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五蘊を観じて我見を断ず(第一部)(第二版)

作者:釈生如更新時間:2025年02月26日

第三節 五蘊は第八識より生ず

一、色蘊は第八識より生ず

色蘊は五蘊の一つであり、生滅虚妄なる変異無常の苦なるもの、空にして不実なるもの、これ第八識の幻化する所なり。第八識は衆生の業種・業縁に依りて衆生の色身を変現し、ここに色蘊の存在あるなり。色蘊は何らかの縁自ら能く生ずるものにあらず、父母の一手に操る所の生ずるものにもあらず。父母は色蘊出生の一助縁に過ぎず。第八識が父母縁を籍りて受精卵に入住し、衆生の業種に従い母血を藉りて胚胎を変造して初めて色蘊となる。色蘊は自然に有るものにあらず、故無くして有るものにあらず、第八識が縁に依って変現する所、第八識の有する属性の一つなり。

色既に第八識の幻化する所なれば、即ち第八識の一部なり。第八識と不一不異の関係なり。故に色即是空、これ空性心第八識の性質なり。ここに空とは空性心第八識を指し、色は色蘊なり。色蘊即ち第八識、全体ことごとく第八識の功能作用の顕現なり。ここに空とは虚空にあらず。虚空は仮名詞なり、物質なき処を仮に虚空と称す。物質を置けば虚空無し。故に虚空に来処も去処も無く、実体性無く、真実に存在する法にあらず。

二、五蘊が第八識より生ずる原理

七識心の体性を明らかにすること極めて重要なり。五蘊の一切の活動は七つの識心と第八識の共同和合運作により出ず。七識心が色身に加わることにより五蘊の活動あり。もし色身に七識心の運行無ければ、色身は死屍なり。識心が色身に在れば色身は色蘊なり。色身内の五根が内五塵に触れ、意根同時に五塵上の内法塵に触るれば、六識心現前す。六識再び六根・六塵と相触るれば、識心は感受能くし、受蘊生ず。受蘊は意識心の感受を主とし、前五識の感受を輔とす。識心無ければ受蘊無し。

六識が六塵を了別し、六塵の相を執取するを想と為す。続く思惟・細かな分別・判断・打算等は皆想なり。想蘊は意識心を主とし、五識にも了別取相の想蘊活動あり。行蘊は識心の運行、念念遷流変化、身口意の一切の活動、これ皆行蘊なり。時間の流逝、方位の変化、色身の心拍・呼吸・脈搏・血液流動、運行変化するもの、静止せざるものは皆行蘊なり。識蘊は識心の分別功能体性なり。

もし七識心が色身に加わらざれば、五蘊の活動無く、色身は衆生にあらず、殺すも殺生に属せず。然れども、もし第八識が七識心の種子を輸送せざれば、七識心の生起無く、まして五蘊の活動を論ずるに及ばず。第八識が七識心に配合せざれば、五蘊の活動無く、色身は死屍・木材なり。これにより観るに、五蘊の活動は第七識の操控の下、第八識より生ずるなり。

三、五蘊空の内包

五蘊は苦・空・無常・無我なり。五蘊の空とは五蘊無きこと、或いは五蘊消失して現象も無きを指すにあらず。五蘊は現象上存在すれども自體性無く、魔術師の幻化する城郭の如く実質無く、自在性無く、その本質は如来蔵性なり。五蘊の一切の現象ことごとく如来蔵の顕現する所、故に五蘊は空なり。

五蘊の空は、また五蘊を微細なる部分に分析し遂に空無となる理にもあらず。五蘊は微塵に分析し難し。五蘊は色法と心法より成る故、心法は微塵に分ち空無となし難く、仮に色身を極微細の微塵に分つとも微塵より空無となし難し。微塵と虚空は相互変換不可、種子異なるが故なり。

五蘊の空とは実質無く虚妄なる意、また如来蔵空性に帰属する意なり。同理、色蘊の空は色無きを指すにあらず、色蘊に本体の実質無く如来蔵の生ずる所、如来蔵の空性なり。色蘊には色法の自體性無く、虚妄法にして生滅の法、故に空なり。空の定義:一に不実性、自體性無く虚妄法なること。二に虚空、一無所有の義。三に如来蔵の空性義。

