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五蘊を観じて我見を断ず(第一部)(第二版)

作者:釈生如更新時間:2025年06月09日

十一、我見を断つ際の隘路

毎晩時間がある時に、テレビ画面に映る人物や景色を観察し、様々な五陰の活動が如何にして現れるのかを観行する。それらが諸因縁の和合によって生じたものであるかどうか、如何に生滅虚妄で実体がなく、如何に自性を欠き、如何に我性がないかを観察する。絶え間なく深く細やかに思考を重ねる:画面の人物や景色は如何にして現れるのか?

諸々の因縁を見極めた後、心を定めて思惟する。これらの人物や景色は、一つの縁が欠けても現れず、五陰の活動も存在しない。五陰は諸縁に依存して存在し、一つの縁が滅すれば五陰も滅する。このように五陰は如何に不実で頼りないものか。思惟は深く細やかに、分析を控え、深く入り、多様に体得すべきである。諸因縁のデータを揃えた後、意根に認定と審査を委ねる。残りの作業はほとんど意根に属し、意根が行う。ただ静かに、深くこれらの内容を心に懸けておけば、ある日突然光明が開け、自他共に五陰の活動が同じく虚妄不実で自主性なく真我でないことを認定できる。

ある人々は意根の認定段階で躓いている。法義は既に意識心中に明らかであるから、これはさほど難しくない。難点は意根の認定にある。禅定が不足しているため、意根が深く思惟せず、全ての思想観念が意識表面に漂い、意根に深く入らない。意根は認定できず、心中に無我の義への確信が生じない。これが我見を断つ隘路であり、突破すべき課題である。定力不足の原因は、一に禅定を修する時間がないこと、二に福徳が足りないこと、三に戒律が完備していないこと、四に輪廻の苦を認識せず出離心がなく菩提心を発していないことにある。その他の小原因も自ら見出し、一つずつ克服すれば、我見を断つ大業は成就し、更に大きな功徳を完成できる。

十二、受想行識蘊の無我を如何に観行するか

受蘊が究竟如何に生滅無常変化するか、究竟如何に苦と空であるか、何故我でないか、究竟如何に虚妄・虚偽・空であるか、何故生滅変化するものが苦であるか、何故苦なるものが我でないかを観行する。このような一連の思惟過程を具え、正知見を備えて初めて意根を有効に熏染できる。意根が定中で思量し通達すれば、意根に根深い我見を転換できる。

思惟観行の過程を経ず、ただ意識の理解に頼るだけでは、意根は熏染を受けず、疑いを断じ信心を生ぜず、理を明らかにできない。意根自らが禅定中に観行参究して実証し、親しく見証して初めて疑いを断ち信心を生じ、受想行識が無我であることを確認できる。自ら目撃せずに理を認めさせ、意根を変容させようとするのは不可能である。故に必ず意根に親証親見させねばならない。

受蘊の観行を終えたら、次に想蘊を観行する。想蘊とは何か、その機能作用が如何なる方面に現れるか、想蘊の行相と特徴を思惟する。明らかにした後、更に深く細やかに想蘊が如何に生滅変化するか、究竟如何に無常で空であり苦であるか、苦空無常の想蘊が何故我でないかを思惟する。このような深い思惟整理により、意識心自らが明らかにし、想蘊が我でなく我と異なることを親証すると共に、意根が現前に思量択択して「想蘊は真に生滅変化無常無我である」と確信する。この択択は非常に力強く、心の奥底で此の理を認め、想蘊への執着心が緩む。

次に行蘊を観行する。心を静め雑念を排し、行蘊とは何か、包含する内容、行相の特徴を思惟する。明らかにした後、深く細やかに思惟する:行蘊は如何に生じ、如何に集起し、如何に滅し、如何に生滅変化し、如何に自在でないか。行蘊が如何に空で苦であり、何故我でなく我の所有でもないか。反復観察し多方面から検証し、一連の事実を心中に現前させる。意識自ら否応なく行蘊が無常無我であることを認める(口服)。更に意根も行蘊の苦空無常非我を認めざるを得ない(心服)。口と心が共に服すれば、七識の心行は根本的に転換し、天下太平となる。識蘊及び色蘊の観行もまた同様である。

