前世の悪業のために悪道に堕ちるはずだったのが、金剛経を読誦すれば業が消え、今世はただ人に軽賤されるだけで悪業が消滅し、後世に三悪道で受報する必要がなくなる。人に軽賤されるのは人中での苦であり、この果報は三悪道の果報よりはるかに軽い。たとえ命を失っても、三悪道の果報よりはるかに軽い。だから学仏人が現世(げんせ)で悪報を得、人から欺辱や打罵を受けたときは、幸運だと思うべきであり、相手に報い返して、いたずらに苦しむことのないようにすべきである。
修行が得力した後は、消業の方法は数多くあり、今まさに消業していることを示す標識も数多くある。たとえば、夢の中で多くの汚物を吐き出す人がいる。腐った肉のようなもの、黒い血、黄色い膿、あるいは九つの穴から不浄臭穢が流れ出る、あるいはトイレの中で身の回りが大小便だらけで、足の置き所も身を翻す場所もない、といった具合である。これらの汚穢物は心の中の貪瞋痴を表しており、貪瞋痴が少しずつ消除されているのである。夢の中には、普段自分が受け入れられないような、みっともない想像もつかない現象が現れることもあるが、それらはみな消業の兆候である。これは修行によって業を消す現象で、以前衆生の肉を食べたことにより、心も身体も清浄 (viśuddha) でなかったのが、道理を明らかにした後、心がいくらか清浄になったとき、業がいくらか消除され、夢の中に業障消除の様子が現れるのである。
夢の中には、心がいくらか清浄になっていく様子も現れる。心の中の染汚は、夢の中で物質的な色法を通して表れ、汚物が身体から出てくるのは、染汚が出てきたことを意味する。現れる汚物には多くの種類があり、人によって多少の差がある。身体から鼻につく臭いが漂い出るのも消業の一つの表れであり、身体に病気が現れること、さまざまな不運、家庭や職場で种种の不満なことが起こること、鶏が飛び犬が跳ぶような騒ぎが時折起こるのもそれである。
修行が猛烈であればあるほど、得力し速やかであるほど、汚物や染汚の現象は速く多く現れ、心の変化も大きい。これらの現象がないということは、自分の修行がまだあまり得力しておらず、意根に触れておらず、ゆえに業種にも触れられないことを意味する。心に明らかな変化がなければ、業障は消除できず、まだ実際の修行の段階に達しておらず、理論の上でだけ心を用い、理論に興味を持ち、自分をどう変えるかについてまだ省察したことがないのである。
人によっては、心を込めて念仏 (buddhānusmṛti) しているとき、身体が砂を撒き上げる機械のようになり、非常に多くの黒い汚物が口や身体の各所から排出されることがある。痰、肉、粉末などであり、これは以前衆生の肉を食べたことが現れた消業現象である。夢の中で嘔吐し、胃の中に砂土のようなものがあって吐きたいのに吐き出せず、吐き出したときには内臓ごと引き出すような感覚があり、一瞬にして特に大きな塊の汚物が排出される人もいる。これらはみな以前に造作した貪瞋痴の悪業、身口意の悪業、悪口誹謗などの染汚業である。
これらの現象から、まことに念仏一声、罪は恒河沙のごとく滅すということが実感できるはずである。如理に修行しさえすれば、多くの罪業が滅除される。今生で断我見 (satkāya-dṛṣṭi-prahāṇa) と明心ができなくても、消業だけでも十分に価値がある。多くの業を消すべきであり、業障が軽くなってこそ見道できる。決して悪業を造ってはならない。悪業を造ることは非常に価値がなく、非常に割に合わない。努力して修行し、煩悩を消除することは非常に価値があり、非常に割に合うのである。
<h3 style="text-indent: 2em;">三、消業の原理</h3>ある人は言う。業障は壁の上の絵のようなもので、壁が消えれば、その絵もなくなる、と。五陰 (pañca-skandha) の身は壁のようであり、業障とは五陰の身心の上の障害煩悩である。五陰の身心が空になり、意識・意根の心が空になれば、業行は自然に消除される。業障は五陰の身心に向かって来たものであり、五陰の身心に付着しているが、実は六七識の心に付着しているのである。六七識の心が空になったとき、業障は空になるのか。業障には付着する体がなく、五陰の身心を見出せなくなれば消え去り、空になる。業を造った主人がいなくなれば、誰が業報を受けるのか。受報する者がなければ、報は了わるのである。
しかし、五陰の身心が空になった程度を見なければならない。心がどれだけ空になったかによって、業障もその分だけ消除される。初果の空と二果の空には差があり、二果の空と三果の空には差があり、三果の空と四果の空には差がある。ゆえに業障の消除も異なる。しかし業障があまりに重ければ、心が空になったからといって債務から逃れることはできない。たとえばある人が100万を借りて極楽世界に往生したとする。債権者は誰に100万を請求するのか。ある人が1億の借金をすれば、債権者は四六時中彼を見張っている。彼は極楽世界へ逃げられるだろうか。必ずや遠くへは行けず、一歩動けば債権者に道を塞がれ、行かせてもらえない。債務が比較的軽くなって初めて、債権者は四六時中見張る労力を費やさなくなるのである。
<h3 style="text-indent: 2em;">四、衆生の業はどのように消除されるのか</h3>衆生は無量劫の修行の過程において、業障を少しずつ消除し、業が尽きて初めて仏道を成就できる。その業の消除は、主に自分自身の修行によって無明を滅除し、心意を変えて消除するものであるが、最初の衆生は無明が重く心力が弱いため、大部分の業障はやはり仏菩薩の加持によって消除され、背負われたものである。それぞれの衆生の業は、もし仏菩薩が背負い消除してくださらなければ、誰も証道も成仏もできなかった。仏菩薩が衆生に代わって業を消し、業を了し、業を背負う方法は実に数多いが、衆生はみな覚えず知らず、時には仏菩薩を誹謗さえする。衆生が無知なときは、仏菩薩の恩徳がどれほど大きいかを分かっていない。
