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四念処経講話 第二版(新修)

作者: 釋生如 カテゴリ: 二乗の解脱 更新時間: 2025年10月10日 閲覧数: 1631
<h2 style="text-indent: 2em;">第三章 受念処観</h2>

大念住経の受念処の受には何が含まれるのか。六識心の感受を含む、すなわち身心上の感受である。六識の感受とは何か。眼根における眼識の感受、耳根における耳識の感受、鼻根における鼻識の感受、舌根における舌識の感受、身根における身識の感受、そしてもう一つは意識心の受であり、意識心の受は心の感受と呼ばれ、純粋に心の感受である。五識の感受は、五根上に生じた受覚ではあるが、実はやはり心の中の感受であり、五根自体には受がなく、識心に受があるのである。意識心の受はたいていの場合、五根を離れることができず、多くの場合は五識と共同で生じた受である。心の上に感受があり、身体の上に感受があるのは、いずれも識心の受覚であり、心の中の感受は内受と呼ばれ、心が外の色声香味触に対して受ける感受は外受と呼ばれる。

原文:然。诸比丘。如何比丘于受观受而住耶。诸比丘。比丘若在感乐受。知我在感乐受。在感苦受者。知我在感苦受。在感不苦不乐受者。知我在感不苦不乐受。

解釈:それでは、諸比丘よ、比丘はどのように自分の感受を観行し、心を感受の上に住まわせるのか。諸比丘よ、もし比丘が楽受を感受しているなら、心の中で「私は楽受を感受している」と知らなければならない。苦受を感受しているときには、心の中で「私は苦受を感受している」と知らなければならない。不苦不楽受を感受しているときには、心の中で「私は不苦不楽受を感受している」と知らなければならない。

この節で世尊は比丘たちに受念処の観行、受念処観の修行を教え、時々刻々自分の心の中のさまざまな感受を観察し、すべての注意力を感受の上に集中させ、自分の感受を覚知し観行することによって、受は苦であると証得させるのである。受は苦受、楽受、憂受、喜受、捨受の五つに分けられる。あるいは大まかに三つに分けると、心地よい愉快な感受は楽受であり、苦しく不愉快な感受は苦受であり、良くも悪くもない感受、不苦不楽の受は捨受である。

受念処観を修行するには、どのように受を観るべきか。身心上のすべての感受を、心の中で明確に知っていなければならない。すなわち自分の心理状態と身体状態を、自分自身が知っていなければならず、知らなければ無記 (avyākṛta) に属する。無記のときには観行ができず、このとき心の中で妄想を打っているか、あるいは昏沈の中にいるのかもしれず、そうなると自分の心の中の感受がわからず、観行ができない。だから四念処観を修行するときは、心の中に常に「知」がなければ観行できず、智慧を生み出すこともできない。どのように智慧を生み出すのか。三種の受に対する客観的な知が一定の程度に達し、時節因縁が具足したとき、受が生滅変異で無常無我であることを現量で体得し、無生智が生起すれば、我見 (satkāya-dṛṣṭi) を断じるのである。

もし心の中あるいは身体の上に苦受、楽受、不苦不楽受という三種の感受が現れたら、自分はいつでもはっきりと感知できなければならない。自分が楽を感受していると知っていれば、あなたの心念は自分の楽受の上にあり散乱しておらず、妄想を打っておらず、昏沈でもない。苦受を感受しているときにも、自分が苦受を感受していると知り、自分がいま心の中で苦しく、不機嫌で、不愉快で、とても憂鬱であることを知る。これらの感受は心の中でみな知っていなければならず、はっきりと明瞭で、迷乱しないこと、これが定であり、慧もある。

自分が不苦不楽の受を感受しているときにも、心の中で知っていなければならない。不苦不楽の受は察知し反観することが容易ではない。特別な受覚がないため、注目を引きにくく、注意が向きにくいからである。いまの身心状態があまり良くもなく、悪くもなければ、反観せず、心が細やかでなければ、察知することが容易でなく、往々にして忘れ去り、覚知しなくなる。不苦不楽のときには、往々にして自分を回光反照せず、まるで色身を忘れたかのように、外身の外界に攀縁している。このときは心念を引き戻し、注意力を自分の身心感受の上に集中させて観察すべきである。

