衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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仏法雑談(第二部)

作者: 釋生如 カテゴリ: 総説 更新時間: 2025年12月04日 閲覧数: 3165
<h2 style="text-indent: 2em;">第二章 仏菩薩篇</h2><h3 style="text-indent: 2em;">一、菩薩の金剛怒目と雷霆手段とは何か?</h3>

たとえば潔癖症の人が豚と一緒に閉じ込められ、豚が自分の草の巣の中で大小便をするのを見て、この人は我慢できずに豚を蹴り飛ばす、これが雷霆手段である。またたとえば心がすでに清浄になった菩薩が五濁悪世に来て、貪瞋痴の衆生と一緒にいて、衆生が無明深重で愚痴の業を造作しているのに自覚せず、教化も受けようとしないのを見て、我慢できずに大声で呵責する、これが金剛怒目である。中には、それでは菩薩が慈悲心がないと言われてしまうのではないかと問う人もいるだろう。実のところ、慈悲であるかないかは、これまで一度も衆生が定義するものではない。菩薩は衆生のために心も肺も差し出すが、衆生は心も肺も持たず、心肺をも識らない。仏菩薩が衆生に罵られるのは避けられないことであり、衆生に罵られないというのは五濁悪世ではあまり正常なことではない。さもなければ、菩薩道から退転する人があれほどいるはずがない。

<h3 style="text-indent: 2em;">二、菩薩はみな修行の道筋を明らかにすべきである</h3>

菩薩は、現在修している法、次に修する法、さらにその次に修する法について、すべて明らかに了解しており、その智慧は一劫・数劫あるいはそれ以上の長期間にわたって修すべき法を了知することができる。菩薩は智慧を有する以上、一切の法についてすべて明明白白であり、すべての修行の道筋がはっきりと分かっていなければならず、一歩一歩どのように行持するか、心の中で明確に分かっていなければならない。もし分からなければ、それは愚痴であり、修行を通じて愚痴を除去しなければならない。すべての菩薩は、自分が現在どの修行段階にいるのか、どの法が成就したのか、どの法が成就していないのか、次にどの法を修すべきか、どのように修するのか、すべてはっきりと分かっていなければならない。もし分からなければ、それは愚痴であり、現在具えるべき智慧を具えていないということである。

菩薩は修行を始める時、足を踏み出して歩き始める時に、どの方向に向かって歩き出すべきかをはっきりと分かっており、うっかりと無闇に歩くのではない。もし無闇に歩けば、邪路に進んでいても分からない。このような糊涂人は菩薩ではなく、まだ菩薩になる資格がない。とりわけ法を弘めて人を導く菩薩は、心の中で衆生をどこへ導くのかをいっそうはっきりと分かっていなければならない。

<h3 style="text-indent: 2em;">三、菩薩の義</h3>

現在の学仏の人は、自己の感覚から二種類に分けられる。一種類の人は広く学び多く聞いて知識が多く、修学に対して信心満々であり、いくらか慢心と貢高があり、人に会うたびに自分は菩薩であるばかりか並外れた菩薩であると吹聴し、同参が会って挨拶する時も「○○菩薩」で始まり、互いに賛嘆し合って、内心はとても満足している。もう一種類の人は広く学び多く聞くことが足りず、知識も見識も十分に豊富ではなく、菩薩の義を知らず、心性にいくらか自卑感があり、菩薩の名を称する勇気がなく、自分を菩薩と称する人を聞くと、驚き怪しむ。

この二種類の人はどちらも過ちを有しており、心性はいずれも慢に属し、高慢も卑慢もいずれも愚痴に属する。第二種類の人に対して、我々は菩薩とは何かを説明しよう。たとえば「学生」という名号は、学校に通って学んでいる人を学生と呼ぶのであり、各種の内容を学ぶことを含み、範囲は非常に規範的で、年齢すら制限しない。八十歳でも、学んでいる限り学生と呼ぶことができる。また学生証を持っている人はなおさら学生と呼ばれる。証とは証明である。