衆生の因果とは六道輪廻の生老病死、憂悲苦悩 (śoka-parideva-duḥkha-daurmanasyopāyāsa) である。しかし、それぞれの衆生が仏法に出会うと、生死の業と苦受はますます軽くなり、ついには三悪道の業を断除し、さらには六道輪廻の業までも消除する。それぞれの衆生が機縁あって仏法に出会えたのは、みな衆生自身の福德と功徳によるものだと思ってはならず、すべて仏菩薩の恩徳によるのである。仏菩薩は日々咒願を発し、願力を三悪道の衆生に普及させる。三悪道の衆生は、知らず覚えず混混沌沌のうちに恩沢を受け、福德が日増しに増し、ついに仏法に出会い、無量劫の学仏修行を始め、業障が少しずつ消除され、最後には成仏するに至る。すべては仏菩薩の恩徳によるのであり、成仏しなければ誰も仏菩薩の恩徳に報いることはできない。
仏菩薩の加持と咒願は、いずれも無形のものであり、衆生のために無数の業障を消除したのも無形で、見えず触れられず、衆生は無知なときには感知もできないが、実際には力は計り知れない。衆生は恩知らずというのではなく、そもそも恩義を知らず、しかも理由もなく種々の誹謗をする。仏菩薩は決して計較しない。誰が無知で愚痴な衆生と計較するだろうか。仏菩薩が衆生のためにどれだけの業を背負い、どれだけの仏法を、どれほど深い仏法を説いても、無知な衆生は仏菩薩に凡夫菩薩の名号すら掛けることを許さない。罪障は深くないだろうか。
<h3 style="text-indent: 2em;">五、どのように罪業を消除するか</h3>造作された罪業は、心性上の罪業と行為上の罪業に分けられる。心性上の罪業を性罪と呼び、行為上の罪業を業罪と呼び、両者を合わせて罪業と呼ぶ。行為上の罪業だけで心性上の罪業がなく、故意によらず造られた行為は、無心の過ちであり、過失と呼ぶ。たとえば過失殺人、過失殺生は、主観的には無心で、客観的には因縁によって成ったものである。このような過失による造業は、世間法では罪責が比較的軽く、仏法上の果報も比較的軽い。無意識の殺生、無心の殺生では地獄に堕ちないが、未来世にはやはり一度無意識に殺される。小さな畜生を殺しても将来殺されるほどではなく、非常に軽い果報がある。いかなる行為も、故意であれ無意識であれ、程度の差こそあれ善悪の果報がある。
悪心で故意に造った罪業であれば、罪業は非常に大きく、果報も非常に重い。悪心だけで、心性が悪く、たとえば相手をどうこうと妄想し、心の中で相手をどうこうと咒い罵りながら、実際の行動がない場合は、この場合には心性上の悪だけであり、意業に属する。意業も種子を蔵し、これも罪業であり、心性も染汚しており、貪瞋痴が重く、後世には悪心に随順して受報する。心は万法の主人であり、心が動けば業があり、業があれば業報があり、果報は業と影の形に随うがごとくである。
たとえば鶏を殺すという事は、これは能動的な殺生行為であり、無心で殺したのではない。ゆえに性罪もあれば業罪もある。性罪には性罪の果報があり、業罪には業罪の果報がある。性罪の業は消除しやすい。自分の貪瞋痴を誠心誠意懺悔し、今後はもう造らないと誓願を発し、心性が本当に変われば、性罪は消除される。心性が変わらなければ、性罪はまだ残っており、後に受報しなければならない。しかし業罪がまだある。業罪はどのように消除するのか。それは実際の行動を取らなければならない。衆生を殺し切っていなければ償いを行い、相手が満足するまで続けるのである。
衆生が死んでしまえば、この実際の行動は本当に取りにくい。仏法上の修証があって功徳・福德が比較的大きければ、この罪業を了わらせることができる。たとえば経を読み念仏し咒を念じて鶏を超度し、本当に鶏を善道へ超度できれば、これで了わったことになり、将来鶏はかえってあなたに感謝し、恩に報いるだろう。人間に超度できればそれでもよく、猫や犬に超度できてもよい。また、自分が修行して得たすべての功徳・福德を鶏に回向 (pariṇāma) し、鶏に懺悔することもできる。鶏が真実の利益を得れば、業罪は消除されるのである。
罪業を消除しなければ、遮障は非常に深刻になる。成仏は言うに及ばず、学仏もうまくいかず、日常生活にも問題が生じる。罪業の大きい人は、念仏して極楽世界へ逃れようとしても、命終に業障が現前して、仏を信じなくなり、まして念仏などできなくなる。なぜ多くの人が学法についてきて、学んでいるうちに脱落していくのか。それは業障が遮止するからであり、修行が上がらなくなる。多くの人が学んでいるうちに業障が現前し、抵抗しきれず退いてしまい、何も学ばず寝そべるだけになってしまう。方法を講じて絶えず自分の罪業・遮障を消除してこそ、道業は絶えず進歩できる。さもなければ業障が道を塞ぎ、種々の変故が起こり、正常に学仏修行できなくなる。懺悔と発願は業障を消除でき、業障と対抗できる。業障が軽くなって初めて前進を続けられる。さもなければ進まなければ退く。だから希望をすべて命終に託してはならず、命終前に後世の行き先の問題を解決しておくべきである。
<h3 style="text-indent: 2em;">六、大乗法で参禅することは深重の罪業を消除できるか</h3>ある人は言う。衆生の罪業は山のようであるから、誰が罪を受けているのか、誰が業を造っているのかを参じてみれば、真心を証得でき、真心は業を造らず罪を受けないから、こうして罪業は消える、と。しかしこのような消罪の方法は非常に不適切で如理でない。その一、業障が深重であるがゆえに、修道の遮障も重く、菩薩の六度を円満に修行することなど到底できず、真心を証悟する因縁条件に達することは不可能である。戒定慧が具足しなければ参禅はできず、ゆえに深重の罪業を消除することは不可能である。その二、このようにすれば、末法の業障深重の衆生にとって、因果を拨無し、悪業から逃避することになり、自心の染汚を反観できず、修んでも修んでも罪業は依然として山のごとくであり、増えるかもしれない。
