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五蘊を観じて我見を断ず(第一部)(第二版)

作者: 釋生如 分類: 二乗解脱 更新時間: 2025-02-27 閲覧回数: 213

第六章 五蘊と第八識の関係 

第一節 二種の無我法の内包

一、無我の意味

「無我」という言葉は、文脈によって異なる意味を持つ。これらの意味を明確に理解してこそ、無我の真意を把握し、修行の着手方法を知ることができる。妄心である七識の無我とは、第一に不生不滅性の欠如、永続性の欠如、真実の主宰性の欠如を指し、第二に第八識のような空性の欠如を指す。真心である第八識の無我とは、第一に七識のような自我性・利己性の欠如、第二に七識のような主宰性・主導性の欠如を指す。

これらの概念を明確にすることで、我と無我の真実義を理解し、自らの修行を導くことができる。これらの概念から脱却することも容易ではない。一つの名相が複数の意味を持つため、意味を明確にせず曖昧なままでは修行に着手できない。例えば「真実」という言葉は、文脈によって不生不滅の真実相である第八識(本来より存在するもの)を指す場合と、世俗法において事実に合致する相(ただし生滅法であり本来の法ではない)を指す場合がある。

二、二種の無我性の区別

苦・空・無常・無我の法を観行し、最終的に世俗界の五蘊十八界が全て生滅する無我法であることを実証する。五蘊が確かに生滅性であることを実証して初めて無我を知り、無意味な及び悪不善なる五蘊活動を次第に滅していく。最初は五蘊の活動を減少させ、五蘊の活動に興味を失う。五蘊が無我であり、生滅・変異・空・無意味であることを知るからである。

第八識を参究する目的は、五蘊中の第八識を実証することにある。実証後は五蘊と第八識の関係を現量観察し、最終的に一妄一真を実証する。妄なるものの妄たる所以、真なるものの真たる所以を観察する。第八識の真実永続存在性を証得し、五蘊身中の第八識の清浄性を観察すれば、第八識の無我性を証得する。同時に第八識が如何に具体的に五蘊を出生するかを観察すれば、五蘊が虚妄不実・無我であることを証得する。

二種の無我性は指向が異なる。苦・空・無常・無我性は生滅無常に対応する存在しない我(七識の我、仮我、滅除可能な我)を指す。第八識の我は不生不滅に対応し、真実性・清浄性に対応する。第八識の無我性は、第八識心が自我認知・利己心・我執を持たないことを表す。この二種の無我を混同してはならず、さもなくば正しい修行ができなくなる。無我の妄心は必ず生滅変異するが、無我の第八識は永遠に不生不滅である。

七識の無我には真実性がなく破壊性がある。第八識の無我とは無私心・無我性・無主宰性・無執取性である。七識が第八識に依って無我を修めると、第八識のような無我無私不執取性に類似する。我性が軽微な者は自らを否定し、非を知れば即ち改める。我性が重い者は理に従って思惟することを拒み、自らを少しも否定しようとしない。かかる者は自らの非を省みず、理に固執して改めようとせず、修行が極めて困難である。

禅定がなければ思惟は粗雑で論理性を欠き、法義の是非錯綜を整理できない。特に複雑な法義に遭遇すれば手掛かりが得られず、禅定の重要性がここにある。

三、妄我と真我の非対等性

「私は仏法を学ばず、修行せず、戒律を守らず、禅定を修めず、智慧を開かず、解脱を求めず、自在に振る舞い、自然に任せる」という時の「私」は何を指すか。第八識を指す。この主体を七識に置き換えることは可能か。七識五蘊が第八識のように仏法を学ばず修行せず戒律を守らず禅定を修めず智慧を開かず解脱を求めず自然に任せることは可能か。成仏して究竟に識を智に転じ、七識心性が第八識に近似した後でなければ不可能である。

「第八識を学び依止し転依すべき」という主張は正しいか。厳密な論理思惟が必要である。第八識に学ぶべき方面と学ぶべきでない方面、学ぶ時期と学ばない時期を区別しなければならない。成仏後の七識は第八識と同様、学修を要しない。衆生段階では仏法を学び戒律を守り禅定を修め智慧を開き解脱を求める必要がある。成仏前は五陰身の運作における第八識の清浄性・無貪瞋痴性を学ぶ。成仏後は七識が第八識と同様清浄となるため、第八識の清浄性を学ぶ必要がなくなる。二つの我を明確に区別して初めて修行が可能となる。混同すれば修行も成就もできない。

四、大小乗観行の混同不可

自我を放下して無我に至る。ここでいう二つの我はともに妄我を指す。妄我と真我の論理関係を理解できなければ、大小乗の修行は共に困難である。小乗観行を行いながら小乗無我の結論を得られないのは観行不十分による。大乗観行を行いながら小乗結論しか得られないのは根器不足による。一般に明心前の段階にある者は、大乗法的参禅と混同せず小乗観行に専念すべきである。根器と智慧が不足している段階では正しい観行結果を得られず、真実の我見断ちができない。

無我が全て大乗法の第八識を指すわけではない。世俗界の仏法を知らない者が如何に無我を達成するか。例えば世俗事業で無我を実践した人物が第八識に転依したか。小乗初果から四果までが第八識に転依したか。無我法を全て第八識に当てはめるのは誤りで、実際の観行体得が必要である。小乗で真実に証果すれば、合理如実な結論を得て大乗結論に走ることはない。

言論からその者の実修実証の有無が判別できる。真修実証による結論か、思考解釈による理論か。凡夫が初地・八地菩薩の修行を説くのは、実践的修行を知らず、明確な道筋を持たぬ証左である。禅定修習に専心すべきである。禅定なき思惟には論理性がなく、明晰さを欠く。

