四念処経講話 第二版(新修)
原文:复次。诸比丘。比丘即于六内外处法。观法而住。然。诸比丘。比丘如何于六内外处法观法而住耶。于此。诸比丘。比丘知眼知色。知缘其二者生结。而知未生之结生起。又知已生之结灭尽。又知已灭尽之结。于未来不再生起。
解釈:さらに続いて説くのに、諸比丘よ、比丘は六内処法と六外処法とを観察すべきであり、心は六内処法と六外処法とを観じることに住すべきである。この観行について、諸比丘よ、比丘はどのように六内処法と六外処法とに対して法を観じて住するのであろうか。こうである、諸比丘よ、比丘は眼根を知り、色塵を知り、眼根と色塵とに縁して生死の結縛が生じることを知るべきである。そして、心の中にまだ現れていない結縛が今生じたことを知り、さらに、すでに生じた結縛が今滅し尽きたことを知り、さらに、すでに滅し尽きた結縛が未来において再び生じないことを知らなければならない。
六内処法とは六つの内根を指し、勝義根 (indriya) の中にある五根および意根である。意根は外根に属すると同時に内根にも属する。六外処法とは六塵を指し、勝義根の中に落ちてくる色声香味触法である。六根と六塵とが接触するとき、意根が了別して身口意行を造作しようと望めば、如来蔵 (tathāgatagarbha) は六識を出生させ、六識の心行が生み出される。ここに貪愛や厭悪などの心行が現れるなら、それが生死の結縛である。
結縛には全部で九つある。すなわち愛結、恚結、慢結、無明結、見結、取結、疑結、妒結、慳結である。すべての煩悩の結縛は根塵が相触れるところで発生する。意根が六塵を了別することを決定しなければ、六識は生まれず、これらの煩悩の結も生じない。たとえ六識が六塵を了別した後、了別の状況を意根に伝えたとしても、意根に煩悩がなければ、六識に煩悩を生起させることもない。六識に煩悩がなければ、意根を薫染し調控することもでき、煩悩を生じさせないこともできる。そうすれば生死の結縛はないのである。それゆえ観行 (vipaśyanā-caryā) のときは、六根が六塵に触れるときに観行することが多く、心を六内法と六外法とに住まわせれば、自分の心行をありのままに知ることができ、自分の煩悩の結縛を降伏し断除することができる。これが修行である。
眼根と色塵というこの対の法を観行するとき、定慧等持が増長し、心はますます清浄 (viśuddha/pariśuddha) になり、もともとあったすべての結縛は次第に薄まり消えていき、のちには比較的徹底的に消滅して、未来には再び現れなくなる。これが観行によって煩悩の結縛を断除し、心が自在を得たということである。これらの状況はすべて知っておかなければならず、心の中ではっきりと明瞭でなければならない。たとえば、もともと山野の遊覧や水辺の遊興を好んでいた人が、観行によって山野の遊覧や水辺の遊興に興味を抱かなくなり、心がすでに飽きて、もう遊びたくなくなり、しかも今後二度と山野の遊覧や水辺の遊興に興味を持たないことを保証できるようになる、という具合である。
原文:又知耳知声。知缘其二者生结。而知未生之结生起。又知已生之结灭尽。又知已灭尽之结。于未来不再生起。乃至知鼻知香。知缘其二者生结。而知未生之结生起。又知已生之结灭尽。又知已灭尽之结。于未来不再生起。乃至知舌知味。知缘其二者生结。而知未生之结生起。又知已生之结灭尽。又知已灭尽之结。于未来不再生起。
解釈:さらに耳根を知り、声塵を知り、耳根と声塵とに縁して生死の結縛が出生することを知るべきである。そして、心の中にまだ出生していない結縛が今生じたことを知り、すでに生じた結縛が今滅し尽きたことを知り、さらに、すでに滅し尽きた結縛が未来において再び生じないことを知らなければならない。