色蘊は如来蔵より出生し、自在ならず、自主ならず、自ら存在を決定できず、業種と如来蔵により其の生住異滅を決定せらる。色蘊は如来蔵の幻化に被りて生じ、本質ことごとく如来蔵性、真実の色蘊の性無し。泥人ことごとく泥性、本質皆泥、本より人無く、泥人自らの性無きが如し。故に色蘊に自體性無く、皆如来蔵性、全体即ち如来蔵なり。同理、三界世間の一切法は如来蔵性、如来蔵の造る所、本質皆如来蔵、泥人と一般無二なり。

四、廬山の真の姿を知らぬは只だ身此の山中に在るに縁る

廬山を世俗法に譬うれば、衆生は世俗の虚偽虚妄不実性を見ず、世俗法の苦空無常無我性を見ざるは、自らの心が世俗法に貼り付き過ぎ、甚だしきは完全に世俗法に融け、中間に隙間無く、心全く世俗法に蔽わるるが故なり。結果、年年月月生生世世、世俗法中に喜怒哀楽し、世俗法に転ぜられ、世俗に束縛され、自らの身心自在解脱を得ず。解脱を求めんと欲せば、如何にすべきか。

廬山を自らの妄心七識に譬うれば、如何にして妄心の生滅変異無実性を認めんか。客観的に自らの心を見、自らの心行を認めんと欲せば、心を取り出し再び回頭して自らの心を反観し、一定の距離を置き、一定の高さに立ちて自らの心行を客観的に観察すべし。或いは他人の心行として観察すれば、些か客観公正を得ん。

廬山を五蘊身に譬うれば、累生累世五蘊身中に在りながら、五蘊無我を知らず、五蘊無常生滅変異を知らず、五蘊の苦空を知らず。新たに徹底的に五蘊の真の姿を認識せんと欲せば、仏の説く四聖諦法に依り五蘊を観察すべし。五蘊身の真の姿を識らんと欲せば、大乗般若を修学し、五蘊身中の如来蔵を参究すれば、五蘊身の本来の面目実は如来蔵なることを識るべし。五蘊身は如来蔵の現起せる虚妄の仮象、真相は五蘊身中に隠れ戯法を変じ、世人その蹤を測る能わず。

五、略説 活人と死人の区別

人が生きる時は必ず五蘊の活動有り。色蘊上:呼吸・心拍・脈搏、血液流動、大小便利、温度軟度、涙・鼻水・汗液、胃腸の蠕動と色身の運転施為等。受蘊上:苦楽憂喜捨の感受、一時は快樂、一時は苦悩、一時は不苦不楽、心境感受常に変化止まらず。想蘊上:花草樹木・人畜・金銀珠玉・人の教養気質・学識風度・四方の音響・香気臭気・酸甘苦辛鹹・冷熱触痛・飢渴温飽・軟硬厚薄・沉重軽安・思惟・推理・判断・回想・打算等を分別し、時々刻々一切の相を執取す。行蘊上:奔走行走・行住坐臥・挙手投足・嬉笑怒罵・飲食着衣・生産事業能くす。識蘊上:眼は見、耳は聴き、鼻は嗅ぎ、舌は味わい、身は触れを覚え、意は法を思う。

生きる人には十八界の活動有り。眼根・耳根・鼻根・舌根・身根・意根、皆相応の運転有り。色声香味触法に接触する時、眼識は色を分別し、耳識は声を分別し、鼻識は香を分別し、舌識は味を分別し、身識は触を覚え、意識は法を思う。これらの有為法の造作は、皆阿頼耶識第八識の執持維持する所なり。

第八識には持身の功能有り。受精卵の時より、彼は執持す。精子と卵子は元々単細胞、生命体にあらず、各々七日間程のみ生存可く、相遇いし後、第七識が第八識を帯びて入住し、受精卵初めて生命体となり、生命活動有り。第八識中の地水火風四大種子が母体中の栄養と相応じ、第八識は母体中の栄養を吸収し受精卵を変生す。七日毎に一変。もし第八識が離るれば、受精卵即時に死亡す。出胎後、第八識再び乳液飯食中の地水火風四大元素を吸収し身体を変生し、嬰児漸次成長し、漸次衰老し死亡に至る。これらの現象は皆第八識の執持変造の結果、第八識より生ずる所なり。

