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四念処経講話 第二版(新修)

作者: 釋生如 カテゴリ: 二乗の解脱 更新時間: 2026年08月31日 閲覧数: 1427
<h2 style="text-indent: 2em;">第五章 法を観じて住す</h2><h3 style="text-indent: 2em;">第四節 七覚分を観じて住す</h3><h4 style="text-indent: 2em;">一、七覚分の簡略な紹介</h4>

七覚分は七覚支とも呼ばれ、具体的には、念覚支、択法覚支、精進覚支、喜覚支、軽安覚支、定覚支、捨覚支に分けられる。

第一に、念覚支。ある法を修学して、心心念念その法に縁じ、その法を観行し思考し、雑りがなければ、こうして念覚支が現れる。

仏法を修学し始めたばかりの頃は、ある法に縁じて修するが、縁じていくうちに心念が境界に随って転じ、断れて散ってしまい、心はもはや念じておらず、その法は現前しなくなる。この時、念覚支はまだ成就していない。たとえば浄土の念仏 (buddhānusmṛti) の法門を修習する場合、初めは仏号に縁じるが、縁じていくうちに散ってしまい、心に仏号がなくなり、往生の念もなくなる。この時は念覚支が成就していない。ある法をある程度まで修めば、功夫が綿密になり、念覚支が生じてくると、法に念念忘れず、この時念覚支はすでに修習成就している。

たとえば四聖諦の理を修行する時、心心念念がことごとく四聖諦の理であれば、心念はことごとく苦集滅道の理を観行し思考しており、念覚支は修成する。初めは心に四聖諦法を念じておらず、四聖諦法に対して思惟がなく、観行がなく、思いがなかったが、のちに心心念念が苦集滅道に縁じるようになると、縁に遇い境に対すれば直ちに想起する。この法は苦である、苦はどのように現れるのか、どのように集結してくるのか、どのように修道すべきか、どのように苦を滅すべきか、と。心念は時刻として苦集滅道を離れず、この時四聖諦法の念覚支はすでに成就している。

念覚支は七覚支の中の第一の覚支であり、念覚支の成就は、われわれが仏法を修学するための首要の条件である。もし所修の正理に念念することができなければ、正理において精進することができず、正理において喜楽を生ずることができず、軽安を生ずることができず、正理において抉択と決定を生ずることができず、心は如理作意に合わないものと如理に合わない法を捨除することができず、依然として世俗の貪瞋痴の煩悩に著している。

たとえば菩薩の六度を修する場合、心心念念を菩薩六度の修行に縁じれば、時刻として自分の内心を点検し、自分の福徳の蓄積がどうであるか、自分の持戒の状況がどうであるかを点検し、犯戒に遇えば直ちに想起する。われは厳格に持戒すべきであり、違犯があってはならない、と。禅定を修して心が散乱すれば、自分で警覚すべきである。われはいま心に定がなく、心を収摂して戻すべきである、と。般若 (prajñā) の智慧が不足で、仏経に遇って読み解けない時には、自分の般若の智慧がまだ不足であることを知り、努力して補うべきである。ある法理がまだ明らかでなく、また世俗の境界相の中に落ちた時、自分で知るべきである。われの般若慧の修めた程度はまだ甚だ劣っており、さらに精進すべきである、と。

このように、心が念覚支の状態にあれば、菩薩六度に住し、念覚支が成就してこそ、精進して菩薩六度を修学できる。念覚支が成就する時、心念は法と相応し、時刻として法を念ずる。心念が法と相応しなければ、念覚支は成就しておらず、半分あるいはある一部分だけが成就している。念覚支が成就したのち、時刻として仏法を念じ、能動的に仏法を観行し思惟して、はじめて仏法を証得できる。

念覚支は仏法修学の初級段階である。念覚支が成就したのち、後の択法覚支、精進覚支、喜覚支、猗覚支、定覚支、捨覚支がはじめて成就する。自分に念覚支があるかどうか、心で明らかに知っているべきである。念覚支が生起する前には、生起していないことを明らかに知り、生起したのちは、すでに生起したことを明らかに知るべきである。もし念覚支が修足していなければ、急いで修行を強化すべきである。修行の中で、時刻として自分の心念がどの状態、どの程度にあるかを点検すべきである。自分に対して関心を持ち了解を加えてこそ、自分を改善し、自分を完善できる。自分を了解しなければ、自分を対治できず、所修を完善できない。