続いて、引き続き鼻根を知り、香塵を知り、鼻根と香塵とに縁して生死の結縛が生じたことを知らなければならない。また、もともと生じていなかった結縛が今生じたことを知り、すでに生じた結縛が今滅し尽きたことを知り、さらに、すでに滅し尽きた結縛が未来において再び生じないことを知らなければならない。さらには、舌根を知り、味塵を知り、舌根と味塵とに縁して生死の結縛が生じたことを知らなければならない。引き続き、まだ出生していない結縛が今生じたこと、すでに生じた結縛が今滅し尽きたことを知り、さらに、すでに滅し尽きた結縛が未来において再び生じないことを知らなければならない。
どのように心の中に結縛が生じたことを観行するのか。たとえば、耳根が音楽と接触したとき、もともと心の中には貪愛がなかったのに、聴いているうちに次第に好きになり、貪愛の結縛が出生したとする。その後、何らかの理由によって、この種の音楽を好まなくなり、この音楽に対する貪愛の結が滅し尽き、今後この音楽を聴いてももう好きにならないことを知る。色声香味触法のいかなる境界に出会っても、自分の内心の結縛が何であるかを観察することを学ばなければならない。これが生死の結縛であり、如法ではないと知るさえすればよいのであり、このような考え方や知見を意根に伝え、少しずつ意根を薫染すれば、意根は意識が気づかないうちに思量 (manasikāra/manana) するようになり、貪愛などの結縛が確かに良くないと知った途端に、自分の煩悩を圧伏するようになる。定力が増強されたときには、煩悩の結縛を滅し尽くすことができるのである。
原文:乃至知身知触。知缘其二者生结。而知未生之结生起。又知已生之结灭尽。又知已灭尽之结。于未来不再生起。乃至知意知法。知缘其二者生结。而知未生之结生起。又知已生之结灭尽。知已灭尽之结。于未来不再生起。
解釈:さらには、身根を知り、触塵を知り、身根と触塵とに縁して生じた生死の結縛を知る。もともと生じていなかった結縛が今生じたことを知り、すでに生じた結縛が今滅し尽きたことを知り、すでに滅し尽きた結縛が未来において再び生じないことを知る。さらには、意根と法塵とが接触するとき、意根を知り、法塵を知り、意根と法塵とに縁して生死の結縛が生じたことを知る。もともと生じていなかった結縛が今生じたことを知り、すでに生じた結縛が今滅し尽きたことを知り、すでに滅し尽きた結縛が未来において再び出生しないことを知るのである。
原文:如是。或于内法观法而住。于外法观法而住。于内外法观法而住。或于法观生法而住。或于法观灭法而住。或于法观生灭法而住。尚又智识所成。及忆念所成。皆会有法之思念现前。彼当无所依而住。且不执着世间任何物。比丘如是。于法观法而住。
解釈:このように観行して、内法たる六根に対しては法を観じて住し、あるいは外法たる六塵に対しては法を観じて住する。あるいは同時に内外法たる六根と六塵とを観察して、心を法を観じることに住まわせる。あるいはこれらの法に対して、出生の状況を観察し、さらに滅去の状況を観察し、あるいは同時に出生と滅去の状況を観察する。
内外法の観行が終わった後、生法と滅法の観行も完成し、識心の心心念念の中には法の存在があり、憶念の中もすべてこれらの法である。それからさらに、これら内外法の思いを空にして、心念は法に依って住せず、しかも世間のいかなる物をも執着して住することなく、心中には一つの法も住しない。内法にも住せず、外法にも住しない。内外法はいずれも生滅変異無常であり、依止すべきではないと知ったからである。心中にすべての法を空却して、いかなる法にも依らずに住する。さらに、世間のいかなる一物をも執著して住することもない。こうすれば内心は非常によく空しく浄め尽くされる。比丘はまさにこのように法に対して法を観じて住すべきである。