『成唯識論』に曰く:(阿頼耶識は)能く身中に潜転し事業を作す。即ち彼は前七識の運作に配合し、五陰身の一切の活動を生ず。死亡時第八識離れ色身を執持せざれば、大小便流出し、身体僵硬冰冷となり、呼吸脈搏心拍無く、血液流動も停止し、胃腸蠕動も停止し、身体の各活動皆停止す。

六根再び六塵に触れず、内六塵現前せず、六識も出生せず、七識離る。ここに身体は死屍と成る。死屍は眼有れど見えず、耳有れど聴かず、鼻有れど嗅がず、舌有れど味わわず、身有れど触れを覚えず、一塊の木材・一つの僵屍と化し、誰が打ち罵り哭喊くとも無動衷なり。これにより観るに、死人と活人の区別は第八識の有無に在り。衆生は第八識により造らるる理窺う可し。ここに於て我々は参禅の着手処を知るべきなり。

六、色身と物質色法の区別

色身は物質色法の一種に属し、物質色法と同様に四大種子より生成す。差別は:一、色身には八識有り、故に五蘊の活動有り。物質色法には識心無く、五蘊の活動無し。二、色身は個体衆生の如来蔵単独に出生執持する所、物質色法は共業衆生の如来蔵共同に出生執持する所。色身上に八識の活動有り、覚受を生ず。全ての覚受は識心の功能作用、来る所無く去る所無し。識心は第八識より出生し、覚受滅する時も去る所無く、識種子滅して第八識に戻る。第八識を大海に譬うれば、身体と一切の物質色法は海上の波頭なり。

七、五蘊身は如来蔵より来る

我々が天上の白雲を仰ぎ見る時、白雲が絶えず様々な図案に変幻するを見る。時に白雲は花の形に変じ、時に猫犬等の形に変ず。この如く変幻する花や猫犬に自體性と真実性有りや。これらの美しい図案は花猫犬か、或いは白雲か。我々がこれらの天上に漂うものを何と看做すか、事実に符合すべきか。花猫犬の真実相は何か。思惟比対すれば、容易く了知す可し。それらのもの実質皆白雲、花や猫犬無く、全ての材料は白雲、故に猫犬は白雲の性質なり。

同理、衆生の五蘊身は皆如来蔵性、全ての材料は如来蔵より来たり、全体即ち真如、一真法界なり。猫犬は五蘊身に譬え、白雲は如来蔵に譬う。類比して仔細に思惟すれば、明らかに此の理を了知す可し。多くの人は只猫犬と花を認め、白雲を認めず。更に多くの人は只五蘊身を認め、如来蔵を認めず。もし如来蔵を認めれば、明心と我見断ちを一挙両得す可し。

仏法は現成簡単明白、実は一重の障子紙なり。指先が正しき所を点じ、一突きすれば万事休す。福德足らざる者、点ずべき所を点ぜず、点ずべからざる所を力点す。終に退路無く、最後の点を点ず。畢竟、人として成仏せざる者無く、只早晩の事。人には早きを願う者も有り、無頓着なる者も有り。

八、如来蔵が一切法を玩転す

定力不足、福德不足なれば、我見断ちと明心共に困難、仏性を見るは更に難上難なり。我見断ちの観行は、まず自らの色身の虚妄を観行し、色身の生滅変化を観行し、次に識心の生滅変化を観行す。識心の起す作用は受・想・行と識別、これらの作用を観行し到らしむ。これらの作用の生滅・無常・苦・空・無我を観行し、観行の範囲は可及的全面ならしむ。

十八界の範囲を全て見出し、一一細心に其の生滅無常性を観察す。根塵相触るる処を観行し通徹すれば、将来証悟を得可し。此の処観行通徹せざれば、最多解悟、点を悟らず根本を悟らず。六識にも触有り、六識は六塵に触る。これらの法を観行し到れば、我見断ち徹底し、明心も速やかなり。

