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仏法雑談(第二部)

作者: 更新時間:2025-07-12 22:55:46

第一章 極楽浄土篇

一、西方極楽浄土は三界に属するか否か

この問題を理解するには、まず以下の三つの問いを考察せねばならない。三界とは何か? 三界の各々の特徴は何か? 三界の内側には何があり、外側には何があるか? その後に極楽浄土の特徴を考察し、三界の各々の界と照らし合わせ、比較を経て初めて正しい結論が得られる。この思考順序は主題に密着している。学校で作文の得意な生徒は、特に試験の際には主題から逸脱せずに書く。もし主題から外れれば、どれほど優れた内容でも不合格となり、零点となることもある。

三界の特徴とは何かと問われれば、欲界の特徴、色界の特徴、無色界の特徴を考慮し、次に西方極楽浄土の特徴が何かを考え、三界の特徴と比較対照すれば、西方極楽浄土が三界の内側にあるか外側にあるかが分かる。これが問題の思考の筋道であり、極めて単純である。もちろんこれは比量による理解であり、結果が正しい可能性、あるいは完全に正しい可能性はあるが、現量による観察で得た知見ではなく、実証による理解には属さない。現量による観察は二者を比較せずとも了知できる。比量による理解は意識による比較で得るものである。現量知には、禅定中の意識による現前の観察だけでなく、意根も意識と共に観察したり、あるいは単独で深く思惟し、最終的に事実に合致する結論を導く。禅定がなければ、これらは論じられない。

欲界の特徴とは何か? まず欲界の衆生には五蘊十八界の法があり、色法たる器世間の山河大地などがあり、心法たる八つの識心がある。識心には善・悪・無記の心所法があり、無明があり、貪・瞋・痴があり、主に貪欲を基調とし、欲界のあらゆる法に貪着する。色界の特徴とは何か? 色界の衆生には四禅八定があり、最も基本的なのは初禅定である。色法たる色身と器世間があり、心法たる八識、あるいは七識、六識、五識、四識、三識がある。心所法には善と無記の二種があり、悪心所法はない。悪心所法は降伏・圧伏されており、必ずしも断たれているわけではない。定心所法が比較的顕著で、身心は常に定中にあり、煩悩は現前しない。

無色界の特徴とは何か? 無色界とは名の如く色がなく、器世間の宮殿や山河大地などもなく、色身もない。ただ六・七・八の三識が四空定の中にあり、心所法は不善不悪で、一切の煩悩は降伏されており(必ずしも断たれているわけではない)、定心所法がより一層突出し顕著である。

西方極楽浄土にはどのような特徴があるか? 極楽浄土の凡聖同居土には、阿惟越致以上の全ての階位の菩薩たちと、阿惟越致以下で明心せず証果していない凡夫の衆生がいる。これらの衆生は皆、五蘊十八界を持ち、色法たる色身と宮殿・花草樹木・大地河池などがあり、心法たる八識があり、心所法は全て善と無記であり、悪心所法はない。菩薩たちは禅定について言えば、たとえ凡夫の衆生であれ、長く蓮華の宮殿の中にいるため心識が既に転換し、もはや悪がなく、散乱もせず、皆禅定を得て心は定中にあり、一心に仏法を思惟している。菩薩たちの貪欲は当然降伏または断除されている。凡夫衆生の貪欲は断除こそできないが、降伏はされている。

このように、極楽浄土には色界の特徴もあれば欲界天界の特徴もあり、無色界の特徴はない。したがって極楽浄土は三界に属する法であり、三界の外には出ていない。無余涅槃後の阿羅漢のみが三界の外にあり、三界の中にはいない。仏菩薩でさえも三界の外には出ず、しかも「衆生を度し尽くさずんば、永遠に三界の外に出ず、涅槃に入らず」と誓願している。なぜなら三界の外には一切の世俗法がなく、色法もなく、七識の心法もなく、五蘊十八界などの法は全て滅しており、ただ第八識のみが滅しないからである。諸仏菩薩がどうして自らの五蘊十八界を滅し、五蘊身を用いて衆生を度することをしないことがあろうか。それゆえ極楽浄土も諸仏国土も皆三界の中にあり、諸仏菩薩たちも皆三界の中にいて、永遠に五蘊の衆生と共にあるのである。