それぞれの法を修行するにはすべて念覚支があり、念覚支にも階層上の差別がある。たとえば唯識の法を修学する方面では、念覚支が成就しないのは極めて正常なことであり、これは菩薩の道種智に属し、智慧力が不足の時には、唯識方面の念覚支を成就することは不可能である。しかしわれわれがいま修学すべき法の上では、念覚支を修学成就させるべきである。たとえば我見を断していない人は、心で時刻として断我見 (satkāya-dṛṣṭi-prahāṇa) の内容である五蘊空無我を念じ、念念が五蘊の生滅無常を観行しており、心念がすべて断我見の理と相応すれば、この時念覚支が生じてくる。成就したかどうか、円満したかどうかは、さらに一歩進めて点検する必要があり、念覚支が成就し円満するまで続ける。

参禅の段階では、菩薩六度方面の念覚支が成就しているかどうかを点検し、般若の智慧の修習程度がどうであるか、内心が般若という法に縦じられるか、縁に遇えば般若の空性 (śūnyatā) を連想できるか、すべて第八識が現起させた法であると意識できるかを点検すべきである。あるいは一切の法に接触する時、すべて第八識が究竟どこに在るかを尋ね求め、時刻として念ずる。われはどのように明心し、どのように証悟し、どのように参禅し、どのように修定するのか、と。これが自分のいまの修学が備えるべき心念であり、かつ念覚支を不断に増進させるべきである。もし心念が世俗の法へ走ってしまったなら、心念がまだ堅固でないことを示し、念覚支がまだ成就していないのであり、自分の心念力をさらに強化すべきである。

第二に、択法覚支。択法覚支とは、いま修すべき法に対して一定の抉択の力を有することであり、心でこの法が正か邪か、大か小か、仏法の中でどの階層に属するかを了解しているべきである。自分の智慧の階層と相応する法に遇い、正しい抉択力を有し、正しい抉択をなしえれば、択法覚支が生起し、択法眼を有したことを示す。

択法覚支があれば、どんな法に遇っても、どんな人が法を講じても、一定の弁別力と抉択力を有する。この師の講じる法が大乗か小乗か、正道か邪道か、仏意に符合するかどうか、その人の本身の智慧の階層がどこまで到っているか、自分と衆生の断我見を助けられるかどうか、自分と衆生を明心見性へ導けるかどうかについて、一定の択法眼をもって弁別し抉択すべきである。この法を修すべきかどうか、いつ修すべきか、自分の心の中で一つの量度を持ってこそ、正しい抉択をなしうる。甚だ高深な法に対しては、暫く抉択力がないのは正常なことである。ある人は自分より少し階層の高い法に対しても一定の抉択力を有するが、この抉択力は決して大きくはなく、抉択の力は強大でなくとも、粗略な弁別があればそれでよく、なにしろまだ主修する能力がないのだから。

自分の内択法覚支が生起したかどうかを知るには、法に対する自分の弁別力を細心に点検しなければならず、一段時間の点検ののち、自分に一定の弁別力があることを確認すれば、自分の内択法覚支がすでに生起したことを知る。自分の修行の状態、内容、程度に対してすべて反観を行えば、修行には歩序があり階層があり内容があることになる。これらの歩序を心で明々白々としていれば、自分がいまどのように修学すべきかを知り、心乱れて麻の如く、方向もなく茫として、何を見ては何の法を学ぶということがなく、次第があり歩序をもって修学し、定められた順序に従って修行する。こうして自分の内択法覚支がすでに修習成就したことを知る。

第三に、精進覚支。もし択法覚支がなく、まだ択法眼を具えていなければ、精進できるだろうか。真に精進することはできない。たとえば二つの道があり、その一つは正しく、もう一つは正しくないとする。もし選び誤れば、南轅北轍である。方向を誤って選んだなら、精進すればするほど正道から遠ざかるのではないか。それゆえ精進覚支が生起する前に、択法覚支を具えるべきである。正しい修行の道、修行の法を選び、あるいは一人の明師を選んだのちにこそ、ある法を精進に修行し、あるいはある師に従って精進に修行できる。これが正精進である。もし択法覚支が完善でなく、正しくない仏法修行の道を選べば、精進すればするほど精力を浪費し、時間を遅らせる。これが邪精進である。正精進であれば、精進一分につき一分の智慧の成就を獲得できる。

精進には多くの方面が含まれる。たとえば菩薩道を修行するなら、布施 (dāna)、持戒、忍辱、禅定、すべて精進しなければならない。いかなる法でも、明心見性へ向かいうる限り、すべて精進に修行しなければならない。これが精進覚支である。内精進は意根の精進であり、これが真精進であり究竟の精進である。外精進は意識の精進であり、まだ真の精進ではなく、なお意根を熏習し続ける必要がある。意根が精進してこそ、心心念念がことごとく法であり、朝から晩まで勤勉に修行できる。

