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五蘊を観じて我見を断ず(第一部)(第二版)

作者:釈生如更新時間:2025年02月26日

第四節 観行もまた煩悩を降伏させる過程である

一、衆生が六塵への貪りを生じるのはいかにしてか

世尊は『雑阿含経』において説かれました。「眼界を縁として眼触が生じ、眼触を縁として眼想が生じ、眼想を縁として眼欲が生じ、眼欲を縁として眼覚が生じ、眼覚を縁として眼熱が生じ、眼熱を縁として眼求が生ず」と。これは、衆生が眼根で色塵に触れると眼識が生じ、眼識が生じた後には色塵を了別し、了別した後も再び了別したがり、好きで貪愛するが故に貪りが生じ、心が熱く騒ぎ立て、色塵を所有し掴み取ろうとする欲求が完全に現れることを意味します。修行のない者は、自らの心の念いや貪欲を止めることなく最後まで業行を為すに至ります。

修行ある者は、途中の連鎖にて自らを戒め止めます。阿羅漢は三界への貪愛を断じ、心が散乱せず縁を攀じず、眼根が色塵に触れても分別を続けず、目を逸らし接触せず、清浄を保ち熱悩を生じず、貪求の念も生ぜず、後の世の生死の種子を断じ輪廻を脱します。衆生はこれに反し、心のまま貪求し自らを戒めず、業行を絶やさず輪廻を続けます。

二、漸修によって心性を高める

『瑜伽師地論』は凡夫から四聖への漸修過程を説き、声聞地では禅定を漸次に得て貪瞋痴を降伏させ煩悩を改めることを詳述します。漸修によって初めて無我を証し聖人の品格を具えられます。速やかな解悟のみでは煩悩を降伏させられず、名声のみで実質を伴いません。粥を炊く如く、急火と慢火では味も栄養も異なります。速さを求めるのは功利心、有所得心、世俗心、生死心であり、無我の清浄心を生まず。

三、煩悩降伏は聖性相応の過程

仏法は一仏乗に帰します。声聞地の修行は基礎であり煩悩を断じ聖性と相応する過程です。戒定慧を固め貪瞋痴を滅さずして高樓を建てれば空中楼閣となります。煩悩は禅定と智慧を障蔽し、光明を遮る壁の如し。煩悩を除けば六七識が智に転じ、智慧は広大無礙となります。

四、常に自我を観察し聖人に近づく

我見を早く断じたければ、自我意識を淡くし、挫折時にこそ自我を観察降伏させます。人々の中でも独処時も存在感を薄め、勝ち負けに執わず、全てが仮の名相と観じます。聖人は自己を突出させず、大衆のために無為の心で事を為します。

五、意根に深く入り煩悩を根断ちする

修行は意根の転換を要します。意根が無我を証すれば身心の制御を緩め、自在となります。口頭禅に留まらず意根の奥底まで達し、貪瞋痴を根から断ち真の転換を遂げます。

六、煩悩は次第に断ず

初禅を得て先ず貪欲を断じ、次に瞋恚を断じます。瞋心の強さは人により異なり、断じ尽くさねば三果を証せず。我見なき者は初禅を得ても凡夫のままです。色界は貪欲を伏せ、無色界は愚痴を主とし邪定に堕ちます。

七、我見を断じて魔道に入らず

我見ある故に我執あり。五陰を非我と知り、意根の我執を断てば五陰を滅し無余涅槃に入ります。世尊は『阿含経』に五蘊無我を説き、大乗に万法唯心を説きます。外道は境界を実執し生死を出ず。

八、煩悩次第断が解脱相応

五蘊無我を観じ色身の空を証するも覚受は禅定中に滅じます。心空なるほど覚受軽く、我見を断じ知見を転ずれば生死を解決し解脱を得ます。輪廻は心の束縛を指し、菩薩は衆生を度しつつ輪廻を超えます。

九、諸根を修し自心を調伏する法

世尊は外道の盲聾を喩え、可意色には厭離を、不可意色には不厭離を、中容色には捨心を修することを教えます。六根触塵の際に心を調伏し守護するが真の修行です。野馬を調御する如く、境界の中で心を練ります。

十、享受を貪らぬ者は我見を断ち易し

簡素な生活は身見を断ち易く、福徳を浪費せず道業を進めます。菩薩は福徳を惜しみ享受を求めず、衆生を度すため敢えて富貴を選ばず。過去の質素な時代は貪著少なく修行に適いました。修道は小を積み習慣を養い、漸く大道を成じます。

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