二、極楽浄土への往生の真相

明心して上品上生する者、証果して中品上生する者は、極楽浄土に到着すると即座に仏に会い、十方世界に随意に行き、蓮華に包まれることなく、直ちに十方諸仏に会って供養できる。それ以外の品位の往生者は、皆蓮華の宮殿に包まれ、徐々に煩悩を降伏させ、悪業の種子を枯れ萎えさせる必要がある。阿弥陀仏は、このような煩悩を持ち機会があれば悪業を造作する可能性のある衆生を最も巧みに対処され、彼らを一人で蓮華の宮殿に住まわせ、少しも悪業を造る機会を与えない。もちろん善業を造ろうとしても不可能である。ただ過去の業種が徐々に枯れ萎え、自らも造業の念いがなくなるのを待つ。心が清浄になり、善根が深く厚くなった時に初めて、蓮華の宮殿を出て阿弥陀仏、あるいは観世音菩薩・大勢至菩薩、または仏菩薩の化身に面会し、直接法を聞き、それによって明心開悟することができるのである。

『観無量寿経』に説かれる中品・下品往生の者がどのような待遇を受けるかを見れば、智慧ある者は自ら行くべきか否かを考えるであろう。たとえ地獄に堕ちてから出て修行するとしても、極楽浄土で十二大劫もの間、ただ一人蓮華の宮殿に住むよりは、何倍も速い。地獄は確かに非常に苦しいが、出てから修行を再開すれば、成仏の速度は極楽浄土にいるより遥かに速い。鍵は、各人が何を追求するかである。

下品下生の者は極楽浄土の蓮華の中に十二大劫住むが、これは娑婆世界の十二大劫ではない。コンピュータで計算してみれば、それがどれほど長遠な劫の時間であるかが分かる。この長い時間は確かに非常に楽しみではあるが、毎日餃子を食べていれば飽きるものであり、慣れてしまえば餃子もそれほど美味しいとは思わなくなる。

三、凡夫が極楽浄土に往生する際、なぜ蓮華台に包まれるのか?

明心開悟した者が極楽浄土に上品上生する際は蓮華台に包まれる必要がなく、証果した者が中品上生する際も蓮華台に包まれる必要がない。しかし、証果も明心開悟もしていない者が極楽浄土に往生する際は、必ず蓮華台に包まれて若干劫を過ごさねばならない。これはなぜか?

この問題は以下のように思惟すべきである。一、極楽浄土と娑婆世界は何が異なるか? 二、極楽浄土と娑婆世界の衆生は何が異なるか? その後に思惟する。このような違いがあるならば、三、娑婆世界の衆生が皆極楽浄土の中を自由に動き回ったら、どのような結果が生じるか?

凡夫の煩悩があまりにも重いため、蓮華の蕾に包まれなければ、極楽浄土は次第にもう一つの娑婆世界になってしまうであろう。阿弥陀仏はなぜ極楽浄土を建立されたのか? なぜこのように極楽浄土を設計されたのか? なぜなお衆生を選別されるのか? なぜ大慈大悲をもって一切の人々や三悪道の衆生などを全て摂受しないのか? 衆生は常に他人が自らに大慈大悲を示すことを望むが、もし本当に自らの願い通りになったら、結果は恐らく悪果であり、それは逆に全く慈悲とは言えない。衆生が好む慈悲は往々にして禍害を生み出しやすい。

証果も明心もしていない者は、極楽浄土の中で自由に動き回ることも、十方世界に行って諸仏を供養することもできない。これは、これらの衆生の煩悩が極楽浄土を乱すのを防ぐためである。ここから我々は理解できる。証果し明心した者は極楽浄土の修行道場を乱すことはない。なぜなら彼らの粗重な煩悩は既に降伏されており、たとえ断たれていなくとも、阿弥陀仏の加護摂受の下では現行することはないからである。

ならば、娑婆世界で証果し明心した者は、必ず煩悩を降伏させた者であり、必ず深刻な煩悩が現行していない者であり、必ず他人を煩わせない者であるはずである。もし深刻な煩悩が現前している者、あるいは気軽に他人や他を煩わせる者がいれば、必ず証果も明心もしておらず、自ら証果・明心と認めるのは大きな誤解に違いない。

したがって道場は三六九等に分けるべきであり、様々なレベルの者が混在すべきではない。そうでなければ道場は混乱し、煩悩が熾盛となり、一切の修行は成就せず、道場は煩悩の事件発生地となる。一つの道場に六和敬がなければ、必ず混乱する。見解が和合しない者同士は集まるべきではなく、修行のレベルが異なる者は決して集まるべきではない。そうでなければ必ず大悪業を造る者が現れるであろう。

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