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五蘊を観じて我見を断ず(第一部)(第二版)

作者: 釋生如 分類: 二乗解脱 更新時間: 2025-02-26 閲覧回数: 143

第二節 大乗と小乗の異なる修行目標

一、仏が悟られた法は縁起性空にあらず

世尊が阿含経において説かれた十二因縁法は、声聞縁覚の修する解脱法であり、大乗如来蔵法に及ばず、直接成仏する法でもない。故に十二因縁法は究竟の成仏法にあらず、究竟の仏法は虚妄法の一切法空を説くものではなく、不生不滅不空なる如来蔵の一切功徳体性を説くものである。声聞縁覚が十二因縁法を修し終えても、縁起性空を証得するのみで、五陰世間の一切法が因縁所生であることを知り、如来蔵を因とし無明業種に依って一切法が生起することを了知するが、大乗の如来蔵実相心を証得する能力は未だなく、故に大乗実相の智慧を具えていない。

十二因縁が依る諸縁は悉く如来蔵より出生するものであるから、これらの縁は生滅するもので真実ではなく、幻化の空相である。声聞縁覚が此の理を証得すれば解脱を得、生死輪廻の苦を出離することができる。しかし彼らは未だ大乗法を修証しておらず、如来蔵の成仏法を解せず、三乗仏法の中二乗のみを修証し、最上乗法を未だ解せず修証せざるままに三界を出離する。無始無明と塵沙無明は未だ破れず断たれず、無明習気及び煩悩随眠も未だ断除されていない。故に声聞縁覚の修証境界は仏とは甚だ遠く隔たっている。

よって仏陀が成道時に悟られたものは、縁起性空の二乗法ではなく、最上乗如来蔵法である。仏陀が明星を夜見して仏性を眼見された時、最も真実なる仏性を見られたのであり、これが仏地の見性である。仏の大円鏡智が現前し四智円明となる時、仏道を成就するのであって、世人が錯覚するような縁起性空という浅薄な二乗法ではない。両者の本質は甚だ遠く、もし仏陀が単に縁起性空の二乗法を悟られたのみとすれば、仏陀は衆生に大乗の真実なる如来蔵成仏法を教えることができず、仏法は不完全で大いなる欠陥を有し、衆生は真実の最大究竟の利益を得ることができない。しかし仏陀は法輪を転ずる後期に至るまで、常に衆生に大乗成仏法を教え続けられた。これにより仏陀成道時の悟りが決して縁起性空ではなかったことが明らかである。現在の衆生は仏法を甚だしく誤解し、見解が浅薄で、縁起性空を仏法の中心と重点と見做し、万法の根源と連繋することができず、万法の由来を知らず、世界の本源を知らない。これこそ仏法の流弊である。

二、小乗より大乗に回向する阿羅漢

「小」とは心量が小さく、他者を顧みること少なく、他者の利益を思慮することを指す。「乗」は乗り物・運搬具・車乗の意であり、小乗とはその法が浅く究竟せざることを意味し、度する衆生の根機と数量が限られる。大乗は心量広大で、修行が完全に個人のためではなく広大な衆生の利益を思慮し、法大法深く、人を度するに無量で究竟することを意味する。

声聞縁覚の心構えは、自らが苦を離れ解脱することを求め、他の一切を顧みない。彼らは衆生の苦を考慮せず、仏教の発展を考えず、仏の恩徳に報いることを思わず、ただひたすら無余涅槃に向かい、自らが再び三界に現れて身心の苦を受けることなきを願う。彼らのこの心量は甚だ狭小である故に小乗人と称される。これに対し大乗菩薩は心量広大で、自利として無上の大涅槃を求めるのみならず、全ての衆生を率いて生死の大火坑を共に出離し、無上の仏道に趣向し究竟の涅槃を証得しようとする。仏道を成就し究竟の解脱を得んとするならば、小乗人は小乗心を大乗心に回向し、大乗の菩提大道に改め、小乗の羊腸小道を行くべきではない。