五蘊はこのように一蘊ずつ観行思惟し、十八界もまた一界ずつ徹底的に観行すべきである。思惟を徹底するには一定の定力が必要で、定力が不足すれば達成できない。定中の思惟は深く細やかで、徐々に意根に深く入る。深く細やかになるほど意根は相応し易く、深細な思量を生じて触発され実証する。真切な認知があって初めて旧来の知見を改め、心行に大転換が起こる。意根は未熟な法に対して慧力が弱く、最初は意識が補助的に思惟する必要がある。一旦意根が法に疑情を生じて興味を持てば、深く参究し無我を実証できる。

十三、深細な思惟観行のみが真に我見を断除できる

五蘊の虚妄を観行する際、意識は通常五蘊が非我と粗略に認めるが、深細な思惟観行を経なければ究竟的に其中の縁由を了知できず、意根が参与して共に観行しない。故に意根は其中の真実義を理解できず、五蘊非我の理を認めない。従って内心は依然として変わらず、触発されることもなく心行も変化しない。これでは真に我見を断じたとは言えない。

深定を修し、定中で更に深細な観行思惟を続け、其中の原理を思惟し尽くし、無我の証拠を充分に揃えるべきである。三昧智慧が現前して初めて意根の元来の知見を覆し、心の奥深く五蘊無我を確信し、最終的に我見を断除できる。深細な思惟観行を経ず、或いは観行が深入り細密でなければ、意根は真に理を明らかに実証できず、身心も触発されず、心行も覆せない。意根は依然として習慣的に五蘊色身を我と認める。

観行中、意識が身体を自己が利用する道具と感得したら、次に反観する:意識心自体も意根が用いる道具であり、意根は常に自己の道具である五陰身を執着している。更に七識心も道具であり、真の自己でないと観行する。意識や七識心を自己と見做さなくなれば、色身と識心が我である知見は破られ、意根が深くこれを肯定すれば知見は徹底的に転倒し我見は断尽する。

五蘊中、意識を我とする知見は断じ難く、意識の諸作用を真実とする知見は根深く、最も断ち難い。深く観行し細心に思惟すべきである:意識の諸機能・作用・体性等は全て自己でないこと、全ての覚知性は虚妄法で我でないこと、全ての感受・思想念頭・行相・分別了知作用を仔細に観行すれば、我見を断つ望みがある。

我見を断つ観行において、ある人々には全ての方面を観行する必要はない。一点を突破し閘門を開けば、五陰十八界全体を通達し無我を証得できる。一点の突破が残りを導く。この一点は人により異なり、各人の薄弱な部分が異なるため、突破口も異なる。各自の因縁によって定まる。

十四、我見を断つ証果と「目撃を実とし伝聞を虚と為す」理は同じ

仏は遍く真理を示される:一切の諸法は皆悉く空寂である。即ち一切法は空・寂静である。何故か?一切法は諸因縁の和合により存在し、本来自体性がなく真実の法でないから空寂という。別角度から言えば、一切法は如来蔵が幻化したもので、如来蔵が主導し如来蔵の影である。実質は如来蔵であり一切法は存在しない。故に一切法皆空寂という。小乗の空、大乗の空性、共に此の真理を指す。

諸根は幻の如く、境界は夢の如し。これらの法を観行するには深い禅定が必要で、六根が六塵に対す時、根と塵の幻妄性・不実性・不作主性・無自性性を体得する。定慧を結合し完全に融合させる。仔細に観行する:眼が色を見る時、眼根が如何に自在でないか、色塵が如何に影の如く虚妄か。耳が声を聞く時、声の境界が如何に夢の如く、耳根が如何に幻化の如く生滅し聴覚作用を起すか。観行が成就すれば五陰空幻・寂静不生を証得できる。

これらの法の観行において、初步的理解は証得に非ず。理解は比較的容易で、意識が一時思惟すれば理解したと感じるが、これは証得でない。証得には禅定と甚深な思惟、確鑿な証拠、意根の深層への到達が必要。意根が認可して初めて証果という。意識の理解は知識に属し、証拠不足では証ではない。深細な観行を経て、意根が心の奥底で真に理を認めて初めて証果となる。

その時、真に五陰無我を証得認可した故、心行が変化し、万物への見方が転換する。自己が虚妄と真に認めれば、心に変化が生じ、以前のままではあり得ない。意識の理解は証得でなく、心は五陰が真に無我と知らず、自我認知は変わらず、五陰への見方は理論に留まり、心行は依然として煩悩も元のまま。三縛結を断じず、三悪道を免れない。これは世俗で言う「目撃を実とし伝聞を虚と為す」理と同じ。他者から聞くのは意識の理解に相当し、自ら証せず心中虚しく真剣に受け止められない。後に目撃し自ら真に知れば「ああ、原来如此!」と悟る。此時人と事に対し適切な処し方が分かる。

