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五蘊を観じて我見を断ず(第一部)(第二版)

作者: 釋生如 分類: 二乗解脱 更新時間: 2025-02-26 閲覧回数: 2305

第五節 五蘊皆空は全て如来蔵の性質である

一、大智慧が五蘊の塵労煩悩を打破できる理由

般若真如の本来より有する大智慧を証得する時、識心は同時に般若智慧を生じ、真心が本来不生不滅であり、万法を具え、一切の法を生じ出し、五蘊身を生じ、身口意の一切の行を現じ出すことを明らかに知る。真心あるが故に一切の法の存在がある。同時に、五蘊が真心より生じた生滅可能な法であり、その機能作用は全て縁によって生じたもので実体なく、生滅を繰り返す虚妄の法であることを知る。

かくして五蘊が我ならざる理を知り、我見を断除し、五蘊を我とする見惑煩悩を打破する。これにより知見上の迷いや顛倒の想いが消え、生生世世にわたる三界五欲六塵の煩悩惑業は次第に消滅する。即ち、後の修行を通じて思惑煩悩を断ずる。思惑とは思想上・心理上の煩悩、貪瞋痴慢などの五蘊煩悩である。後に全ての塵労煩悩が消滅する時、これらの打破は般若の大智慧を証得したことによる。故に大智慧を具足して初めて五蘊の塵労煩悩を打破し、生滅を解脱できるのである。

二、如何にして五蘊皆空を証得するか

五蘊皆空を観行し知る心は妄心の七転識である。七転識には貪瞋痴の煩悩と無明がある。六・七識が禅定の中で五蘊無我性を観行思惟し、五蘊皆空を証得して無明を打破し、我見を断ずる。禅定中に第八識を参究し、破参の時に本心第八識を証得すると同時に五蘊皆空を照見する。初禅定の定水を得れば貪愛と瞋恚を断除できる。貪愛瞋恚を断じれば心解脱し、貪愛に縛られず五欲六塵に束縛されなくなる。四果に至れば三界世間への貪愛執着を断尽し、生老病死の束縛から解脱して三界を出離する。煩悩を断じ心解脱すれば身口意行は清浄となり、貪瞋痴の染汚業行を造作せず、心は清浄自在となる。

無明あるが故に貪染あり、身口意行は清浄ならず、業行を造作すれば業縁成熟して業報を受ける時、苦悩は尽きず生滅は尽きない。阿含経を学び我見を観行断除し、五蘊が虚妄・生滅・無我なるを知れば、五蘊仮我を巡って悪業を造作せず、三界世間が虚妄なるを知れば世俗法に貪染せず、世俗法に縛られず心解脱する。大乗法を修し明心見性して如来蔵を証悟し、如来蔵の清浄無我性を観察し、これに学び倣えば、将来心に掛礙なく顛倒夢想なく恐怖なく心解脱する。

三、何故五蘊は空なるか

観自在菩薩が深般若波羅蜜を行じた時、五蘊皆空を照見して一切苦厄を度した。五蘊が空なる理由を例えれば、糸操り人形芝居の如し。人形の四肢と頭は糸で操られ、後ろで人が糸を引く故に芝居が成り立つ。人形の芝居を「無い」とは言えないが、実質なく不実在で自在ならず自主性なく空幻である。相は有るが実質なく故に不実在である。

我々の五蘊もまた然り。五蘊が無いとは言えないが、この存在は虚妄で実質なき五蘊であり、自在性・自主性なく故に不実である。低血圧で眩暈する時、目の前に現れる黒点はその人にとって「無い」とは言えないが、この有り様は虚妄不実の幻相で他人には見えない。黒点を恐れ嫌う必要も、追い払う必要もなく、眩暈が治れば黒点は消える。同様に無明の病を治せば虚妄の仮相は心中に消え、一切法を実相と見る。

五蘊はこの黒点の如く虚妄不実、人形芝居の如く虚妄である。この理を真に悟るには深般若波羅蜜を行じ、深細な観行・思惟・参究を重ね、波羅蜜を証悟する必要がある。一切の相は有るが仮有で虚妄・幻化・不自在、故に五蘊は我ならず。真我は幻化ならざる無相の実相で真実存在する相である。

般若智慧の観行は菩薩六度の第六度に至って初めて悟前の観行智が生じ、観行智ある時般若智慧を成就する。観行成就し本来自在の心を証得すれば、この心が無所得の心であることを発見する。世間一切法に対し何も得ず、全てを具足し何も欠けない。この心を仏とも衆生とも称し得る。如何に扱おうと、認識しようとしまいと、自在なるが故に無関心である。我々は不自在で「かくあるべし」と執着するが、深観行により因縁成熟すれば五蘊虚妄・無常・空なることを証知する。無明故にこの理を知らなかったが、観行により証知できる。深般若波羅蜜を行じ真心如来蔵を証得すれば、一切法が如来蔵の起用であり、五蘊も苦厄も如来蔵の妙用全体であることを知る。元来五蘊なく苦厄なく、これらの仮相は如来蔵が現じ出す幻化の如きものなり。