声聞縁覚の類の修行者には二種ある。一つは大乗に回心可能なる不定性声聞縁覚、もう一つは大乗に回心せざる定性声聞縁覚である。大乗に回心する声聞縁覚人は、一定の修行段階に至り自心が安穏を得た後、衆生の苦恼が絶え間ないのを見て、衆生のために無余涅槃に入らざる発心を起こす。或いは仏の大乗法義開示を聞き、大乗を欣楽して無上菩提を求め、明心見性を求め如来蔵法を修学し、無余涅槃に入ることを選ばず、留世して修行を続け自利利他を行う。

二乗人が大乗に回心するのは、各修行段階において可能であり、証果以前にも証果後にも起こり得る。これは各々の因縁の影響力による。もし人の心が小乗に留まらず、仮に小乗の四聖諦法を修して阿羅漢果を証得するも、ただ個人の解脱を得んとし無余涅槃に入って苦を避けんとするのでなければ、既に小乗人ではなく、小より大に回向する問題は生じない。ただ声聞人の自私の心構えのみが小心を大心に回向し、大心の広く無量衆生を利する大乗菩薩となる必要がある。

現世末法において凡夫衆生は我見深く、我執更に重し。もし小乗四聖諦法を修せず先ず我見を断除せねば、大乗法も修め難い。小乗法を修せず我見を断たずして直接大乗法を修め、先ず禅を参じても、仮に密意を参究し如来蔵を悟るも、我見は未だ死に切れず断じ尽くされない。この我見が死に切れぬが故に、我執・私心・慢心は絶えず祟り、貪瞋痴の煩悩は依然として重く、自らの大乗道業は大いに進歩せず、往々にして徒らに原地を踏む者が多い。

大乗と小乗の果位は截然と分かれるものではなく、緊密に連繋している。小乗の果位が上進しなければ大乗の果位は停滞する。かくして一生を修め終えても、実際に受用できるものは未だ少なく、仮に道理を説くに口角泡を飛ばし天花乱墜とも、実際の修証との隔たりは依然として甚だ大きく、表面上現れている如き修行有るものではない。我ら現在の末世衆生は業障深く、我見・見取見極めて重し。必ずや小乗の基礎を堅固に築き、あの五陰を死に切らせ永く断じて無余ならしめ、貪瞋痴煩悩の降伏と断尽を速やかにするがよい。かくすれば自ら生生世世に大いなる利益を得、菩薩と為るも軽安愉快となり、再び多くの悪業悪行を造りて自らの道業を遮障せず、自らをして重き大なる苦報を受けしめない。我らは智慧を以て仔細に其中の道理を思考し、自らに最も有利なる抉択を為すべく、小乗法の修行を軽視せず、高遠を好み急がず、着実に歩を進めるべきである。かくしてこそ自らの道業増進に最も有利である。

三、菩薩と阿羅漢の修行目標の相違

世尊は阿含経において、貪愛の集まり即ち苦の集まり、貪愛滅すれば苦滅し、苦滅すれば解脱を得ると説かれた。貪愛を滅する前提条件は四聖諦理を修習し、苦諦を了知し、集諦を断除し、八正道諦を修すれば苦を滅し、苦滅諦を証得することである。苦滅諦を証得する者は智慧解脱者であり、解脱は我見を断ずることにより来る。我見断じた後、我執を断尽し得、我執断じた後心は解脱を得る。此れより後、五陰世間の妄法を執取せず、自由人となる。

阿羅漢は解脱を得て心自由となるも、命終には自らの五陰を悉く滅し、意根も滅す。未来三界世間に再び五陰身を現じて苦を受けることなく、阿羅漢たる此の衆生は此れより三界より消失する。彼らは再び仏法を修学して大乗甚深般若智慧を得ることも、自らの修するを以て衆生を利楽することも、仏道を成就することもできず、只暫時にして究竟ならざる解脱を得るに過ぎない。これは彼らに智慧を欠き、慈悲心薄く、私心重く、衆生の苦を悲愍せざるが故に、仏は彼らを小乗人・焦芽敗種と説かれる。

