仏法雑談(第二部)
原文:若有善男子、善女人。闻说阿弥陀佛。执持名号。若一日。若二日。若三日。若四日。若五日。若六日。若七日。一心不乱。其人临命终时。阿弥陀佛与诸圣众。现在其前。是人终时。心不颠倒。即得往生阿弥陀佛极乐国土。舍利弗。我见是利。故说此言。若有众生。闻是说者。应当发愿。生彼国土。
解釈:もし善男子・善女人が極楽世界に阿弥陀仏がいると聞いて、往生のために阿弥陀仏の名号を念仏 (buddhānusmṛti) し、あるいは一日で一心不乱の境地に念じ至り、あるいはそれぞれ二日、三日、四日、五日、六日、七日と念じて一心不乱の境地に念じ至ったなら、この人は臨命終の時に、阿弥陀仏と諸聖衆がこの人の前に現れる。この人が命終の時に心が顛倒せず、娑婆世界の一切の人や物事を念じていなければ、阿弥陀仏の極楽国土に往生できる。舎利弗よ、私はこのような殊勝な利益を見たので、このような言葉を説いたのだ。もし衆生がこのような説法を聞いたなら、願を発して阿弥陀仏の極楽国土に生れるべきである。
仏はここで往生の条件をはっきりと説いている。一心不乱に修め、念仏三昧が現れ、しかも命終の時に心が顛倒せず、娑婆世界を念じてはならない。もし娑婆世界を念じていれば、阿弥陀仏と諸聖衆が目の前に来ても、帰ってしまい、接引することができない。つまり、念仏 (buddhānusmṛti) はたとえ予知時至に念じ至っても、往生を保証することはできない。なぜなら臨終時の禅定は変数であり、固定不変のものではなく、心念と業力もまた変数だからである。定力がひとたび消え、心が散乱し、雑念が現れれば、何もかも論ずる余地はない。定力に影響する要因は数多くあり、臨終時にどんな因縁が現れるか分からず、心が散乱すれば往生は不可能になる。
一心不乱はできるとしても、臨命終時に心が顛倒しないことが鍵であり、これは非常に容易ではない。臨命終時に業障が現前し、怨親債主が押し掛けてくれば、心が顛倒しない者はほとんどいないだろう。一念の貪でも起これば行くことはできない。信はどのように信じ、どの程度に達すればよいのか、願にはどのような心願があるべきか、行にはどのような行動があるべきか、何をすべきか、信願行の内容は豊富である。もし往生したいなら、まず坐禅三昧経の冒頭部分の、仏が説いた種々の心を治める内容を薫習し、心を調えて顛倒しないようにしてこそ、はじめて往生の望みがある。
年齢が高い人、身体に疾病のある人は、行門に多く功夫を用い、不必要な法を解くことに時間を費やすのは少なくすべきである。なぜなら臨命終時にはこの一生の行によって後世の趣向が決まり、解いた法は決定的な作用を果たさないからである。浄土を求める上で最も重要なのは願力と願行であり、心願・心念の力が重要である。願力を堅固にしたいなら、世間の苦を深く認知しなければならない。世間の苦を知らなければ、心は貪愛のために懈怠する。仏を学ぶ人の多くは、どれだけ長く学んでも、心は依然として悠々自適で切迫感がなく、毎日あちこち眺め回し、何にでも興味を持ち、雑然と知識を吸収し、修行に対する正しい認識と計画がなく、後世に対しても無知無畏である。このような人はたいてい初学者であり、生まれたばかりの子牛は虎を恐れないように、初学者は苦も死も恐れない。
念仏 (buddhānusmṛti) 法門を修学したい人は、まず浄土初祖・慧遠大師の修行の事跡を見て、大師がどのように修行したのか、なぜ三度三昧 (samādhi) の中で聖像を見ることができたのかを見るべきである。私たちはどのように功夫して修行すれば、命終に浄土へ往生できることを保証できるのか。
<h3 style="text-indent: 2em;">二、往生後、蓮華台の中で何の法を薫習するのか</h3>阿弥陀経原文:彼国常有种种奇妙杂色之鸟。白鹤孔雀。鹦鹉舍利。迦陵频伽。共命之鸟。是诸众鸟。昼夜六时。出和雅音。其音演畅。五根五力。七菩提分。八圣道分。如是等法。其土众生。闻是音已。皆悉念佛念法念僧。
解釈:これは極楽世界の国土における衆生の修行の様子を紹介したものである。極楽世界には常に種々の奇妙で色彩斑雑な鳥類がおり、白鶴・孔雀・鸚鵡・舎利・迦陵頻伽・共命の鳥があり、これらの鳥は昼夜六時に和雅の音声を発し、その演じ歌う内容は三十七道品である。和雅音は極楽世界で蓮華台の中に住む衆生に聞かせるために唱えられるものであり、衆生はこれを聞くと、三宝の恩徳と功徳を念じるようになる。
だから衆生は極楽世界に往生しても、なお四聖諦の法および助道の法を修めなければならず、なおまず五蘊無我を薫習し、断我見 (satkāya-dṛṣṭi-prahāṇa) のための基礎を築き、明心見性・花開見仏のための基礎を築くのである。私たちが娑婆世界で仏法を学び修行するにあたって、阿含経を学ばず、四聖諦を解さず、三十七道品を修めなければ、果たしてよいのだろうか。法を一つ多く修め、理を一つ多く明らかにするごとに、往生のための保障が一つ増え、極楽世界に到ってからの修行がより速くなる。極楽世界に往生した衆生は、従前の願力・発心と所修の法によって大乗と小乗の人に分かれるが、大乗であれ小乗であれ、蓮華台の中で四聖諦と三十七道品を薫習しなければならず、煩悩を降伏してはじめて蓮華台の外に出て、仏や菩薩に会い法を聞き、証果の機会、明心見性の機会を得ることができる。
<h3 style="text-indent: 2em;">三、臨命終時にどうすれば心が顛倒せず極楽世界に往生できるのか</h3>仏説阿弥陀経原文:若有善男子。善女人。闻说阿弥陀佛。执持名号。若一日。若二日。若三日。若四日。若五日。若六日。若七日。一心不乱。其人临命终时。阿弥陀佛与诸圣众。现在其前。是人终时。心不颠倒。即得往生阿弥陀佛极乐国土。
解釈:もし善男子と善女人が、西方極楽世界に阿弥陀仏がいて人を接引して往生させることができると聞き、ただ阿弥陀仏の名号を念じることができ、しかも一日、あるいは二日、あるいは三日、あるいは四日、あるいは五日、あるいは六日、あるいは七日と連続して、そのような時間の中で絶え間なく念仏 (buddhānusmṛti) し、一心不乱であれば、この人が臨命終の時に、阿弥陀仏と極楽世界の諸大菩薩および阿羅漢などの聖人大衆が、この人の前に現れる。この人がまさに命終しようとする時に、心が顛倒しなければ、直ちに阿弥陀仏と諸聖衆に随って極楽世界に往生する。