目撃は意根の証得に相当し、伝聞は意識の理解に相当する。これは全く異なる次元である。意識の理解は他者から聞いたもので、意根の証得は現量知・真実見である。理解は風聞に類し、実際の目撃とは大差がある。例えば某人の評判を聞きある印象を持つが、実際に会って観察すれば印象と異なり、より真実味を感じ適切に対処する。如実了解観察後、自らの見解・意見・考え・行為は聞いた時と異なる。

故に心を込めて熏習し、真に諸根如幻・五陰無我を観行すべきである。観行時は意識的に観察思惟し、禅定現前時は意根に観察考量させ、意根を禅定中に観行させ現量で此の理を証得させれば我見を断つ。意根が観行しなければ意識の思惟した理を認めず無益である。意根を速やかに証得させるには証拠を確鑿にし、現量観察の域に達せしめる。観行の過程には多くの手順と修すべき法があり、不断に資糧を積み、福徳資糧・戒律・忍辱・禅定・智慧を円満すべきである。

十五、能取所取空を観行し我見を断つ方法

能取は五陰七識、所取は六塵万法。能所空を観行するには定力が良好な状況下で行う。前提条件:第一に禅定を具足、第二に五陰虚妄の理を粗略に了解し、次第に観行思惟する。能取の七識心の虚妄を観行し明察する。六識の虚妄非我性を認可し、所取の六塵万法(五陰世間法を含む)の虚妄・生滅・変化・不実性を観察し尽くす。

六塵の虚妄は観行し易い。雑阿含経で世尊は六塵の虚妄を観行する方法を教えられた。経文を読みながら六塵の虚妄を一条条思惟観行する。文に随って観じ、思惟を通達すれば此の理を認可できる。思惟観行せず意識が粗略に知るだけでは無益である。これは深禅定中における意識と意根の同時観行、或いは最終的に意根単独の観行を指す。観行が成就すれば心中「ああ、原来如此!」と意根が確認する。

観行には過程があり、最終的に心中「原来如此!」と真に知る。此時意根の認可である。然らずんば意識の浅い知に過ぎず、大した役に立たない。理を語る者は多いが、実際は心中認可せず、意根が此の理を解さないからである。意根が理を明らかに親証するには、一に意識心の伝導熏染に依る。此の法を観行する過程が意根に黙移し、各法の思惟が意根に伝わり、意根が此の内容を知り自ら観行して理を明らかにする。二に意根が禅定中自ら無我の理を思量し、三昧現前して親証する。

十六、意識が弱い時に意根を熏習するのが最有效

西洋心理学者は言う:潜在意識に物事を記憶させる最良の方法は、半睡半醒の状態に入ること。此の状態では意識層面の努力が最小限に減じ、全ての考えが映像を通じ静かで受動的な方式で潜在意識に伝達される。これは意根を熏習催眠する良法で、我見を断ち煩悩を降伏させる最速有效な方法である。自己催眠は意根に直接五蘊無我性を了別受容させる。

リラックス・安静・うつらうつら・覚醒直後——此等は皆定がある。六識が作為できず心散乱せず、意根は情報を受け易く熏染され易い。此時意識はあるが思惟力・推理分析機能が制限され、意根は自らに依る。意根の思量作用が顕著になる時、意根を影響説得熏習し変容させる絶好の機会である。我見を断つ観行も此の状態が最良。定と意識を具え、意根の作用力が大なら、五陰非我の思想を意根に伝達し認可受容させられる。

十七、意識が意根の実証に及ぼす影響力

一切法の証得は現観の結果でなければならない。現観とは現量観行・現前観行であり、六根が六塵に対す当下一念に諸法の生起・運行・生滅変化を観察体得する。意識の現量観察と充分な思考分析は意根を熏染推動する。意識の観念が理に適い証拠充分であれば、意根の智慧を啓発し、意根は自ら観察考量して親証する。意識の非量な想像推論は意根に影響力なく、実証を推動できない。

意根は身心と緊密に連結し離れず、意根の現量証は身心に不同程度の変化を促す。何故か?第八識は一切法を変現し見る。意根は第八識の見分に依り自らの身心境界をも見、此等の法を自見とし不断に攀縁執着する。故に意根は一切法に作用し、身心を協調制御し、身心を通じ種々の情緒を発散させ変化を起こす。此れが意根の遍計所執性と主導性、我執法執の現れである。

