五蘊を観じて我見を断ず(第一部)(第二版)
第四章 五蘊観行の第二部
第一節 五陰非我の理
一、成唯識論述記における五陰非我の理
原文:内識所変。至実我法性。述曰。此顕依他。我法名仮。先顕其体。実非我法。内識所変。似我似法。虽体依他。縁起是有。而非是彼。妄情所執。実我法性。此縁起法。無主宰故。無作用故。
釈:内識とは、内六塵を了別する七識である。内六塵は七識の参与によって顕現され、三つの能変識(第八識・第七識・前六識)が共同で内六塵と五陰を顕現する。六識と五陰は依他起性であり、種々の縁によって第八識より生じる。仮我たる五陰七識に似せて顕現し、宇宙器世間に似せて顕現するが、実はこれらの法は真実有ではなく、実存する我ではない。五陰は我ならず実ならず、七識は我ならず実ならず、六塵は我ならず実ならず、一切の法は我ならず実ならず、内識より顕現される仮我仮法は現象的には有のように見えるが、実質は無であり、幻化したものは即ち空である。
五陰六塵六識は単なる仮名に過ぎず、種々の縁によって生成されたものである。縁起法は表相的に有のように見えるが、実は衆生の情識が虚妄に我と実とを計度し、あたかも我が存在し種々の法があるかのように思うのみである。実際には存在せず、幻化して真実ではなく、夢中の物の如し。これらの縁起法は因縁によって生じたものであり、自主性がなく、主宰性もなく、真実の作用もない。
我とは主宰の義である。五陰に自主性がなく主宰性がない以上、五陰は我ではなく、単なる名詞概念であり、仮有で真実ではない。五陰に真実の作用はなく、表面的な機能作用に主宰性はなく、全て五陰の為すところではない。その背後に別の主宰者こそ真の主人であり、真の我である。その我こそ真の作用を有し、真実の作用を有し、自主性を有し、一切法の生住異滅を主宰する。
真実の五陰はなく、真実の五陰作用もなく、五陰の真の作用もない。衆生が五陰に作用があると感じるのは妄知妄覚であり、心の錯乱によるものである。実は迷い倒錯の心もなく、皆空中の花、夢中の境の如し。地に入れば、五陰に真実の作用を感じず、一切法に真実の作用があると思わなくなり、全てが仮相で真実の作用がなく、唯第八識にのみ真実の作用があることを知る。あたかも操り人形に真実の作用が無い如く、操り人形に真実の作用があると考える者は、皆仮相に迷う倒錯衆生であり、真偽を識らず主人公を取り違えているのである。
二、何故五陰は五陰ではないのか
所謂五陰なるものは、即ち五陰に非ず、是を五陰と名づく。これは公式であり、例えば「所謂某某、即非某某、是名某某」と適用できる。某某という名は単なる符号に過ぎず、本人ではない。但しこの名は本人を引き出すことができ、名もまた本人を離れない。本人がなければ名はないが、本人は名を有さないこともできる。本人は名によって顕現し、某某という名を呼べば本人は現れる。
同様に、所謂万法は即ち万法に非ず、是を万法と名づく。万法を某某の名に譬えれば、名の背後に人がおり、万法の背後には如来蔵がある。人に依って名があり、如来蔵に依って万法がある。人は名を有さずともよく、如来蔵も万法を有さずともよい。一切の法は名に過ぎず、相は有るが実質はなく、如来蔵は相がないが実有であり、実体を有し、真実の機能作用を有する。
三、六根が虚妄無我であることを如何に理解するか
六根は皆生滅性を有する。その内五根は第八識が業種と父母の縁及び意根の執取に依って生じたものであり、縁が散じれば滅び去り、自在ではなく自主性がない。意根は第八識が識種子を輸送して生じたものであり、刹那生滅が連続して形成された識の仮相である。無余涅槃に入る時には滅し去ることもできる故、虚妄不自在であり、幻化して我ではない。観行する際には、徐々に思惟し、極めて深細に思惟し、内心に触発されることがあって初めて、六根及び五陰が真実でなく真の我ではないことを真に認めることができる。禅定を修め、定力を以て思惟観行し、一つの法を思惟し終えてから次の法を思惟する。思惟する内容を深く脳裏に懸け、深く、緩やかに、細やかに、心を浮つかせず、思惟する法を深く懸けて、内心ほとんど動かず、実は極めて緩やかに深細に動いている。このような観行こそ正しい真の観行方法である。