第四に、喜覚支。一段時間精進したのちの結果は何か。ある法の修学方向を正しく把握し、一種の喜楽の心を生じ、学べば学ぶほど心は喜び、法喜に充ち、学べば学ぶほど成就感を覚え、内心は一種の軽微な解脱の功徳を獲得する。いわゆる喜楽とは、一つには内心の喜び、いま一つは法に対する愛好であり、これが喜覚支である。もし長時間修しても、心の喜覚支が終始生じてこなければ、修学がまだ力を得ていないこと、あるいは精進度がまだ足りないこと、あるいは選んだ法が正しくないこと、あるいは念覚支が成就していないことを示す。法を正しく学べば、ある時までに必ず喜覚支が生じ、内心は喜楽に充ちる。なぜなら身心がすでに利益を獲得したからであり、利益を獲得していなければ、喜楽の心は生じない。たとえば自分が一つの物を得て、自分にとってなかなか役に立つと思えば、心は喜ぶ。その物が役に立たない、あるいはあまり役に立たないと思えば、心は喜ばない。

第五に、猗覚支。内心に喜びが生じたのち、どのような現象が現れるか。煩悩が圧伏され、五蓋が軽減され、のちに内心に軽安の覚受が生じる。これが猗覚支である。この「猗」は高大・殊勝・安歇という意味であり、身心がともに安歇し、身体上の勝境が現れ、内心は安穏である。この時に至れば修むるほど心は軽く自在となり、解脱を感じるほどになり、身心はますます弛む。保持し続けられるなら猗覚支が成就したことを示し、保持できなければ猗覚支が退失したことを示す。

猗覚支は軽安覚支ともいう。軽安とは内心が極めて軽く安らかで自在であり、身体が軽やかで重くないことを指す。身と心は相互に依頼し相互に依存しており、身体に変化が現れれば心に変化が現れ、心に変化が現れれば身体に変化が現れ、身心相応である。心が喜楽あるいは軽く自在であれば、身体は軽やかに飄然とし、身体が軽やかに飄然としていれば、心は軽く愉悦である。身体がうまくいかねば、心境も愉悦軽快自在にはならない。禅定が現れる時、身体の覚受は極めて軽やかで、心は必ず極めて快楽である。法を学んで極めて快楽な時、身体は必ず軽く安らかである。

禅定とは身体と心がともに定を得ることを指し、一つでも欠ければ禅定とはいえない。身体を離れて定するのでなく、心を離れて定するのでなく、二者は相輔相成である。禅定は人に一種の軽安、軽盈、自在の感覚を獲得させる。いわゆる軽盈とは色身が軽やかで重くないことであり、同時に心も愉悦舒適で、心量が増大し、軽安の覚受は上界と相応し、人間の本地を離脱する趨勢があり、これが定の徴候である。多くの人はこの状態にまで修しておらず、身体は依然として重く、内心にも喜楽、軽快、自在、解脱の感覚が生じておらず、修行がまだ力を得て如法でないことを示す。

軽安の覚受が現れるまで修すれば、行住坐臥の状態が従前と異なり、心の状態は面部の表情と身体の姿態から見て取れる。それゆえ、一人の有道であるかどうか、どの程度まで修したか、明心したかどうかは、明眼人が一目見れば分かる。過去の禅師はみなその慧眼を有し、弟子が参禅してある日まで参じ、満面春風の如く歩いて来て、全身から得道したかのような気勢を放つと、師匠は一目見て、弟子が語らなくとも分かった。証道には標志がある。断我見して証果し明心したからといって、身口意行が従前と全く同じで、少しの差別もなく、まして従前より劣り煩悩が重いということはありえない。明心見性したばかり、我見を断したばかりの時の身心の状態は、他人が一目見れば従前と異なることが分かる。猗覚支まで修した時も同様で、身心ともに変化がある。

第六に、定覚支。猗覚支が成就したのち、禅定が現れる。いわゆる禅定とは、一つには法に対する決定であり、いま一つには身心の寂静であり、身体は安穏で乱り動かず、心は専一に深細に思惟して散乱せず、不動の状態の中にある。いわゆる定とは散乱しないことであり、法に縦じて深入りし、外界の干渉を受けず、心を法の上に住まわせる。この二種の定がともに具足してこそ、完全な禅定である。未到地定 (anāgamya-samādhi) が具足するまで修すれば、心は比較的沈穏で集中し、法義を思惟する時、速やかに心を沈めて法義の中に深入でき、苛立って落ち着かず、文字の表面に浮かんで深入できないということがない。この状態に至れば禅定が成就しており、足を組めるかどうかにかかわらず、内心は禅定と相応し、行住坐臥いずれにも定があり、こうして仏法の中に深入できる。これが定覚支である。