前の一文:(念佛七日)一心不乱,其人临命终时,阿弥陀佛与诸圣众,现在其前。後の一文:是人终时,心不颠倒,即得往生阿弥陀佛极乐国土。この二文の意味には差異がある。前の文はただ臨命終時に仏と諸聖衆が念仏者の前に現れることを表すだけであり、この念仏者が必ず往生できることを意味しない。なぜなら後の文にはもう一つの往生の条件として心不顛倒があるからである。後の文は前の文を補足するものであり、臨命終時に心が顛倒しなければこそ往生できることを表している。前の文は阿弥陀仏と諸聖衆が念仏者の前に来て接引の準備をしていることを表すが、まだ連れて行ってはおらず、後の文はこの人が心不顛倒の時に初めて連れて行かれることを表し、もし心が顛倒すれば連れて行かれない。
阿弥陀仏と諸聖衆がこの人の前に現れても、この人が臨命終の時に心が顛倒し散乱すれば、結果として往生はしない。平時の念仏 (buddhānusmṛti) がたとえ一心不乱の境地に達していても、臨命終の往生を保証することはできない。業障が現前し、心が乱れ顛倒すれば、阿弥陀仏と極楽世界と相応せず、極楽世界へは行けない。だから極楽世界への往生は、行きたいと思えば行けるというものではなく、極めて大きな福徳が必要なほか、業障を消し、清浄 (viśuddha/pariśuddha) な大願を持ち、願力を業力より大きくし、さらに深心と至誠心がなければならない。
一心不乱は心不顛倒と等しくなく、予知時至でも必ず往生できるとは限らず、阿弥陀仏が接引に来ても、必ず連れて行かれるとは限らない。往生できるか否かの根本は、往生しようとする人が臨命終時に心が顛倒しているか否かにある。臨命終の最後の一念は極めて重要である。この一念の前にはたとえ一心不乱で心が顛倒していなくても、最後の一念を保持できなければ、もうどうにもならない。この最後の一念が後世の趣向を決めるのであり、兵を練ること千日、兵を用いること一時、生死の試練は最後の一念にある。それ以前に念仏 (buddhānusmṛti) して一心不乱の境地に至っていなければ、最後の一念はほとんど顛倒して自ら制御できず、業力が主導権を握る。このとき願力が業力より大きければ、様子は違ってきて、願力に牽引されて後世へ趣向する。
一心不乱は定を主とし少量の慧があり、心不顛倒は慧を主とし少量の定がある。定慧が具足して欠くことのできないものとなってこそ、往生できる。心不顛倒の智慧を持ちたいなら、どのように修めるべきか。浄土を修める人が往生しにくいのは、単に功夫が修めにくいだけでなく、主に智慧が不足しているからである。どのような智慧が不足しているのか。世間の苦に対する智慧が不足しているのであり、だから平時に業障が消えておらず、臨命終時に心が顛倒するのである。もし平時に苦聖諦を修習し、娑婆の苦を知り、五蘊世間を貪らず、真心から往生を発願し、万縁を放下し、一心不乱を得てこそ、はじめて往生の望みがある。
一心不乱の後でも、心はなお顛倒することがある。顛倒とはどのような心念か。不顛倒とはどのような心念か。阿弥陀仏が前に現れて接引しようとするとき、あるいは臨命終の時に、一心に阿弥陀仏を念じ、一心に極楽世界を念じ、仏の功徳と相好を念じてこそ、阿弥陀仏と極楽世界と相応するのであり、これが不顛倒である。
このとき突然家親眷属を念じたり、五欲六塵を念じたり、娑婆世界の良さを念じたりして、心にわずかでも留恋と執着があれば、阿弥陀仏と一心ではなくなり、少し三心二意になる。これが顛倒である。ある人は臨命終の時にこう考える。私は菩薩であり、菩薩は時時刻刻衆生を度すべきであり、今私は極楽世界へ行くのだから、これはまさに衆生を度す好機であり、大衆に私の往生の殊勝な姿をしっかり見せて、彼らの往生への信心を増させなければならない、と。このように考えると心は乱れており、一心不乱ではなく、心は顛倒しており、往生はできない。
往生したいなら、平時の功夫を十分に積み、理を明らかにしなければならない。五蘊世間の苦・空・無常・無我の理を明らかにし、理を明らかにした後、業障を消し、自らの苦を知り、衆生の苦をも知り、自らの苦の解脱を願うと同時に衆生の苦の解脱をも願うことで、はじめて真誠心・至誠心が生じ、菩薩の清浄 (viśuddha/pariśuddha) な大願を発し、阿弥陀仏と諸聖衆と相応し、極楽世界と相応し、臨命終に顛倒せず、もって極楽世界に往生できる。
<h3 style="text-indent: 2em;">四、下品下生の往生の条件</h3>観無量寿経原文:下品下生者。或有众生。作不善业。五逆十恶。具诸不善。如此愚人。以恶业故。应堕恶道。经历多劫。受苦无穷。如此愚人。临命终时。遇善知识。种种安慰。为说妙法。教令念佛。彼人苦逼。不遑念佛。善友告言。汝若不能念彼佛者。应称无量寿佛。如是至心。令声不绝。具足十念。称南无阿弥陀佛。称佛名故。所念念中。除八十亿劫生死之罪。命终之时。见金莲华。犹如日轮。住其人前。如一念顷。即得往生极乐世界。于莲华中。满十二大劫。莲华方开。观世音。大势至。以大悲音声。为其广说诸法实相。除灭罪法。闻已欢喜。应时即发菩提之心。
解釈:下品下生の場合はこうである。ある衆生は不善の業行を造作し、さらには五逆十悪の罪業を造作し、一切の不善業を具足した。このような愚痴な人はこれらの悪業のゆえに、三悪道に堕ちるべきであり、多くの劫の時間を経て、窮まりない苦楚を受けるはずである。このような愚痴な人が臨命終時に善知識に出会い、種々の教導と安慰・激励を受け、妙法を説かれ、念仏 (buddhānusmṛti) を教えられたが、その愚痴な人はすでに苦に逼られて念仏できなかった。
善知識は彼に告げて言った。もし阿弥陀仏を念じられなければ、無量寿仏の仏名を称えなさい、と。そこでこの人は極めて誠心をもって仏名を称え、声を絶やすことなく十分に「南無阿弥陀仏」の名号を十回念じた。至心をもって仏名を称えたゆえに、一念ごとに八十億劫の生死の罪が除滅された。命終の時に金色の蓮華が日輪のように大きく、その人の前に懸かっているのが見え、この人は一念の間に極楽世界に往生した。蓮華の中にまるまる十二大劫住して、蓮華がようやく開敷し、蓮華の中から出ると、観世音菩薩と大勢至菩薩が大悲の音声をもって彼のために諸法の実相と罪を除滅する法を広く説き、この人は聞いて歓喜し、直ちに菩提心を発した。
