五蘊を観じて我見を断ず(第一部)(第二版)
第二節 我見を断つ特徴
真に我見を断じた者は、意根において無我を確認した後、更に深い禅定を発起し、覚明が現前し、精神は愉悦を覚え、思惟は細密となり、法を観ずることが深細となる。毎日の睡眠は三、五時間で足り、身心は非常に軽安を感じ疲労を覚えず、かえって精力は充実し、精神状態は極めて良好である。これは意根が無我を親証した後、真理を認識し、心境が豁然と開朗となり、身心に善き境界が現れるためである。睡眠は意根によって調節され、精神状態は意根によって調節される。意根が旧来の誤った認識を改めるにつれ、身心の状態もこれに伴って変化する。
もし意識のみが無我と認め、意根にそのような認識がなければ、身心に一連の反応は生じず、身心の状態は変化せず、従来通り変化のないまま、解悟による無我に留まる。故に、もし自らが我見を断ち初果を証得したと考える者がいれば、それが意識による我見断ちか、意根も同時に我見を断ったかを検証すべきである。意根が我見を断って初めて三縛結を断除できる。三縛結は主に意根を縛るものであり、意根の我見断ちは定慧等持の三昧の中でのみ可能で、いずれも欠くことはできない。
現在、多くの人々が五蘊十八界の法を次々と観行し、我見を断ち生死の流転を解決しようとしているが、観行がある程度進むと自ら既に我見を断ったと感じつつも確信が持てず、また観行を理解せず禅定もない者が書物を読み無我の法義を幾分か理解し、同様に我見を断ったと感じつつ確信が持てない場合がある。これらの疑問を解決するため、幾つかの特徴を簡略にまとめ参考に供する。我見を断ったばかりの人には、その我見が確かに断たれたことを示す幾つかの特徴がある。
第一の特徴:無我を証得し我見を断ったばかりの者は、内心に喜悦と軽安を覚える。初めて五陰無生の智慧を得、四聖諦の真理を証得したため、意根が感動し喜悦と軽安の現象が現れる。その喜悦と軽安の程度は修行の定力の深浅、観行の智慧の深浅によって異なる。
第二の特徴:三昧の中にあり煩悩は極めて軽く、世間法を念じない。故に我見を断った後は功徳の受用があり、内心の喜悦と軽安により覚明現象が現れ、一定期間睡眠は少ないが精神状態は良好で精力は旺盛である。この期間の長短は人によって異なり、各人の定力次第である。定力が優れれば精神状態は更に良く、睡眠が少なくとも精力は充実する。
第三の特徴:定力が次第に増強する。我見を断つ観行は深甚な禅定中に行われるため、定中で五陰が如何に我でないかを思惟し、色身が内から外へ、小から大へ、今世・前世・後世の色身が如何に我ならざるかを観じ、種々の覚知の心が如何に我でないかを観ずる。これらの思惟過程は意識と意根の認知過程であり、最終的に意根が真実を認めるとその心は変化し、五陰が真実の我でないことを念々に知り、五陰身への攀縁が減り定力が増す。
第四の特徴:煩悩が軽微。五陰の虚妄が我でないと認めた直後は自我への執着が弱まり、一時的に自我のために煩悩を生じず、更に覚明の出現、内心の喜悦と軽安、定力の増加により煩悩は軽減される。ただしこの煩悩軽微は二果のそれとは異なり、初果証得時の煩悩軽微は不安定で、後に変化し覚明と禅悦が消失し定力が減退すると、元来隠れていた煩悩が現れる。
二果の煩悩軽微は安定不変の真の軽微である。初果時にも煩悩軽微の現象はあるが、二果よりはやや重い。我見を断った直後は必ず煩悩が軽微である。何故ならこの時、身心の感受は愉悦・軽安・喜悦に満ち、平時の内心の覚受と異なり、喜悦により他を責めず心が寛容であるため、煩悩が軽微となる。
第五の特徴:内心が次第に空じ、世俗への執着が薄れ、感受が軽微となる。我見を断った者は、自らの五陰十八界が元来虚仮で空であり真実でないことを覚る。実は真実の我たる五陰十八界は存在せず、全体としての我は内から外へ不実在であり、全くの空殼である。既然我がこの如く不実在ならば、外界の一切の見方・評価、一切の待遇も不実在であり、外界は真に我に触れることなく、一切の境遇も真に我に加えることはできない。従って色身を余り気にせず、外界の評価を気にせず、色身への執着も次第に薄れ、覚知心の感受も次第に薄れ感受が減少する。
