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五蘊を観じて我見を断ず(第一部)(第二版)

作者:釈生如更新時間:2025年02月26日

第三節 我見を断つ前提条件

一、証果の前提条件

聖弟子は五蘊を如実に観察し、その無常性・苦性・変易性・非我性を観ずれば、五蘊が無我であり、我ならず、我と異ならず、相互に存在せざる真理を証得する。初果を証得する前提条件として、三十七品の助道の法を修め完遂せねばならず、観行が成就するには修道の条件を円満にせねばならない。これらの助道の法を修めず、あるいは修め尽くさねば、五蘊無我を観行して証果することはできない。故に先ず四念処・四正勤・四如意足・五根・五力・七覚分・八正道などの三十七道品を修すべきである。

三十七道品の修行次第は大略次の如し:最初に五根の信根より修を起こし、五根が増長して五力を具足し、その後八正道に入り、思惟修を発起し、七覚支を修習し、念覚支において四念処観を修習し、善法味を得て四正勤を起こし、最後に勤苦修習を経て四神足の果楽を得、心が自在解脱するに至る。

三十七道品の各品は、意識が修習して獲得するのみならず、同時に意根を薫習させ、意根もまた三十七道品を修習し、完満具足せねばならず、各道品を獲得して四神足を成就する。

意識の念力が意根を薫修し、意根の念力を具足させ信を成就する。各法は初めに意識の薫修によって導かれ、意根が具足することを以て実証となり、修行は成就する。身心が実有ならざることを証得して初めて解脱を得るのであり、身心を実有ならずと認めるのみでは解脱を得られない。認識と証得の間の距離は遠近あり、全く当人の修持の程度による。修持なき者は、その隔たりは無量劫を要するであろう。

二、観行に必要な条件は三十七道品の具足

我見を断ち小乗初果を証する時、同時に三縛結を断じ、三悪道の業を消滅せしめ、未来永劫に三悪道に堕ちず、これが我見を断つ最初に得る自身の利益である。如何にして我見を断つか。世尊は『雑阿含経』において衆生のために明らかに説かれている:五蘊の虚妄性・無常性・空性・変易性・苦性・無我性を観察せよと。五蘊を一つ一つ観察思惟してその体性を明らかにすることを観行と謂う。観行には相当なる定力を必要とし、三十七道品をよく修めて初めて観行は成就する。十八界もまた一一に虚妄性・生滅・無常・変易性を観行し、最終的に五陰十八界が真実の我ならず、また我の所有に属さざることを確認する。内心真実にこの一点を確認すれば我見を断つ。これより後、深層意識において五蘊を真実の自己と認めず、生死流転を縛る三縛結(我見・戒禁取見・疑見)を断じ、永く三悪道に堕ちず。

この目標に至るには、世尊が阿含経で説かれた四聖諦の法義を修学し通透せしめ、定力が良くなってから一一に観行する。これが我見を断つ大略の道程である。其中八正道は必ず実践せねばならず、全ての身口意の行いが八正道に符合して初めて修行が成就し、衆生が仰ぐ聖賢人となる。識心ある限り五蘊の受想行識あり、五蘊の虚妄非我性を観行し、色身の虚妄性と識心の虚妄性を共に観行して極めて確信を得れば、我見を断じて証果する。福德等の因縁が具足すれば、如何なる法においても観行思惟でき、我見を断ずると共に第八識を観行証得し得る。これは福德・定力・智慧・因縁時節による。

三、修行の過程あればこそ修行の果あり

四聖諦・四正勤・四神足・五根・五力・七覚分・八正道などの内容は、見道前に修すべき法であり、大小乗の三十七道品は大同小異、修行過程も相似相像である。これらの過程の薫習なくして突然果が現れ聖人となるならば、この果は極めて信頼できず、果と結論は全て剽窃可能で、全ての知見は誦読し得、書物を多読すれば誦読でき、また想像し得る。

