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五蘊を観じて我見を断ず(第一部)(第二版)

作者:釈生如更新時間:2025年02月26日

第二節 意根の現量証の現れ

一、意根が理を明らかにされ動かされた現れ

ある人々はある法義を見て、内心が大きく揺さぶられ、色身に通常とは異なる現象が現れることがあります。これは意根が震動したため、これらの感覚が生じるのです。世俗法における実証でさえ、大小さまざまな身心の感触や変化を伴うものであり、淡々と流れるだけのものではありません。多くの人々が法義に接する時、修証の過程で身心に大小様々な変化が生じ、真に理を認めた時にはこのようになるのです。

淡々と意根に相応しないものは、ただ意識心の理解に過ぎず、真の証得とは言えません。法を学ぶ時、教科書を読むように流し読みし、理解したと思い込み、証得したと自己を許すことは、自らに対する重大な無責任です。もしこれが容易ならば、三蔵十二部を数回読み、一部を理解しただけで証得したと言うなら、八地以上の菩薩に等しいことになります。経典を手にした博士課程の学生でさえ文字は理解できますが、理解だけで証得できるなら仏法はあまりに容易で、三無量劫の修行は不要です。

定力が不足すると文章を走馬観花のように読みますが、定力が十分であれば心の認知度は並々ならぬものとなり、心臓を震わせ五臓六腑に響き、非常に非凡な感覚を覚えます。文章を表面的に読み流し、深く思惟せずに否定する者は、結局自ら誤りを犯します。その誤りは定力なく思惟観行できず、心が浅薄であるため、導きを受けても観行できず、智慧が向上せず日々進歩しない点にあります。前世の善根が不足する者は、如何なる法を見ても驚かず、淡々と過ぎ去り、真に理解したかのように振る舞います。

定力ある時、細やかに思惟して初めて動かされることを深く感得すると言います。我が古来の華夏文化が如何に豊かな内包を持ち、正確な用語で身心の状態を明徹に描写しているかを見よ。一定の科学的根拠、生理学的根拠があります。仏法は孤立しておらず、大衆に如実認知する智慧があるか否かにかかっています。「深く感得する」とは意根の深層に至ることであり、表面的な意識思惟では感得できません。一般的な思惟では感慨も生じず、ましてや万感の思いに至ることはありません。

二、意根が動かされると身心に反応が生じる理由

意根が現量で理を証得し、ある真理を認めた時、つまり心の底から承認した時、身心に様々な変化が生じます。これは身口意行が意根によって制御決定されるためです。未だ証果を得ず、証果から遠く離れていても、意根が理に触れ深く肯んじ、心が動かされれば身心は変化します。例えば心情爽快、身心軽安、熱涙、戦慄、鳥肌、感動、頭皮の痺れ、紅潮、虚脱感、耳鳴り、熱血、戦慄、呼吸速迫、青筋、逆上など、これらは意根が触発され現量知を得た後、身根に大小の変化を生じさせるものです。誰もが経験するこの現象を振り返れば、その真実を知ることができます。

これらの現象は必ずしも意根が煩悩を調伏したことを示すものではなく、むしろ意根の煩悩性が強く、我執・情執が深いため生じる場合が多いのです。真に無我を現量証得した時も同様に身心は大きく変化します。意根が従来この理を知らず、意識が如何に無我を唱えても意根が認めなければ、内心は無感動のまま我執を続けます。これが我見未断の者の現れです。

意根が五蘊が真に無我であると証得すれば、身心は大きく震動し、執着が緩和され、禅定深化、睡眠変化、身体軽安、病苦消退、精神愉悦など異常現象が現れます。現量が深い程変化は大きく、解悟のみでは変化がありません。過去世の善根が深く深禅定ある者が仏法を現量証得すれば、身体が虚空に昇り神通が現前します。経典に記される聖賢の悟道、大乗小乗を問わず神異現象が生じるのは、禅定による現量証得のため、身心が大きく変化するからです。

三、理解と証得の隔たり

ホラー映画を見る時、意識では虚構と分かっていても恐怖を感じます。ガラス張りの歩道では、意識では安全と知りつつも恐怖に駆られ、一歩も踏み出せない者がいます。意識が自らを説得できない理由は、意識の分別思惟が意根の承認を得ないためです。意識が「安全だ」と説得しても血圧上昇、動悸、発汗が生じるのは、身体が意根に制御されている証左です。

特にドームスクリーンでは、映像が現実でないと知りつつ、車が突っ込む恐怖を感じ身体が避けようとします。身心の行為は全て意根の指揮によるもので、意根の慣性的認知が識心に反応を起こさせるのです。故に意根を薫習しなければ実践的解決は得られません。

歩道の安全性を知ることは現量認知でしょうか。この知識に何の意味があるでしょうか。前を行く人が平然と歩く実例を見ても、なぜ自らは立てないのか。ガラスの強度を意識で知っていても、なぜ直立歩行できないのか。意識の分析が意根に受け入れられず、ガラス歩道への恐怖が身体に戦慄・足の痺れ・震えを生じさせるためです。

ガラス橋の外で滔滔と語る者も、実際に歩けば意根が身体を制御する事実が明らかになります。意識が如何に安全と思っても意根が知らなければ恐怖は消えず、意根の強烈な身執着が原因です。