同理に、まさに菩薩の道を歩み、菩薩行を修している人を、菩薩と呼ぶ。菩薩心を発して自度し、かつ人を度するという誓願を発した人を、菩薩と呼ぶ。仏法・菩薩法を学んでいる人を、菩薩と呼ぶ。仏・法・僧を信じている人を、菩薩と呼ぶ。三宝に帰依している人を、菩薩と呼ぶ。菩薩の六度を修行している人を、菩薩と呼ぶ。とりわけ菩薩戒を受けて菩薩の証を有し、菩薩の誓願を発し、十方諸仏菩薩の証明があり、菩薩戒体を得た人は、なおさら菩薩と呼ばれる。菩薩には鬼神・畜生・非人・天人などすべての衆生が含まれる。しかし定性声聞、すなわち大乗に回心しない阿羅漢・辟支仏たちは含まれない。彼らには成仏し菩薩となる心がなく、衆生を利楽する心がなく、ただ涅槃の清浄のみを望んでいるからである。

菩薩には凡夫菩薩と聖賢菩薩が含まれ、その階位の次第は以下の通りである。

(一)信位菩薩。初信位から十信位まで、十の階位はすべて信位菩薩であり、すべて凡夫菩薩であり、まだ菩薩六度を修しようという発心をしておらず、菩薩六度を修する資格と能力もまだなく、仏法に対する信心を培養する段階にある。

(二)住位菩薩。初住位から第六住位まで、大菩提心を発し始め、発心して仏道に趣向し、菩薩六度を修行する。初住位では布施度を発心修行し、修行が円満して初住位が終わり、二住位に入る。二住位菩薩は持戒度を発心修行し、修行が円満して三住位に入る。三住位菩薩は忍辱度を発心修行し、修行が円満して四住位に入る。四住位菩薩は精進度を発心修行し、修行が円満して五住位に入る。五住位菩薩は禅定を発心修行し、禅定の修行が円満して六住位に入る。六住位菩薩は般若度を発心修行し、修行が円満して開悟明心し、七住位に入る。七住位は菩薩位が永遠に退転しない菩薩であり、実義菩薩と呼ばれ、真に名実ともに相符する菩薩であり、菩薩の名があるばかりでなく、菩薩の実徳もある。

(三)行位菩薩。住位の十の次第を修め円満して行位に入り、行位菩薩に属する。修行には十の次第があり、修行が円満して回向位に入る。

(四)回向位菩薩。十の階位があり、修行が円満して初地に入る。

(五)地位菩薩。初地菩薩は唯識相において見道し、転識成智し、唯識種智を具え、如来家に入り、仏の真の仏子となる。十地菩薩位まで修め続け、修行が円満して等覚菩薩となり、等覚菩薩の後は、弥勒菩薩のように後補仏となり、すなわち妙覚菩薩である。

菩薩の等級は、信位の凡夫菩薩から、賢位の住位菩薩・行位菩薩・回向位菩薩を経て、聖位の十地菩薩・等覚菩薩・妙覚菩薩まで、全部で五十二の階位の次第である。

各自が自分に当てはめてみよ。自分は菩薩なのか、どの階位の菩薩なのか、どの法を修すべきなのか、今どの法を修しているのか、菩薩の発心があるのか、菩薩の戒体があるのか、今後どのように修行すべきなのか。もし自分は信位の凡夫菩薩ですらない、ほとんど白丁であると思うなら、ここにいるのは純粋に光陰の浪費である。もし初住位菩薩の発心すらなく、菩薩六度を修したくなく、布施行を修したくないなら、菩薩の証悟を求める資格はまったくなく、ここにいても光陰の浪費である。