四、四相無し
我相無く、人相無く、衆生相無く、寿者相無し。五陰十八界のこの仮我は、第八識が種々の縁に依って変生したものであり、虚妄・変異・無常・空・苦性である故、無我である。これには深く細やかな観行を行い、内心が五陰が真に我ではないことを確認する必要がある。我が虚妄である以上、同様に他人も虚妄であり、全ての衆生は虚妄非我である。然らば衆生五陰に依る寿者相は当然真実でなく虚妄である。定力を修め、これらの理をよく観行することは極めて重要であり、この中で多くの法を修め、八正道及び三十七道品をよく修めて初めて、これらの法が空であることを証得できる。口先で空を説いても無益であり、単なる口頭禅に過ぎない。
五、我所有の法も了不可得
我見を断じた後、五陰が我ではないことを証得する。我すら存在しない以上、我が所有する法も存在し得ない。表面的には六塵境界が我に属するかの如く、真実であるかの如く見えるが、これらの法は生滅変異し、自主性も自在性もなく、皆幻化したものである故、所有されることはなく、また主体たる我も存在しない。
所有と使用は虚妄の仮相に過ぎず、実質がない。所有とは七つの識心の占有であるが、識心は形も相もなく、如何にして占有するか。例えば衣服、七つの識は如何にして衣服を所有するか。金銭、七つの識は如何にして金銭を所有するか。人を所有する、七つの識は如何にして人を所有するか。己の五陰身すら所有できず、況んや他人の五陰身を所有し、名誉利養を所有するなど、七つの識は如何にして名誉利養を所有するか。全く不可能である。故に仏は「一切の法は虚妄の了不可得」と説かれたのである。幻化したものを如何にして得るか。指を折って数えれば、無始劫以来究竟何を得たか。即ち今この瞬間、我々は究竟何を得たか。唯自心の虚妄の覚受のみであり、何ら実法はない。各人は無始劫以来、絶えず己の虚妄の覚受を執着し、虚妄の覚受を追求し満足するのみで、何を得たり失ったりしたことはない。
今、天上の雷鳴と耳元の蚊の鳴き声を同時に聞く。しかし雷鳴は既にどれ程の時間を経て、どれ程の距離を過ぎて聞こえたのか。聞こえた時、雷鳴は既に消え去り、天上は既に雷を打っていない。雷鳴と蚊の鳴き声が同時に聞こえた以上、音声は耳根において先後を分たない。一つの音声が数秒で耳根に達するか、或いは数分かかって耳根に伝わるか、その音声の本質境は尚存在するか。最早存在せず、音声を聞く時、外界の真実の音声は消失して見えなくなる。然らば他人が私を罵る声を聞いた時、その罵声は尚存在するか。存在しない。聞こえた本質境の音声の幻化相は、谷間の反響の如し。然らば聞こえた罵声の虚妄さは如何ほどか。極めて虚偽不実であり、六識の触れる法は皆この如し。
六、五陰の集・味・患・離・滅
色は地水火風の四大種子より形成された有相の物質であり、衆生の十八界に摂持された世間法である。衆生の色身と宇宙器世間を含む。これらの色は皆生滅・変化・無常・虚妄・空・久住せざるものであり、これが世間の生住異滅の運行法則である。それ自体に善悪や過患はない。もしこれらの色を我或いは我所有と執取し、色に滋味があり長久不変であると認め、色に執着と貪愛を生ずれば、一切の過患が現れる。色を貪愛し執取する故、心は三界に縛られ、生死輪廻を出ず、未来永劫苦悩が絶えない。
五陰には皆集・味・患・離・滅がある。色陰の集とは、色陰を生じさせる業縁及び造業種子の累積である。色陰の出生には縁と因がある。如何なる縁因が色陰を生じさせるか。貪愛集即ち色集、貪愛の業行がある故、未来世の色陰が生じる。色滅、衆生は修行によって色への貪愛を滅し、貪愛を滅じた後には生死の過患が無くなる。
色味、我々は色陰に滋味があり楽しみがあり極めて愛すべきものと認め、色陰に貪着する。貪愛があれば生死煩悩を断じ難く、未来世の五陰の出生がある。色患、色陰には過患がある。色陰は無常・苦・空・変異である故、無限の生死過患があり、色陰があれば苦悩が生じる。色離、衆生は修行によって色への貪愛を離れ、貪愛を離れれば生死を解脱し大自在を得る。もし貪愛を離れ初禅定を現起すれば、煩悩を断じ心解脱を得る。