同時に内心には空々たる感覚が生じ、自我や各種の感受を固執せず、自らを幾分か空却し、外界の一切の人事物への反応が淡泊となる。ある種の覚知心の覚受を真実と見做し強い執着を生じない。彼もまた覚知し感受し、時には苦楽憂喜捨の感受もあるが、決してこれを真実とは認めず、これらは空であると覚る。色身に関しては、身体に痛みや不快を感じても、この感受が虚妄相であり身体自体も空幻であると知り、色身を余り気にせず各種の感受も気にせず感受も少なくなる。定力が優れるほど内心の空の感受は次第に強まる。
以上、我見を断ったばかりの者の幾つかの特徴を大略述べたが、全面的で詳細とは言えない。これらの特徴は人によって異なり、各人の禅定と智慧が異なるため表現も異なる。禅定なく無我を解悟した者の心には理論的知見のみ存在し、往々にして上記の特徴が無いか、これらの特徴が瞬時に消え数日も持続しない。禅定が極めて良く観行の智慧も優れた者は、覚明の期間と無煩悩の期間が極めて長く、一年あるいはそれ以上続く場合もあり、初禅定が現れると煩悩を断つ機縁が生じる。
前世に多劫を修め、我見を断った経験のある老修行者は、これに照らして自らが我見を断ったか否かを検証し、その後の修行を計画できる。前世の学仏期間が短く修行の道に不慣れで我見を断った経験がなく善根が特に深くない者は、自ら我見を断ったと証明せず、誤解して大妄語の業を犯さぬよう勧める。大妄語の果報は甚だ重い。決して軽率に自ら我見を断ったと判断したり、悟りを開いたと宣言したりせず、これらの言葉を安易に口外してはならない。
また禅定に関して、特に初禅以上の禅定については、決して軽率に「私は初禅定・二禅定・四禅定を証得した」と自認してはならない。自ら禅定の内実を真に理解せず確定的な了解がなければ、正しく誤りのない判断はできない。前世に証得がなく今世に経験がなく、内心の貪欲も容易に降伏できなければ、深甚な禅定を修得する可能性は低い。経教上・理論上・実証上、自らが何某かの禅定を証得したと確定できない限り、深い禅定を証得したと安易に語ってはならない。誤れば大妄語となり、その結果は依然として深刻である。
特に明心見性に関しては安易に結論を下し外部に語るべきでなく、内心でも安易に自ら明心見性を認めず、必ず経験ある先達に証明を求め、確定後に仏経を逐一対照し、経文中に隠された如来蔵の体性に関する法義を理解できるか検証すべきである。一部の経文は明心開悟を証明できる。明心見性後は多くの経典がある程度理解できるが、単に理解できるだけでは明心とは言えず、意識が聡明で経意を善く解するのは真の明心ではなく、明心も定慧等持の三昧中に現れる証量である。三昧がなければ、単に意識の理解に過ぎない。
例えば『楞伽経』には「如幻術神咒、機発像起」という肝要な一句がある。明心後はこの意味を理解すべきである。また『維摩経』に「菩薩が足を挙げ下す時、皆道場より来たることを知るべし」とある。明心すればこの句の意味と説く所を理解すべきである。一部の経文にある重要な句の意味を理解すべきだが、大まかな理解と細部を観察する理解には大きな差があり、理解の深浅も異なる。粗浅な理解は明心によるものではなく、通透した理解こそ明心後の智慧である。
多くの仏経は第八識を証得して初めて、経中の重要な句や段落、隠された第八識真如の体性を明瞭に看取できる。明心前は朦朧と推測する程度で、僅かに理解できるに過ぎない。しかし明心後も全ての経論を理解できる訳ではなく、肝要な所・粗浅な所、特に第八識の総体的体性は理解できるはずである。