<h3 style="text-indent: 2em;">四、菩薩の心行</h3>

菩薩はみな四摂法を修しなければならない。愛語・同事・利楽・同行であり、こうしてはじめて良い衆生縁を得ることができ、何をしても順調にいく。もし衆生と善縁がなければ、菩薩をうまく務めることができず、衆生を度することができない。世俗界で事をなすには良い縁が重視されるが、仏法においてはなおさら善縁が重視される。善縁がみんなを結びつけ、互いに助け合い、共に進歩し、自利利人してはじめて、より速く菩薩道の修行を完成することができ、ひいては仏道を成就する。意図的であれ無意識であれ、自分に障害を設ける者は、すべて無智の人であり、自分で自分に躓きの石を設け、自分で自分に罠を仕掛け、最後にはすべて自分が損をし、思い通りにならない。

智者は話をし事をなす時に、いずれも結果を考慮し、他人の利益と名誉を損なわず、自讃毀他をせず、己の欲せざる所を人に施すこと勿れ、これは最低限の做人之道であり、まして菩薩になろうとするなら、これより高い法則がなければならない。菩薩の心行は、良いことは人に与え、悪いことは自分に帰すべきであり、決して逆に事を行ってはならない。良いことをすべて自分に帰し、悪いことをすべて他人に帰すなら、それは菩薩の所為ではない。

菩薩同士の間に事があれば、いずれも面と向かって太鼓を打ち鑼を鳴らし、話は面と向かって講じ、あれば改め、なければ自らを戒め、陰で両舌して是非を挑撥してはならない。是非を講じる者は容易に誹謗罪を造下し、その結果は非常に良くない。事実に基づいて正しく言うのを有根誹謗と呼び、事実でなく言い間違えるのを無根誹謗と呼び、最も軽いのは説四衆過と呼ばれる。四衆とは在家の男女二衆と出家の男女二衆であり、そのうち出家二衆はまた三宝とも呼ばれ、三宝はさらに凡夫三宝と勝義三宝に分けられる。説四衆過と誹謗の二種の業はいずれも軽くなく、果報は非常に重い。すべての菩薩が口業を善く護ることができることを望む。事があれば面と向かってはっきり言い、相手に速やかに改めさせ、互いに監督し扶持し合う。

すべての衆生が最も造りやすい業は口業である。妄語・両舌・綺語・悪口、さらに是非の挑撥・離間・嫉妬・誹謗であり、誣陷陷害とも呼ばれる。戒律は口業に対する要求が非常に厳格である。口業は最も造りやすく、造る量も最も多く、しかも人に注意されないからである。それゆえ、人は皆、話をする時にしっかり考えてから言い、口を開けばすぐ言って、その他はすべて顧みないということがあってはならない。

<h3 style="text-indent: 2em;">五、仏はなぜ無色界で法を説かないのか</h3>

無色界の天人は身体を持たないが、意識は有する。意識があれば識陰がある。意識はあるものの、禅定の中にあり、仏法を聞くことができず、まして仏法を思惟することはできない。衆生に身体がなければ、人中の人ではないが、天界の人であり、高級な生命である。触・作意・受・想・思の五遍行心所法は、八つの識すべてにあり、無色界の天人にも意識の五遍行心所法があり、意根の五遍行心所法もあり、第八識の五遍行心所法もある。

仏は無色界天で天人に法を説くことはできるが、色界の天人には聞こえず、人間の人には聞こえず、鬼神にも聞こえない。無色界の天人はそれほど多くなく、しかもすべて外道であり、一日中入定しているので、彼らに法を説く必要はまったくない。別の面から言えば、二禅定の中ではすでに仏法が聞こえなくなり、まして四禅以上の禅定の中では、法を聞き仏法を思惟することはなおさらできない。それゆえ仏は無色界天で法を説かない。仏が『華厳経』と『地蔵経』を説いたのは欲界天と色界天でであり、それから人間に流布された。その他の経典はすべて人間界で説かれた。こうすれば天人は降りてきて法を聞くことができ、鬼神や畜生も法を聞くことができ、このように度する衆生は多くなる。