而してこれらの過程は何人も剽窃できず、見道証果の者は必ず経過すべき過程である。各人の過程は前世の根基により多少の差異あり。前世に既に証果した者は今世これらの過程を速やかに通過し得るが、他の者は不可で、必ず一一実践実証し、各関所を通過せねばならない。大乗の果位もまた然り。これらの過程を経て初めて身心が転変し、証果時に大いなる解脱功徳の受用を得る。これらの過程を経ぬ者の得る果は、空中の花の如く、観賞するのみで実用価値なく、解脱功徳の受用なきは、塑膠の果実が腹を満たせぬが如し。

所謂る実修とは、大小乗の三十七道品の修行内容を指す。これら具体的な修行内容を離れては実修ならず、結論のみで過程なき修行は実修に非ず、理論のみ学ぶも実修に非ず。理論は幾地菩薩の理論まで学び得、その理を解するも実際の証得とは無量劫二無量劫の隔たりあり。一二の無量劫後の理論を今学び、自ら掌握したと思い込み聖人と断定する。前の道程を歩む必要なく、実際の修行過程を経ず実践せねば、かかる修行は夢幻泡影、空華を得て空果を結ぶのみ。

四、心行が八正道に符合して初めて証果す

四聖諦の法、苦集滅道も内法と外法に分かれ、修道諦の八正道も内法と外法に分かれる。八正道を修め尽くし、小乗三十七道品を完遂して初めて我見を断つ条件が具足し、その後証果する。心行が八正道に符合せねば聖賢たるに足らず、証果できぬ。八正道中の正定は意識の外定法と意根の内定法に分かれる。故に意根は必ず定と相応し、意根を定め尽くして初めて正智が生起し、我見を断じて初果を証する。然らずんば全て偽果塑膠果、観るのみで用を成さず。

五、極めて実際的な修行方法あればこそ実修なり

仏の説法には理論部分と実修部分があり、必ず弟子に修学の着手処を与える。仏陀自らが先達者として最高峰に立ち、山麓四方の衆生を山腹・山頂へ導く力充分にある。仏の説く法を修習するは、華麗高尚な理論のみで実践可能な方法なき崇拝に比べ、優れて勝る。凡そ実践可能な方法を提供せぬ者は、自ら修習成就せず、自らその道を通じ得ざるが故に、随学の者如何にして通じ得んや。

実際の修行なき者の説法は、往々にして衆生をして天上の星を摘ましむるも、雲梯を架ける術なく、後の衆生は憐れに星空を仰ぎ見るのみ。如何に努力せども星との距離は元の如く、届く術なし。或る者は自ら星を摘めりと思い込むも、実は水に映る影に過ぎず、真実の果を得ず。若し理論のみ説き着手方法なき者あらば警戒すべし。徒らに貴重な時を空費せぬよう。

真実の着手修行は、一つの法門より三昧を証得すれば、他の如何なる三昧も容易に契入し得る。三昧は相通じ、方法も相通ず。一つの方法で入れば他の方法も掌握し得る。ただ衆生が決心して一法を実際に用い、苦を厭わず精力を費やすを肯わざるを懼れる。若し各方法を試みるも蜻蛉点水の如く浅く嘗めるのみならば、如何なる法門も成就せず。

六、四加行円満も証果の前提条件

小乗証果の要は七覚分の修持にあり、七覚分は既に略説されたが、具体的修行は個人の努力に依り、各種因縁条件を極力整え、証果に一定の確信を得るべし。修行の過程も四加行の過程なり。暖・頂・忍・世第一法の四過程は、文字理論を基にした内心の加工過程である。加工過程において内心は必ず漸次相応の変化を生じ、これは観行法義が次第に内心意根と相応し、意根が漸く領納受容する過程である。勿論最初は意識が先に領納受容し勝解を生じ、次いで意根に伝え意根をして領納受容せしむ。意根が領納受容すれば身心は漸次転変し、七覚分が逐次現前する。定覚分現前して初めて大智慧を以て五陰身心の法相を捨て、進んで法を証し、世間第一法を超える初果人となる。身心に変化・転変なく、七覚分成就せねば、我見を断じ証果すること叶わず。

