衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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四念処経講話 第二版(新修)

作者: 釋生如 分類: 二乗解脱 更新時間: 2025-02-27 閲覧回数: 449

第四章 心念処を観ずる

次に第三の観法である心念処を説く。四念処とは、身を観じて不浄と知り、受を観じて苦と知り、心を観じて無常と知り、法を観じて無我と知ることをいう。心を観ずるこの一節は短いが、その意義は深遠広大である。

原文:然り。諸比丘よ。比丘は如何にして心を観じて心に住するか。ここに、諸比丘よ。比丘の心に貪りあるときは、心に貪りのあることを知る。

釈:今さらに観行を進める。諸比丘よ、比丘は如何にして心に住して心を観察するか。この問題に対し、諸比丘よ、比丘が心に貪りを生じた時、自らの心に貪りあることを知らねばならない。

心を観ずるとは、心の思想行為や煩悩習気を観察し、心に生滅する念を観ることをいう。この観法は、貪心が生じた時、直ちにそれを自覚することに始まる。凡夫の心念は概ね煩悩心所――貪・瞋・痴・慢・疑・悪見、あるいは善悪是非の観念、心量の大小広狭などが、まず心念の形をとって現れる。自らの心念が解脱の境地にあるか、貪瞋痴の煩悩に縛られているかは、一切時処の心念を観察すれば明らかとなる。この心行を観じ得たならば、次第に対治する道が見えてこよう。意識せずして降伏することも可能となり、これが観心の功用である。

ここに二つの要点がある。一つは貪心、もう一つは「知」である。この「知」は覚悟と覚察を表す。無量の衆生は自心を知らず、煩悩に気付かぬが故に、六道を生死輪廻し、苦海に沈淪して解脱を得ないのである。貪心を自覚すれば、知らず知らずにそれを降伏させ、次第に軽減し遂には滅する。知らざるは無明、知るは覚悟なり。覚悟する者は聖人、覚らざる者は生死の業障凡夫である。故に貪心が生じた時、直ちに反照して自らの心念を照見し、貪念あることを洞察せねばならない。

貪とは何か。境に対する愛着、執取、把捉をいう。境に相を取って分別執着する、これが貪の行相である。貪の対象は、衆生の貪る所を見れば明らかである。まず色に対する貪り――眼に映る一切の法を色と総称し、人や物などの諸相を含む。色塵の境が現れると、眼根が触れ、貪愛・喜楽・執着の心念が生起する。

衆生は無量劫よりこのかた、これらの心念の中にありながら、生死輪廻の因となる貪念に気付かず、三悪道に堕ち続けてきた。六道輪廻の苦を自覚せぬのは、不如理な心念を制御できず、無量劫を経た今に至っても流転し続けるからである。今仏法に遇い、自心を覚照し、仏法に照らして反省し、心念を把握して不善を断じ、貪染を離れることこそ、六道輪廻を脱する道である。

次に声塵に対する貪り。耳根が音声に触れ、好ましき声には喜び、不愉快な声には瞋りを生ず。この貪厭の心が境に追従し続ける時、心は声塵に縛られ、六道輪廻を脱することができない。これが無量劫の生死の因となる。

音声を実有と見做すからこそ、貪厭の心が生じる。賞賛の声を聞けば喜び、これは境を執取する貪心である。耳根が音声に触れて生ずる貪念は、業因となり生死を招く。名声や恭敬を求める心も全て貪りに属する。貪心は境から離れられず、本来は境を把捉するはずが、逆に境に縛られるのである。

色を見、声を聞く時、常に自心の状態を反照せねばならない。貪りが生じた時は直ちに自覚し、境を執取していることを知り、この心念を断じ去るべきだと悟る。これが覚りの始まりである。覚れば貪愛を断つ機を得、心は解脱して慧解脱を証し、貪愛に覆われることなく三界を出離するのである。

貪の対象はさらに香塵に及ぶ。鼻根が香臭に触れる時、心が如何なる状態にあるか観察せねばならない。凡夫は概ね香りを好み、臭気を厭う。この分別執着こそ生死輪廻の因である。境を実有と執すれば、心は空ならず、禅定も智慧も得られない。

味塵も貪の対象となる。舌が美味を嘗めれば貪りを生じ、不味きものには厭離する。この貪厭の心に縛られれば、欲界さえ出られない。欲界の法に執着する限り、初禅すら成就せず、ましてや色界・無色界に至ることはない。

触塵に対する貪りも同様である。衣服や皮膚の触覚、光の接触など、全て触塵に属する。快触を貪り、苦触を厭うことは、全て貪瞋の行いに他ならない。この執着があれば、色界・無色界を解脱することはできない。

境を把捉する結果、心は境と共に三界に縛られる。境は三界を出ず、心も五陰身も三界を出られない。欲界の境に貪る者は永遠に欲界を出られぬ。境が現れる時、まず相を生じ、名を立て、分別執着する。これが心を縛る所以である。