初機の学人と業障深重の人にとっては、まさに四正勤によって悪を断ち善を修する段階にあり、罪報と苦受の縁由を観察し、因を識り果を達する必要がある。因果を懼れ畏れることによってのみ悪を断ち善を修し、自心の煩悩を降伏でき、最後に脱胎換骨し、洗心革面して大乗の菩薩となることができる。業障が深重なときは、大乗の無相懺悔の滅罪法を用いることもできず、大乗の参禅の方法で煩悩と罪業から逃避することもできない。実際にも逃避できず、避けて通れない。あれほど重い罪業が遮っていて、どうやって参禅して第八識を証得し明心できるのか。どうやって無相に達することができるのか。
参禅の因縁条件が具足しなければ、第八識を推論・推測するしかない。推測で出した第八識は、七識の心にとっては永遠に何の作用も起こさず、いささかの功徳受用もなく、少しの罪業も消除せず、三縛結もいささかも断てない。第八識は悪業を造らず、悪業がなく受報しないと推論しても、七識の悪業はどれだけ重くてもそのまま重く、消滅しない。第八識は七識に代わることはできない。第八識はもともと自性清浄であり、もともと仏である。しかし七識は無始劫以来ずっと罪業の凡夫であり、第八識はいささかも七識に代わって苦を受けたことはなく、七識もいささかも第八識の仏光に浴びて、一分でも罪苦を減らしたことはない。
第八識はかつて貪瞋痴の煩悩を持ったことがないが、七識の貪瞋痴はかつて断絶したことがない。第八識は常に解脱しているが、七識はいささかも解脱したことがない。第八識は仏であるが、七識はそれゆえに仏の宝座に座ったことも、仏の待遇を享受したこともなく、大部分の時間は三悪道の中で苦しみ、生死を輪転して休むことがない。ゆえに、第八識と七識は互いに代わり得ないと言うのである。第八識は一切処、一切界、一切法、一切時、一切地に遍在する。意識が少しでも聡明なら誰でも推論でき、至る所に第八識があり、考えてみれば第八識が大体どういうものか分かる。しかし肝心なのは、そう考えて何の役に立つのかということである。凡夫の貪瞋痴は、考えることが実に多い。無始劫以来、いくつのことが思いどおりになったというのか。
したがって、実相懺悔、参禅の方法による滅罪は、初機の学人にとっては非常に非現実的である。業障がいくらか軽く、菩薩の六度がかなり修行できている人だけが、このような方法で証悟し消業できるが、それでも完全な保証はなく、仏のそばにあれば可能性は大きいが、仏を離れると難度は確かに小さくない。推論は易く、実証は難い。末法に近づくほどそうである。誰も幸運を期待する心理を持ってはならず、真の功夫で実修しなければならず、手を抜いてごまかし近道をしてはならない。
なぜ第八識を実証して初めて罪業を消除できるのか。実証の過程において、如理に如実に五蘊の運作を観行でき、五蘊は心中でますます空になり、ますます実在でなくなり、生滅の現象がますます明晰に深く透徹して観察され、最後には我見 (satkāya-dṛṣṭi) を断除できるからである。第八識を証得したとき、さらに五蘊はすべて第八識が出生したものだと観察すれば、心中はいっそう無我で空になり、当然、五蘊の我に依って造られた罪業も空であり、無我無我所となる。
心経の第一句にあるように:观自在菩萨行深般若波罗蜜多时照见五蕴皆空。参禅観行の結果こそ照見五蘊皆空であり、これが証悟の功徳であり、五蘊が空になり無我になったのである。観行の最後の結果が照見であり、この照見こそ頓悟である。照とは心灯が動かないことであり、智慧の光芒が五蘊の影像を映し出す。それは真心第八識の影像であり、五蘊はなく、五蘊は五蘊に非ず。照見の智慧は極めて生じにくく、菩薩の無量の功徳を広く修行し、脱胎換骨に近づいたとき、初めて五蘊皆空を照見できる可能性がある。照とは、意識の浅い思惟ではなく、意根の深細な智慧の機能作用であり、心光が発せられ、五蘊を透過して、初めて五蘊の真相が顕れるのである。
一方、真の功夫を積まず、禅定を修めず、三十七道品を修めず、悪を断ち善を修めず、煩悩を降伏せず、業障に遮られていれば、永遠に照の智慧の光芒は生まれず、浅薄な推論をするしかなく、意解し研究するだけで、意識の上でだけ力を用い、意根は入ってこない。そうなれば、意根の凡夫の骨は永遠に換わらず、命終しても凡夫の胎はやはり凡夫の胎である。入胎という事は意根が決めることであり、意根と業力によって決定され、意根は業力を代表するからである。意根に智慧を生じさせ、意根を変えてこそ、業力を変え、罪障を消除できるのである。
<h3 style="text-indent: 2em;">七、諸仏菩薩の恩徳</h3>人が最初に仏法に触れてから、最後に成仏するまで、少なくとも半分の業障、あるいは大部分の業障は、諸仏菩薩が背負い消除してくださったものである。さらには、それぞれの衆生に学仏の因縁があることさえ、諸仏菩薩の加持護念の結果である。衆生個人の力だけなら、あれほど深重な業障を抱えて、仏法に出会えるだけでも相当に容易ではないことなのに、まして仏法を修行すること、まして道を誤らないこと、まして小なりとも成就すること、まして解脱を得ることなど。等覚・妙覚の菩薩でさえ諸仏の護念が必要で、初めて順調に成仏できるのであり、ましてそれぞれの凡夫の衆生が、諸仏菩薩の加持護念に依拠しなければ、一歩ごとに困難が重なり、茨だらけで、一歩も進めず、足の置き所もないのである。
師恩は浩蕩としている。だからこそ我々は真に諸仏菩薩に感謝すべきであり、常に報恩の心を抱き、仏語を信じ、仏教を尊び、仏戒を守り、諸悪莫作、衆善奉行とし、諸仏菩薩を師として、永遠に師に背き教に叛らないことである。大いに誓願を発し、自利利人し、煩悩を消除し、自心を清浄し、修行した一切の善行・善願・善法をもって、法界の一切衆生に回向 (pariṇāma) し、これによって諸仏菩薩の救度の恩に報いるべきである。一滴の水の恩にも、湧き泉をもって報いるべきである。しかし、諸仏菩薩の湧き泉のごとき恩を、我々は滴水をもって報いることができるだろうか。あれほど多くの人が諸仏菩薩の恩徳を思わず、かえって三宝を誹謗し、良師に背き、益友を仇とし敵とする。恩義を知らぬ者は、解脱の大道を絶たれ、永遠に三途の苦を受けるであろう。
