五蘊を観じて我見を断ず(第一部)(第二版)
第二節 傅大士が説く声聞の初果と真妄の心
一、傅大士の偈に曰く:凡を捨て初めて聖に入る。煩悩漸く微細。人我の執りを断除し。始めて無為を証す。縁塵及び身見。今に至りて乃ち非なるを知る。七返人天を経て後。寂に趣きて帰るを知らず。
釈:衆生が苦集滅道の四聖諦を修め人我空を証得した後、凡夫の身分を捨て初果の聖道の流れに入る。これを基にさらに修行を進め、貪瞋痴の煩悩が次第に薄れ、二果を証得する。初禅定を得て貪欲の心を断じ、さらに瞋恚の心を断じて三果を証得し、心解脱を得る。さらに修行を継続し、自我への執着が漸く微細となり完全に断除され、深細なる我慢を断ち、欲界・色界・無色界の一切の法への貪愛を滅し、四果阿羅漢を証得する。これより三界に心を留めず、ただ縁に随って衆生を度化する。寿命尽きて灰身滅智し、五陰を滅し十八界の仮我を滅し、不生不滅の阿頼耶識心体のみ残り、寂静無為の状態に住する。
衆生が我見を断除し初果を証得する時、自らの生生世世に六塵の境界を攀縁し、迷執して色身を自己とし、色身に具わる見聞覚知の性を自己とし、この幻化の空身のために種々の業行を造り、絶えず六道を流転してきたことを回想する。今やついに自身の虚妄、身口意行の虚妄、万法の虚妄を知るに至る。しかしさらに精進せず現状に満足し、寿命尽きて欲界天に生じ、再び人間界に戻ることを七度繰り返し、四果阿羅漢を証得する。命終えて無余涅槃に入り、阿頼耶識のみ残り、一無所有・一無所為の空々たる境界、無境界の境界となる。いわゆる阿羅漢の存在もなく、再び人間界に戻り大乗法を修学して早日に成仏を目指すことも知らず、かくの如く去るは実に惜しむべし。
二、傅大士の偈に曰く:菩提は言説を離る。從來得る人無し。須らく二空の理に依りて。当に法王の身を証すべし。有心は俱に是れ妄り。無執して乃ち真と名づく。若し非非法を悟らば。逍遥して六塵を出づ。
釈:ここでの菩提と非非法は、共に真如の本性を指す。真如の本性には言説無きも、言説する時そのもの無くしてあらず。真如の本性を悟ると否とにかかわらず、菩提を得る人無し。一には菩提が本来具足し外より得ざる故、仮に悟るともただ自家の珍宝の発見に過ぎず、二には菩提を得ると否とにかかわらず、人は空なるが故なり。
仏地の法王身を証得せんと欲すれば、人我空と法我空の理に依って修証し、最終的に仏地の法身無垢識を成就すべし。一切の世間法において、心の分別性有り、心の貪執性有るは、必ず妄心なり。このような妄心を真実不壊の法、不生不滅の自我と錯認すべからず。三界の世間法に無心・無執・無分別の心こそ、不生不滅の真心なり。三界世間法の相貌無き心、七識の心とは異なる心を悟りてこそ、六塵を出で生死を了える。