暖相:文字理論を透徹し自ら思惟観行するに、内心に暖相現前する。火花を擦るが如く、正しい理論に幾分か同調し、初歩的認知を得、興味を生じ、更にその内蘊を探究せんとする。

頂:理論の認知がある程度に達し、一定の高さを得、五陰身心の空を了解理解し、五陰認知の頂点に至る。此時は完全に意識の認知と勝解にあり、未だ意根に達せず、故に内心尚躁動し、五陰空の認知に安住できず、進退両可能の段階に在る。

此の段階にて、或る者は内心激しく反抗し、思想躁動安からず、情緒に起伏変化あり。或る者は万般に悩み、理由なく焦燥感や憂鬱を覚えん。此の段階を過ぐれば情緒正常に復し、次の段階に入る。意識が空に安忍するのみならず、意根も安忍するに至り、更に深く探究し、究竟何故五陰が空なるかを究明する。

第三段階は忍なり。忍とは安住、空義に安住し、五陰の無常性を忍可するも、未だ真実の証得に非ず。証拠未だ充分ならず、内心の考量足らず、其の理を真に確認できぬが、内心躁動せず比較的安分なり。亦証拠を求め、現量に五陰身心の実質を観察する。此時身心の覚受は益々軽安し、益々歓喜し、禅定は益々良く、智慧は益々深細に、益々鋭敏に、空の念は益々堅固となるも、未だ捨に住せず、内心に捨覚分なし。

捨覚分成就の時、内心の我という思想観念を捨て去り、内心空空、五陰空無常の観念は既に堅固に確立し、証拠充分、内心完全に五陰空無我を同認確認する。第四段階世第一法成就し、我見を断除し初果を証得する。

観行過程において、身心は不断に変化を起こす。何故変化を起こすか。意識の勝解を透し、意根が四聖諦法に漸次一定の体認を得、従前の観念と相背き、次第に従前の認知を覆す。意根が新大陸を発見すれば、身心に相応の変化と反応を促す。故に我見を断ち五陰無我を証得するは、必ず意根の証得による。

七、持戒は我見を断つに資する

色身を我と見る我見には如何なる表現があるか。現実生活における如何なる方面の薫染が身見を増長するか。身見断ち難き原因は何か。何故前世に身見を断てし者は、今世再び仏法に遇えば速やかに身見を断つか。これらの現象を悉く找出し、少しずつ色身への宝愛を降伏せしめれば、身見を断つこと速やかならん。色身に対する一切の方面の護持は、悉く身見による。色身に如何なる方面の護持と宝愛があるか。

出家者の戒律を学べば、仏陀が何故かくも多く詳細な戒律を制定されたかを知る。これらは悉く身見と我見を降伏せしむる為に設けられた。此の理を解せぬ者、戒律が自らを束縛し過ぎると嫌って受戒を肯わざる者あれど、仏陀の制定された戒律を守れば解脱を得る。小乗の戒律は別解脱戒とも謂い、一戒を守れば一つの解脱を得る。故に出家修行すれば、将来必ず四果阿羅漢を証得し、総て解脱を得る日ある。出家の利益は多く、最も根本は清浄自在、解脱に趣向するにあり。

現代人の生活様式は、身見を断ち難くする。皆余りに生活享受を重んじ、生きるは只管快適享受にあり、他一切顧みず。自らの身見を観察するに、日常の衣食住用行の各面各角度より観察し、財色名食睡の各方面より観察し、色を見・声を聞き・触を覚え・香を嗅ぎ・味を嘗むる幾つかの方面より着手観察すべし。自らが特にこれらの方面を重んじ、色身を殊更に気遣い、色身の受用に拘るは、身見の重きを示す。方法を講じて調伏すべし。

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