<h3 style="text-indent: 2em;">八、どのような人が人の業障を背負えるのか?</h3>業を背負うという事については、体力も見なければならない。たとえばある人が転んで、支えて起こしてもらう必要があるとき、三歳の子どもが行ってその人を引き起こそうとしても、どうにもならない。まして支えて起こすこと、背負うことはなおさらである。たとえばある人が50斤の重い物を運ぶのを手伝ってもらう必要があるとき、風にも耐えぬほど弱い人にはどうにもならず、心はあっても力が足りない。もっと重い物は大力士でなければ無理である。業障を背負うことも同様である。自分自身の業障が重々しく、重荷に堪えられないのに、どうして人の業障を背負えると言えるのか。業障は何を頼りにあなたに背負われて運ばれるのか。普通の人にどんな徳と能力があって、人の業障を背負えるのか。人の業障を背負っているのは、みな諸々の大菩薩なのである。
普通の学仏人は、善心善願があって業障の重い人の業障を軽くしてやりたいと思い、その人のために経を読み念仏して回向 (pariṇāma) し、諸仏菩薩の加持を祈り請じ、諸仏菩薩の神力の護佑に依拠して、他人の障縁と苦受を軽減する。しかしこれにも、学仏人自身に修為があって、諸仏菩薩の暗中の加持と護佑を感応できなければならない。自分自身に修為がなければ、仏菩薩を感応できず、他人の業障は依然として元の業障のままである。
注意して観察すれば、多くの学仏人が学仏三十年、人の超抜超度を求めて三十年、死ぬまで業障の関を越えられなかったことが分かるだろう。これは、超抜超度を行う人に修為がなく、業障を軽減する能力がないからである。修為のない人は他人を超抜することは不可能であり、冤親を度脱する能力がなく、冤親を身辺に留めて干渉を多くするだけである。だから人の業障を背負いたいなら、大雄大力大慈悲が必要なのである。たとえば衆生のために回向し、衆生を度脱するには、まず自分に功徳と福德があって、初めて人に与えることができる。功徳が大きく福德が多ければ多いほど、他人が得るものも多くなる。自分自身が何の取り得もなければ、何を贈り物にするのか。何を人に与えるのか。だから修行こそがまっとうな道理であり、修行がなければ何も語れないのである。
<h3 style="text-indent: 2em;">九、どのように懺悔して業障を消除するか</h3>最初の学仏では、あの発願文に従って懺悔と発願を行う。一つは懺悔、一つは発願であり、この二つは多く行うべきで、毎日仏前で行ってこそ、悪業を消除し、善願・清浄願を発起できる。善願に牽引されて、修行はますます順調になる。発願は重要であり、懺悔も重要である。懺悔しなければ業障が障害して非常に苦悩する。毎日懺悔して業を消せば、身心はますます軽安になり、修行はますます順調になる。
朝晩の課誦には三皈五戒の懺悔文があり、さらに私の書いた意根懺悔文もある。この二つの懺悔文を対照させながら、仏前で往世に造った一切の悪業を懺悔する。大小の悪業は、以前造ったかどうか確定できるかどうかにかかわらず、すべて懺悔しなければならない。仏前で今世に造った業を発露し、永く再び造らないと誓う。懺悔も発願も真誠でなければならず、心の底から発し、形式に流れず、形だけのものにせず、誠心誠意であってこそ、業が消え心が浄くなる。心がいくらか清浄になった後、煩悩習気をいくらか矯め、そして清浄な大願の牽引のもとで、修行は自然に正道を歩むことになる。
<h3 style="text-indent: 2em;">十、懺悔は心性上の煩悩悪業しか消除できない</h3>問:私は毎日朝晩懺悔し発願しており、身口意は以前よりずっと清浄になりましたが、時折、自覚しないうちに貪業と瞋業を犯してしまうことがあります。このような懺悔は意根に深入していないのであり、如法ではなく、まだ業が消えていないのでしょうか?
答:懺悔の後、業障が一足飛びにすべて消え浄くなるとは限らない。必ずまだ了わっていない余業があり、煩悩障もある。なぜなら、各自の懺悔は必ずしも徹底し的確であるとは限らないからである。また、懺悔で消除できるのは一部の性障 (kleśāvaraṇa) 煩悩業だけであり、すべての性障を消除するのはまず不可能であり、しかも消除できない罪障もあるので、避けられず罪報がある。ゆえに時折、自覚しないうちに貪と瞋の業を犯すことがある。これができるだけでもすでに十分よく、如理如法と言え、多くの業も消しているのである。
仏在世のとき、ある居士が四果阿羅漢を誹謗した。その阿羅漢はすぐに堂に上って鐘を打ち大衆を集め、その居士に告げて言った。私は阿羅漢果を証得した。あなたは急いで大衆の前で私に誹謗の業を懺悔しなさい。さもなければ地獄の果報を受けることになる、と。その居士はすぐに大衆の前で阿羅漢に懺悔した。阿羅漢は言った。私はあなたを許す。罪業が消除されますように、と。しかし、この居士は命終してもやはり地獄に入って受報した。
この物語は、懺悔が役に立たず業を消せないというのではない。懺悔は心性上の罪業しか消除できず、事相上の罪業はすでに造作されて事実となっており、それは消除できず、受報して初めて消除できるということを言っているのである。あの居士は懺悔の後、性障はなくなったが、罪障はまだ存在していたので、地獄に行って受報したのである。もし懺悔しなければ、性業に罪業が加わって地獄で受ける苦はさらに大きく、とても耐えられなかっただろう。だから我々はみな、できる限り身口意行に注意し、とりわけ三宝に対してはさらに慎重で、いかなる誹謗の業も造ってはならない。
もし煩悩業障がすべて消え浄くなれば、それは証果し成仏したということである。実際には、そんなに容易くすべて懺悔して清浄になるものではない。煩悩業障は少しずつ軽減されるものであり、軽減されたとはいえ、時折発作のように現れるのは、すべて正常な現象である。懺悔が意根に深入した後も、どの程度深入したか、どの程度変化したかを見なければならない。当然、程度はまだ足りない。程度が十分であれば、煩悩はすべて断尽する。程度が足りなければ、当然まだ煩悩業障があり、これらはすべて正常な現象である。以前より進歩し、毎日進歩しているなら、それだけで良い現象なのである。