至心をもって念仏 (buddhānusmṛti) できる者は、皆真誠心をもって念仏する者であり、心の奥底から念仏するのであって、口では念じ心では念じない念仏ではない。意識が信受して念仏するだけでなく、意根も信受して念仏してこそ、念念に八十億劫の生死の罪を消すことができる。この罪が消えれば障害がなく、極楽世界に往生する。罪業はすべて意根と相応するのであり、意根も念仏してこそ、念念に八十億劫の罪業を消すことができる。もし意識だけが仏を信じ念仏し、至誠でなければ、業を消すことができず、まして往生はできない。大悪業を造った人が臨命終にちょうど善知識の摂受に出会えることは極めて容易ではない。至心をもって念仏できる者は、娑婆世界ではなおさら見つけにくく、一生念仏しても意根に薫習されなかった人が遍ちている。だから大悪業を造った人が臨命終時に極楽世界へ往生できることは、稀有難得なのである。
下品下生は、大悪業を造り、しかもまだ仏を信じる機縁のなかった人を摂受する。このような人は臨命終時にまさに地獄へ落ちようとしており、さらには地獄の悪相がすでに現れている。このときこの悪人は心に恐怖を生じ、善知識が彼に極楽世界浄土の念仏 (buddhānusmṛti) 法門を開示すると、この人にはまだいくらかの善根があり、内心の恐怖と無助さも加わって、直ちに極めて信受し、わずか十回の仏号を念じただけで、その場で極楽世界に往生できた。このような条件を備えた人だけが下品下生できるのであり、すでに仏を信じていた人がさらに悪業を造れば、往生はできない。すでに仏を信じ学んでいたのに、念仏に対してとっくに懈怠して誠心がなく、これほど大きな罪業を造り、臨命終に悪相が現れても至誠心が起こせないため、往生できないのである。
<h3 style="text-indent: 2em;">五、極楽世界への往生を保証する条件</h3>仏が衆生の極楽世界への往生に保証を与えているのは三つだけであり、いずれも観無量寿経の中にある。第一は、十六観のうちの第三観で、水観を修め成就すれば、命終に必ず極楽世界へ往生することを保証する。後の第四観から第十六観までは、なおさら命終に極楽世界へ往生することを保証しており、第三条と合わせて一条とする。第二は、断我見 (satkāya-dṛṣṭi-prahāṇa) の人は、命終に必ず極楽世界へ往生することを保証し、中品上生である。第三は、明心の人は、命終に必ず極楽世界へ往生することを保証し、上品上生である。その他の修行方法でも極楽世界に往生できるが、保証はなく、確定せず、往生できるかもしれないし、できないかもしれず、最後の一口の状況次第である。
<h3 style="text-indent: 2em;">六、極楽世界への往生に必要な善根福徳因縁とは何か</h3>善根の善とは、仏法において善心と清浄 (viśuddha/pariśuddha) 心をもって修める善業、行う善行を指す。たとえば深心をもって三宝に帰依し、三宝を供養し、仏教を正信し、戒定慧を精進修持し、相当程度の福徳と仏法の理念を備え、もはや世俗の法を帰依とし重んじず、大菩提心を発し、一切衆生を救度することを誓願する。三宝の教導に背かず、仏の説かれた一切の経典を深信し、教導に随順し、楽んで修習し誹謗せず、仏の教化を受け、仏の深恩を感じ、身心の一切をもって仏法僧三宝に報いたいと願うなどである。善根の根とは、根器 (indriya) の意味であり、すでに種となったという意味であり、基礎が堅固で確実で動かすことのできないという意味であり、善法が心に深く植え付けられているという意味であり、善法と善果を生じさせる能力があるという意味でもある。この善根がなければ、極楽世界および諸上善人と相応せず、相応しなければ極楽世界に共住できない。
以上は善根に対する定性的な記述であり、定量的な記述はできず、善根の深浅の程度を判定する基準は具体的に表現できず、相当の経験と智慧を備えた人だけが如理如実に判断できる。経験と智慧がなければ、基準を示しても、それに基づいて真実に判断することはできない。これは世間法の判断と似ている。たとえば大学教授と講師の評価・評定では、基準があっても、小学生や中学生はそれに基づいて真実に判断できず、素人は内行を判断できず、低いレベルは高いレベルを判断できない。
仏法の修持の程度の判断はなおさらそうである。大多数の人は素人と低レベルの段階にあり、どうしてある人が善知識か否か、開悟や入地したか否か、説かれる法が本当に仏の説かれた意趣に符合するか否かを判断できようか。標準答案と照らし合わせても、如実に判断することはできない。だから衆生を深く害する邪魔外道については、仏菩薩と護法神がこっそり処理すればよく、衆生にその経緯をはっきり話す必要はなく、ある人は後になって長い思考を経て、次第に分かってくる。
福徳の面では、もちろん極楽世界の衆生の福徳と相当であり、天人の福徳と相当でなければならず、極楽世界の福を享受する資格がある、つまりすでに極めて大きな福徳資糧を集積していて、命終に往生でき、最後に極楽世界でこれらの福徳を享受するのである。これほど大きな福業を植えていなければ、大福を享受できず、往生できない。この類の福は主に清浄 (viśuddha/pariśuddha) 福を指し、持戒の福、禅定の福、念仏 (buddhānusmṛti) の福、智慧の福、三宝を恭敬信楽する福などであり、これらの福はいずれも学仏の功徳と相応するものであり、娑婆世界で享受できる栄華富貴の世俗の福ではない。
往生の因縁とは何を指すのか。因縁とはすなわち条件であり、因は修めて得た善業の種子であり、たとえば念仏 (buddhānusmṛti) の功徳である一心不乱、心中で娑婆世界の縁を捨てて心が顛倒しないこと、戒定慧を具足し、貪瞋痴を降伏し、一心に極楽世界を憧れ、成仏して衆生を度すことを憧れることである。縁は善業の縁が熟し、善友が助け、悪業が現前せず、冤親債主が遠ざかり、障害がなく、修めた福徳と功徳が、命終に諸仏菩薩聖衆が手を差し伸べて迎えに来ることを感得できることである。善根・福徳・因縁がすべて具足した人だけが極楽世界に往生でき、一般の人は修持が不足すれば往生できない。
<h3 style="text-indent: 2em;">七、極楽世界への往生の真相</h3>明心して上品上生の人、証果して中品上生の人は、極楽世界に到れば直ちに仏に会い、十方世界へ思いのままに行け、蓮華に包まれることなく、直ちに十方諸仏に会って供養する。その他の品位の往生は、いずれも蓮華の宮殿に包まれ、徐々に煩悩を降伏し、悪業の種子を枯れさせなければならない。阿弥陀仏はこの部分の、煩悩があり機会があれば悪業を造作する衆生に対して最も対処が上手であり、彼らを一人で蓮華の宮殿に住まわせ、悪業を造作する機会を一切与えない。もちろん善業を造ることも不可能になる。ただ従前の業種を徐々に枯れ萎えさせ、自分自身にも業を造る考えがなくなり、心が清浄 (viśuddha/pariśuddha) になり、善根が深厚になったとき、はじめて蓮華の宮殿から出て、阿弥陀仏あるいは観世音菩薩・大勢至菩薩、あるいは仏菩薩の化身に面会し、面と向かって法を聞き、もって明心開悟する。