猗覚分の時にすでに初步の定があり、前の猗覚分が修出されていなければ、後の定覚分は現れえない。たとえ強いて長時間坐っても、猗覚分がないため、定を得るのは困難であり、猗覚分があってこそ入定しやすく、行住坐臥に禅定があれば、身体の状態が禅定がすでに現れたことを示している。

それゆえ喜覚支と猗覚支を修出したのち、はじめて定覚支があり、定は喜と猗という二つの覚分から引発されたものであり、その前に精進覚分、択法覚分があり、これら一連の覚支が後の各覚支を引発し、一つ比べ一つ深く、前の覚支がなければ後の覚支はない。もし一人が証果したといいながら、これらの現象が一つもないなら、いったい何の果を証したのか。もし一人が明心したといいながら、これら身心上の相貌覚受状態が一つもないなら、いったい何の心を明らかにしたのか。それゆえ証果したかどうか、明心したかどうかは、経験者には瞞せない。ただその身心の状態を見るだけで、一目で分かり、一言も語らなくとも、その容貌風采神情が得法したかどうかの心境を示している。有道かどうかは、一たび口を開いて語ればさらに判断でき、明眼人には瞞せない。

第七に、捨覚支。禅定が生じたのち、種々の雑念を降伏し、観行の智慧が生じ、一切の法を捨去して、心はじめて平等の捨境に住し、苦でもなく楽でもなく、喜でもなく悲でもなく、平淡で、貪執もなく瞋恚もなく、内心は清清浄浄である。捨覚支の捨は捨去するという意味である。元来どんなものを捨去する必要があったのか。心に喜があり楽があり、貪があり瞋があり、粗重な覚観 (vitarka-vicāra) 思惟があり、散乱と波動があり、種々の不正知見があり、これらを捨去し、空と相応しない法はすべて捨去し、内心は空無に達する。二禅以前はなお覚観と念があり、心にまだ喜楽受が捨去されていないが、四禅に至れば捨念清浄、一つの念頭もなく、さらに捨であり、捨念清浄と称する。

心に苦受と楽受があれば散乱であり、心に念頭が絶えず、思想と憶念が絶えなければ散乱である。禅定が生じる時、苦受は捨去され、楽受は捨去され、粗重な覚観は捨去され、散乱な思想は捨去され、内心の過去への追憶は捨去され、有法が滅し去り、心念は澄み、心は清浄 (viśuddha/pariśuddha) となり、身心ともに空である。これが捨覚支である。七覚分を最後まで修めば、内心の一切の繁乱と粗重をすべて捨除し、捨覚支が成就する。

このような状態において、はじめて所思惟観行の仏法が心に入り、思惟は深細となり、意根は禅定の中で専一に思量 (manasikāra/manana) 観行し、はじめて我見を断し証果できる。もし内心が不断に攪乱を受け、清浄できなければ、仏法の中に深入できず、熏されず、智慧の生起もない。捨覚支が生じる時、心は平静であり、波のない湖水の如く波瀾が起きず、仏法がはじめて内心に浸透して心田を滋潤し、智慧の苗を生じさせる。もし内心が終始喜楽に充ち、定力が不足で、心思が比較的浮躁で、観行が不十分なら、仏法は内心に深入できず、証果して智慧を開くことができない。

清浄な心念は捨心であるべきである。ある学仏の人は念仏の境界が比較的良い時、定中に仏菩薩の出現を見て、心が極めて歓喜する。この心境を化解できなければ、終始仏菩薩の相を好み執すれば、心は清浄でなく、魔境に入りやすい。ある人は修行の中で心に終始悲を生じ、自分のために悲しみ、衆生のために悲しみ、世界がすべて苦であると感じ、苦しくて堪えられない。これは悲魔が有るのであり、心念も清浄でない。最後まで修めば、悲と喜という二種の心念をすべて捨除し、一種の平静平淡平穏平等の心の在り方に住して、はじめて仏法の中に深入できる。あの最も正しい心念の状態に住してこそ、観行が成就し、それによって我見を断し明心し証悟できる。

七覚支は一環が一環を繋ぐものであり、前の環がなければ後の環はなく、前のこれらの道をすべて歩んで過ぎて、はじめて最後に我見を断し証果できる。これが証果の前行の条件である。それゆえこれらの経歴が一つもなければ、我見を断除できず、どの覚支も生起していなければ、我見を断除することもできず、かつて精進したことがなく、かつて喜楽の心を生じたことがなく、身心がかつて軽安したことがなければ、法に対する認知がまだ深くなく、観行は成就できず、とりわけかつて観行したことがなければ、なおさら我見を断除することは不可能である。三果四果の人の再来だけが、今世仏法に遇い少し思惟を加え、鍵となる一言を聞き、少し思惟観行を加えれば証果でき、一法一法と反復して思惟観行する必要がない。初めて証果する人は、必ず反復して仔細に深入して観行しなければならず、七覚支をすべて深入に修習し、かつすべて修成就させなければ、我見を断除できない。たとえ三果四果人が再来であっても、仏法に遇ったのち、これらの覚分を速やかに生起させて、はじめて証果できる。