<h3 style="text-indent: 2em;">十一、業障をどのように解消するか?</h3>学仏してある程度に達し、進功があり、まさに上ろうとするそのとき、業障がすぐに前方で道を塞ぐ。業障というものは目を持っており、専ら肝心なところであなたを待ち構え、上昇の路口で待ち構えている。意志力が少しでも強くなければ、はめ込まれてしまい、非常に弱い人は退き、さらには元の木阿弥に戻ることさえある。私は多くの学仏人を見てきたが、はめ込まれるか退くかで、一部の者は仏を信じなくなりさえした。ただ仏を信じなくなるだけならまだしも、恐ろしいのはさらに三宝を誹謗し、従前に修行し学んだことを誹謗することである。その結果を思うだけでも非常に恐ろしい。
無始劫以来、それぞれの衆生の経験にはいくらかの差があるので、意根の性体はそれぞれ異なる。牛の鼻環はあるが、諸仏菩薩が善巧方便で牽く。軟かくも硬くも、諭し罰し、最後には衆生を解脱道に押し上げることができる。その間の過程は当然曲折し、道は当然苦難であり、いったん骨身に徹する寒さを経てこそ、鼻を衝く梅花の香りを迎えられる。学仏のこの道は非常に歩みにくい。なぜなら、各自の業障はみな重く、無始劫の業は多すぎ大きすぎて、逆水に舟を行るがごとく、進まなければ退くからである。もし仏菩薩と護法神の護持がなければ、我々は誰一人としてわずかでも成就することはできない。業障のあの関だけでも、自分の力ではどうしても越えられない。業障の力はこれほど大きいのだから、我々はみな極めて自分の身口意に注意し、悪業を造らず、自信過剰にならないようにすべきである。
業障が現前したとき、どう対処して乗り越えるのか。甘んじて受けることも一つの面であるが、積極的に努力して業障を変えることも重要である。業は転化できる。持戒、懺悔、智慧の観行 (vipaśyanā-caryā) を通して、業障を転化し軽減することができる。衆生は無始劫以来、数え切れない悪業を造作してきた。受けるだけであれば、すべてを受け堪え、受け終わることはできない。まして煩悩を断除していないときは、さらに悪業を造作し続け、新しい業障を形成する。もし地獄の業障が現前すれば、どうして受け堪えられるのか。苦労して仏法を数十年学び、命終して地獄の業が成熟したなら、甘んじて地獄に行って受報するのか。塗灰外道は解脱のために、業障を消除する方法として無限に自分を苦しめ折磨し、こうすれば業は消除断尽され、その後解脱できると考えた。仏は言う。無始劫以来のあれほどの悪業が、苦を受けるだけですべて消滅できるのか。全くできない。だから受動的に受けるだけでは究竟の方法ではなく、積極的に智慧をもって消除し転化しなければならない。
どのように智慧をもって転化するのか。業障は愚痴無明によって造作されたものであり、五陰 (pañca-skandha) を実有の我とみなし、この我のために業障を造ったのだから、今業障を消除するには、愚痴無明を破除しなければならない。五陰無我を観照すれば、我が既になければ、我によって造作された悪業もなく、我見 (satkāya-dṛṣṭi) を断除すれば、業障のうち三悪道に属する部分は消除される。智慧が大きいほど、破除する愚痴無明が多く、消除する業障も多くなり大きくなる。こうして無明はますます薄くなり、業障はますます軽微になる。智慧は熱湯のごとく、業障は堅氷のごとし。絶えず熱湯を注ぎ続ければ、堅氷は遅かれ早かれ溶ける。最後に、多く福を修めなければならない。福が大きければ人を圧し、福が小さければ圧される。福が大きければ業障は迂回して通り過ぎ、学仏のこの道は順調になるのである。
<h3 style="text-indent: 2em;">十二、なぜ精進すればするほど障害が多いのか?</h3>学仏修行は逆風に車を走らせ、逆水に舟を行るがごとくであり、車船が速いほど抵抗は大きい。業縁は風のごとく水のごとく、これに順えば生死の三悪道、これに逆らえば解脱涅槃。もちろん順えば楽であり、力を用いずして自動的に下滑し、逆らえば抵抗が重々しく、歩みが困難である。しかし修行人は勇敢であるべきであり、障縁を畏れず、抵抗が大きいほど、障縁が大きいほど、いっそう勇猛に突き破って進み、決して業力の支配と制御に甘んじて従わないことである。
一気に業障の関を突破するのが、最も力の省ける方法である。阻まれれば退けば、目の前には常に屏障があり、解脱を遮蔽する。学仏修行がぬるま湯の人には、いかなる障縁も現れず、家庭は円満、事業は順調、身体は健康、金はますます稼げ、世俗の中で万事順調で、干渉も魔障もない。あなたが精進せず、出離の兆しがなければ、干渉する必要はない。どうせ三悪道の客なのだから、借りを取り立てる心配はもともとなく、冤家もあなたが手のひらから逃れることを心配しない。精進しないがゆえに、業種を攪動することもできず、業種の成熟受報を早めることもできない。受報の後なら無債一身軽で、修行は順調そのものである。しかし業種が成熟せず、業縁が現れなければ、依然として如来蔵 (tathāgatagarbha) の中に眠り隠れ、あなたを牽いて六道の中で生死して依怙なく、解脱に対しては永遠の障害である。
<h3 style="text-indent: 2em;">十三、逆境にどう対処するか?</h3>問:良くない境界が来たとき(たとえば悪罵を浴びせられたりしたとき)、どのような対処の仕方が最も智慧あるものでしょうか。懺悔することか、それとも清浄心を保って如如不動であり、凡所有相皆是虚妄の原則に基づき、境界が存在しないものとして争わず弁じないことか。それとも、すべての衆生に代わってこの逆境を引き受けるという願を発し、すべての衆生が吉祥円満な善境界に出会えますようにと願うことか。あるいは他の何かの方法、たとえば念仏 (buddhānusmṛti) などか?
