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五蘊を観じて我見を断ず(第一部)(第二版)

作者:釈生如更新時間:2025年06月09日

第八章 我見を断つ検証基準と特徴

第一節 未到地定を具足して初果を証得する

一、『瑜伽師地論』巻53 原文:若し未到定に依って初果を証得すれば、爾時一切の悪趣に往くべき悪戒の種子は皆悉く永く害せられる。此れ即ち名づけて聖の愛する戒と為す。

ここに明確に説かれているように、初果を証得する時には必ず未到地定があり、証果後に三悪道の業種を断除し、再び生じることがなくなる。三悪道へ往く業を造作しなくなった時、これを聖人たちが喜ぶ戒行という。

未到地定が具足していない場合、あるいは未到地定がなければ、実際に五蘊を観行することができず、五蘊の我を真に否定することができず、五蘊の我という知見を断除できないため、証果して法眼浄を得ることはできない。意識心による五蘊無我の知は、単なる知に過ぎず証ではない。意根が実証して初めて我見を断つのであり、確信が生じて初めて知見の結縛を断除できる。禅定は意根と緊密に結びついており、禅定があれば意根は煩悩妄想に覆われることなく、六識の絶え間ない分別に妨げられることなく、精進して功を積み、真理を明らかにすることができる。

二、証果後の五陰観念の転換

五蘊の虚妄非我を観行する中で、多くの人が時に心で軽く五蘊十八界が虚妄であると考えるだけで、自分が我見を断って初果を証得したと思い込む。実際にはそうではなく、真の我見断ちからはまだ遠く、それらの知見は第六識の浅薄な認識に過ぎない。意識が深く五蘊虚妄の理を認めておらず、どのように虚妄であるかを知らず、意根もまた認めていない状態で、安易に我見を断ったと思うのは誤解であり、真の我見断ちではない。

意根が五蘊虚妄を認めていない限り、真に五蘊非我を証得したとは言えず、我見を断除しておらず、三縛結も断じていない。三悪道の業も消滅していない。このような観行は口先だけのもので、深細さに欠け、具体的でなく、内心に五蘊非我の観念がなく、心行も変化しない。意識の粗い理論的理解だけでは、系統立った深い思惟がなければ真の受用を得られない。

多くの修行者は第六識の段階に留まり、口では空を唱えながら行いは有に堕している。このような仏法修行では自己を変えることができず、何の受用も得られない。その原因は、第七識が第六識の粗い理論分析を認めないためである。多くの場合、第六識が系統的な思考観行を行わず、第七識は意識が継続的に深細な思惟観行を行う基礎の上で、深い禅定の中で自らの観行を行って初めて理を明らかにし、五蘊非我の理を証得できる。第七識の攀縁する範囲は広大であり、一切法を了別する智慧が不足しているため、第六識が意根の観行を補助して初めて、意根は智慧的な認知を生起し、理を明らかにして法を証得するのである。

口先だけで修行を語り、内心では全く実践できない者が多いのは、意根が理を明らかにせず、降伏を得ていないためである。例えば仏教徒が布施が福徳を速やかに積むと知り、布施の機会に遭遇すると一定の財物を布施すると承諾するが、実際に布施する時になると心に躊躇が生じ、ある者は口実を作って布施をしない。なぜか。意識が布施を考えるのは表面的な現象であり、意根は布施の利益を明確に知らず、財物への執着が依然として堅固であるため、財物を捨てることを肯んじないのである。

すべての行いは意根が主宰する。五蘊の虚妄を観行するにも、意根が証得しなければならない。これは長期にわたる意根への薫修を必要とし、理を明らかにさせ、定中で自ら参究させることで、その執着性が徐々に緩み軽減され、修行が効果を現す。意根は我執識であり、無始劫以来の煩悩と習気を帯びており、四果阿羅漢になって初めてその執着性を断除し、命終時に五蘊を捨てて無余涅槃に入ることを肯う。意根の我執を断除する前提条件は、まず我見を断つことであり、その後徐々に執着を断つのである。

三、三十七道品の修行から我見断ちを検証する

世俗において仏法に接していない人々の中にも、身体が生滅無常で真実ではなく、自分が使用する仮の殻に過ぎないと考える者がいる。これらの人々は身見を断ったのか。中には飲食や衣服、住居を気にせず、病気になっても意に介さない者もいるが、彼らは身見を断ったのか。そうではない。彼らが身体を気にしないのは、貧困や吝嗇などの因縁による制限、あるいは他の追求に一時的に没頭しているためであり、条件が整えば依然として色身を大切にし、愛着し、享受を求める。

身見を断つには全面的な考察が必要である。戒定慧から、三十七道品から、心念から、心行から検証し、一部分で全体を推し量ってはならない。身体に関する些事を気にしない者も、生活条件が不十分であるか、内心の愚痴、あるいは身体に関連する他の事柄への注意転移、特殊な目的意識による場合があり、身体のために三悪道の業を造作し、自己の物質的生活を放棄しない限り、身見を断ったとは言えない。