故に五蘊は空、苦厄は空、一切法は仮相で如来蔵の顕現である。如来蔵の化現あるも、他の一切法は泡影。如来蔵には一切苦なく、その現前により全ての苦厄は如来蔵の性質となり消滅する。故に観自在菩薩は深般若波羅蜜を行じ五蘊皆空を照見し一切苦厄を度す。我々もこの観行により五蘊皆空・如来蔵なることを照見し、五蘊の塵労煩悩を打破できる。

四、一切法は全て虚妄不実

一切法の生は如来蔵より生じ、滅は何処へ帰するか。物質色法の生は四大種子の形成、滅は四大種子の分散。生は如来蔵より来り、滅は如来蔵に帰す。故に物質色法の消失は影も形もなく、滅する処所なし。

後脳勝義根中の六塵色法もまた然り。生は四大種子形成し如来蔵より来り、滅は如来蔵に帰す。その生滅は如来蔵中にあり、影も形もなく刹那代謝し、捉え難く実感は幻覚に過ぎぬ。

部屋中の物が充満する様も影像で実在せず、混雑感さえ虚妄。冷蔵庫を見れば影像が勝義根に刹那生滅し消える。テレビ・ソファ・机椅子などの影像も次々生滅し虚妄不実。

音声を聴く時、全ての音声影像は勝義根に同時或いは順次形成され、滅する時も同様。如来蔵より来り如来蔵に帰す。来去は実質的色法の出入りでなく、四大種子の如来蔵との関わりで、元来出入りなし。色身の生滅も虚妄・刹那的で実質なき幻影。

五識の心識種子は如来蔵より生じ、見聞嗅嘗触の如きは虚妄。滅すれば種子は如来蔵に帰し五識消失。六・七識の種子も如来蔵より生じ、了知分別を形成するも刹那生滅。来処なく去処なく海市蜃楼の如く虚妄。全て如来蔵の戯れ。

猿が湖面の月を掬おうとする如く、痴犬が鏡像に吠える如く、衆生の生生世世は徒労。仏となっても夢中の事。衆生は悪夢、仏は美夢。

五、五蘊と万物における如来蔵の執持作用

如来蔵は五塵境界と混ざらず、物質色法は心法たる如来蔵と混淆せず、色法は如来蔵を離れず存在する。如来蔵の証得は色法背後でなく五蘊活動中にあり、五蘊十八界の虚妄を観行し効果顕著な時、外界の境界が共業衆生の如来蔵に執持されることを感知し、我所見を断じ易くなる。所有する色法を実体視せず、空観が深まれば定力は急速に向上。

五蘊と万物の違いは、万物に識心・霊性・受想行識なく四大のみで如来蔵に執持される点。五蘊には八識の活動・霊性・受想行識・行為造作あり。故に一切法の背後に如来蔵が維持顕現し、一切法は生滅虚妄で如来蔵の功徳作用。

六、真妄心の区別

五蘊の虚妄法には真心と妄心が共存する。両心とも無形無相で内外中間に非ず。妄心は生滅・動転・分別・染汚・習気あり、如来蔵はこれらを具えず。世間現象に接する時、その不実性・虚妄性・不自主性・変異性を分析思惟すれば、次第に攀縁せず貪着せず煩悩薄く、我見断除は迅速。

更に現象の背後に何が存在を維持するか、虚妄なる現象が何故生起存在するかを疑情すれば、次第に万物主たる如来蔵を証得。一切法の無我・無人性・空性を観じれば証果のみならず明心証悟を得、如幻観・陽炎観・夢観等の各種観行を相続獲得。

七、虚相仮相の仮有用

真空とは如来蔵を指す。真実で性空、心体に一法も無く一切法を顕現。妙有とは五蘊十八界法相が有るも実質無く、如来蔵の顕現たる虚妄法。虚妄法を「存在せず」とは言えぬ。衆生は刹那に仮相を用い、五蘊で衣食住し、虚妄十八界中で仮色を見、仮声を聞き、仮香を嗅ぎ、仮味を嘗め、仮触を覚え、仮法を識る。

見聞嗅嘗触識は五蘊の機能。故に五蘊の表面的存在を否定できず、真に五蘊虚妄を認めれば我見を断じたことになる。しかし五蘊虚相の存在を全否定すれば観行不能で我見断除不能。衆生が五蘊虚妄を真に認めんことを願う。

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