答:学仏の異なる段階においては、逆境への対処法は異なるべきであり、異なる逆境には対処の仕方も異なる。差異は、もし逆境が自分自身の無明煩悩と過去の業障によって引き起こされたものであれば、自分の過ちを点検し、因を明らかにし果を識り、業障と無明を懺悔しなければならない。自分に明らかに業障があり過ちがあるときは、如如不動でいることはできず、これらの境界を虚妄とみなして構わないというわけにもいかない。そうすると自分の無明を継続し、愚痴を増長するだけである。あなた自身が遭遇した逆境は、あなた自身の問題であり、あなた自身が受けなければならず、衆生に代わって受けるのではなく、衆生とは関係ない。自分に過ちがないとき、逆縁が理由なく身に加えられたときは、このとき自心の煩悩を降伏するために、外境を空しく観じ、境界に対して如如不動を保ち、甘んじて一切を受けながら、しかも受ける所なしとすることである。
自分の煩悩が重く、智慧もないときは、逆境に出会ったら自心を反観し、自分の無明煩悩を点検し、その中の前因後果を明らかにすべきである。点検して自分の問題だと分かれば、速やかに懺悔し、過ちを正すべきである。そうしてこそ智慧を増長し、無明煩悩を軽減できる。このときは逆境を空のものとして扱うべきではない。自分の無知な煩悩を空にしてしまえば、自分の無明煩悩を認識できず、智慧を増長し煩悩を軽減できず、学仏は実効がない。
智慧が著しく不足しているときは、逆境を空と観じて見過ごすこともできず、境界に対して如如不動でいることもできない。なぜなら、このときはまさに境界に対して愚痴であり、境界を明らかにしていないからである。このとき必要なのは空慧ではなく、因を識り果を達し、因果関係を明確にして、悪を断ち善を修できるようにすることである。たとえば子どもがまだ文字を読めないとき、文字を覚えるという事を空と観じて、文字を覚える努力をしないということはできない。是非善悪を弁別できないとき、是非善悪を空と観じて弁別しないということはできない。そうすると愚痴を継続するだけである。
大多数の人は、世間および出世間の道理を明らかにしておらず、弁別力がなく、一切の行為規範と準則に対してうやむやで、相当に愚痴である。初学の悪を断ち善を修する段階にあり、因を明らかにし果を識る段階にあるとき、出会った一切の境界・一切の法をすべて空と観じ、意に介さず、構わなければ、因果を明らかにできず、自分の無明煩悩を認識できず、自分の一切の行為を修正できない。正思惟がなければ智慧を得ることもできず、永遠に愚痴し続け、死後もやはり三悪道に行って愚痴の果報を受け、とりわけ畜生道にいる時間が延びることになる。
多くの人の学仏は逆さまに修行している。空にすべきでないときにあえて空にし、空にすべきときに空にしないため、智慧がついに生まれない。自分の内心の誤った思想を修正するときは、必ず空にしてはならず、軽々に境界を見過ごし、無視してはならない。自身と五蘊世間に対する認識が明らかでないときは、これらの法を正思惟し、法に対してはっきりとした認識に達し、愚痴でないようにすべきである。どのような場合に境界を空にできるのか。色声香味触に出会い、心の中に貪愛と粘着が生じたとき、このとき境界を空にすれば、貪愛を降伏でき、貪瞋痴の煩悩を降伏できる。境界をあまりに真実の法として執取 (upādāna) してしまうとき、初めてあれこれ方法を講じて境界を空にすべきであり、そうすれば空の法を執取することはなく、貪瞋痴の煩悩を降伏できるのである。
<h3 style="text-indent: 2em;">十四、僧侶がいつも超抜超度を行うのは如法か?</h3>常に超抜超度を行っている寺院はみな非常に乱れており、出家者は安心して修行できない。僧侶は概して修持が不足し、修行の力度が弱く、道行がまだであって、衆生を超抜する力がなく、超抜されるべき陰界の衆生は根本的に超抜できず、寺院に留まって是非を起こし、出家者は身体の病が多いか煩悩事が多いかで、互いの矛盾が多く、修行する気になれず、正常な修行は不可能になっている。超抜を専門に行う寺院の中には、超抜しきれなかった陰界の衆生が多すぎて、寺院が混乱を極め、陰界の衆生がみな寺院に留まって投生できず、集まるほど多くなり、十分な香火の供養もなく、寺院の中で騒ぎを起こし、ついに寺院は閉門を余儀なくされたところもある。
主としてこれらの事を行うと、僧侶自身が安心して道を修めず、業障に牽缠され、自分の業障も軽くないのに、修行するだけでも容易でないのに、さらに時間と精力を費やして、背負うべきでない他人の業障を背負うのだから、どうして修行する心境が持てようか。僧侶に自分の冤親債主を超度させ、自分のために業障を背負わせるというのは、非常に無理な要求である。たとえ金銭の補償を与えるとしても、その金銭と業障を比べれば、どれほどの金額であれ、釣り合わない。生死の大事が重要か、その少しの金銭が重要か、智者なら誰でも弁別できる。だから居士たちは、できるだけ寺院に行って金を払い出家者に自分の家族の超度を祈願しないほうがよい。どれだけの金を払っても少ないのであり、要は金の問題ではない。こうすると出家者の業障を増やし、出家者の正常な修行を妨げ、生死の苦から出離できなくなる。仏経に説かれていないこと、仏在世のとき行われなかったことは、我々は無理に行うべきではない。
<h3 style="text-indent: 2em;">十五、懺悔して軽安を得る</h3>ある79歳の老人の懺悔の課業:ここ数日、私は朝5時に起きて観行 (vipaśyanā-caryā) し、座っているうちに丹田から強大な気が立ち上り、私をぎゅっと包み込み、足を縛った。気流はさらに上行し、腰に、さらに頭に達し、呼吸さえ非常に困難になった。私はそこに座って「我是誰(私は誰か)」という話頭を参じ始めたところ、結果として大泣きし、足を踏み胸を叩いた。座から立ち上がって仏に頭を磕き、磕くほどに泣き、心の中で言った。私はただ醜く年老いた老婆ではないか。一日中貪食貪眠し、利己的なやつではないか。种种の不堪はみな私であり、まことにこの臭い皮囊を憎む、と。