無始劫来初めて我見を断する人にとって、これらの覚分の生起は極めて極めて遅いかもしれず、持続時間は極めて長く、每一覚分が極めて堅固で極めて安定でなければ、次の段階に入れない。前世ですでに証果した再来人はこのようである必要がなく、七覚分の生起は一つが一つに連なり、速度が速く、舎利弗や目犍連のような大阿羅漢は一瞬にして完成し、禅定も瞬間に生じ、彼らの観行は一念間に成就し、脳裏の一閃念で完成する。彼らは前世ですでに七覚分を完全に具足していたからであり、われわれの今世は初めて起修するので、必要な時間はより長くなる。もし七覚分が成就せず、修出されていないか、あるいは修出されたのち一段時間持続せずに消滅すれば、我見を断することはできず、強いてそう言うなら妄語である。証果した人の身心の外在の表現は、以前と比べて必ず大きな変化がある。なにしろすでに初步の解脱の功徳受用があるのだから、身心は必ず転変する。

<h4 style="text-indent: 2em;">二、七覚支の具体的観行</h4>

原文:复次。诸比丘。比丘即于七觉法。观法而住。然。诸比丘。比丘如何即于七觉法。观法而住耶。于此。诸比丘。比丘或于内念觉支存在者。知于我内念觉支存在。或于内念觉支不存在者。知于我内念觉支不存在。而知未生之念觉支生起。又知已生之念觉支修习成就。

解釈:復次、諸比丘よ、比丘は七覚分法に対して、心を観法の上に住まわせるべきである。それでは、諸比丘よ、比丘はどのように心を七覚分法の観行の上に住まわせるのか。この問題に対して、諸比丘よ、比丘はもし心の中に念覚支を修出したなら、自分に内念覚支の存在があることを如実に知るべきであり、もし心の中に内念覚支を修出していないなら、自分に内念覚支がないことも如実に知るべきである。もし従前内念覚支を修出していなかったのに、いま内念覚支が現れたなら、心でも如実に知るべきであり、もし内念覚支がすでに修習成就したなら、心でも如実に知るべきである。

内念覚支とは内心の深処の意根が心心念念法を念じ、熏修の心念が比較的深いことであり、意識の表面に浮かぶだけの念覚支ではない。自分の心の念覚支が生起し成就したかどうかを確切に了知するには、念覚支の内包と特徴を極めて明らかに了明してこそ、如実に対照し点検できる。その他のいくつかの覚支の修習も同様で、すべて意識の外と意根の内とに分けられる。

原文:或于内择法觉支存在者。知内择法觉支存在。乃至内择法觉支存在。修习成就。或于内精进觉支存在者。知内精进觉支存在。乃至内精进觉支存在。修习成就。或于内喜觉支存在者。知内喜觉支存在。乃至内喜觉支存在。修习成就。

解釈:比丘はもし心の中に択法覚支を修出したなら、自分に内択法覚支があることを如実に知るべきであり、もし心の中に内択法覚支を修出していないなら、自分に内択法覚支がないことも如実に知るべきであり、もし従前内択法覚支を修出していなかったのに、いま内択法覚支が現れたなら、心でも如実に知るべきであり、もし内択法覚支が修習成就したなら、心でも如実に知るべきである。

比丘はもし内精進覚支を修出したなら、自分に内精進覚支があることを如実に知るべきであり、もし心の中に内精進覚支を修出していないなら、自分に内精進覚支がないことも如実に知るべきであり、もし従前内精進覚支を修出していなかったのに、いま内精進覚支が現れたなら、心でも如実に知るべきであり、もし内精進覚支が修習成就したなら、心でも如実に知るべきである。

比丘はもし心の中に喜覚支を修出したなら、自分に内喜覚支があることを如実に知るべきであり、もし心の中に内喜覚支を修出していないなら、自分に内喜覚支がないことも如実に知るべきであり、もし従前内喜覚支を修出していなかったのに、いま内喜覚支が現れたなら、心でも如実に知るべきであり、もし内喜覚支が修習成就したなら、心でも如実に知るべきである。