<h3 style="text-indent: 2em;">六、なぜ諸仏は娑婆世界に類する世界で成仏したばかりの時、法を説いて留まることを望まないのか</h3>

あなたが三四果を証得し、貪瞋痴の煩悩を断除してから衆生を見ると、現在衆生を見る心境とは全く異なることになり、多くの言葉を口にしなくなるだろう。言っても無駄だからである。大学教授が幼稚園の子どもを見るのと同じで、実に教えることができないと感じる。あなたが成仏した時、芸芸たる衆生を観ると、貪瞋痴の煩悩が一面に広がっており、あまりにも愚痴である。その時、同様に甚深の仏法をこのような衆生に聞かせるのは、想像もつかないことだと感じ、牛に琴を弾いて聞かせるよりましだと思うだろう。衆生と階層が似通っている時は、衆生がどうこうとはまったく思わないが、ひとたびその階層から脱して、跳ね上がって下を見下ろすと、その心境はあなたたちには理解できず、想像もできない。だから言っても無駄なのである。諸仏菩薩・聖人たちは知音がなく、非常に孤独であり、衆生には理解できず、まして聖人の心境を体得することはできない。

<h3 style="text-indent: 2em;">七、初地菩薩は欲界を離れたのか</h3>

大多数の菩薩は一般に人間界で法を弘め衆生を利生しており、ただ禅定がそれぞれ異なるだけである。初地以上の菩薩は初禅以上の色界禅定を具足しなければならず、人間界で衆生と一緒にいる。少数の菩薩は各天界で修学し衆生を度している。禅定の証量と煩悩断除の証量から言えば、初地以上の菩薩の心はすべて欲界を離れており、欲界の煩悩と貪着がない。

<h3 style="text-indent: 2em;">八、菩薩はどのようにして無余涅槃に入らないようにできるのか</h3>

七地満心の時、より殊勝な三昧を修めると、三昧楽があるので、三界を離れて無余涅槃に入ることはなくなる。初地から七地の菩薩の間は、五蘊世間に対する貪愛を断除したため、五蘊世間法を喜楽せず、ひとたび執着を断じ尽くせば、三界世間には意根を繫縛する法がなくなるので、菩薩は無余涅槃に入ってしまう。それゆえこの期間には、少しの煩悩惑業を留め、ある軽微な法に対して一縷の貪を保留し、これによって意根を繫縛して三界の外に出ないようにする。

仏道に対して鍥而不捨であり、衆生を度することに対して鍥而不捨であれば、無余涅槃に入ることはない。これも軽微な執であるが、当面は保留しなければならない。『華厳経』には菩薩の十無尽願がある。菩薩は初地に入る前に、この願を発しなければならず、そうしてはじめて永遠に仏道を修学し、衆生を棄捨せず、涅槃に入らず、最終的に仏道を成就することが保証される。

心が我執と法執を離れてこそ、自在解脱であり、執すればするほど心量は小さくなる。八地菩薩の心には執がなく、無為自在で、願に随って任運自然であり、心は広大無碍で、神通道力も最大であり、菩薩身をもって仏身を現じ、仏国土を現じ、無量の衆生を広く度することができる。

三果以前は、この願を発する必要はなく、無余涅槃に入ることもできない。なぜなら、いずれも貪瞋痴の煩悩に三界の中で繫縛されており、五蘊世間に対する貪愛があり、三界の生死の繫縛を離れることはなく、なお業報の苦悩を受けなければならないからである。貪愛が重いほど、瞋恚が重く、愚痴が重いほど、苦悩が多くなり、生死の繫縛がいっそう深刻になる。人は皆、自分に執着し、自分を貪愛する。それは自分を害する罪魁禍首であるのに、自ら知らず、なおも絶えず「我、我、我」と言い続けている。実に可憐可憫である。