続いて私はまた仏前に跪いて懺悔して言った。私はただの臭い皮囊であり、私のような者は地獄に行くにふさわしい、と。そしてまた座に戻って観行を続けると、身体はまたしっかりと定(じょう)まってしまった。こうして気づかぬうちに2時間が過ぎ、子どもの食事を作らなければと思い当たり、座を立ったが、動作は非常に緩慢で、頭もあまり働かず、機械的にいくつかの動作をし、心には雑念も妄想もなかった。
昨日も上座したとき同じで、法師の書かれた意根懺悔文を思い出し、自分に言った。あなたはなぜ懺悔文のどの条にも違反があるのか、と。こうして座禅しながら懺悔し、あっという間にまた2時間が過ぎ、坐禅の間に何度か香りの良い匂いが出て、下座するときの動作は非常に遅かった。今日は上座するとずっと楽で、身体も痛くなくなった。心もずっと安らかになり、あっという間に1時間余りが過ぎた。法師に伺いますが、このような修行でよろしいのでしょうか。これは不浄観でしょうか。
講評:この懺悔の初歩的な効果は非常に良く、心の清浄、身の軽安、禅定の増長という効果を達成している。しかし懺悔の中で自分の過ちを知ったからといって、自分を呪って地獄に行き三悪道に行くなどと言う必要はなく、いかなる悪咒悪語も加えてはならない。口から出た言葉は将来現実になるのだから、善願・良い願を発すべきであり、改過の心があればそれでよく、悪心悪行を改めればよいのであって、自分をあまり憎む必要はない。他の人に対しても同様であり、良い祝愿を持ち、悪咒を用いてはならない。
懺悔は宿世の悪業を消除できる。業障が消除されれば遮障も消除され、身心はともに軽安となり、深い禅定を得、観行思惟が順調になり、修行は正路を歩みやすく、しかも進展が速い。坐禅の中で嗅いだ香りは、もし自分の身体の中から発せられたものであれば、自分の心が清浄になり、身体も清浄になったことを意味し、香りが出てくる。時に鼻孔から、時に歯の中から、時に喉から出て、時に全身から香気が放たれる。もし香りが外から鼻孔に入ってきたのであれば、仏菩薩と護法神が自分を加護しているか、天人があなたを見物し、あなたに学んでいることを意味する。
あなたの現在の思想認識からすれば、やはり五蘊を観行して我見 (satkāya-dṛṣṭi) を断ずるところから起修すべきであり、あまり早く参禅しないことである。先に我見を断ってから参禅すれば比較的順調であり、我見を断らなければ、真心自性を証得することは不可能である。年齢が上がっているので、清浄な大願を多く発し、命終に極楽世界へ往生できることを保証し、以後に娑婆に戻って衆生を度すべきである。命終に往生できることは非常に良い帰処である。
<h3 style="text-indent: 2em;">十六、過ちを犯したとき、面と向かって謝罪すべきか、心の中の懺悔で足りるか?</h3>自分が過ちを犯したこと、人に申し訳ないことをしたと知ったら、懺悔と謝罪をしなければならない。謝罪とは相手に自分の歉意と愧悴を誠摯に表し、相手の心理的欠憾を補い、相手の不快感を消除することであり、同時に冤を解き結を釈き、心のわだかまりを消除し、関係を円満調和にする。懺悔と謝罪には目標があり、対象がなければならない。人に申し訳ないことをしたからには、その人を面と向かって自分の過ちを発露し、懺悔して謝罪し、自分の誠意を表すべきである。これは真に自分が人に申し訳なかったと認識し、改過したいと思い、かつこの人を償おうとするものである。
もしその人に面と向かって謝罪し懺悔せず、心の中だけで懺悔し、その人と向き合う勇気がないなら、このような懺悔には誠意がなく、相手の心のわだかまりを消除できず、相手の心理的欠憾を補うこともできず、双方の関係を変えることもできない。人が傷つけられ不当な扱いを受けたのであれば、自分がそれを認識した以上、その人に償いをしなければならない。少なくとも心理・感情面での償いは必要であり、面と向かって事をはっきり説明し、相手の心を晴らさせるのが、最低限の尊重と懺悔である。あなたの側に种种の心理・感情があっても、相手は一切知らず、二人の意根は対接せず、心の結び目は完全には解けず、隔たりは完全には消除できない。このような懺悔は徹底しておらず究竟しておらず、問題から逃避し過ちと向き合わない心理的傾向があるのである。
<h3 style="text-indent: 2em;">十七、真の懺悔の功徳受用</h3>垂天之翼が自分の口業を懺悔した経歴を語る:弟子は口業を造した後、心情が煩躁して落ち着かず、経を読んでも、仏菩薩への拜懺や大悲咒の誦持をしても、心は普段のような清浄さを取り戻せなかった。そこで弟子は座禅して心情を落ち着かせようとしたが、1時間座っても依然として同じであり、心の中で三宝に何度も何度も懺悔した。自分があたかも阿難尊者の言う、父母を失った貧しい子どものようであると感じ、この上なく悲しみ苦しみ、頭の上に風船を頂いているようで、心臓も痛かった。このとき師父もおそらく禅坐しておられるので邪魔してはいけないと思い、涙を拭いて座禅を続けた。
数分過ぎたとき、突然、足の筋から後脳に至るまで生気が満ちあふれ、一瞬にして全身に汗が出て、めまいと心痛が消えた。急いで携帯を取ってあなたにメッセージを送った。それは11時10分のことであり、その後12時まで座禅を続けて眠りについた。夢の中で弟子は風呂敷包みに包んだ物の山を背負い、一軒一軒回って借財を返した。私は言った。師父、弟子はこんなに多くの物を背負ってとても疲れました。彼らを皆呼び出して一緒に返してはだめでしょうか。あなたは言った。だめだ、一つ一つ返さねばならない、と。今日は午前中ずっと考えたが、今ど誰が風呂敷包みで物を包むのだろうか。まさか返すのは宿債なのか。夢の中で借財を返すことで業は消せるのか。
以上が弟子の拜懺の経過である。弟子は以前拜懺を経験したことがなく、懺悔の後、身心は清浄を得、頭脳は明晰で、以前感じた清浄よりさらに一歩進んでいる。師父に弟子のために開示と指導をお願いします。
回答:不善の口業を造した後、速やかに反観でき、口業の善悪・是非を知ることができ、さらに速やかに懺悔できるのは、三十七道品の中の四正勤の道を歩み始めたのであり、四正勤をよく修行すれば、悪が断たれ善が生じ、修行が如意になり、善根が増長していく。これは学仏修行の基礎であり、この基礎がなければ修行は語れず、証道はまだ遠い。これは肺腑から発した真誠の懺悔であり、意根の真の懺悔であって、意識が形式に流れる偽の懺悔ではない。ゆえに懺悔の後、悪業は消除されたのである。