原文:或于内息(轻安)觉支存在者。知内息(轻安)觉支存在。乃至内息(轻安)觉支存在修习成就。或于内定觉支存在者。知内定觉支存在。乃至内定觉支存在修习成就。或于内舍觉支存在者。知于内舍觉支存在。或于内舍觉支不存在者。知于我内舍觉支不存在。而知未生之舍觉支生起。又知已生之舍觉支修习成就。

解釈:比丘はもし内在の軽安覚支を修出したなら、自分に内軽安覚支があることを如実に知るべきであり、もし心の中に内軽安覚支を修出していないなら、自分に内軽安覚支がないことも如実に知るべきであり、もし従前内軽安覚支を修出していなかったのに、いま内軽安覚支が現れたなら、心でも如実に知るべきであり、もし内軽安覚支が修習成就したなら、心でも如実に知るべきである。

比丘はもし内定覚支を修出したなら、自分に内定覚支があることを如実に知るべきであり、もし内定覚支を修出していなければ、自分に内定覚支がないことも如実に知るべきであり、もし従前内定覚支を修出していなかったのに、いま内定覚支が現れたなら、心でも如実に知るべきであり、もし内定覚支が修習成就したなら、心でも如実に知るべきである。

比丘はもし内捨覚支を修出したなら、自分に内捨覚支があることを如実に知るべきであり、もしまだ内捨覚支を修出していなければ、自分に内捨覚支がないことも如実に知るべきである。かつ同時に、従前修出していなかった内捨覚支がいま生じてきたこと、またすでに生じてきた内捨覚支が修習成就したことを、心で如実に知るべきである。

原文:如是。或于内法观法而住。又于外法观法而住。又于内外法观法而住。或于法观生法而住。又于法观灭法而住。又于法观生灭法而住。尚又智识所成。及忆念所成。皆会有法之思念现前。彼当无所依而住。且不执着世间任何物。诸比丘。比丘如是。即于七觉支法。观法而住。

解釈:このように観行し、心はあるいは内法に対する観法の上に住し、あるいは外法に対する観法の上に住し、あるいは内法と外法に対する同時の観法の上に住する。あるいは心は七覚支法の生じた法の観察の上に住し、あるいは七覚支法の滅法の観察の上に住し、あるいは七覚支法の生滅現象の同時の観察の上に住する。このように一路修めて下れば、六・七識はすべて七覚支に対する智慧の認知を生じ、心も不断に七覚支を憶念し、こうして七覚支法に対する思念が現前する。比丘たちは無所依にして住すべきであり、かつ世間のいかなる物法をも執著しない。諸比丘よ、比丘はこのように七覚支法の観察の上に住すべきである。

七覚支法を観じる時、内七覚支法と外七覚支法を観じること、および同時に内外七覚支法を観じることに分けられる。内七覚支法とは内心の深処の比較的隠秘な意根の修める七覚支であり、外七覚支とは意識の修める七覚支である。のちに七覚支法の出生を観じ、心念は生法を観じる上に住し、そののち七覚支法の滅を観行し、心は滅法を観じる上に住し、さらに同時に七覚支法の生法と滅法を観じ、心は生滅法の観察の上に住する。観察の最後には、禅定が具足し、観察智が生じ、心はすべて七覚支法に関する念頭であり、さらにこれらの法の念を捨て、心は一無所有の状態に住し、空の状態に住し、心のいかなる一種の念をも空し、心は無所依であり、七覚支法を実有と以為してはならず、用いれば即ち捨てる。比丘はこのように住すべきであり、これで捨覚支が成就する。それぞれの観行の後に、心中の所念所想を捨除し、捨念の中に住し、最後に捨念をも除いて、はじめて究竟である。

かくの如く、七覚支法は修め終わり、これを七覚支法を観じて住すという。

<h4 style="text-indent: 2em;">三、如何なることが内外七覚支か</h4>

仏はこの経の中で七覚支を内七覚支と外七覚支とに分けた。真の内心の深処に生じる七覚支とは意根の修め出した七覚支分を指し、表面に生じる七覚支分とは意識の階層の七覚支分を指す。意識の生じた外七覚支は実際にはまだ意根の内七覚支まで熏習しておらず、しかし真に七覚支を生じさせる最も主要なものはやはり意根の内七覚支である。

念覚支は意識の外念覚支と意根の内念覚支とに分けられる。意識が外念覚支を生じたが、もし意根が意識に熏習されることを望まなければ、意根はやはり外へ四方に攀縁して散乱し、意識の念ずる所に縦じることを望まない。意根に念覚知がなく、意識の念ずる所の法義を念じなければ、意識の念覚支は決定的な作用をなさず、散壊してしまう。意根に熏習されていないため、意根の内念覚支が成就せず、その後続のその他の覚支はすべて現れえず、我見を断することもできない。念覚支が真に成就する時、意識の外念覚支があるだけでなく、意根の内念覚支の成就もなければならず、この二つの法はいずれも極めて重要である。意根の念覚支が現れかつ成就してこそ、後辺の覚支の出現を促すことができる。