受陰の集、触集即ち受集、六根は常に六塵に触れ、触れた後六識が生じ、六識の受陰がある。受陰があれば絶えず苦受・楽受・不苦不楽受を生じ、故に生死苦受が絶えず苦悩が絶えない。受味、覚受が生じた後、衆生は覚受に滋味があると認め、心に喜楽を生じ、貪愛心を起こし、受を愛楽し喜楽し、心が束縛される。これにより未来世の五陰の出生を免れない。受患、六識のこれらの覚受は皆過患があり、無常・生滅・苦・変異・久住せざる煩悩法である故、全て断ずる必要がある。
受離、衆生は修行によって覚受への貪愛を離れ、受に滋味があると認めず、愛楽すべきでないと知る。受滅、八正道を修めた後、真に受への貪愛と喜楽心を滅し、心に寂止と清涼を得、解脱の真実受用を得る。触が離れれば受も離れ、触が滅すれば受も滅す。六根は極力六塵に触れず、受は減少する。受が無ければ受の過患も無い。
触集即ち想集、触滅即ち想滅、六根が六塵に触れて想が生じ、六根が六塵に触れなければ想は生じない。触集即ち行集、触滅即ち行滅、六根が六塵に触れれば身口意行あり、六根が六塵に触れなければ身口意行は滅す。名色集即ち識集、名色滅即ち識滅、名色五陰が生じれば六識が生じ、名色五陰が滅すれば六識も滅す。
七、我と我所有は皆我見に属す
我見は断じ難く、根深い故である。我所有見も極めて断じ難く、根深い故である。意根は五蘊の一部の機能作用を我とし、他の部分の機能作用を我所有とする。根深く我と我所有とを執着するこの習慣的な認知は転換し難い。意根のこの不如理なる知見を断除するには、長期的な観行が必要であり、絶えず五蘊への各種の観点を見直し、定中に如理思惟しなければならない。
我と我所有は非一であり、異なるものである。例えば受蘊を我と認めれば、色蘊は我の我所有となり、我と我所有は異なり、色蘊を我とする我見は断じたように見えても、色蘊を我所有とする知見も根深い邪見である。我と我所有は皆我見であり、断じ難いが、共に断除しなければならない。我見を断じた後、知見が是正されれば、我と我所有は不異であり、受蘊は我でなく色蘊も我所有でないと認める。
我見を断ずる前、受蘊を我とし、色蘊を我所有とし、受蘊は色蘊の中にあり、色蘊は受蘊の中にあると認め、二者は互いに存在しその体を遍くする。我見を断じた後、知見が是正され、受蘊は我でなく色蘊も我所有でないと認め、受蘊は色蘊の中になく、色蘊も受蘊の中になく、二者は互いに存在せず、色受想行識五蘊は我でない故である。
この問題は思議し難く、禅定中に問題を脳裏に懸け、意根に懸けていれば、ある日開悟しその義を通達する。この結びが解ければ、我見を断ずる障害が除かれ、観行の抵抗は小さくなる。
八、我見と我所有見は共に断除すべき
観行して我見を断ずるには、色受想行識五蘊を我とせず、また我所有ともせず、色蘊は我でないが我が所有使用できるなどと言えず、受想行識蘊は我でないが我が所有使用できるなどと言えない。色受想行識は即ち我であるというのは誤った見解であり、我が色受想行識を所有するのも同様に誤った見解である。これらの知見は全て滅除し、心から掘り出さなければならない。
我所有があれば我があり、我見が断じられていない。誰が色受想行識の機能作用を我所有とするか。もちろん意根である。意根は無始劫以来ずっとこれらの機能作用を使用し利用し、己にこれらの機能作用があると認め、これらの機能作用がある故に我慢と我執を生じ、生死煩悩が絶えない。
意根がこれらの機能作用を欲する時、第八識は惜しみなく意根のために色身と六識を生じ、これらの機能作用を現起する。意根はこれらの機能作用を我と我所有とし、全て第八識のものであることを知らない。故に生死流転が止まない。生死流転の苦悩を脱するには、意根にこれらの考えと知見を断除させ、意根がこれらの機能作用を我と我のものと認めないようにしなければならない。そうすれば意根は無我となり、次第にこれらの機能作用を利用して煩悩業を造作せず、次第にこれらの機能作用への執着と貪着が薄れ、生死業は消滅する。