以上から、意識が六塵が自らの内相分と知ることに意味があるでしょうか。観行を実践しなければ五陰虚妄を真に証得できません。理解は容易ですが証得は困難です。小乗四果の証得も、大乗各果位の証得も、身心の覚受を伴います。特に禅定の出現は強烈な覚受を伴い、二禅以上では五識が消滅しますが、色身も大きく変化し、出定後も覚受が残ります。これらは意根が仏法を現量証得し、事実を知ることで身心が変化するため、意根の制御による結果です。

意根が現量境を信じるには自らの証知が必要で、他者の証明は無意味です。仏法の証得も同様で、さもなければ「説食不飽」の自欺に陥ります。五陰虚妄を知る者は多くても、意根が五陰を実在と考える限り、意識の分析を認めず我執を固持します。故に意識は徹底的に思惟し、意根を観行に導き、現量境を証得しなければなりません。

ガラス歩道を平然と歩むには、事前に意識が徹底的に安全性を分析し、比量・現量・非量を明らかにし、意根に安全を確信させることが必要です。意識が看破し意根を安心させれば、心理的に安定し行動できます。この道理は我見断ちの観行と同じです。我見を断つには意識が観行の思路を整理し、意根に五蘊非我を確信させなければなりません。

初めてこの理論に触れる時、意根が無始劫来固持してきた五蘊我執と対峙し、恐怖と空虚感を覚えることがあります。意識の不断の薫習により、時を経て意根が受容すれば、この感覚は消滅します。意根の準備を整えるには、意識が反復して無我思想を強化し、遂に意根が受容する時、真の我見断ちが可能となります。

意識のみが五陰虚妄を知り意根が認めない限り、単なる表面的理解に過ぎず、真の我見断ちではありません。初果から四果に至るまで、意根が五蘊の無常虚妄を不断に認め、完全に受容すれば、五蘊世間への執着を断じ、生死輪廻を出離する力を得ます。

意根が完全に執着を断じ四果を証得する時、ドームスクリーンの映像に動じず、身体も反応しなくなります。衆生の心理には表面的作用と潜在的作用があり、決定的なのは意根の慣性的力です。この力を転換することは無量劫の生死、分段生死・変易生死を解決し、無明惑業苦を断じ涅槃の彼岸に至る要諦です。

意根が五蘊執着を断尽するのは小乗では四果羅漢、大乗では七地満心、八地入りです。八地菩薩の解脱は四果俱解脱の大阿羅漢に相当し、初地満心は慧解脱阿羅漢に相当しますが、煩悩を全て断じません。意根の人我執断尽は比量推測可能ですが、法我執断尽は更に困難です。知と証得の隔たりはほぼ二無量劫から三無量劫に及び、その差は計り知れません。

四、解悟と証悟の区別

真の我見断ちは意識が無我を理解するだけでなく、意根が同時に無我を証得し、身心の解放をもたらします。理論的な我見断ちでは解脱の功徳がなく、身心は変化しません。明心して如来蔵を証得するのも意根の現量境であり、五蘊非我を知れば身心は大転換し解脱功徳を得ます。意識の理解だけでは解悟に過ぎず、生死解脱とは無縁です。

我見断ちと明心時に身心変化がなければ、理論的なもので意根が認めていない証左です。真の明心は意識の覚悟と意根の現量証得を伴い、三昧境界が現れます。意根が如来蔵を証得すれば五蘊を制御せず、身体は軽安となり、煩悩は軽減され言語化できない覚受が生じます。

意識のみの理解では身心変化がなく、意根が五蘊を実在と見做す限り、煩悩は持続します。五蘊の変化は意根が制御し、真の我見断ち・明心時には意根が理を悟り、身体に解脱反応が現れます。睡眠や煩悩も意根の制御下で変化し、多くの妙境が生じます。

現量観察は理論を超越し、禅定と智慧を具えます。理論は正しくとも自らに関係なく、現量証得こそが身心解脱の功徳をもたらします。仏法は理論学習だけでなく、現量観察による自証が必須です。

五、証果と明心の外的現れ

問:証果と明心の相応は物理的結果か化学的結果か。我見断ちは意根の五蘊虚妄承認だが、その度量は如何に。明心も意根に関わり、意根は自らの非実在と如来蔵の実在を同時に証得するか。

答:相応は主に心の相応であり、識心の認知変化(五蘊非我・如来蔵実在)が身に波及し四大が変化します。意根が五蘊非我を認め身心を制御するため、軽安・快適・睡眠減少・喜悦・禅定増長などが持続的に現れます。意根が相応しなければ身心変化は生じず、禅定も現れません。

明心にも量度が必要で、単なる智慧増長ではなく身心変化を伴います。真の明心は如来蔵の現量観察を含み、智慧は別相智に近づきます。我見未断で明心する場合も、ある程度の覚明が必要です。現代では修定を強調することが実証への正道であり、口頭禅の蔓延を防ぎ仏教の実質を保つ要です。

六、我見断ちと明心における意根の智慧認知

我見断ちは意根が五蘊十八界の非我を確認することであり、明心は更に如来蔵を証得することです。意根は真の主人を知り、自我執着を緩め、漸く我執・法執を断じ仏果を円成します。この過程で意根は如来蔵の機能を自己のものとせず、智慧は日々増進します。

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