五、小乗観行の帰結

五蘊の苦集滅道を観行し「五蘊は第八識ではない」と結論する場合、凡夫衆生が無始来五蘊を第八識と見做してきたことを示す。仏法に遇い解脱を求め、観行思惟により従前の誤認を是正し「五蘊非第八識、非非第八識」と正見に改める。しかし「非非第八識」には五蘊即第八識の含意がある。

もし凡夫が無始来五蘊を第八識と見做していたなら、我見我執も無明煩悩も存在せず、仏が衆生救済に来臨する必要もない。衆生が第八識を認めれば五蘊我を認めず、悪業を造作しない。凡夫衆生が無始来五蘊を第八識と見做していたかが核心である。

凡夫が無始来五蘊を第八識と見做していたなら、全ての衆生は地上菩薩であり唯識種智を具えている。しかし現実に我見を断つ必要がある以上、この見解は成立しない。凡夫が解脱法に遇い四聖諦を観行する際「五蘊非第八識」と結論するのは概念のすり替えである。真実に三十七道品を修行し観行する者は、我見を断ずる時「五蘊非第八識」など結論しない。この結論は実修を経ない理論研究に過ぎない。

仏が四聖諦を説く際、まず「五蘊中に真我第八識が不生不滅で存在する」と明示した。弟子たちは仏語を信受し、五蘊十八界が滅尽しても第八識は不滅と知った。この知は意識の知であって、意根の実証ではない。大乗菩薩でなければ第八識を参究しない。五蘊の苦集滅道を観行するだけで「五蘊非第八識」と結論する必要はない。

仏が第八識如来蔵を説かなかった時代、衆生は第八識を知らず「五蘊即第八識」という観念を持たなかった。故に「五蘊非第八識」と観行するのは邪観であり、小乗法的観行を経ず我見を断っていない。

阿含経の四念処観で身不浄・受是苦・心無常・法無我を真実に観行し、数年間かけて我見を断ずる者が「身非第八識」等と結論するなら、それは如理観行ではない。小乗修行者が五蘊不異第八識如来蔵を証得すれば、苦を恐れ五蘊を急いで滅尽しようとはしない。五蘊が第八識の幻化相であることを知れば、実体なき苦を避ける必要がなくなる。

六、苦の非我性の意味

五蘊無我を観行し「色受想行識は苦であり、苦は第八識非第八識ではない」と結論するのは妥当か。色受想行識が苦であり非第八識と証得すれば、次第に五蘊を厭離し、第八識を貪愛喜楽するようになる。小乗聖弟子が第八識を喜楽することはあるか。あるなら阿罗汉は菩薩道を修め涅槃に入らない。理論上五蘊非第八識は仏法を聞くだけで理解可能である。五蘊が第八識でないことを観行する必要はない。

五蘊が苦であり第八識の所有でないと言えるか。意根は五蘊を我の所有と執着し、生死苦を生む。凡夫の意根が五蘊を第八識の所有と認めれば、我見我執は存在しない。五蘊の本質は第八識である。四大種子は全て第八識より出で、五蘊は第八識の投資によるもの。観行して五蘊非第八識と結論するのは矛盾である。理論には限界があるが、実証者は全てを説き得る。

七、五蘊非我の「我」の正体

六七識が五蘊を我と見做す。我見を断てば五蘊を我と認めなくなる。意根が色蘊を我と見做せば、受蘊を我所とする。色蘊中に受蘊はなく、受蘊中に色蘊はない。五蘊は相互に混在せず、この理を観行で証得する。

大乗理と小乗理を同時に観行すると混乱を生じ、小乗我見断ちに支障を来す。大乗理を了解した上で小乗観行に専念すべきである。五蘊非第八識を観行するには第八識証得後の深い般若智慧が必要である。心経の「行深般若波羅蜜多時」で初めて五蘊皆空を照見する。浅い般若では不可能である。阿含経の方法に従い観行すべきで、独自の方法を創るべきではない。

八、我見断ちの主体

識蘊六識を我と見做す「我」は真我第八識か妄我意根か。我見断ちは意根に識蘊を我と見做す見解を断たせること。観行の結果、意根が識蘊無我を認めることであり、第八識が認めることではない。識蘊の生滅無常性・無我性を観行するのであって、識蘊非第八識を観行するのではない。

この観行の主体は第八識ではなく、意根が意識の観行に基づき自ら行う。最終的に意根は識蘊非我不異我を証得する。我見は誰の見か。五蘊を我と見做す邪見は誰にあるか。正見を得るのは誰か。第八識は見惑煩悩惑を持たず、観行の主体は六七識である。

九、色身の第八識性

世俗的には色身は色法であり第八識ではない。しかし勝義諦・唯識的に色身の実質は第八識である。第八識が色身を生じ、継続的に維持する。四大種子の供給が止まれば色身は滅する。第八識は業種に従って種子を出力し、意根が業を造作する。色身の興衰は意根が責任を負う。

十、小乗正観の要諦

五蘊十八界の無常・変異・空・苦を観行し、無始来執着してきた我が存在しないことを確認する。これが正観である。五蘊非第八識を観行するのは蛇足である。

十一、小乗の断疑

四聖諦による解脱への疑い、自己の我見断ちへの疑い、他人の我見断ちへの疑いを断ずる。大乗未証得のため所知障が残る。

十二、諸行無常偈の意義

諸行は如来蔵に依り縁起する故に無常。阿罗汉が五陰十八界を滅尽すれば、第八識如来蔵のみが寂滅境に住する。

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