無始劫以来、意根は五蘊十八界を執着してきた。何故執着するか。意根はこれらの法を我と我所有と認める故である。もし意根がこれらの法を我と我所有と認めなければ、もはや執着しない。執着が無益であり、貪着が無益であり、五蘊十八界が空・苦・幻化不実であり、捉えられないと知る故である。意根が一旦この理を証得すれば、次第に執着が薄れ、ますます自在解脱する。初果は五蘊無我を証得し、法眼浄を得、心眼が清浄になり始める。見が清浄であれば行も清浄となり、煩悩が断尽した時、行は最浄となる。
九、五陰の機能作用
タイプする時、手と目は色陰、画面を見て字体と画面を了別するのは識陰、思惟構想は識陰、画面の状況を受け入れるのは受陰、覚受を生ずるのは受陰、画面の状況と字体の大小を了別するのは想陰、心の念を了別するのは想陰、指がタイプするのは行陰、絶えず構想するのは行陰、呼吸等の身根の運動は行陰である。全ての五陰作用は識陰と行陰である。
話す時、食事する時、歩く時、観想する時の五陰作用を分け、六根が六塵に触れる時、色受想行識の機能作用を分けた後、観行思惟し、各機能作用が如何に生じ、如何に運行し、如何に変化し、最後に如何に滅し、如何に転移するかを観る。更に如何に無常か、如何に空か、如何に苦かを思惟し、このような機能作用が私であり得るかと考える。私はこのように生滅を繰り返すものか、このように絶えず変異し止まないものか。智者は決してこのような作用を我と認めない。
十、小乗が我見を断ずるには四聖諦法を修める必要がある
四聖諦とは苦・集・滅・道である。世間の一切の法が苦であることを了知して初めて出離心が生じる。出離心がなければ修行の前提と基礎がなく、出離心がなければ修行は懈怠し精進できず、貪愛を断ずることが更に困難になり、道業は進展し難い。常に己を反省し、苦を識り苦を知るか、出離心があるかを見る。これができなければ、後の修行は精進できない。
もし我見を断じ人無我を証得したいなら、我々は知らなければならない:人とは何か、人の概念は何か。我とは何か、私の概念は何か。無我とは何を指すか。空とは何か、空の概念は何か、空には幾つの種類があるか。無常とは何か、生滅とは何か、無常は何故真実でないか。これらの法に対し、心に明確な認識がなければならない。常にこれらの法を思惟し、心に堅固に一つの認知を樹立する:無常法は絶えず生滅変化し、把握できず、皆空であり、真実でなく、依るべき我ではない。
我々は再びこれらの法を真実とし、我とし、我が所有するとせず、再び捉え執取してはならない。これらの法を執取すれば永遠に生死に沈む。これらの観念を堅固に樹立し、以前の誤った認知を覆せば、徐々に我見を断除し、三縛結を断じて解脱自在を得る。これを成し遂げるのは容易でない。時に表面的或いは口では五陰が空幻であると認めても、内心深くの意根は認めない。意根に承認させ認めさせるには、常にこれらの理を思惟し、既に知っているからと深細な思考を怠らず、さもなければ意根の知見は是正されず、修行は進展しない。これが極めて重要である。
苦は真実でなく、苦は我でない。この観念を樹立しなければならない。無常で空なるものは真実でなく我でない。この観念も樹立しなければならない。このような思想観念を樹立するのは容易でないが、一旦樹立すれば、後の如何なる法も修め易く、知見は速やかに是正され、我見を断ずるも明心も、そして将来の如何なる観行も困難でなくなる。我々の修行を阻むのは煩悩・煩悩習性と誤った観念理念である。観念が是正されれば煩悩も降伏し易く、智慧も生じ易くなる。知見を是正することが最も重要であり、知見が正しければ我見を断じ邪見を断じ、後の修行の全ての関門を突破できる。
十一、我見を断ずるとは五蘊敗壊法を観行すること
小乗が我見を断ずるとは、五蘊十八界の苦・空・無常・無我性を証知することである。五蘊我は無常に等しく、空に等しく、苦に等しく、破壊すべきものである。五蘊は壊滅し得るものであり、破壊滅却できるものは真実でない。
真実真相には二つの意味がある。一つは世俗界の真理・事実を指し、もう一つは大乗法中の永遠不滅の第八識を指す。小乗が我見を断ずる修行では、第八識が不滅であり五蘊十八界と異なり、五蘊十八界の所依であることを知れば十分である。観行思惟の重心は、五蘊十八界が世俗界の真理として壊滅敗壊する法であり、真実性がなく、その真相は久住せざる相・苦相・空相・破壊相であることを認識することにある。