観無量寿経の中の下品往生の人たちがどのような待遇を受けているかを見てみよ。智慧のある人は行くべきかどうかを考えるだろう。たとえ地獄に落ちてから出て修行するとしても、極楽世界で十二大劫、一人きりで蓮華の宮殿に住んでいるより、はるかに何倍も速い。地獄は確かに非常に苦しいが、出てから修行すれば、成仏の速度は極楽世界にいるよりずっと速い。鍵は各人が自分で何を追求しているかにある。
下品下生は極楽世界の蓮華の中に十二大劫住するが、これは娑婆世界の十二大劫ではない。コンピュータで計算してみよ、一体どれほど遠い劫の時間か。これほど長い時間は確かに非常に享受に満ちているが、毎日餃子を食べていれば、やがて飽きが来て、慣れてしまえば餃子もそれほど美味とは感じなくなる。
<h3 style="text-indent: 2em;">八、凡夫が極楽世界に往生すると、なぜ蓮華台の中に包まれるのか</h3>明心開悟した人は、極楽世界へ上品上生し、蓮華台の中に包まれる必要がなく、証果した人は中品上生で、これも蓮華台の中に包まれる必要がないが、証果も明心開悟もしていない人が極楽世界に往生すると、必ず何劫もの間蓮華台の中に包まれなければならない。これはなぜか。
この問題はこう思惟すべきである。極楽世界と娑婆世界にはどのような区別があるか。極楽世界と娑婆世界の衆生にはどのような区別があるか。それから思惟せよ、このような区別がある以上、娑婆世界の衆生が皆極楽世界の中をあちこち勝手に活動したら、どのような結果が生じるか。
凡夫は煩悩が重すぎるので、蓮華の苞の中に包まれなければ、極楽世界は徐々にもう一つの娑婆世界になってしまう。阿弥陀仏はなぜ極楽世界を建立したのか。なぜこのように極楽世界を設計したのか。なお衆生を選り分けるのはなぜか。なぜ大慈大悲をもって一切の人々や三悪道の衆生などをすべて摂受しないのか。衆生はいつも他人が自分に対して大慈大悲であることを望むが、本当に自分の望み通りになれば、結果は悪果かもしれず、それどころか少しも慈悲ではなくなる。衆生の好む慈悲は往々にして禍害を生じやすい。
証果と明心をしていない人は、極楽世界の中をあちこち活動できず、十方世界へ諸仏を供養することもできない。これはこれらの衆生の煩悩が極楽世界を擾乱するのを防ぐためである。ここから私たちは、証果と明心をした人は極楽世界の修行道場を擾乱しないことが分かる。彼らの粗重な煩悩はすでに降伏されており、断除はされていないが、阿弥陀仏の加持摂受の下では、現行することもない。
では、娑婆世界で証果と明心をした人は、必ず煩悩を降伏した人であり、必ず深刻な煩悩の現行のない人であり、必ず他人を擾乱しない人である。もし深刻な煩悩が現前している人がいたり、あるいは勝手に他人や他の場所を擾乱する者がいたら、必ず証果と明心をしていないのであり、自分で思う証果と明心は必ず大きな誤解である。
だから道場は三六九等に分けるべきであり、各層次の人は混ざり合うべきではない。さもなければ道場は混乱し、煩悩が盛んになり、一切の修行は成就を得られず、道場は煩悩の発生源になってしまう。道場に六和敬がなければ、必ず混乱する。見解の合わない人は一緒に集まるべきではなく、修行の層次の異なる人は決して一緒に集まるべきではない。さもなければ必ず大悪業を造作する人が現れる。
<h3 style="text-indent: 2em;">九、西方極楽世界は三界の中にあるのか</h3>この問題をはっきりさせるには、まずこの三つの問題を思考しなければならない。三界とは何か。三界のそれぞれの界の特徴は何か。三界の中には何があるか。三界の外には何があるか。それから極楽世界にはどのような特徴があるかを思考し、三界のそれぞれの界と照らし合わせ、比較を通じてはじめて正しい結論を得ることができる。このような思考の順序は主題に密着したものであり、学校で作文の得意な学生は、作文を書くとき主題に密着させる。特に試験のとき、題から逸れたら、どれほどよく書けても及第せず、零点を取ることさえある。
三界の特徴は何かと問われれば、欲界の特徴、色界の特徴、無色界の特徴を考え、それから西方極楽世界の特徴は何かを考え、三界の特徴と照らし合わせ、比較を通じて、西方極楽世界が三界の中にあるのか三界の外にあるのかが分かる。これがこの問題の思路であり、非常に簡単である。もちろんこれは比量によって知るものであり、結果が正しい可能性はあるし、完全に正しい可能性さえあるが、現量観察によって知るものではなく、実証によって知るものには属さない。現量観察は二者を比較することなく知ることができる。比量によって知るというのは意識で比較して知ることであり、現量知には意識が禅定の中で現前観察するだけでなく、意根も意識に随って観察したり、あるいは単独で深く思量 (manasikāra/manana) したりして、最後に事実に符合する結論を得ることが含まれる。禅定がなければ、これらは論じることもできない。
欲界の特徴は何か。まず欲界の衆生には五蘊十八界の法があり、色法の器世間・山河大地などがあり、心法の八つの識心があり、識心には善・悪・無記 (avyākṛta) の心所法があり、無明があり、貪瞋痴があり、貪欲を主とし、欲界のすべての法を貪着する。色界の特徴は何か。色界の衆生には四禅八定があり、最も基本となるのは初禅定であり、色法の色身と器世間があり、心法は八識あるいは七識、六識、五識、四識、三識があり、心所法には善と無記 (avyākṛta) の二種があり、悪心所法はなく、悪心所法は降伏・圧伏されており、断とは限らず、定心所法が比較的突出しており、身心は常に定の中にあり、煩悩は現前しない。
無色界の特徴は何か。無色界は名の示す通り無色であり、器世間の宮殿や山河大地などはなく、色身もなく、ただ六七八の三つの識が四空定の中にあり、心所法は善でも悪でもなく、一切の煩悩は降伏されており、断とは限らず、定心所法がさらに突出し明瞭である。