<h3 style="text-indent: 2em;">九、諸仏菩薩は災難に遭遇した時、どのようにするのか</h3>

仏陀が琉璃大王が軍隊を率いて釈迦族を滅ぼした時に遭遇した時、どのようにしたのか。今回、我々学仏の人はウイルス感染の災難に遭遇したが、医療従事者のように病を治し人を救い、ウイルスを殺すことはしなかったものの、我々仏教特有の衆生を救度する方法、たとえば経を読誦し念仏し法を学ぶ功徳を回向 (pariṇāma) することによって、疫病が一日も早く終息するよう推進し、国家にも応分の貢献をし、ある程度衆生を救度した。この程度がどれほどのものであるかは、今は言いにくいが、この回向 (pariṇāma) が果たす役割は小さくないと言えるだけである。では、諸仏菩薩の功徳は無量であり、天災人禍に遭遇した時、衆生の災難を解決するのに多くの方便善巧があるのではないか。衆生と悪縁を結ぶ殺生という方式を用いずに、一切の災難を化解できるのではないか。

衆生の福徳と智慧が不足している時は、災難を解決するのに殺生と敵対しか思いつかず、より良い解決方法を思いつかない。福徳と智慧が十分であれば、一つの心念で災難を化解できる。それゆえ、衆生は災難に遭遇すると、自然に諸仏菩薩を思い出す。諸仏菩薩の智慧は高広であり、いずれも吹く灰の力も費やさずにこれらの問題を解決できるからである。ただ、衆生に受用する福徳があるかどうかによる。それゆえ、人は皆やはり努力して修行すべきである。修行こそが硬道理であり、修行がなければ永遠に悪業の造作を避けられず、その後悪報を受けることになる。

<h3 style="text-indent: 2em;">十、仏法上の智慧は世間法の智慧を離れることができるか</h3>

無明とは、その義は分からないこと、明らかでないことであり、一切万法に対する分からなさ、不明瞭さを含む。諸仏は一切の無明を断じ尽くし、出世間の一切法を明らかにし、世間の一切法をも明らかにしており、明らかでない法は一つもない。世俗法の中の任意の一法を仏陀に問えば、仏陀が明らかでなく答えられないということはない。それゆえ、世俗法が通達せず、人としての振る舞いや事の処理ができないのは無明であり、その仏法も通達していない。

諸仏・諸地の大菩薩は、仏法を通達しているばかりでなく、同時に世俗法をも通達しており、世間で衆生と付き合う時、いずれも衆生の心を明らかにし、世間の事を明らかにしており、その行う決断は世俗に背かず、広く衆生を度することができ、衆生に度されることがない。

仏法上どの程度通達しているかは、それに応じて世間法上どの程度通達しているかが決まり、仏法と世間法は相輔相成であり、世間法を離れて仏法を成就できるということはない。もしできるなら、仏法は世間法と無関係ということになるが、実際には仏法はこれまで一度も世間法を離れたことがなく、世間法と緊密に連関している。仏法は世間法を効果的に指導できる。もし仏法上の智慧が高いのに、世間法上いたるところで壁にぶつかる人がいるなら、それはこの人の仏法が通達していないこと、真の仏法上の智慧がないことを示しており、いわゆる智慧は乾慧にすぎない。

諸地の大菩薩から仏陀に至るまで、いずれも世間で宰官・大臣・君主となり、転輪聖王や各層の天の天主となることができる。世間法は必然的に通達していなければならない。さもなければ、どうして君主・転輪聖王・天主になれるのか。どうして衆生の俗界の事務を管理統治できるのか。どうして衆を服させ大衆を統領できるのか。

智慧は相通じており、仏法上の智慧は世間法の智慧を離れて単独に存在することは不可能である。仏法は世間法上で実践されなければならず、世間法上で実践が通じないのは、仏法も通じておらず、ひいては世間法に応用できないことを示している。仏法上の証量は、いずれも世間法上の身口意行を通じて現れなければならない。身口意行が清浄 (viśuddha/pariśuddha) に転変せず、事の処理が円満でないのは、この人の道行がまだ不行き届き、定力・福徳力・智慧力がいずれも不足していることを示しており、それゆえ世間法を離れて現れることのできる仏法はない。