もし自らが久修の大菩薩でなく、再来の菩薩でなく、経典が理解できず、時に自らは理解したと思い込み実際には真に理解していないなら、自ら明心開悟を認めず、先達に証明を求めるのが稳妥である。更に経書によって自らを証明し、多方面から検証を重ね、最終的に確認すべきである。さもなければこの妄語業は極めて重い。最も稳妥なのは、自らに定慧等持の三昧境界が現れているか、禅定と智慧が具足し煩悩が軽微になり覚明が現れ智慧が湧出し止まないかを検証することである。もしそうならば、絶対に明心したことに疑いない。
また、もし明心したならば、浅近な公案は短時間の思索で一部理解できるようになり、その後より深い公案、差別智に関わる公案も次第に理解できるようになる。自ら明心開悟したと称しながらこれらの公案が一つも理解できず、全てが曖昧模糊としているならば、それは明心ではない。
真の明心と我見断ちには一定の禅定が伴う。未到地定がなければ思惟は透徹せず、我見を断つも我性の一部を降伏させるだけで完全には断たれない。完全に断たれなければ、将来この我は必ず現れ、常に我が付き従い、それは初果向に過ぎず初果人ではなく真に初果を証得していない。禅定がなければ五陰十八界を透徹して観行できず、内から外へ全体が空々たることを観行できない。真に自らが空々たることを証得すれば、日夜の内心の覚受は必ず以前と大いに異なる。この覚受は必須であり、観行が十分である証左である。この証左がなければ観行は未熟である。
我見を断った後の期間は以前と比べ、心行の面で絶対に大転換が起こり、全く異なる。全ての心行と表現、内心の思惟・見解・知見は以前と異なり、内心の感受は空々として全く我がなく、自らの色身や覚知心を気にせず、自らを顧みない。自らが空であるという感触が深いため、行為表現も必ず変化し、自らを過度に気にせず、ましてや到る所で自慢や虚飾をしない。禅定が具足せず未到地定・心一境性の定力がなければ、我見の一部のみを断ち、全体としての我見を断つのは困難である。思惟が透徹せず解析的要素や理論的要素が多く、実際の観行が少ないためである。
仏法の親証は全て禅定に依らねば得られない。禅定がなければ実際に証得できず、相似の理解に留まり内心は安らかでない。禅定は実証的智慧を得る紐帯であり、禅定を欠いて仏法を分析理解すれば、最多でも相似の理解を得るに過ぎず、大智慧は決して生じず、心行は真に変化せず内心に我相が残る。戒定慧の三無漏学において禅定を欠けば、思惟は必ず細密でなく透徹しない。この場合、自らが我見を断ったとする認識は徹底せず、徹底しなければ初果向が最多で初果人ではなく、初果向にも達しないかもしれない。初果と初果向は一字違いだが、その差は甚だ大きい。
禅定は菩提を証得する絶対的かつ必須の条件であり、菩薩の六度行の条件でもある。禅定を欠けば煩悩も降伏し難く、心性も変化し難く、観行もできないため定は極めて重要である。煩悩の降伏断除は禅定に依る。特に初禅定が生起すれば欲界の貪愛と瞋恚を断除できる。初禅定がなければ貪愛は断たれず、初禅定がなければ瞋恚心も絶対に断たれず、因縁に遇えば瞋恚は依然として現前する。所謂煩悩の現行とは、貪瞋痴の性が身口意に完全に現れ、他者が感知できる状態である。禅定がなければ煩悩を降伏できず、未到地定が具足しなければ煩悩も鎮められない。
これらをまとめた理由は、第一に一部の人々が切実に知りたがっているため、第二に一部の者が大妄語を犯し安易に自らが何某かの果位を証得したと認めるのを防ぐためである。これは已むを得ず行ったもので、弊害を生じる可能性もある。極少数の我執の強い者がこれらの特徴を知り故意に大妄語を宣するかもしれない。しかしまとめなければ、意図的か否かに拘わらず誤って自らが我見を断ったと認める者も現れ、これも大妄語となる。利害得失を秤量した結果、已むを得ずこれらの特徴をまとめ発表し、真摯に修行する人々の参考に供する。弊害より利益が多いことを願う。