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五蘊を観じて我見を断ず(第一部)(第二版)

作者:釈生如更新時間:2025年02月27日

理を求めて実修する者への訓戒

仏道を学び修行するにおいては、我見を断じ、我執を破ることが第一である。一切の煩悩は我より来たり、一切の罪悪は我より生じ、一切の生死は我より有り、六道輪廻は我より現ずる。我は生死の根源、我は苦悩の元凶、我は三悪道の淵源、我は解脱を妨げる枷なり。我あれば即ち苦悩あり、我あれば即ち生死あり、我あれば即ち罪悪あり、我あれば即ち解脱を得ず。これ然り、我見を断ずれば即ち三悪道の枷を脱し、我見を断ずれば即ち生死の見惑を断じ、我見を尽く断ずれば即ち罪悪を断じ、我見を尽く断ずれば即ち生死輪廻を出離し、我見を尽く断ずれば即ち解脱を得ん。

我あるは即ち生死、我なきは即ち仏なり。仏道修行は我より次第に無我に至り、徹底的に無我なれば即ち究竟して仏と成る。故に仏道修行においては、まずこの禍根たる我を抜き去り、再び生死を招かざるべし。我見を断じ、棘を抜き、我執を破り尽くし、更に法執を断ち、無我利他して仏道を円満せしむ。仏道修行には日々自らを省み、自我を降伏せしむべし。我貪・我瞋・我痴・我慢・我愛・我見、無量の煩悩を断じんと誓願す。日々三たび自心を省み、利剣もて煩悩の賊を断つ。心火断じて涼しきを得、家に帰りて太平城に安坐す。

仏法は成仏の法なり。成とは成就を意味す。仏道を学びて成就せんと欲すれば、必ず工夫を凝らし実修実証すべし。実とは実際・切実・真実を指し、修とは工夫を施して実践することを要し、証とは証得、即ち一定の方法・手段を通じて仏法を体証し、如実如理の結論を得ることを言う。この結論の獲得は修行者の智慧の成就を表し、ここに至りて仏法は自ら修得する所となり、単なる学舌の徒にあらず。志ある者は必ずこの途を辿りてこそ成就を得、真に自らを改め解脱自在となるべし。

而して仏法を修証する方法は、広く学び多く聞くことを基盤とし、深く禅定に入り、如理に思惟し、如理に観行するに在り。もし相応の禅定なき時は、学びし所を如理に思惟観行すること能わず、仏法を実証すること叶わじ。然らば学びし一切の仏法は単なる仏教知識の累積と堆積、他人の宝を数えるのみにて、己には半銭の分け前も無かるべし。

今多くの仏道修行者を見るに、精進する者は日夜書籍やネットに埋没し、広く学び多く聞くことを孜々として求む。されど求めし結果は膨大な仏教知識が胸中に堆積するのみ。侃々と語ることは能うとも、全て他人の残した言葉、他人の知恵を拾い集めたるものに過ぎず、実証体験は微塵も無く、慢心を増長するのみ。中には著書を成す者も在れど、その内容は各種名相の堆積、仏教知識の転載に過ぎず、実証体験を欠く。食を説くも飽く能わず、食して消えざれば病患と成る。故に勤学の士に勧む、深く禅定に入り、禅観を起こし、定中に如理に思惟観修し、学びし法を以て検証せんことを。若し定中に如理深く思惟し、法の所以然る所以を知る者あらば、即ち実証の士にして他人の宝を数うる者に非ず。この人こそ衆中の龍象、他日必ずや衆を率いて遠く行き、共に仏道を成ぜん。

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