<h3 style="text-indent: 2em;">十一、念仏 (buddhānusmṛti) 法門における他励とは具体的に何を指すのか</h3>

他励とは、外在の因縁による励ましと激励を指し、仏の加持力と言うことができる。とりわけ念仏 (buddhānusmṛti) の時、念仏 (buddhānusmṛti) すれば仏に感応し、仏は感応があれば念仏 (buddhānusmṛti) する人の心念と心願を知り、念仏 (buddhānusmṛti) する人に対して加持の功用を起こし、念仏 (buddhānusmṛti) する人の道力の向上を助ける。

仏菩薩の加持は一般に、衆生の五根と五力を成熟させることに現れる。五根には信根・念根・精進根・定根・慧根が含まれ、この五根に依って五力が生じる。衆生は五種の力の作用の下で、道業が絶えず進歩し、心が清浄 (viśuddha/pariśuddha) になれば、収穫があり、成就がある。

<h3 style="text-indent: 2em;">十二、なぜ過去の祖師大徳たちは法を説く時、一般に経典を引用しなかったのか</h3>

過去の祖師大徳は、いずれも真に修為があり、真に修証があり、真に徳行のある真の開悟菩薩であった。それゆえ法を説く時は、自分の智慧と見地のみを説き、甚解を求めず、隠覆もなく、如実に説き、如理に論じた。もし時折経典を引用するとしても、一つには因縁が熟しておらず信根と智慧が不足している者のためであり、二つには法義が深い時に仏経を補助的な説明として用いるためである。

別の面から言えば、昔の学人は善根が比較的深厚で、福徳・禅定・智慧がいずれも良く、信根が足り、択法眼があり、祖師の開示に対して正しい択択力と信受力を有していた。それゆえ祖師菩薩たちは法を説く時、安心して自分の智慧の証量の知る所を説くことができ、後顧の憂いがなかった。今の衆生は善根が軽少で、福徳・禅定・智慧がいずれも不足し、信根が足りず、択法眼を欠いており、多くの人が勧めを聞かず騙しを聞く。それゆえ法を説く時には、多く経典を引用して信を起こさせる必要がある。別の面では、もし法を説く者の修行の時劫が短く、真実の智慧の証量がなく、法義がまだ通達していなければ、経典を引用せざるを得ない。たとえ経典を引用しても、一つには衆生が如実に理解できず、二つには法を説く者も経典を貫通していないので、依然として誤解と誤会を免れない。これは衆生の業力の感応であり、業が重く福が薄ければ、修行の道は曲折し、進んだり退いたりして、いつ了期になるのか分からない。

<h3 style="text-indent: 2em;">十三、大智慧は最も慈悲である</h3>

古代インドでは、婦人と子供は夫と父の私有物に属し、男は随意に妻と子を人に譲ったり売ったりすることができた。この規矩は仏といえども打破せず、弟子たちが随意に妻子を人に譲り、その後出家して道を修めることも許した。昔は婦人の地位が低く、我々の現在の目から見ればあまりに不合理であるが、当時は婦人の反抗もなく、皆が心から甘んじて耐えていた。

不合理な事柄が存在する背後には、必ず人知れず知られた合理的な因果法則がある。衆生には分からないが、仏は知っている。それゆえ仏は当時、女子の出家修道を許さなかった。これは仏が慈悲でないのではなく、このような慈悲は仏の正法時期を五百年減少させ、根器 (indriya) を有する極めて多くの衆生を度すことができなくなり、これは仏教の損失であり、衆生の損失である。しかし最後には仏も仕方なく、女子の出家修道を受け入れた。それゆえ、慈悲であるかないか、善であるかないかは、凡夫衆生の智慧では永遠に分からず、衆生の知見はすべて顛倒している。

仏陀はどのように行動しても、すべて慈悲であり、左右上下東西、すべて慈悲である。各種の角度から考量し、異なる境況から考量し、具体的な状況から出発し、仏教全体の利益から出発すれば、いずれも慈悲である。縁が異なれば果が異なり、択択も異なる。それゆえ、仏がこうすれば慈悲で、ああすれば慈悲でないとは言えない。仏はどうしても慈悲であり、大智慧・大慈悲のゆえである。私も同様であり、衆生に応対するしないにかかわらず、すべて衆生のためであり、個人のためではない。私の時間・精力・心力はすべて衆生のものであり、仏教のものであり、私個人のものではない。それゆえ、何事をするにも大局から出発し、仏教全体の利益から出発すべきである。

