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五蘊を観じて我見を断ず(第一部)(第二版)

作者: 釋生如 分類: 二乗解脱 更新時間: 2025-02-27 閲覧回数: 6113

第二章 二種の我見

第一節 論中に定義される我見

一、『瑜伽師地論』に説かれる我見

原文:**薩迦耶見者。於五取蘊。心執増益。見我我所。名薩迦耶見。此復二種。一者俱生。二者分別起。**

釈:瑜伽師地論において我見は次のように定義される。我見とは五取蘊に対し心が執着を増幅させ、我と我所を見做すことを指し、これを薩迦耶見と称する。この我見には二種あり、一つは俱生(生来のもの)、もう一つは分別起(分別によって生じるもの)である。

俱生我見は生命の全過程に伴い、生命の最初から存在する。外界の影響や意識の誤った教導を必要とせず、意根に内在する我見を指す。意根は無量劫にわたり生命体に随伴し、我見は深く極めて断ち難く、我と我所への執着は捨て難い。

分別我見は六塵の境界を分別することから生じ、意識の我見を指す。五取蘊を我と我所と見做すこの我見は、苦集滅道の四聖諦を聞き思惟し、その理を明らかにすれば断ち得る。

しかし意識は五蘊身を主導できず、意根の調制に従う。意根が五蘊を執取し業を造作する時、意識はこれに従わざるを得ない。意識が強ければ意根の我を抑制できるが、微弱な時は意根の我性が氾濫し、悪業を造作して漂流することを免れない。故に意根の我見を断たねば、仏道成就は叶わず、五蘊を我と我所として執着し続ける。

二、『大乗広百論釈論』に説かれる我見

巻二原文:**又諸我見。略有二種。一者俱生。二者分別。俱生我見。由無始来。内因力故。恒與身俱。不待邪教。及邪分別。任運而起。故名俱生。**

釈:我見は大略二種に分かれる。俱生我見は無始以来の内因力により、五蘊身と恒に共存する。邪教や誤った分別を待たず、自然に生起し、五蘊身を我と我所と認める。胎内に在る時から既に胚胎を我と見做す。

原文:**此復二種。一常相続。在第七識。縁第八識起自心相。即執為我。名為我見。二有間断。在第六識縁五取蘊。或総或別起自心相。即執為我。名為我見。如是二種俱生我見。微細難断。数数修習勝無我観。方能除滅。**

釈:俱生我見は更に二種に分かれる。第一は第七識に常住し、第八識の見分を縁として自心の相を起こし、これを我と執着する。第二は第六識が五取蘊を縁とし、総体的に或いは個別に自心の相を起こし、我と執着する。この二種の俱生我見は微細で断じ難く、優れた無我観を繰り返し修習して初めて除滅できる。

この我見は意根の無始以来の無明に起因し、第八識が生起し保持する一切の法を我と我所と見做す遍計所執性である。意根は法界の実相を知らず、一切の法が第八識に由来することを悟らない。これを倒見・錯執と呼ぶ。意根の我見は総じて法我見であり、五蘊を我と見做す点で五蘊我見となる。この我見は四聖諦の修学によってのみ断じられ、断じた後、意根の五蘊への執着は次第に軽減され、我執が断尽すれば三界を出て解脱を得る。

意根の我見に断続があるのは、意識が断滅する際、意根が意識の見分を我見として執取できなくなるためである。意識が再び生起すれば、この我見も再び現れる。

原文:**分別我見。由現在世外縁力故。非與身俱。要待邪教及邪分別。然後方起。故名分別。此亦二種。一縁邪教所説蘊相。起自心相。分別為我。名為我見。二縁邪教所説我相。起自心相。分別為我。名為我見。如是二種分別我見。**

釈:分別我見は現世の外縁力により生じ、五蘊身と共存せず、邪教や誤った分別を待って生起する。意識の我見は更に二種あり、邪教による五蘊の説明を縁として自心の五蘊相を我と分別するものと、邪教による我相を縁として自心の我相を分別するものとがある。

三、阿含経に説かれる我見

六識の機能作用を自己のものと見做すことが我見である。六識の見を自己の見とし、六入処の受を自己の受とし、六塵への思想を自己のものとし、身口意行を自己の造作と見做す。この「我」とは意根を指す。

阿含経における我見は意根の見を指し、我見を断つとは意根に我見を断たしめることである。意根の我見は本質的に法我見であり、一切の法を我と我所と見做す。これには五蘊我見も含まれる。

意根には人我執と法我執があり、対応して人我見と法我見が存在する。実際、法我見は五蘊我見を含み、意根が一切の法を我と見做す。法我見・法我執が断尽すれば無明が滅し仏道を成就する。修行の要諦は意根の無明を破り、一切の法が第八識に属することを悟らせることにある。

衆生の無明は全て意根の無明に起因し、六識の無明は意根の無明から生じる。意根の無明が滅すれば我見・我執は消滅する。小我たる意根と大我たる第八識が和合し、世間一切の法を顕現する。仏道修行とは意根を調えることに他ならず、一切の法はこれに奉仕する。

勇猛心を発する者は、一切の我を滅する覚悟が必要である。「我」ある限り大自在も大解脱も得られない。仏法の修証は看破と放下の過程であり、一切を放下しきる時、仏果は成就する。

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