世間の中、実は皆如来蔵自らが一切を玩転す。根は彼、塵は彼、識も彼。此の外、何も無し。一切法は皆彼自らなり。初地に入れば発見す:一切の境界は彼、一切の色法と心法は彼、彼を除き別の物無し。

九、如何にして五根の体性を了知す可きか

五根とは眼根・耳根・鼻根・舌根・身根を指す。五根は外五根と内五根に分かる。外五根は浮塵根、内五根は勝義根。各々組織構造有り、各々功能作用有るも、皆如来蔵の生成執持する所。此の五根の性質は本如来蔵性、皆如来蔵より出生変現する所、故に生滅変異・無常・空・苦、即ち無我なり。我々が此の五根の出生を観察し、無より有り、有りて還滅するを観、五根の構成を観察し、更に五根の変化を観察し、最後に五根の滅失を観察すれば、五根が生滅変異無常なることを了知す可し。

此れは悟前小乗の角度よりの観察。悟後は更に大乗の角度より五根を観察す。如来蔵が刹那刹那に四大種子を輸出し五根を構成するを観、五根刹那刹那の変異性は如来蔵が各種の縁に依り五根を維持変化する、縁変ずれば五根も変ず。五根の功能作用は外界の五塵を摂取す可きこと。五根は恰もカメラの如く、受信伝送を担当する工具なり。具体的な受信伝送の方法、如何に工作するかは識心の掌握に依る。識心は恰もカメラを操作する人の如し。人無ければカメラは材料の塊、何の用も無し。五根に如来蔵と意根無ければ、一塊の死肉、些かの価値無し。

十、四食は皆如来蔵の功德作用

欲界衆生は段食を以て自らを養う。飲食を咀嚼し一段一段とし、嚥下消化吸収して初めて色身生命活動を維持す可し。故に色身は虚妄不実なり。欲界衆生は六根が六塵に触るるを要し、色身初めて滋養増勝を得可し。然らずんば存活不可。故に五蘊は虚妄不実なり。欲界衆生の七識は絶えず思量運作を要し、衆生存活可し。故に五蘊は虚妄不実なり。欲界衆生の七識は絶えず六塵を了別するを要し、存活可し。故に五蘊は虚妄不実なり。

色界初禅天の衆生には段食無く、触食有り。触塵を要し存活可し。然らずんば滅亡す可し。眼根・耳根・身根・意根の四根は四塵に触るるを要す。眼識・耳識・身識と意識も四塵に触るる、此れ触食なり。思食有り、意識と意根は思想活動を要し、触るる一切の法に思を起し運作可し。初禅天人には鼻識と舌識無く、眼識・耳識・身識・意識・意根の五識は法を思量するを要し、初禅天に存活可し。然らずんば存活不可。識食有り、五識は天界中の四塵を分別了別す可し。此の三種の食有りて初禅天衆生存活可く、色身の存在を維持す可し。故に初禅天衆生の五蘊は虚妄なり。

段食の獲得より色身の滋養に至るまで、皆如来蔵の功德、如来蔵が色身を滋養維持する所。触食・思食・識食も皆如来蔵の功德。帰する所、全ての衆生は如来蔵に依って存活す。如来蔵を離るれば一刹那も存在可からず。六根・六塵・六識は皆如来蔵の変現、四食も如来蔵の変現、衆生の需むる一切は如来蔵の変現する所。故に衆生は虚妄・不実・空幻・非我なり。深細に四食住を思惟すれば、我見を断じ解脱を得可し。

十二、色身は如来蔵の属性

身体を最も細小なる細胞組成に解き、細胞中に各種粒子有り。粒子は四大微粒子より構成され、四大微粒子は如来蔵中の四大種子より成る。四大種子は形相無く、如来蔵より来る。如来蔵は四大種子を輸出し微粒子を形成し、微粒子再び聚合して最微小の物質と成り、更に聚合して稍大の物質と成り、肉眼に見え、漸次聚合して最初の色身と成り、最後に色身完成し母胎を出づ。

