五蘊を観じて我見を断ず(第一部)(第二版)
徹底的な無我の境地
もし心を静めて自らの内面を検証すれば、いかに修行を積んだと自覚していても、心の隅々にまだ「我」が存在し、何事につけてもまず己の利益得失を計算し、私的な立場から物事を考え、その後に他人の利益を配慮していることに気付くでしょう。あらゆる法を実体あるものと見做すが故に、あらゆる法と対立するのです。真の無我を実践することは極めて難しく、無始以来の習気を自ら検知することさえ容易でないままで、ましてやそれを制圧し断じ切ることはなおさらです。
無量劫にわたって仏法を学び修行するのは、いったい何のためでしょうか。それは徹底的な無我に到達するためです。いかなる法をも我と見做さず、実体あるものと認めず、いかなる法とも対立しなければ、もはや仏法を学ぶ必要も修行する必要もなく、大小乗ともに学ぶべきものを残さない境地に至るのです。
心中に巣食う様々な「我」をいかに調伏すべきか。まず「我」と呼ばれるものの範囲と内容を明らかにし、最も狭隘な我見を断除し、次に我性を降伏させ我執を断じ切らねばなりません。さらに三界世間の一切法を我と見做す広範な我見は、その後の修行の過程で徐々に調伏・断除していく必要があります。これらを悉く断じ尽くせば、真の太平が訪れ、もはや煩悩の種はなくなり、究竟の常楽我淨が実現するのです。これこそ真の悦びではありましょうか。
一法でも実体あるものと見做してこれと対立するなら、それが即ち我性です。真に対立心を捨てた時、内面は極めて平穏で、柔軟で、従順で、慈悲に満ち、光明に輝きます。心は澄み渡り、豁達大度で、比類なき光明を放つのです。この境地を完全に体得するのはいつのことか。一法も執着の対象とせずと言葉で言うは易いが、実践はあまりに困難です。これは積年の習気が深甚で、断じ尽くし難いためです。
一人とも対立せず、一事とも争わず、一法とも敵対しない。心は堂堂として穏やかで、明るく清らかに、寂然として静謐で、虚空のように広く和やかです。これこそ徹底的な無我の心境と言えましょう。このような生命こそ真の価値と意義を具え、大切に保つに値します。ただしもはや「保つ」という念いさえなく、心は一法をも重んぜず軽んぜず、ほとんど如来蔵の境界と等しくなるのです。