意根がもし念念所修の法を離れなければ、毎日持続して法義の上に専注して思惟でき、飯を食べ寝る時でさえ法を念じ、法義の思惟を離れない。このような念覚支こそ究竟のものであり、それゆえ内覚支と外覚支はいずれも欠くべからざるものである。また例えば意根が四聖諦法を修したいと望めば、神様は念念四聖諦法に縦じて四聖諦法を明らかにしようとし、意識心は意根に配合して行住坐臥を問わず、念念が四聖諦法義でなければならない。意根の心念があまりにも堅固であるため、意識を牽引して必ず意根に随順させ、この堅固な心念が意根の内念覚支である。

単に意識が有するだけの念覚支は、意根が処処に攀縁する縁故によって断れる。それゆえ初步の成就は意識の上に落ち、意識の念覚支が成功裏に意根を熏習すれば、意根の内念覚支は成就でき、真の成就はやはり意根の上に落ちる。上より知られるように、一切の法はすべて意根まで熏習してはじめて成就し、意根に熏習されていなければ、すべて意識の階層の修学にすぎず、法理を証得できない。

択法覚支は意識の外択法覚支と意根の内択法覚支とに分けられる。外択法覚支が先に現れかつ成就してこそ意根を熏習し、内択法覚支ははじめて現れかつ成就できる。意識の外択法覚支は間断的であり、決定的な作用をなさず、真に所修学の法を選択する時にはなお猶予不決である。意根の択法覚支が成就すれば、能動的に自覚的に正しい仏法を選んで修学し、分かれ道や偏った道を歩まない。

意根の択法覚支とは抉択性であり、意根の思心所の作用によるものである。意根の思心所は極めて伶俐かつ迅速である。たとえば突発的な重大事故が現れた時、意識の思惟抉択がまだ生じていない時、意根の抉択性が直接起用され、あるいは身をかわしあるいはその他の行為を作して危険を避け、一連の行為が終わってから意識が反応する。もしこの時が分かれ道でどの道を行くかを抉択している時なら、意識がまだ考える暇もないうちに、意根は神様自身の思心所に依って抉択してしまう。

また例えば同一時間内に処理しなければならない緊急な事柄が三、四件発生し、意識が麻の如く乱れて抉択するすべがない時、意根の直感に依って抉択し行動を取らなければならず、意識は意根に配合して造作するだけで、何を考え何を抉択するかを考えるすべがない。しかし意根の抉択性もなお意識の不断の熏習を必要とし、多数の法の上でこそ正しい抉択性がありうる。それゆえ意根が択法覚支を具えてこそ、われわれは真に精進に学法できる。もし意根がまだ択法覚支を具えておらず、意識だけが択法覚支を具えていてもまだだめである。

精進覚支は意識の外精進覚支と意根の内精進覚支とに分けられる。一切の法の修学において、もし意識だけが精進に修学したいと望み、内心の深処の意根は精進したくないなら、精進に修習できず、この法は修成就できない。たとえばある人は表面上はなかなか用功に修行しているように見え、多くの書を読み、多くの仏法を学んだが、意根が興味を持たず、深く考えもせず、所学の法を知らず解かなければ、意識の修習は走馬観花、蜻蛉の水を点ずる如くであり、意根は心猿意馬で、結果何も学び明らかにできない。

また例えば学生が先生の授業を聞いて、真剣に聞かなければ試験に落ちると知り、表面上は真剣に先生の授業を聞いているようでありながら、内心は思いを止められずあれこれ考え、本を読む時は一目十行で無理に暗記しても覚えられず、一コマ終わって学生に何を学んだか、どんな心得があるかと問えば、学生は何も答えられない。学ぶのが嫌いなある小学生はまさにこのようであり、机の傍に座って専心に授業を聞いているように見えるが、意根は魂が舎を守らず、思想がどこへ飛んで行ったか分からず、先生の声は左の耳から入り、右の耳から直接出て行き、少しも意根の中に留まらず、それでは無駄に学んだことになる。