最後に法塵に対する貪り。一切の境は法であり、相を立て名を付けて分別すれば、善悪の心行が生じ六塵に縛られる。生死の鎖は境と共にあり、境が三界を出ぬ限り、心も三界を出られない。

求めねばならぬは最上の法である。下位の境を捨て、執取せず、貪厭せず、一切の境を空幻と観じる時、心は解脱自在となる。生死を自ら掌握し、境に転じられることなく、無明を破るには覚照の心が必要である。

修行はまず自らを覚照することに始まる。他人を観じて貪りを見る時も、自らに同じ心念なきか反照せねばならない。貪念を発見したら、直ちにその過患を悟り、対処するのである。

まず「知」が最初の要である。知った上で、必要に応じ対処する。重き貪りには方便を設け、軽きは知るだけで自然に軽減する。心行の変化は、盗人が家に入るが如し。まず賊を知れば、看守して害を防ぐことができる。

原文:また心より貪りを離るる者は、心より貪りを離れたることを知る。

釈:心がすでに貪りを離れた時、自らそのことを知らねばならない。修行を重ね境に対し貪りなき時、覚知の心をもって無貪の状態を自覚する。色声香味触法の現前にも動ぜず、不苦不楽の境地に住する時、声塵が讃謗いずれも空幻と悟る。境に着かざれば、心は自由自在となる。貪りを離れた心は、反照力と覚照力を具え、禅定と智慧あることを示す。

原文:また心に瞋りある者は瞋りのあることを知る。また心より瞋りを離るる者は、瞋りを離れたることを知る。

釈:瞋心が生じた時は直ちに自覚し、離れた時もまた知る。瞋りとは、境に対する不喜・怨恨・憤怒をいう。この心が生起すれば、まず自らを傷つけ、次いで他を害する。瞋念は境に縛られ、特に三悪道の因となる。瞋りを生じた時、直ちに覚照を起こし、方便をもって対治せねばならない。

原文:また心に痴ある者は痴あることを知る。

釈:痴は無明なり。三毒中最も発見し難く、断じ難し。一念の無明から三界の貪愛まで、全て痴に属する。仏道においては、世俗法・出世間法に通達せざる全てが無明である。この無明を断じ尽くすは仏地に至って初めて成就する。

原文:また心より痴を離るる者は、痴を離れたることを知る。

釈:ある法について痴を離れた時、そのことを知る。しかし全ての法について離痴するは仏のみである。菩薩でさえ、無量の無明を残す。

原文:また心の集中する者は集中することを知る。

釈:禅定が深まり、心が一処に住する時、その状態を自覚する。集中とは散乱より次第に収斂する過程をいい、定は更に深き専注を指す。

原文:また心散乱する者は散乱することを知る。

釈:日夜を通じ、心が散乱する時も集中する時も、常に覚知せねばならない。この知は意識の反照力に依る。証自証分の現起する者は、自らの心理状態を常に把握できる。

原文:また心広大なる者は広大なることを知る。

釈:広大なる心とは、十方世界を縁とし、衆生済度を思う菩薩の心をいう。眼前の小利に囚われず、未来際にわたる仏道を志向する。

原文:また心有上の者は有上のあることを知る。

釈:現前の心が未だ究竟せざるを知り、更に増上を求める。無上の発心は仏道を目指すものなり。

原文:また心解脱せる者は解脱せることを知る。

釈:ある法より心が解放された時、そのことを知る。解脱とは、結縛を離れ自在となることをいう。五蘊十八界を観じて無我と悟る時、真の解脱を得る。

原文:また心未だ解脱せざる者は未だ解脱せざることを知る。

釈:ある法に未だ執着ある時、その状態を自覚する。一切の苦楽捨受を超越し、無所住の境地を目指す。

原文:かくの如く、或いは内なる心を観じて住し、或いは外なる心を観じて住し、或いは内外の心を観じて住す。

釈:内外の心念を遍く観察し、貪瞋痴の有無を弁える。この観行は自心を覚知する第一歩である。

原文:或いは心に生法を観じて住し、或いは心に滅法を観じて住し、或いは心に生滅の法を観じて住す。

釈:心念の生起と消滅を観察し、その無常を悟る。生滅を超えた涅槃寂静を目指す。

原文:さらに智識の成す所、憶念の成す所、皆心の思念として現前するも、彼は何ものにも依らずして住し、且つ世間の何ものをも執せずして住す。諸比丘よ、比丘はかくの如く心を観じて心に住す。

釈:観行によって生じた智慧と憶念も、究極には無所住の境地に至る。一切の執着を離れ、能観所観を空じ、如来蔵の真如を証するに至る。これが観心念処の究竟である。

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