もし我見を断ずることを五蘊が第八識でないことを証得するとすれば、方向が大きく誤り、我見は依然として存在する。多くの人の思考はある誤った領域から抜け出せない。その原因は、ある種の誤導により先入観が生じたこと、及び論理的思考力が不足していることである。思考力の不足は定力不足に関わり、前世の善根福徳に関わる。これは自ら少しずつ定慧と善根福徳を積む必要がある。前世である程度の修学基盤がなければ、今世の修行は速く進まない。もし無理に速く悟ろうとし、各種の因縁条件が未熟で、自心の性質等が菩薩に近づいていない状況で焦って第八識を参究し、五蘊無我すら破らず、己の道業に害あり益無く、往々にして逆効果となる。
十二、観行と覚受無我の証得は極めて重要
衆生は皆覚受を真実とし、我とし、我所有とし、覚受を追求し、覚受に従い満足し、己の覚受のために各種の業行を造作し、特に悪業行を造作する。我々が生死苦を解除するには、覚受の虚妄性・不実性・幻化性・空性・非我性を観行し、覚受が確かに空幻不実であることを証得しなければならない。そうすれば再び覚受を重視せず追求せず、貪瞋痴煩悩の無明悪業を造作せず、我見を断じた後、貪瞋痴煩悩が次第に薄れ、心が次第に清浄となる。
覚受は如何にして空・幻化か。覚受は何処から来るか。覚受は主に六識の覚受である。実は背後にある意根の覚受も極めて重要である。意根に覚受がなければ、六識に貪染業を造作させず、解脱を求め精進して仏法を修学することもできない。六識の覚受は一方で意根から来ており、意根の影響と指揮を受ける。他方、六識自身が六塵境界を了別する時、境界の影響を受け、境界に貪厭を起こし、受心所法が現れると苦楽受が生じる。
六識の覚受は如何にして現れるか。如来蔵が識種子を輸出し、六つの識を形成する。六識が生成した後運行を開始し、五遍行心所法及び五別境心所法が現れ、六塵を分別し執取し、境界に覚受を生じる。その後この覚受を真実・我と認め、己に順ずるものは貪い、逆らうものは瞋り、貪瞋痴の無明業を造作し、生死輪廻の果報が絶えない。我々が覚受を観空し、五陰無我・覚受も非我を証得すれば、貪瞋痴煩悩を降伏できる。これは極めて重要である。
十三、我見を断じ得ぬ原因
我々の周囲では毎日無常の事が起こる。特に現代は情報が極めて発達し、無常の情報は数え切れない。しかし何故多くの人はこれらの無常情報に感慨も深思もなく、極めて平淡に見過ごすのか。特に自己に関わる無常に対し、何故慣れ、麻痺し適応できるのか。もし人が容易に無常に適応し、深思せず、反省せず、触発されなければ、如何にして無常の中で五陰無常非我を証得できようか。
辟支仏は木の葉が落ちるのを見て、世間が無常で楽むべからざると知り、直ちに出家して山中で無常法・因縁法を思惟し、世俗を貪恋しない。過去の外道も世間が無常であると知り、山中で修道した。ただ外道の修行の理論が正しくなかったが、その善根も浅くはなかった。世俗を捨てられる者は現代社会に幾人いるか。無常法に対し内心が麻痺し鋭敏でない原因は何か。世俗を貪恋する心があるため、何が起ころうと世間は愛すべき依るべきものと考えるのか。この心があれば、無常を見破り難く、我見を断じて証果を得ることは困難である。
我見を断じ得ぬなら、自らの原因を探り、己の心の思想観念・思惟習慣を観察し、到底何が問題かを見る。我見は内心深くの思想観念と大いに関係がある。多くの人は無常に遭遇し、たとえ苦痛でも容易に見過ごし、反省せず深思せず、思想観念も正しくなく、定力も不足し、一生を無常無聊の中に過ごし、完全に適応し、全く内心の触発もなく平淡に胡麻化し、如何にして智慧を生じられようか。
実は、我々は本当に無常を観察できず知らないのか。意識は容易に無常を了知でき、苦を了知でき、空を了知するのも難しくない。意識心は常に無我を説く。それでも何故我見を断じ得ないのか。一切の法は無常無我と認める人でも、他人が彼の我見断証果を認めても、彼自身の内心は敢えて認めない。何故認めないか。やはり心虚しいからである。実証が無く、内心深くこの理を認めず、自らの観点が不安定であると感じる故、彼ら自身もこれを知っているので、自らを肯定せず、平時は唯口にするのみである。