意識心の表面の精進は、意根に深入していなければ外精進、仮精進である。それゆえいかなる法も意根の内精進があってこそ成就でき、意識の外精進は浮草の如く飄浮不定である。意根の内精進が成就しさえすれば、たとえ参禅の時に意識が他人と語り茶を飲み、あるいはその他の事をしても、意根の内精進には影響せず、意根は自然に心心念念参禅して絶えない。参禅の時あるいは思量の時、意根は意識と同期することもでき、意識と同期しないこともできるが、意根と意識が同期して共に参禅するほうが、意識が単独で参禅するより更に深入し更に究竟である。静坐参禅に歩行参禅を配合し、意根と意識が同時に一つの法の上に専注すれば、思惟は更に明瞭であり、この時は全心全意であり、意識は他の法塵に分神する必要がなく、意根は意識からのより多くの情報を受信する必要がない。活動の中の意根と意識は分神が多く、専注が足りない時、思惟は静中の思惟より浅い。要するに、意識と意根が同期して精進してこそ、真精進である。

喜覚支は意識の外喜覚支と意根の内喜覚支とに分けられる。先に意識が法義に対して喜楽心・愛楽心を生じ、のちに意根に熏習され、意根をして法義に対しても喜楽心・愛楽心を生じさせる。意識の喜覚支は比較的膚浅で、転瞬にして消え、久遠でなく牢固でなく、身心の変化を牽引しない。意根の生じた喜楽心は、比較的深沉かつ堅固で、全身心を喜楽に充たせ、これでこそ後の猗覚支の出現があり、身心ともに軽安となる。意識の喜楽と意根の喜楽には区別があり、意根の喜楽の時は比較的深沉で、抑えられず、目の中と面部上の神情がすべて意根の喜楽を表出し、意識の喜楽にはいくらかおざなりで作為的な意味があり、真誠ではない。

猗覚支は意識の外猗覚支と意根の内猗覚支とに分けられる。意識が粗重な煩悩と蓋障を降伏し、軽安と清涼を生じ、さらに意根を熏習すれば、意根も粗重な煩悩と蓋障を降伏し、身心ともに軽安舒適となり、そののち禅定を発起しなければならない。

定覚支は意識の外定覚支と意根の内定覚支とに分けられる。意識が禅定を生じたのち、意根を牽引して定せざるを得なくさせれば、このように内外定覚支が生じる。もし意識の定覚支だけで、意根の定覚支がなければ、意識の定覚支は長くなく堅固でなく、必ず散滅してしまう。意根に定覚支がある時、心心念念定の中に在り、散乱せず昏沈せず、思惟は細密で、真実の智慧を生じうる。定覚支には二つあり、一つは所修行の法の上に定して動揺しないこと、いま一つは禅定を発起し、定中に深入し、専精に思惟し、離れず棄てないことである。定覚支が比較的堅固な時まで保持できれば、捨覚支を修出できる。

捨覚支は意識の外捨覚支と意根の内捨覚支とに分けられる。禅定が生じたのち、定水の滋潤の下で、意識と意根の心念は次第に清浄澄明し、雑念は除去され、心中に留存された法の念も次第に軽減し、最後には心中の凡そ念あるものはすべて捨去し、清清浄浄、何の罣礙もなくなる。最初は意識が心念と覚観を捨去し、継いで意根も心念と種々の知見を捨去し、喜まず厭わず、平和にして中庸である。真の捨念の成就は意根による成就であり、意根は念なしと欲すれば念なしとなり、意根が執著する時、その心念は意識が制御できないかもしれず、かつ意根に配合して念を生じなければならない。意根が喜楽心、憎恨心など一切の心行をすべて捨ててこそ、正法に深入し、参究に専一できる。意根が捨念清浄の時、六識は波平らかに浪静かである。

最後に意識と意根の心心念念がことごとく七覚支の法であり、さらに心の中の七覚支の法をすべて排除し、いかなる一法にも住せなければ、これで捨念清浄となる。このような修行方法に依り、心の中に一法も住せず、意根は如来蔵 (tathāgatagarbha) の如く一法をも執著せず、空空として何もなし、最後には究竟に成仏できる。修行とは契を以て契を出す方法を用いることであり、手に刺があるのに譬えれば、針をもって刺を挑び除き、刺を挑び除いたのちは、針は用がなくなり、針をさらに捨てる。仏法をもって世俗法を剔除し、深法をもって浅法を剔除し、更上の法をもって深法を剔除し、最後に一切の法を捨てて、成就する。

学仏修行とは仏法をもって衆生の無明を破ることであり、より深い法をもってより深い無明を破り、無明がすべて破除されれば、もはや仏法を修する必要はなく、仏法はただ衆生を度するために用いられるだけである。意識の外捨覚支が心中の法を捨除し、意根の内捨覚支も心中の法を捨て去ったのち、心は空空として、この時どんな念もなく、捨念清浄で、甚深三昧 (samādhi) に入る。定が成就すれば智慧も成就でき、定中に観行すれば法を証でき、後続の修行は相続して如幻観、陽炎観、如夢観、鏡像観などすべての甚深三昧の境界を証得しなければならない。

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