もし一部の人のためであれば、大部分の人の利益を損なうことになるので、一部の人のためだけに心力を消耗してはならない。仏教全体の事業は、永遠に一部の衆生の利益より高い。智慧のある人は正しい権衡と取捨を行い、利益の最大化を図り、合理的に心力と精力を付出すべきである。娑婆世界には南贍部洲だけがあるのではなく、南贍部洲は娑婆世界三千大千世界の中の一つの小世界の中の一つの星体にすぎず、娑婆世界全体には十万亿の星体があり、至る所に度脱と救抜を必要とする衆生がいる。菩薩は十方世界の一切衆生のものであり、一つの地区の衆生だけのものではない。菩薩の心量は非常に広大であるべきであり、眼量は全世界・全宇宙に置かれるべきである。それゆえ、この世間に来る来ないにかかわらず、すべて仏教のため、衆生のためであり、すべて慈悲である。

<h3 style="text-indent: 2em;">十四、仏陀の寿命</h3>

ある種の劫には、仏の寿命も衆生の寿命も非常に長く、劫で計算される。一小劫は1680万年であり、仏の寿命は十二小劫の時間を示現することもでき、さらに長くなることもできる。仏が菩薩であった時の善業によって定まり、衆生の業力によっても定まる。しかしこれは示現にすぎず、仏の実際の寿命はいずれも無量寿であり、無限に長く、時間の制限がない。釈迦仏の今回の娑婆世界における寿命は八十年であり、当時の衆生の百歳の寿命とほぼ同じである。これは衆生の業力によって決定されたものである。釈迦仏は娑婆世界に一劫以上住世することができたが、衆生に福がなく、このような殊勝な果報を感召することは不可能であり、仏陀が長く住世しても仏教と衆生に益がないので、仏陀は縁に随って八十歳の寿命を示現した。

<h3 style="text-indent: 2em;">十五、我が咒願</h3>

私はすでに皆のために仏法の高峰に登る天梯を架設した。この天梯は一切の大智慧を獲得する最も直接的で最も秘密の通路であり、日月に最も最も近く、ほとんど手を伸ばせば届く。皆は体力と心力が許す限りにおいて、自ら登り、高い所から下を見下ろして仏法の運作状況を観察すれば、大智慧を獲得することができる。世俗法上、私はこの秘密の通路を提供したが、私はどれほどの特許料と使用料を徴収すれば公平で合理的なのか。実のところ、私はどれほどの費用を徴収しても少なすぎると言わざるを得ない。世界上のすべての珠宝を私にくれても、私は元が取れない。今やどれほどの費用を徴収しても適切でないのだから、まして私はあまりお金を使うのが得意でなく、それほど多くのお金も必要としないので、私は長い糸で大魚を釣り、最大最大の利益を徴収することにする。

私は今、咒願を発する。凡そ我が一滴の法恩に沾した者は、未来の三大無量劫において我が履を歩み、我が道に倣い、我が行を行い、いかなる個人の利益も記さず、菩薩の万行を行じ、一切の可度の衆を度脱せよ。三大阿僧祇劫の後も、辛苦を辞さず、代価を記さず、一切の可度の衆を度脱し、半点の不愿と違逆があってはならない。

咒願はすでに発下されたので、誰も逃げ出すことはできず、逃げようと思ってもすでに遅い。たとえ以前に逃げ去った者でも、我が咒願の威力から逃れることはできない。一切の人等は、願うと願わないにかかわらず、一様に我が咒力の中にあり、自覚的であれ無自覚的であれ咒願を履行し、どれほど久遠の劫であっても、逃れることは許されない。あなたは一日、一年、一生一世を懈怠することはできるが、我が咒力の下で永遠に懈怠し続けることは不可能である。咒力が許さないからである。成仏するまで、苦しみの衆生を度し尽くすまで。