意根はまた意識の不正思惟に影響熏染され、誤った択択をする。無始来、意識は意根を欺き「五陰は我なり」と教え、五陰世間の快楽を追求させてきた。意識は邪師の役割を果たし、意根は五欲に貪染し五陰自我を執着する。我見を断つ前後、意識は改心し意根の良師益友となり、共に煩悩を降伏し無明を断じ、転識成智を共に成し遂げる。

十八、我見を断つことは意根との相応である

五蘊無我の理を意識が深細に思惟観行し、全ての証拠資料を徐々に意根に提示する。意根が受容し自ら観行すれば五蘊無我を確認できる。証拠資料が充分で現量境が多ければ、意根は思量相応し易い。意根は現量境を認め、非量の想像に相応しない。意根は五蘊が空と知らず、定中で事実を観行すれば此の理を認めざるを得ない。従来は意識が多少無我の理を知るも、意根は慧浅く境界了別力不足で深細思惟できなかった。

意識の分析思惟理解は解悟に属す。定力不十分で意根に深入せず、意根は理を明らかにしない。定力強ければ意識の思惟は深まり、表面的理解を減じ、意識の動きが遅くなり意根の思量性を発動させる。意根自らが明らかにすれば意識も明らかになる。定浅く意識分析が主なら、意識は理解し易いが意根に提示する証拠が不足し、意根自身の思量性も不足で理を明らかにしない。

意識が分析を減らし意根に委ねれば、五蘊無我を証悟できる。意根の此の認可力は非常に大きく、自心を変え身口意行を改め業種を変える。此の修行は大いなる近道である。意根に多く思惟させ現量証得させるには深禅定に入り意識の動きを減らす。此れが参究の原理である。古来禅師は「心意識を離れて参禅せよ」と教えるが、其の深理は必ずしも解さず、意根の功用と相応することを知らない。意根の運作は唯識種智に属し、多くの禅師は唯識種智を生ぜず。

我見を断つ原理も参禅と同様、意根が自ら参究し五蘊無我性を思量させる必要がある。意識が定中で深細に思惟し動きが遅く深まれば意根に深入し無我性と相応する。意根の全機能体性作用を発掘すれば修行は最大の近道となり、成仏は極めて迅速である。

十九、心の結びを解いて初めて解脱を得る

解脱を得んとすれば我見を断ち、意根が五蘊と三界世間への攀縁を断たねばならない。意根が徹底的に攀縁を止めるには我執を断じ、五蘊と三界法に執着せねばならず、四果人でなければ成し得ない。無想定には意識がないが、外道は色身を執着する故色身は滅せず、我見を断たないため三界を出離できない。意根が三界世間への興味を全く失い貪愛を断尽し、五蘊十八界に全く執取しなくなれば我執を断尽し、命終時意根自ら滅して無余涅槃に入り三界を出離する。

真の解脱は心の解脱である。意識と意根が五蘊自我を執着せず、財色名食睡を貪らず、色声香味触を貪らなければ、意根は五蘊から縄を解き身心の束縛がなくなり、生死の結びが解ける。生死の法は再び自心を束縛できず、心は解脱する。五分解脱の最後は解脱知見で、邪見の束縛を離れ正知見を建立する。此の智慧に依り生死苦海を出離するが、正知見の建立は最も困難である。邪染が深すぎるからだ。仏法修行は不断に心の結びを解く過程で、結びが解けて初めて解脱を得る。

二十、我見を断てない原因

我見を断てない一因は、前期の意識が五蘊虚妄の内包を思惟し尽くさず、意根に渡す資料が不完全なためである。意根は此の内容を模糊とし参究できず、意識も資料不足を自覚せず思惟証拠収集をしない。意根は「無米の炊事」に加え、攀縁心が降伏せず定力不足で参究が成就しない。多くの人は参究を開始せず、前期の意識が作業を完遂していないため意根が続業できない。

意根は審判者・検証者・関所役人である。意識の全ての思惟分析データは意根の検証を経ねばならない。例え分析が極めて細密正確でも、意根は審査して初めて認可する。部下の仕事を上司が承認する如く、最低限目を通し厳密には調査し確信して初めて認印する。意識と意根の関係は此の如し。

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