西方極楽世界にはどのような特徴があるか。極楽世界の凡聖同居土には、阿惟越致を超える以上のすべての階位の菩薩がおり、また阿惟越致以下の明心も証果もしていない凡夫の衆生がいる。これらの衆生はいずれも五蘊十八界を有し、色法の色身と宮殿・花草樹木・大地河池などがあり、心法の八識があり、心所法はすべて善と無記 (avyākṛta) であり、悪心所法はない。菩薩たちは皆禅定があり、凡夫の衆生でさえ、長期にわたり蓮華の宮殿の中にいるため、心識がすでに転換されており、もはや悪がなく、散乱もなく、皆禅定があり、心は定の中にあって一心に仏法を思考している。菩薩たちの貪欲はもちろん降伏あるいは断除されており、凡夫の衆生の貪欲は断除できないとはいえ降伏されている。
そうである以上、極楽世界には色界の特徴も欲界天界の特徴もあり、無色界の特徴はない。それなら極楽世界は三界の中の法に属し、三界の外に出ない。無余涅槃 (Anupadhiśeṣa-nirvāṇa) 以後の阿羅漢だけが三界の外にあり、三界の中にないのであり、仏菩薩でさえ三界の外に出ず、しかも衆生が度し尽くされない限り永遠に三界の外に出ず、涅槃に入らないという願を発している。三界の外にはもはやいかなる世俗の法もなく、色法がなく、七識の心法がなく、五蘊十八界これらの法はすべて滅し、第八識だけが滅しない。諸仏菩薩はどうして自らの五蘊十八界を滅し、五蘊身を用いずに衆生を度せようか。それゆえ極楽世界と諸仏国土はすべて三界の中にあり、諸仏菩薩たちもすべて三界の中にあり、永遠に五蘊の衆生と共にいるのである。
<h3 style="text-indent: 2em;">十、どうすれば極楽世界に往生できるのか</h3>各人の業力が異なるため、臨命終の時に色身に現れる状態も異なる。業障が比較的重い人は臨終の時に四大が調和せず、身体が硬直し、死後に三悪道へ行って果報を受ける。業障があまり重くなく、一生で少なからぬ善業を造った人は、心が善法と相応し、四大は調和しており、身体は柔軟で、死後に三善道へ生れ、臨終の時に苦受がない。末法時期の大多数の人は煩悩が重く、一生で善業が少なく悪業が多く、臨終時に非常に苦痛を感じる。善道へ往生できるように、家族は人に頼んで助念してもらい、一部の業障を消し、いくらかの福徳を増すことを期し、助念の過程でこの四大が調和すれば、身体は柔軟になる。ある人は死者はきっと極楽世界に往生した、少なくとも天道へ行ったと考える。しかしこれは一定ではなく、身体が柔軟になったのはただ業障が軽減し、善根と福徳が増したことを表すにすぎない。
私はある実例に出会った。ある女居士がいたが、彼女の夫は仏を信じていたが修行はせず、長い病の末に死んだ後、寺院の出家人に助念を頼み、七日間のうち四組の人員が交代で助念し、一分間も絶やすことなく、助念するほどに死者の身体はますます柔軟になり、後には身体全体を丸めることができ、全身が柔らかかったので、皆は彼が極楽世界へ行った、極楽世界へ行かないとしても天道へ上がったと考えた。ところが七日過ぎて火葬した後、死者が女居士に託夢し、夢の中の表情は彼が非常に不機嫌であることを示していた。この女居士が私にどういうことかと尋ねに来て、私は言った。彼は自分の置かれた処境に満足しておらず、まだ苦受があり、往生していない可能性があり、天道へも上がらず、人身にも托生していない。すでに托生していれば、託夢に来ることはできず、たとえ託夢しても歓喜のものであり、顔を曇らせた様子ではない、と。
その後あまり時間が経たないうちに、彼女の家のベランダにガタガタという物音が現れ、後になって女居士はまた夫が家に帰って来る夢を見た。これは死者が、一つには往生していないこと(一般に極楽世界あるいは天人・阿修羅・人の三道への往生を指す)、二つには托生していないこと(広く受生を指し、六道輪廻の一期の生命が生れたこと)、三つには彼の置かれた境界が中陰身の環境の中にあることを示している。このことは、他人がどんなに助念しても、死者の善根福徳が深厚でなく、心が極楽世界と相応しなければ、極楽世界へ往生できないことを示している。心が天道と相応しなければ、天にも昇れない。助念する人の功徳が極めて極めて大きく、彼の業種を変えた場合にのみ、彼は天に昇るか、あるいは往生するか、あるいは人道に托生できる。
なぜ身体が柔軟になっても善道に往生しなかったのか。助念はただ彼にいくらかの福徳を増し、いくつかの業種を変えただけで、往生できる程度にはほど遠いからである。往生するには、必ず自分で心を修め、心を極楽世界と相応するように変えなければならず、数日の助念では死者の心を変えることはできない。修行はそれほど容易なものではなく、生きている人が一生修行しても、心を清浄 (viśuddha/pariśuddha) の程度に変えられるとは限らないのに、自分で修行せず、他人の助念に頼って、心を極めて堅固に極楽世界と阿弥陀仏を信受し、娑婆世界の一切の業縁を放下するように変えることはできない。死者が往生したか否かを正確に判断するには、必ず天眼がなければならず、人の神識が蓮華台に座ったのが見え、諸仏菩薩が迎えに来るのが見え、極楽世界に到ったのが見えなければならない。そうでなければ、判断はいずれも正確でなく、いずれも推測であり、信頼できない。
修行という問題は功徳に関わり、功徳は修める者が得るものであり、修めなければ得られず、父母と子女の間でも互いに代わり得ず、佛陀とその家族の間でも互いに代わり得ない。楞厳経に、阿難は仏の従弟であることを頼りに、自分はあまり修行しなくても、仏の威神力と加持力に依拠して自然に成就できると考えたが、結果はそうではなく、受けるべき磨難はやはり磨難を受けなければならず、仏の家族も皆同じであったと説かれている。修行の功徳は外から来るものではなく、自分の心から生れるものであり、他人は与えることができない。死者が往生できるか否かは、彼自身に念仏 (buddhānusmṛti) の功徳があるか否かによるのであり、この功徳は助念する人が彼に与えることはできず、自分で念仏修行する必要がある。修行の功徳がなければ、相応する業果報はない。
今、多くの浄土法門を学ぶ人が、すべての希望を臨終の一念に託しているが、平時に修めておらず、心が変わっておらず、業種が清浄 (viśuddha/pariśuddha) になっていなければ、臨終の一念に頼るのは賭けをするのと同じであり、信頼できない。必ず平時に自分を修め成就させてこそ、臨命終時に往生の把握がある。もし平時に夢の中の念頭さえ制御できず、把握できないなら、臨終時には病苦が交錯し、業障が現前し、冤親債主も借金取りに来て、最後の一念はなおさら把握しにくい。だから臨終だけを当てにしてはならず、平時から成就し、心を変え、業障を消し、福徳を増し、心念を制御できるようにしなければならない。