文殊菩薩は成仏せず、菩薩身をもって七尊の仏世尊を教導し、さらには再び菩薩身をもって無数の仏世尊を教導するであろう。しかし一旦文殊菩薩が成仏する時には、神様の所在する仏国土は一切の諸仏国土を覆い、一切の諸仏国土はすべて文殊菩薩の仏国土の中にある。そして私は今、収穫を望まず、星点の報いを得ることを望まず、未来の最大最大の報いを望む。我が恩を受けた者は、必ず無量劫また無量劫にわたって我が行に倣い、我が恩に報いよ。ちょうど私が無条件に仏の行に倣い、仏の恩に報いるのと同じように、怨言があってはならない。たとえ怨言があっても、愚痴を言った後でも、なお代価を記さず、永遠に菩薩道を実践し、成仏の前であれ成仏の後であれ、かまわない。

我が咒力は、魔の咒力より百倍・千倍・万倍大きい。我が咒を受け、魔の咒を脱し、永遠に魔の擾乱を受けない。我が咒力は魔の咒を摂伏し、魔力は仏力と変じて、共に行人の上路を加持し、勇猛精進して退転しないようにせよ!

<h3 style="text-indent: 2em;">十六、雌雄同体の境界</h3>

身心は相倚り、互いに影響し合う。もし意識に障害が現れたら、必ず勝義根 (indriya) に問題が生じている。勝義根 (indriya) の問題は、一つには先天の業種の縁が熟して現行し、業報が現れたことであり、二つには後天の要因によって勝義根 (indriya) に障害が生じたことである。身の外に跳出して色身を見れば、全体として絶えず潤滑油を添加してはじめて働くことのできるロボットであり、本当に貪愛するに値するものは何もない。高尚で徳行のある魂は、色身よりはるかに価値が高く、智慧のある魂は色身の価値より計り知れないほど高い。それゆえ、我々は皆、高次元の心霊を追求し、心霊の智慧と解脱を追求すべきである。

そして高次元の心霊は、必ず転識成智しており、定慧が具足し、色身を変えるに十分であり、色身に相好荘厳 (lakṣaṇa-vyañjana-sampad) を具足させ、男相の長所もあれば女相の長所もあり、外見上、男性の特徴もあれば女性の特徴もあり、男相と女相を完璧に融合させて一体にし、雌雄同体に達する。禅定の功夫は雌雄同体を修出することができ、色身は無漏であり、異性に依存して自身の不足を補充し補填する必要がない。このように人格が独立すれば、自身はますます完璧になり、将来は蓮花化生することができる。初禅以上の禅定があれば、初步的な雌雄同体がどのようなものかを知ることができるが、初禅定ではまだ足りず、長時間の熏修、さらには長劫の熏修が必要である。

これは禅定と色身の角度から論じた雌雄同体であり、最も根本的な雌雄同体は精神上の心霊上のものを指す。精神・毅力・性格・気質・風度・人格・修養・品行などの面において、男性の長所と智慧を具足するのみならず、女性の長所と智慧をも具足し、異性に依存してその心志上の不足を補填する必要がなく、自分自身がすでに二重性を具えており、すでに完璧であるか、あるいは完璧に近く、世人に優れている。大菩薩たちは一般に雌雄同体であり、両性の長所をすべて具えており、智慧と身体の相貌を含む。仏菩薩は相貌上、男か女かを判別することができず、智慧の面では男女とも同じである。それゆえ大丈夫と称される。

色界の天人の相貌は男女の区別がなく、いずれも初禅以上の禅定を有し、極楽世界と多くの仏国土の人も男女の区別がなく、性別の分けがなく、色身は永遠に若い。これは禅定・福徳・智慧が感召した果報である。性別の区別がない時は、付き合うのが特に自在であり、違和感がなく、是非もなく、煩悩の情緒もなく、快適で自在で自然な感覚である。しかし二つの性別が一緒に付き合う時は、面倒なことが多く、多くの精力と心力を浪費する。

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