五蘊を観じて我見を断ず(第一部)(第二版)
第二節 行識を観じて我見を断ず
五蘊とは色蘊・受蘊・想蘊・行蘊・識蘊である。色蘊は色身の機能作用であり、受想行識の四蘊は六識の機能作用である。合わせて五蘊となるが、色蘊もまた六識の作用から離れることはできない。
一、六識の三種の受における無我を観ず
受蘊とは六識の感受であり、苦受・楽受・不苦不楽受の三種を含む。眼識に受あり、耳識に受あり、鼻識に受あり、舌識に受あり、身識に受あり、意識に受あり、六識全てに受がある。例えば目で色相を見る時、仏像を見ようと花を見ようと、どのような色相を見ても眼識には受が生じる。光線の明暗や眩しさ、色塵の快適さなど、意識心にも受が生じ、快・不快、好き嫌い、あるいは捨受がある。太陽の光を見た時、眼識は眩しさを感じて避けようとし、あるいは穏やかで快適と感じて愛着を生じる。これが眼識の苦受・楽受・不苦不楽の捨受である。仏像を見る時、眼識は仏像の色彩や形態を好み、意識心が三十二相八十種好を分別して崇敬の念を生じる。
苦受とは好まざる感受、心に苦悩を覚える受である。楽受は好ましく快適な受、不苦不楽受は淡く好悪のつけがたい捨受である。これが色を見る時の受である。受蘊は意識心の感受を主とし、その了別作用が広汎・微細・深遠であるため観察しやすい。眼識の受は因縁所生の法であり、生滅変異して無常なるが故に虚妄であり、苦である。苦なるものは我ならず、故に受蘊は我に非ず。
耳が音を聞く時、耳識は苦受を覚えて避け、楽受を生じて愛着する。意識心も同様に、音の内容によって苦楽の受を生じる。苦受・楽受・捨受の三種は全て因縁和合により生じ、虚妄なる生滅法である。故に受蘊は我に非ず。
鼻が香を嗅ぐ時、鼻識と意識は香臭に応じて苦楽の受を生じ、中性の香りには捨受を生ず。これら全て因縁所生の法であり、無常虚妄なるが故に受蘊は我に非ず。
舌が味を嘗める時、三種の受を生じる。修行者は味塵に執着せず、常に捨受を保つ。これら感受は全て生滅変異する因縁所生法であり、苦なるが故に受蘊は我に非ず。
身が触を覚える時、身識と意識は苦楽捨の受を生ず。修行者は全ての受を執着せず、捨受の心境を保つ。これらも因縁所生の生滅法であり、我に非ず。
独頭意識の受も同様に、夢中や定中に生じる全ての受は因縁所生の虚妄法である。楽受もやがて苦に転じ、一切の受は苦である。故に受蘊は我に非ず。
二、覚受への対治法
受蘊は六塵に触れ、境界を了知して初めて生じる。六識が六塵に作意し、触れ、受を領納し、想を生じ、思惟が決定する。日常において自らの覚受を観察し、貪愛の対象を分析対治すれば、修行の障礙が除かれる。
三、想蘊無我を観ず
想蘊とは心に相を生じ、これを執取し名言を立てる作用である。六根が六塵に触れる時、想蘊が現起する。眼が色を見る時の了知、耳が音を聞く時の分別、全て因縁所生の生滅法である。想蘊は虚妄無常なるが故に我に非ず。
四、想蘊の不実を観ずる方法
想は生滅無常であり、持続することも固定することもできない。念頭を追っても実体なく、生滅変異する空法である。昨夜の枯枝も今朝の霧も、想うべき実体はない。
五、行蘊の観行
行蘊は六識の運作用を指し、身口意の造作を含む。識種子の流注により生じる一切の活動は生滅虚妄であり、我に非ず。
六、識蘊の虚妄を観ず
識蘊は六識の了別作用であり、六根・六塵・作意の因縁和合により生じる。識種子の刹那生滅により形成される水流の如く、実体なき幻法である。観行により識心の無常・無我を悟れば我見を断ずる。
七、識心無常の理
識心は刹那生滅し、五種の状況で滅する。本来無く因縁所生なるが故に虚妄無我。衆生の心念は常に変化し、実体を把捉できない。
八、識蘊の観行
六識の功能作用を詳細に観察し、その虚妄性を悟る。受蘊を中心に想行識を観じ、一切が因縁所生なることを知る。
九、生滅変異するものは我に非ず
五蘊の功能は識種子に依存し、生滅無常なるが故に実我ではない。四大の代謝する色身も把捉すべき実体なく、貪愛すべきでない。
十、阿頼耶識は識蘊に非ず
五蘊十八界は衆生を形成するが、これらは苦空無常なり。阿頼耶識は不生不滅の真如であって識蘊に属さず、外道の誤認を超える。
十一、受を我とする顕れ
衆生は受蘊に執着し、貪嗔を造る。我執を断じなければ生死を免れない。
十二、定中の意識も生滅法
定中の清浄な意識もなお生滅法であり、真如に非ず。楞厳経の教示に従い、虚妄を観破すべし。
十三、意識の無自主性
意識は意根に随って生滅し、全く自主性なし。この虚妄なる識心を我と認めてはならない。