極楽世界へ往生したいなら、福徳が極楽世界と相応しなければならず、相応しなければ共住できない。どこへ行きたいと思っても、福徳はそこの環境と相応しなければならず、その業種がなければならない。その業種を植えておらず、福徳も相応しなければ、どうしてその場所へ行けようか。心が極楽世界と相応しなければ、極楽世界を変現できず、どうして極楽世界へ往生できようか。いかなる修行の法門も、すべて心を修めることであり、心がどの程度まで修められ、どの程度まで変えられ、どのような境界と相応するかによって、はじめて相応する環境の中へ行って共住し生存できるのである。
<h3 style="text-indent: 2em;">十一、観像念仏の方法</h3>観無量寿経第八観原文:诸佛如来。是法界身。入一切众生心想中。是故汝等。心想佛时。是心即是三十二相。八十随形好。是心作佛。是心是佛。诸佛正遍知海。从心想生。是故应当。一心系念。谛观彼佛。多陀阿伽度阿罗诃三藐三佛陀。
解釈:これは観像念仏の方法を紹介したものである。第七観から観像念仏を修め、修め成就した後は、仏像が心中に自然に顕現し、憶想によって作り出されたものではなく、仏像が自ら現れたものである。これは定慧等持の一種の三昧 (samādhi) 境界であり、身心は観像念仏三昧の中にあって、もって明心証悟する。第七観は仏の坐する蓮華座を観じ、第八観は仏像を観じる。最初は意念の方式で像を観じ、禅定力と慧力 (prajñā-bala) が具足したとき、三昧 (samādhi) が現れ、仏像が自ら現前し、独頭意識 (mano-vijñāna-eka-citta) には見えるが、他人には見えない。この仏像は形相のある像であり、五蘊身のある仏像である。観像念仏とは仏の五蘊報身を観じて、仏の法身仏 (dharma-kāya-buddha) を証するのである。
それゆえ衆生が心で仏を想うとき、仏像は衆生の心中に現れ、仏像は衆生の心が念じ出し、想い出し、感応して出したものであり、衆生の心が変現したものである。この仏像は如来の法界身であり、五蘊・十二処・十八界を有し、三十二相八十種随形好を具足している。像は心によって生じ、どのような心があればどのような像が現れ、どのような像が現れればどのような心があるのであり、心と像は一如である。もし衆生の心が念念に五欲六塵、色声香味触法、財色名食睡であり、念念に六道の中の事であれば、衆生は六道生死の衆生の像であり、心と像は一致し、心と境界は相合する。衆生の心が善なら像も善く境界も善く、衆生の心が悪なら像も悪く境界も悪い。同理として、衆生の心が仏を想い仏を念じれば、衆生は三十二相八十種好の如来仏である。まさに衆生の心が仏を作ることができ、衆生の心はすなわち仏である。
仏の十大名号の一つに正遍知というものがあり、正しくして錯謬なく一切の法を知ることができ、一切智を具足するという意味であり、十方の諸仏が集まれば、それが正遍知海である。もし衆生の心が十方諸仏を念じれば、正遍知海は衆生の心の中から出生する。たとえば念仏三昧が現れるとき、十方諸仏が面前に立ち、正遍知海が出生し、自分の独頭意識 (mano-vijñāna-eka-citta) には見えるが、他人には見えない。諸仏はすべて衆生の心が想い出したものであり、心外の仏はなく、心外に仏はなく、心を離れてもまた仏はない。それゆえ衆生は一心に彼の仏像を仔細に観じ、雑思妄想をせず、世間の妄想を交えてはならない。世間を妄想すれば世間が現れ、仏は現れない。仏に会い悟道したいなら、一心に念仏観仏しなければならない。
<h3 style="text-indent: 2em;">十二、老年痴呆や記憶喪失の人は往生できるのか</h3>老年痴呆になったり記憶を失ったりした人は、このような人の業障は比較的重く、主に大脳に障害が現れたものである。これは意識の機能を障害したものではあるが、もし平時の念仏 (buddhānusmṛti) ですでに意根をよく薫習し、業障の大部分を消し、念仏三昧の中にあり、時時阿弥陀仏を思い起こせるのであれば、どうして老年痴呆症になれようか、どうして記憶を失えようか。福徳があり業障の軽い人は、どうして老年痴呆になれ、どうして記憶を失えようか。
痴呆と記憶喪失のとき、もし最も親しい息子さえ認識できず、自分の姓さえ分からなくなれば、なおさら仏を思い起こすことはできず、彼はまだ念仏 (buddhānusmṛti) できるだろうか。仏と実の息子を比べて、彼は誰と一番親しいのか。もちろん息子である。一番親しい息子さえ思い出せないのに、どうして仏を思い起こせようか。彼が老年痴呆症や記憶喪失症になったということは、彼の心に阿弥陀仏がいないこと、念仏によって業障を少しも消していないこと、念仏が意根に薫習されていないことを示している。だからこそ彼は痴呆になったのであり、もし念仏が意根に薫習されていれば、心が阿弥陀仏で満ちていて、どうして痴呆になれようか。記憶を失うこともあり得ない。心が仏で満ち、業障の大部分が消え、仏力が加持してくれるのに、どうして記憶を失えようか。仏を思い起こせないのであれば、どうして往生できようか。正常な人、禅定のある人でさえ必ず往生できるとは限らないのだ。往生は非常に容易なことではなく、証果や開悟より簡単ではない。
自分自身で経験してから語った法だけが信頼できるのであり、経験したことがなく、文に依って意を解し、自分の想像でどうのこうのと語るのは、いずれも実行したことがないのだから、どうして保証があろうか。それは信頼できない。もし私が浄土を語り往生を語るなら、やはり仏経のあの数条に従って語らなければならず、仏経を離れては語る勇気がない。私は往生したことがなく、具体的にどのような場合に往生できるのか分からないので、仏経に依拠して語るしかない。念仏 (buddhānusmṛti) して仏から保証を与えられる、つまり臨終にどうなろうと必ず正念を保持でき、必ず往生できると言われるまでを除いて、残りはすべて信頼できない。
では、浄土宗が法を説いて人を摂受し往生させるには、最も適格で最も適した人は浄土宗の初祖・慧遠大師だけである。彼が皆を率いて浄土を修めれば、法法とも人をして信受させ、法法とも信頼できる。彼がこのように行持すれば必ず往生できる、あのように念仏すれば必ず往生できると言えば、彼の言葉はすべて信頼できるが、その他の人の説法はすべて信頼できない。なぜ浄土初祖・慧遠大師の言葉が信頼できるのか。彼が浄土の行門を自ら実践し、しかも成功したからである。彼が浄土を修めていたとき、身心はずっと三昧 (samādhi) の中にあり、阿弥陀仏は彼の三昧の中に自ら数回出現し、極楽浄土の境界も彼の三昧の中に数回出現し、彼は常に三昧 (samādhi) 境界の中にあって出定せず、彼は必ず往生できるに違いない。