これにより了知す:色身は空・生滅・無我、如来蔵より出生し、如来蔵の執持する所、全体如来蔵性、此の身体も如来蔵の種子功能作用の転成する所、如来蔵の一部の功能、如来蔵の属性、色身自らの属性と自性無し。これらの内容、一般人は只思惟する可く、現量観行不可。相応の定力を欠き、慧力も足らず、意根着力せず、自ら深細な観行思量に参与せず、此の理を証得不可。ここより身見我見を断除し如来蔵を証得不可。

十三、微粒子より成る色身は虚妄

衆生の色身細胞中にも生物電能を生ず。生理学では生物電と称す。生物電は絶えずエネルギーを放出し、色身の需むるを維持す。細胞中には四大より成る各種粒子、核子・中性子・陽子・原子・電子・イオン等有り。これらの粒子の生滅代謝は色身の需むるエネルギーを形成す。熱能・動能・電能等を含む。エネルギー放出すれば、身体中の四大物質成分を消耗し、絶えず四大物質成分を補充す可し。故に飲食を要す。飲食を少なく消耗せんと欲せば、識心活動を少なくし、深禅定に入り、内心静謐ならしめ、識心の活動少なければ、エネルギー消耗少なし。

色界・無色界の天人は禅悦を食と為し、飲食を要せず、物質色法を要せず。もし欲界衆生が飲食絶えず、飲食滋味に貪着し、色界禅定を発起せざれば、色界定無し。飲食を講ずる者は食欲降伏せず、初禅定現起不可。

生物とは生命体、生命体は五蘊身、五蘊身は四大種子と識種子より成る。識種子が四大色身に作用し五蘊の活動有り。其中四大種子は刹那生滅変異、色身空幻不実。識種子刹那生滅変異、空幻不実、皆如来蔵性。五蘊身は刹那生滅変異、不実空華の如し。ここより着手し、我見淡薄の後、小乗を修すれば容易に我見を断可し。

十四、五蘊及びその依る縁は皆如来蔵の幻化

外色は衆多の如来蔵共同変現、色身及び内色は自らの如来蔵単独変現。眼根は如来蔵の出生、眼識は如来蔵の出生。眼識の色を見る作用は如来蔵・第七識・第六識・眼識の共同作用、内色を眼識意識中に顕現す。其中四識各々其の作用有り、和合の共同作用も有り。根塵識三者は皆如来蔵の変現・執持・督導、此の三者を離るれば衆生無く五蘊無し。然らば五蘊衆生とは何ぞや。我有る処何処、五蘊何処。何が我ぞや。色を見、声を聞き、香を嗅ぎ、味を嘗め、触を覚え、法を思う。一切の見聞覚知、全ての覚受功能、全ての思想情懐、何ぞや。

五蘊の依る法を悉く見出し、これらの法が何なるかを観行し、これらの法は何に依るかを観る。依頼性有れば、即ち非真実・不自在・不自主・苦空無常・生滅・幻化・虚妄・無我なり。此の如き思惟に順い、入定観行し、思路を整理し、意根に感知せしめ、覚悟せしめ、触証せしむ。最後に内心に一つの声有らん:此の一切法真実性無く、一場の茶番、何処に我有る、何が我ぞや、皆非ず。然る後大哭一場し、身心脱落し、了て掛礙無し。

此の中に一つの過程有り。意根が漸く此の事実を認めんとする時、内心甚だ苦痛悩み有らん。永劫執着せる我、眼の前に無く成らんとするを見れば、内心当然空虚恐怖、恰も断崖の辺に立ち、落下を甚だ憂う。躊躇・心配・恐懼、何も無きを知りながら、何も掴めぬを憂う。其の心境焦燥甚だしく、攪鬧甚だし。時を経て受け入れ太平に復す可し。此れ今世初めて我見を断たんとする者の経るべき過程。前世既に多生多世我見を断ちし者は則ち軽快、歓喜心愉し。

各人が接触し得る所は皆個人私有、私有は第二次幻化を表す。虚妄また虚妄。外部公有も内部私有も皆幻化虚妄、真実性無く、皆鏡の成像なり。真に镜像観を証得するは初地満心に在り。其の時初地の修すべき法は既に修了せり。

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