到底多くの人の意識心は己の五陰が恒常不変と認めない。それでも何故我見を断じ得ないか。無常の考え方は意根の考え方でなく、意根は五陰無常・一切法皆無常を知らない故、我見を断じ得ない。他人が彼の我見を断じたと言っても、彼自身は心虛しく認めず、証拠も理由も無い故である。
十四、五蘊を観行するには堅固に無我の観念を樹立する
暇あれば窓外の大樹を見るか、自ら大樹図を描き、常に樹根より上の五蘊七識の来歴を思惟し、各部分の相互関係を観る。常にこの観行をすれば、我見を断じ明心することは困難でなくなる。自らの因縁条件が具足すれば、如何なる法も自らの証果と明心を促し、全ての法は無我と無生に通じ、決して偏った道はない。
小乗の観行では、心に次のような概念と思想を有さなければならない:生滅変化するものは我でなく、常住せざるものは我でなく、種々の因縁が集まったものは我でなく、生じられたものは我でない。これらの観念を堅固に樹立した後、禅定中の観行によってこれらの理を認め、初めて我見を断ずる。この観念・概念・思想の樹立は、誰の助けも得られず、各人の自心の認知である。他人には如何ともし難い。例えば教師が学生に「これは黄色で、かくかくの特徴を有す」と教える。学生が心でこの黄色を認めるか、正確に黄色の概念を把握するかは他人にはどうにもならない。自ら思惟認知し、自らこの概念を消化して初めて承認し記憶し、黄色を証得する。例えば教師が「大」の字を教え、発音と意味・字形を教えても、学生がこれを担い理解するかは自らの事であり、他人にはどうにもならない。
五蘊の観行もこの理である。必ず自心深くこの結論を承認しなければならない。如何にして承認するか。勤勉に禅定を修め、定中思惟観行し、具足すべき条件を全て達成し、道具を整え、心力を充分にし、善思巧慧を有すれば観行成就できる。我見を断じ、正しい思想観念を樹立するのは重要である。内心に堅固な観念があれば、観念と一致しない事理に遭遇した時、直ちに否決し認めない。生滅無常即ち非我の観念が一旦樹立されれば、一切の法を観察し、生滅変化無常を観た後、その真実性を否認でき、無我を認め易くなる。思想観念を変えるのは最も難しいが、一旦変われば後の成果は計り知れない。
十五、理明は解脱の前提
解脱するには、必ず仏理に依って修証し、我見を断じ、五蘊十八界の空・人我無し・四相無しを証得しなければならない。更に五蓋を捨離し初禅を発起し、煩悩を断じ我執を去り、命終して三界を出て解脱を得る。何が我か、我とは何かを知らず、七識と五蘊に固執し、空しく執着を破り放下を唱えるのは徒労である。
小乗の解脱と放下は、必ず五蘊十八界の虚妄を観行し、一蘊ずつ観、一界ずつ観、漸次に初果より四果を証得して出離する。他に道はない。外道はこの理を知らず、長年修行し最高禅定を修め最上層天に生ずるも、定中の境界を涅槃と固執し、定境が法塵であることを知らない。知有れば即ち想、即ち我、依然五蘊中にあり、生死を出ず、解脱の時は遥か遠く、理が明らかでなければ禅定が強くとも解脱できぬ。
十六、修行は六識を離れず
仏法を学び修行するには六根を離れず、六塵を離れず、更に六識を離れず、寧ろ五蘊六根六塵六識の上で修行する必要がある。十八界を離れては修行できない。修行は六識の身口意を用いて修め、六識を滅却して用いないわけにはいかない。悟後の四禅八定を修める時のみ、一時的に六識を滅却して深く禅定に入り、無量神通を発起し慈悲喜捨の四無量心を修める。それ以外は常に意識心を用いて仏法を思惟し、参禅し、観行して我見を断じ、意根を熏習し、意根の執着と染汚を断除する。
六識を用いるには六根が必要である。六根がなければ六識を生じ得ず、意根は我執を断じた大阿羅漢でなければ滅却できない。凡夫は滅却できない。未だ我見を断じていない者が如何なる方法でも我執を断じ得ず、我見を破った後に自我への執着を少しずつ断ずる。これが修行の次第であり、飛躍はできない。我見を断じていない者が執着を断つと言うのは、唯口先だけで全く実行できない。