彼の禅定と智慧の修持の経験をもってすれば、彼がどうすれば往生できると言えば、彼の言葉こそ確定して信頼できるのであり、彼はあの程度まで修めており、経験があるからである。経験のない人はすべて信頼できない。同様に、ある人が明心開悟を語るが、真実の開悟を経験していないため、彼らの言う明心開悟も信頼できない。彼らの言う明心開悟の理論は正しいかもしれないし、正しくないかもしれないが、たとえ理論が正しくても、実際には真に開悟することはできない。結局経験したことがなく、行持が正しくなければ、語ることは信頼できない。誰であれ法を弘めるには、必ず自ら修行し、その道を歩んでこそ、語ることが信頼でき、その他はすべて信頼できない。浄土を弘める人は、念仏 (buddhānusmṛti) 往生の事について少しも経験がない。それゆえ彼らの言う、どうのこうの念仏すれば必ず往生できるということは、すべて信頼できず、仏経だけが最も信頼でき、浄土経を離れて往生を語るのは、すべて憶想と幻想である。
<h3 style="text-indent: 2em;">十三、「南無阿弥陀仏」と「阿弥陀仏」の念仏に何の区別があるのか</h3>南無は帰依の意味であり、真誠に依止帰順することを表し、阿弥陀仏は仏の本尊の名号である。仏名を念じるのは、仏に感応し、仏と相応し、仏の加持を求め、手を差し伸べて拔済救度してもらうためである。二種の念仏 (buddhānusmṛti) 方法は本来区別がないが、二字多い分、心念が曲折し、「阿弥陀仏」を念じるほど直截でなく、心思が単純でなく、三昧 (samādhi) を得にくい。
念仏 (buddhānusmṛti) は純粋に念仏するためではなく、心を摂め、真誠に阿弥陀仏に帰依し、念仏三昧を得るためである。念仏三昧の中でこそ阿弥陀仏に感応し、阿弥陀仏と相応し、はじめて往生の把握がある。だから念仏もできるだけ心を定め、心を専一にしなければならず、仏号を念じるとき心に仏があり、恭敬心を懐いて念じる。心を摂めて定を得るため、仏号を念じるとき声をあまり高揚させてはならない。そうすると気を消耗し、心が散乱しやすく、収摂しにくい。声を低くし、まとめれば、気が聚まり、心神は安寧し、心は専注して雑念がなく、定を得やすく、念仏三昧を得、仏の加持を得る。
心で仏を念じ、念仏三昧を得るために、このように念仏 (buddhānusmṛti) してみることができる。ゆっくりと「阿」の字を念じ出し、「阿」の字の音を引き延ばし、「弥陀仏」は念じないが、同時に心中には阿弥陀仏の本尊があり、「阿」の字は外に顕れ、「弥陀仏」の三字は心底に隠れ、一字の音で全仏を代え、心に雑念がなく、すべてが仏である。このように念仏すれば三昧 (samādhi) を得やすい。
<h3 style="text-indent: 2em;">十四、どうすれば意根で念仏するのか</h3>意根の念仏 (buddhānusmṛti) とは真心実意の念仏であり、形式だけの口号式の口にあり心にない念仏ではない。これを成し遂げるには、念仏という事に対する認識が行き届き、思想が徹底的に変わり、深信切願し、一切の行為が仏へ趣向し、身心世界がすべて仏であり、娑婆の縁を放下し、念念に極楽でなければならない。心法と行門が具足すれば、命終に必ず極楽世界へ往生する。
仏法の中のいかなる法門の修行にも二つの層面がある。一つは内在的な心門であり、一つは外在的な行門である。心門は修心養性の門であり、道とも呼ばれ、意根の門である。行門は功夫の門であり、術とも呼ばれ、六識の門である。もちろん意識は行門であるだけでなく心門でもあるが、意識の慧は浅く、得やすいため、重点ではない。道は根本であり、内在的な駆動力であり、術は末であり、道に制約され、道を補助する。二者が結合して、はじめて法門は成就する。
念仏 (buddhānusmṛti) 法門も同様であり、全体としては信・願・行の三資糧を修めるのであり、信願は道に属し、行は術である。念仏に成就したいなら、まず道心が成就しなければならず、思想認識が転換し、覚悟心が生じ、大願が発せられ、さらに精進の念仏行門の功夫を補って、はじめて往生の希望が大きい。そのうち行門の業には戒定慧、菩薩六度と三十七道品の修行が含まれる。心門とは意根で念仏する門であり、意根に仏を念じさせたいなら、意根に仏の無量の功徳を理解させ、仏の無量無辺の偉大な事跡を理解させ、仏の慈悲喜捨の四無量心を理解させ、仏の宏大な願力を理解させ、仏の三大阿僧祇劫の修行の道程を理解させなければならない。これらを理解した後、仏に対して自然と無比の崇敬と憧れが生じ、自然に精進して念仏でき、行門は成就しやすく、最後には心心念念すべて仏となり、念仏三昧を修め成就する。
信願が具足した後、意根を降伏し、世俗の法を念じず、心が収摂され、禅定が次第に現れる。このとき意識の念仏 (buddhānusmṛti) が意根を薫染し、次第に意識の言語・文字・声音のある形相のある念仏から、意根の言語・文字・声音のない形相のない念仏へ移行し、功夫が次第に成就する。意根を収摂しなければ、神様はあちこち攀縁し、世俗の法を貪着し、心は散乱し、専心に念仏できず、念仏三昧は現れない。
心門を修めず、ただ行門の道だけを歩み、機械的に念仏 (buddhānusmṛti) し、数量を追求し、数量で勝負し、功夫が深まれば意根に薫染し、量変が質変に達し、意根の思想観念を転換させ、心念の中がすべて仏となり、三昧 (samādhi) を修め成就する。このように修めるのは非常に困難で、成功しにくく、大多数の念仏人は皆このように修めている。ただ長い時間をかけて念仏し、念仏が非常に純熟になれば、頭を経由せず、いかなる境界に出会っても、口を開けば「阿弥陀仏」が出てくる、自動化のロボットのように。しかし煩悩は相変わらず煩悩であり、散乱は相変わらず散乱である。このような念仏に何の実質的利益があろうか。多くの寺院や団体が念仏七を行い、一週間で百万洪名、仏号の声が声声耳に入り、念念絶えないが、世間の雑事も事事心に入り、少しも遅れてはおらず、貪瞋痴の三毒も一つ少なくなく、業障がどれだけ消えたのかも見えず、念仏三昧は影すらもない。