坐の中で気脈が湧動し、全身に汗が出て、病痛が消えた。続いて睡夢の中で、意根は宿債を酬い始め、過去世の債務を一つ一つ償還した。懺悔による消業とはこの原理である。借財を返す夢を見たという事は、意根が夢によって自分の業障が消えたこと、宿債の一部が返済されたことを示したのである。消業と還債がある程度に達すれば、修行には障害がなくなり、禅定が生じ、智慧が増長し、修行の進歩が速くなり、見道も速くなる。
だから学仏修行の最初には、誰もが真誠に三世の業障を懺悔すべきであり、業が消えるときには、みなさまざまな予兆がある。煩悩の消除にもさまざまな予兆と表示があり、通常は夢の中と定の中で表示される。一部の人は自分の身口意行が清浄でないのに、悪業を造した後も覚えず知らず、反省することもなく、自覚することもなく、懺悔することもなく、今後も悪業を造作し続ける。明らかにこの人は四正勤を修行しておらず、悪を断ち善を修していない。仏教の中で、まさにこのような人たちがいつも自称して証果や明心を口にし、よく修行している人は、決してやみくもに自分を高く評価せず、みな実事求是で、智慧をもって如理に思惟し判断している。
これらの修行過程がすべてなければ、明らかにまだ正修の段階に入っていないのであり、どうして見道できようか。自分の修行が正修行の段階に入ったかどうか、現在の水準と階層がどうかを、常に点検すべきである。もし何の予兆もなく、煩悩と業障がまだかなり重いなら、これ以上自分を証果明心とみなし、聖人と自認してはならない。聖人はどこにいるのか、見て分かるのか。そうすればするほど自分の我が重く、我慢の高慢が重いことを示すだけである。
見道の前に修めるべき法は多く、過程の中の种种の経験がすべて必要であり、どの過程を経験し、どの程度まで修行したかには、すべて予兆・提示・表示があり、それらはみな証拠である。もし何の経験もなく、口だけであれこれ言うだけなら、誰も信じられず、最も重要なのは、如来蔵 (tathāgatagarbha) には何の記録もないことであり、誰が何を言っても無用である。聖人になりたいなら、ほかに方法がなければ如来蔵に多く願い、如来蔵に融通してもらい、手加減してもらい、早く聖人の殊勝な境界と果報を現じてもらうしかない。もし如来蔵が鉄面無私で公正に事を処すなら、どうにもならず、あるべき身分はやはりその身分であり、仏が印可証明しても無用である。
<h3 style="text-indent: 2em;">十八、心を塵労に縛るより覚醒して道を修す</h3>業力によって突然不意に死亡すると、心の準備がなく、一般には容易に再び投生できず、投生できなければ孤魂遊魂となる。とりわけ死んだとき遺体が欠損していたり全くなければ、なおさら投生できない。この類の衆生は心に帰属感が全くなく、惶恐不安で、非常に苦しい。不意の死亡をした人は投生しにくく、しばしば自分が死んだ場所で機会を待ったり、あるいは方法を講じて不意の事故を起こし、新しく死んだ人の魂に乗じて再び投生する。俗に言う替え身を捕まえるというやつである。自殺した人も同様であり、替え身を捕まえて初めて投生できる。だから事故の起こった場所では、その後しばらくすると再び事故が起こり、さらには繰り返し繰り返し事故が起こる。地上だけでなく、空中、水中の事故も同様であり、多くの事故は衆生の執念によって引き起こされたものである。
これらの横死・不意の死亡をした人を救度し、できるだけ早く投生させるために、我々は彼らのために念仏 (buddhānusmṛti) し経を読んで回向 (pariṇāma) し、彼らに道理を明らかにさせ、執着と執念を取り除かせ、彼らの福德を増やし、投生したい機縁があれば投生できるようにし、死んだ場所に留まって徘徊し続けないようにすべきである。我々は慈悲心を発し、時間を作って今回の航空事故の犠牲者のために念仏し経を読んで回向すべきである。彼らが1か月以内に投生できれば、以後同じ場所で不意の事故は再び起こらない。
誰もが遅かれ早かれ死ぬが、できるだけ横死せず、不意の死亡をせず、最善は善終・正常な死亡であり、少なくとも全身の遺体であれ、そうしてこそ後世が処理しやすい。良い死に方・善終もまた福德の感応であり、善業の招きである。だから我々は日常生活の中でできるだけ縁に随って善を行い徳を積み、悪事をせず、人を損なう事は決してせず、とりわけ三宝に対しては、護持できればできるだけ護持し、護持できなくても誹謗して破壊の作用をすることはなく、言行に欠けるところなく、今世後世に重大な悪報を受けないようにすべきである。
今回の航空事故の犠牲者の中には、人生がかなり円満幸福だった人は多かったのではないか。仕事も事業も家庭もなかなか良く、羨ましい限りだったろう。しかし結末はどうだったのか。数十年のいわゆる円満幸福快楽の後、後世は千万年あるいはそれ以上の苦痛であり、流離失所し、身心安らかでなく、さらには色身を一つ持つことさえ難しい。だから智慧のある人は、眼光を必ず長く置き、格局は必ず大きく、眼界は必ず広く、高く立ち遠くを見て、有生の力をもって、永生の安穏を勝ち取るべきである。賢明で智慧のある人になり、目光が短浅で、心胸が狭隘で、心量が短小で、眼前の蠅の頭ほどの利ばかり顧みず、未来の無量劫の生死の苦痛を顧みない人になってはならない。
どれほど多くの人が口実を設けて言うことか。私はまだ出家できません、まだ全心で修行できません、なぜなら世間にまだ責任と義務があるから、と。しかし、もしあなたの家族や親友が突然姿を消したら、あなたの責任と義務はどう算定するのか。もしあなた自身が突然姿を消したら、まだ何の責任と義務を語るのか。だから有生のうちに、まだ精力のあるうちに、真に意義のあることを多くし、より長遠に有益なことを多くすべきであり、目先の数十年ばかり顧みてはならない。数十年は確かに非常に短く短く、未来の長劫は非常に長く長く、計算もできないほど長い。あなたはこの数十年の人生の享楽を意に掛けるべきか、それとも後世の長劫の安穏を考慮すべきか。世間の事は、とっくに心鏡の如く清らかにすべきであり、どんな事がまだ自分の両目と心智を迷わしえようか。智者はよく思うべし。