菩薩たちは明心して第八識を証得すると同時に我見を断じ、第八識を真とし五陰を妄と知り、再び五陰を我と認めず、以後の修行の歩むべき道は大乗小乗を同時に修し、小乗解脱道においても貪愛を滅して解脱を得る。但し菩薩たちは五陰身を永く滅して用いざるものではなく、五陰身を善用して仏法を修学すると共に有情を利楽する。此れより雖も三界世間に生活するも、心は自由解脱である。菩薩たちは大乗修行の道を歩み、慈悲心重く、自利と利他を発願し、心解脱を得て永く滅度せず、阿羅漢の如く生死の苦を恐れ自らを滅することなく、未来再び三界世間に出生せず、自らも利せず人をも利せざるに非ず。菩薩もし滅度を取れば菩薩戒に背き、菩薩の慈悲心に背き、諸仏の教導に背く。故に解脱を得た菩薩は命終に際し、尚ほ一縷の思惑煩悩を断ぜず保持し、三界に再び出生し続ける。これを留惑潤生と謂う。

四、大乗小乗二種の解脱

解脱には二種ある。一つは二乗無学聖人たる阿羅漢と辟支仏の解脱、もう一つは大乗菩薩の解脱である。小乗の解脱とは、三界世間法に対し再び貪愛なく、貪瞋痴の無明煩悩悉く断尽し、三界生死に繋縛されず、自らの五陰十八界を滅し無余涅槃に入る能力を有することを指す。四阿含経中の苦集滅道四聖諦理を修学し、五陰無我を証得し、我見と三縛結を断除し、次いで初禅を証得し、更に貪愛を断じ我執を断てば解脱を得、三界の生死輪廻を出離する。

中乗辟支仏は十二因縁法を修し無明を断尽すれば、三界生死輪廻を出離し、自らを滅尽した後再び三界に出生せず、かくして解脱を得る。上記二種の解脱は、五陰が修行を以て初めて得る解脱であり、本来存在する解脱ではなく、究竟不徹底の解脱である。此の解脱には解脱色なく(最終的に色身を滅するが故)、また全ての無明を断尽せず(無始無明未だ破られず)、変易生死未解決で、真に生死の大事を解決せず、故に究竟の解脱ではない。

大乗の解脱は、菩薩が六波羅蜜を修行し、禅を参じて本来解脱せる如来蔵心を証得し、明心見性の後、自由自在なる如来蔵に依止する。五陰も亦貪瞋痴無明煩悩を断尽し、三界世間への貪愛を断除し、更に法執を断ずることを要し、漸く究竟解脱を得て生生世世解脱の五蘊身を保持し無量衆生を利益する。菩薩たちは煩悩を断尽するのみならず煩悩習気も断尽し、無始無明と塵沙惑も悉く断尽し、分段生死と変易生死も悉く断尽し、かくして仏地の無住処涅槃を証得し究竟解脱を得る。此れが真実にして最終の究竟解脱である。此の解脱には解脱色あり、仏陀は此の解脱色を以て分身無数に有縁を広く度す。如来蔵を明心見性し証得する時、如来蔵が不生不滅で三界中に在らず、三界生死に繋縛されず本来解脱していることを知る。五陰は如来蔵に依止する故、本来解脱しているのである。

五、声聞人の真我第八識実証不能

信は証に非ず。仏語を信ずるは仏語を証すに非ず、五蘊無我を信ずるは五蘊無我を証得するに非ず、第八識が真我であることを信ずるは第八識が真我であることを証得するに非ず。信には更に次元の問題があり、浅層は意識の信、深層は意根の信である。意根仮令信ずるも証に非ず。信と証の隔たりは甚だ大なるかも知れず、或いは小なるかも知れず、何人が信ずるかによる。

