四念処経講話 第二版(新修)
第五章 法を観じて住す
第二節 五取蘊法を観じて住す
原文:復次に、諸比丘よ。比丘は五取蘊法において法を観じて住す。されど、諸比丘よ。比丘は如何にして五取蘊法において法を観じて住すべきか。ここに、諸比丘よ。比丘はかくの如き色を知り、かくの如き色の生起を知り、かくの如き色の滅尽を知る。かくの如き受を知り、かくの如き受の生起を知り、かくの如き受の滅尽を知る。かくの如き想を知り、かくの如き想の生起を知り、かくの如き想の滅尽を知る。かくの如き行を知り、かくの如き行の生起を知り、かくの如き行の滅尽を知る。かくの如き識を知り、かくの如き識の生起を知り、かくの如き識の滅尽を知る。
釈:さらに続けて申し上げる。諸比丘よ。比丘は五取蘊法を観じて住すべきである。しかし諸比丘よ。比丘は如何にして五取蘊法を観じて住すべきか。ここに、諸比丘よ。比丘は色蘊とは何かを知り、色蘊が如何にして生起し、如何にして滅尽するかを知らねばならない。受蘊とは何かを知り、受蘊が如何にして生じ、如何にして滅するかを知らねばならない。想蘊とは何かを知り、想蘊が如何にして生じ、如何にして滅するかを知らねばならない。行蘊とは何かを知り、行蘊が如何にして生じ、如何にして滅するかを知らねばならない。識蘊とは何かを知り、識蘊が如何にして生じ、如何にして滅するかを知らねばならない。
これは五蘊の生滅変異無常の性質を観察するものである。心に刻々と色蘊の状態と生滅変化の状況を了知し、常に内なる感受とその生滅変異無常性を了知し、常に想蘊とその生滅変異無常性を了知し、常に行蘊とその生滅変異無常性を了知し、常に識蘊とその生滅変異無常性を了知しなければならない。
原文:かくの如く、或いは内法に於いて法を観じて住し、又は外法に於いて法を観じて住し、或いは内外法に於いて法を観じて住す。或いは法に生法を観じて住し、又は法に滅法を観じて住し、或いは法に生滅法を観じて住す。更にまた智識の成す所及び憶念の成す所、皆法の思念が現前する。彼は依る所無くして住すべく、且つ世間の何ものにも執着せざるべし。諸比丘よ。比丘はかくの如く五取蘊法において法を観じて住す。
釈:このように、内なる五取蘊法を観じて住し、あるいは外なる五取蘊法を観じて住し、あるいは内外の五取蘊法を観じて住す。あるいは五取蘊法に新たに生じる法を観じて住し、あるいは五取蘊法の滅する法を観じて住し、あるいは五取蘊法の生滅現象を同時に観じて住す。
このように不断の観察を続けることにより、識心は智慧を具足し、不断に五取蘊法を思念するようになる。常に五取蘊法を観じる故に、心に五取蘊法の憶念が生じ、連続的な五取蘊の心念が形成される。この時、これらの心念を空じて依る所無く住すべきである。五取蘊は生滅法なり、依止すべからざる故なり。心より五取蘊法を滅じた後も、世間の如何なるものにも執着せず、何ものにも依らずして住すべし。一切の物は無常生滅のものであり、頼むべからざる故なり。諸比丘よ。比丘はこのように五取蘊法において法を観じて住すべきである。
五取蘊を内外に分けるならば、内なる色蘊とは色身を指し、外なる色蘊とは色身を離れた山河大地等の色法、すなわち色声香味触法の六塵境を含む。内なる受蘊とは深層の意根の受を指し、外なる受は表層の六識の受なり。内なる想蘊は意根の想を指し、外なる想蘊は六識の想なり。内なる行蘊は意根の行(思)を指し、外なる行蘊は六識の行なり。内なる識蘊は意根の識性を指し、外なる識蘊は六識の識性なり。