すべての身口意の行いは種子を形成し、記録のように神通力ある者が随時閲覧できる。この記録は永劫に消滅せず、業種は消滅し得る。執着には執着の業種があり、不執着には不執着の業種がある。如来蔵の記録が異なれば果報も異なる。つまり一つの行為を行うに際し、心行が異なれば如来蔵の記録が異なり、業種が異なり、業報も異なるのである。

四、実際の修行は想像より困難

多くの人が二年ほど仏法を学び、五陰が我ではないと考えただけで、自分が既に我見を断って初果を証得したと言う。このような認識は浅薄で、何の問題も解決しない。深く細やかに観行し、少しずつ内心の認知を変化させ、意根に触動を与え、意識と意根の二つの識が従前の誤った認知を転換させ、五陰自身に対する新たな認識を持ち、相当程度変化して初めて我見を断つことができる。

我見を断つことは容易ではない。無始劫以来衆生の邪見は深く、一朝一夕、あるいは数日で説き考えただけで除去できるものではない。長劫にわたり五陰を我と見做してきた習性は根深く、短期間で不正な知見を矯正することはできない。仏法は容易に修証できるものではない。経験者なら誰もが知っていることであり、修持のない者だけが証果や成仏が極めて容易だと独善的に思い込む。未経験者は想像するだけであり、想像するものは当然容易に思えるが、実際に着手すればその難しさを知る。

常に新奇を求め、急功近利を好み、自己を特別視しようとする。これら全てが我であり、この我を除くことは極めて困難である。真にその我を清除するのは実に難しい。このような話を聞きたがらない人もいるが、たとえ聞きたくなくともこれが事実である。忠言耳に逆らうも良薬口に苦し。自らにとって益あれど害なし。

前世より久遠劫に修行を始めた者たちは、劫ごと生ごと世ごとに無量の仏法を薫習し、相当の経験を積み、多くの事理を見透し、自ら多くを体感し、善根福徳智慧が深厚であるからこそ、仏法の修証が単純容易でないことを深く知っている。経験の浅い者だけが修行を極めて容易と見做し、法華経などの経典を少し読んだだけで成仏したと思い込み、意識で少しばかり知っただけで、実は真相を理解せず、大成就を得たと自認する。実際これらの観点は我慢であり、大いなる我慢である。我見が根深く、このような人は我性がより深刻で、我見を断つことがより困難である。

我性の重い人には様々な表現がある。あらゆる手段を尽くして自己を顕示し、全ての人に認識され理解され、称賛され崇拝されることを求める。これにより初めて快適さを感じる。この快感は自大そのものであり、自我を高く大きくするほど我見はさらに重くなり、断除がより困難となる。

五、自己検証可能な者

仏教修行者は皆着実に一歩一歩修行を進め、確固たる基盤を築き、真に我見を断ち明心すべきであり、理解や解悟に留まってはならない。これには禅定の基本が不可欠である。私は繰り返し禅定を求めてきた。これは身心転換と解脱の根本であり、禅定がなければ結果は解であって証ではない。証果と明心の基準を示し、この基準に照らして自己を検証し、真に我見を断ったのか、単に理上の認識に過ぎないのかを見極めるべきである。仏教徒が慢心や浮ついた心を持たなければ、最大の利益を得ることができ、仏教も確実に発展する。

しかしながら、自己検証を推奨しない。経験がなく、その微妙な点を知らず、自己を甘やかし容赦しやすいため、解悟者に留まり、実際の観行ができず、生煮えの状態で終わり、道業の進展が困難となる。直接検証を受けることで観行の智慧が大きく向上し、その後いかなる法に出会っても観行でき、智慧と道業が飛躍的に進歩し、修行時間を大幅に短縮できる。

解悟者も公案をある程度理解し、簡単な公案を解説できるが、細部は分からず、表面のみを知って本質を知らない。観行の智慧がないためである。初果や二果については自己検証を望まない。その尺度は極めて把握困難である。貪瞋痴の煩悩が薄れたと感じて二果と自認する者がいるが、貪瞋痴が薄れる基準と概念を知らず、往々にして誤る。瞋心の薄れは把握しやすいが、貪心の薄れは容易でない。貪心は微細で自覚し難く、例えば情執も貪であり、情執が重ければ貪心が強い。習気が深いため自らの情執の重さに気付かず、貪心が薄れたと誤解する。

痴心はさらに把握と判定が困難である。自らが愚痴である時、その程度を判断できず、経験者だけが各人の愚痴の程度を見極められる。慢心については、全ての人に慢心があり、四果になって初めて慢心の根を徹底的に抜く。ただ各人の慢心の程度が異なる。慢心の習気が強く、既に慣れ適応している場合、自らの慢心が薄れたかどうかを検出するのは困難である。慢心が強すぎれば二果を証得できない。これらの点で衆生は自らを把握できず、自らに果位を定めることはできない。誤れば結果は深刻である。長く糞坑にいれば臭いに気付かず、習い慣れ適応して自らの煩悩習気に気付かず、反観し難い。

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