声聞人は仏語を信ずる故に不滅の真我第八識が存在することを知るが、心量の問題により実証できず、一旦実証すれば即ち大乗見道の菩薩となる。声聞人は菩薩に非ず。声聞人が発心して無余涅槃に入らざるは通教の菩薩たり得るも別教菩薩に非ず。第八識を証得して初めて別教の菩薩となる。声聞人は仏語を聞く時、即時に第八識が真我であることを知るが、更に詳細なる内容は知らない。第八識に対し実際の観行なく、五蘊と第八識の真実なる関係如何を知らず、第八識が如何にして五蘊の存在と運作を出生し維持するかを知らない。

声聞人は仏語を信じた後、禅定中に五蘊十八界の無常苦空無我性を具体的微細に観行し、最終的に五蘊十八界が確かに苦空無常無我であるとの結論を得、かくして五蘊を我と認める我見を断除し、法眼浄を得て初歩の解脱功徳を受用する。声聞人は第八識を実際観行せず、能力も無い故、確たる結論を得られず、五蘊が即ち第八識か非第八識かを証得できない。大乗菩薩のみが第八識を証得した後、始めて五蘊十八界の我が生滅の仮我であり確かに第八識に非ざることを如実に観行し得る。此れ以前は悉く仏語を信じ、仏陀の説かれたが如くを信ずるに過ぎない。

菩薩が無生法忍を証得し道種智を具える時、漸く如実に五蘊十八界が実際に第八識であり、第八識の一部分の功用であることを観察し得、現前に第八識が如何に具体的に識種子と四大種子を流注し、如何に業種子を流注して連続不断の五蘊十八界の功用を形成するかを観察し、此れにより一切法が悉く第八識であることを漸く証得し、衆生が一真法界に在ることを知る。此れ以前は悉く相似の理解推論推測想像と仏語を信ずるに過ぎず、実証には及ばない。

声聞が実際に第八識を観行せず実証せざる故、五蘊と第八識が不一不異であるとの結論を出すことは不可能である。此れは実証した大乗菩薩のみが得る確たる結論であり、声聞人が此の結論を確たるものとすれば、直ちに大乗実義菩薩となり別教菩薩となる。

声聞人は観行参究を以て五蘊十八界が空であることを証得する。此の空は第八識の空性体性を指すものではなく、声聞人に此の智慧無く、只毀壊敗壊するが如き空を証得するのみで、究竟ならざる空である。大乗菩薩のみが五蘊が第八識の空性であることを証得し、五蘊全体を第八識の空性と観照し得、此れにより唯識種智に入り、観行智慧甚深甚深、禅定も亦甚深となる。

第八識を実際に証得せざる時は、五蘊が果たして第八識であるか否かを現前に観察できず、第八識が五蘊身中で如何に運作するかを観察できず、五蘊と第八識の異不異の関係を観察し得ない。想像するは実証に非ず、推理するは実証に非ず、仏語を信じて復誦するは実証に非ず。

若し論理推理推論等を以て実証と為すならば、命終の時大いなる麻煩を生ず。其の時は、一切が自らが平時に想像し認めし理の如くならざることを発見するであろう。其の時如何に慌て騒ぐも益無く、最も恐るべきは、自らが従前学び認めた理を再び信ぜざるが故に、仏法を誹謗する心を生じ、然る後悪道に趣くことである。

仮令大乗菩薩と雖も、大乗を修学するを主とすれども大乗を証得せざるは、五蘊が究竟如何に第八識と関係し、如何に異不異の関係にあるかを如実に観察し得ない。推理は実証に代われず、然らば少々の小聰明ある世間人も皆第八識を証得し大乗菩薩と成り得、三宝に帰依せず、戒定慧を修せず、仏の前行法は悉く無用となるであろう。

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