一切の法門はすべて心門であり、念仏 (buddhānusmṛti) 法門も心門である。心を修めなければ、成就しにくい。心を修めることは意根を修めることであり、意根を主として修行し、意根が修められれば、一切の法門が成就できる。ただこの心は無始劫以来染汚が非常に重く、煩悩が盛んで、把握しにくく、降伏しにくい。しかし苦海を離れるために、どんなに難しくても方法を講じて転じ制伏しなければ、依然として生死の苦海に沈んで自ら抜け出すことができない。
<h3 style="text-indent: 2em;">十五、仏と諸聖はなぜ神通をもって衆生を強引に連れて行かないのか</h3>仏は心中の仏であり、聖は心中の聖である。心に仏があれば仏は即ち現れ、心に聖があれば聖は顕れる。もし心に仏聖がなければ、仏聖が現れないのは心の過ちである。
<h3 style="text-indent: 2em;">十六、心が浄ならざれば相も浄ならず</h3>維摩詰経に説く:随其心净则佛国土净。心が浄ならなければ仏国土も浄ならず、見が清浄 (viśuddha/pariśuddha) でなければ相は清浄 (viśuddha/pariśuddha) にならず、国土がどうして清浄 (viśuddha/pariśuddha) であろうか。心が清浄 (viśuddha/pariśuddha) でなければ、どうして清浄 (viśuddha/pariśuddha) な仏国土があろうか。本当に心が清浄 (viśuddha/pariśuddha) になってこそ見が清浄 (viśuddha/pariśuddha) になり、見が清浄 (viśuddha/pariśuddha) になってこそ相が清浄 (viśuddha/pariśuddha) になるのである。凡夫の衆生は心が清浄 (viśuddha/pariśuddha) でなければ見が清浄 (viśuddha/pariśuddha) でなく、見る相も清浄 (viśuddha/pariśuddha) にはならない。だから衆生が仏を見ても、仏を自分と同じ貪瞋痴の煩悩のある者と見なし、仏の種々の欠点をえぐり出し、仏の清浄 (viśuddha/pariśuddha) な行為を汚穢な行為と見る。
たとえば一人の外道の女が仏法の会で法を聞き、毎回最後に去り、朝にはまた最初に法会に到ったので、皆はこの女が佛陀と共に住んでいると誤解した。数ヶ月後、また木の盆を腹の上に置いて妊娠を装ったので、皆は見て、佛陀は確かにこの女と不義の関係があると考え、噂噂と議論した。後に四天王は見過ごせなくなり、鼠に変じて木の盆をかじり壊させ、中から落ち出でて、皆はようやく悟った。もし衆生が本当に佛陀を理解し、佛陀を信じていれば、異心をもって佛陀を疑うことがあっただろうか。結局は衆生の内心が汚穢であり、佛陀がこのような事をするはずだと自分で思うのである。あの心地の清浄 (viśuddha/pariśuddha) な弟子たちは、佛陀に対して何の異議も不敬もなく、佛陀の清浄 (viśuddha/pariśuddha) を完全に徹底的に信じている。
衆生の心がどのようなものであれば、どのような相を認めるのであり、自分の心の認識の範囲を超えることはない。だから心が染汚している人は、心地が非常に清浄 (viśuddha/pariśuddha) な人がいるとは信じず、自分の行為・見解と一致しないと、事に遇うと疑いを起こし、さらには疑いを起こすまでもなく、直接相手の過ちを確定する。この事例から、衆生の心が確かに汚穢で、正知見がないことが見て取れる。心の清浄 (viśuddha/pariśuddha) な人は事に遇うと、うやむやのままに過ぎ去り、思いを起こさないが、心の清浄 (viśuddha/pariśuddha) でない人は、種々の推測、種々の知見、種々の疑念が胸中に横たわり、放下せず、是非の風が起こり、矛盾が重なる。だから世俗界では毎日ごたごたして、安寧の日がない。家庭から社会まで大小様々な団体まで、すべてそうである。原因は衆生の心があまりにも汚穢で、染汚があまりにも深刻で、誤解が多すぎるため、是非が非常に多くなるのである。
<h3 style="text-indent: 2em;">十七、心を浄めてこそ浄土</h3>一切の法は生滅無常・苦・空であり、一切の法は如幻如化であり、一切の法は如夢如露であり、一切の法は如風如影であり、一切の法は如泡如沫である。どのように執し取りしようとも、最後にはやはり空、空、空であり、空のほかは空である。それならむしろ閑庭に静かに座し、風雲の起こるを見て、一切の法の来るを見、一切の法の去るを観じ、一切の法の起こるを見、一切の法の落ちるを観じ、一切の法の生を見、一切の法の滅を観じるがよい。ただし心は一切の法に随って生じ、一切の法に随って滅してはならず、一切の法に随って来て、一切の法に随って去ってはならず、いかなる法も執さず取ってはならない。一切の法は一切の法であり、あなたはあなたであり、一切の法は本来一切の法ではない。それゆえ心を空しくすべきである。
娑婆世界に人のいるところには事があり、事があれば非事がある。事事非非は凡夫にとっては本来普通の事であり、もし普通でないと感じ、事事非非があるべきでないと思うなら、あなたはもはや凡夫ではない。凡夫は事事非非を見ればそれが事事非非であるが、心空の人は事事非非を見れば即ち非事事非非であり、あるいは事事非非の生滅変異・無常・苦・空を見、あるいは事事非非の如幻如化を見、あるいは事事非非の如影如響を見、あるいは事事非非の如夢如露を見、あるいは事事非非が即ち菩提であることを見、あるいは事事非非が即ち道であることを見、あるいは事事非非が即ち真如であることを見、あるいは事事非非が即ち仏性であることを見る。そうであれば、どこにまだ事事と非非があろうか。どこにまだ禍乱があろうか。
世界は本来太平であるが、あなたの心が太平でなければ、一切の法も太平ではない。世界の大乱はあなたの心から起こるのであり、あなたは世界の大乱に対して責任を負わなければならないが、あなたが世界の大乱を巻き起こしておきながら、根本として責任を負うことができない。どうするか。修行だ!心を浄めることだ!心の貪瞋痴を滅し、心の多事を滅し、心の事非を滅し、心の上の相を滅し、心の執取 (upādāna) を滅せよ。そうすればまだ何の事と非があろうか。世界は静かになったではないか。太平になったではないか。空になったではないか。心を浄めれば、一切の法を浄化し、世界を浄化し、衆生を浄化する。これは衆生を度したことにならないか。浄土を成就したことにならないか。これが修行であり、これが修行の結果であり、これが修行の功徳である。他に何を求めよう。何を執しよう。何を取ろう。