普段から、心の中に時々刻々常に「知」があるように自分を訓練すべきである。意念を集中させ、精力を集中させ、散乱も昏沈もなく、心の中にこの「知」を保つ。この「知」を持つ人はどのような状態か。人はとても深沈で、一心に専注し、思惟は細やかで深く徹底し、観察力が強い。もし「知」がなければ、人は聡明でなく、糊涂で散乱する。しかし無心の境地に修まった人はこの限りではない。彼らはすべての事柄に対して無関心であり、意に介さず、感受も多くなく、修行はすでに初步の成就を得ており、心は世俗法の上になく、もし観察を起こそうとすれば、とても深く徹底して的確にできる。

仏は弟子たちの心の中にいつでも禅定があり、観察能力があるように訓練した。これは智慧を開く前提である。定と慧があれば、時々刻々自分を観察でき、他人を観察でき、すべての法をも観察でき、法の根源と実質を知れば、智慧をもって適切に処理できる。もし自分のいまの色身がどのような状態にあるのか、他人の状態が何であるのかも知らなければ、人と事をうまく処理できない。事をうまく処理したいなら、精力と意念をその事の上に集中させ、事を見抜きはっきり見なければならない。この中に定と慧があり、定と慧は同時に一体であり、定がなければ慧がなく、これがなければ彼がないのである。

不苦不楽の受とは、いつでも感知できるべきものである。たとえばいまここに座っていて一時的に身体を忘れ、身体の存在を知らないとき、このときは一種の不苦不楽の受である。もし身体がとても心地よければ、感知でき、しかも貪着する。もし身体がとても苦しければ、それも知り、その後は痛みを消そうとしたり痛みを避けようとしたりする。

不苦不楽受はそうではない。一人が目の前に来ても、自分とは何の関係もなく、見たのに見なかったかのように、心の中に何の感受もなく、好むことも嫌うこともない、無関心な状態、これが不苦不楽の受である。ある事が起こっても、ある物が目の前にあっても、自分はこれらに対して感覚がなく、いずれも不苦不楽の受であり、好むことも嫌うこともなく、何の考えもなく、いずれも不苦不楽の受に属し、身体に特別な感受がなければ、注目することもない。受を観修するときには、注意力を自分のさまざまな受の上に置き、時刻に「知」があり、心を散乱させないようにしなければならない。

原文:若在感肉体之乐受者。知我在感肉体之乐受。

解釈:仏は言う。比丘が肉体の楽受を感受しているとき、心の中ではっきりと「私は肉体の楽受を感受している」と知らなければならない、と。

この楽受は心の中の楽受と肉体上の楽受に分けられる。肉体の楽受とはどのような状況か。たとえば座禅をして気脈が身体を通るとき、身体には楽受があり、身体がとても心地よく感じられ、気脈が身体の中を運行して阻塞がなく比較的順調であれば、気血が足りれば色身はとても心地よくなる。気が沈んで丹田に至れば、身体全体が特別に心地よく感じられる。特に初禅定があるときは楽触が最も強く、身体は飄飄として仙人のようで、軽安で柔軟、軽霊で自在、雲霧の中にいるようであり、心は喜び身は楽であり、人間の言葉では正確に形容し表現することができない。

身体上の感受は誰が感受するのか。やはり身識自体の感受であり、肉体自体には感受がなく、肉体上の身識の感受であり、純粋に身体の感受であるが、実は意識心の感受が伴っており、さもなければ身体には感受がないであろう。またたとえば自分が突然打たれると、痛みを感じる。この痛みの反応は誰の反応か。身識と意識の反応である。痛みの後、心の中で苦しく感じ、嗔恨を起こすかもしれない。この苦受は誰の感受か。意識心の感受であり、意識の受が主である。このような受の当体には二種ある。一つは身体上のものであり、一つは意識心上のものであり、両者は混ざり合っている。心が細やかになれば、両者を分けることができる。

あるいは身体のどこかが切り裂かれてとても痛く感じるとき、この痛み自体には身識と意識の受があり、痛いときに心の中でとても苦しく、不快に感じるなら、それは独頭意識 (mano-vijñāna-eka-citta) 単独の受である。二種の受を完全に分けるには禅定がなければならず、心が細やかになって初めて可能である。肉体に楽受があるとき、自分は肉体の楽を感受していると知っていなければならない。肉体と精神の楽には、いずれも意識心の覚受がある。一般の人はこれらの名詞概念を理解せず、肉体と精神に分けるが、実は肉体上の受も識心であり、精神上の受は意識心が主であり、いずれも識心の受であり、両者の間には区別もあり、联系もある。

原文:又在感精神之乐受者,知我在感精神之乐受。

解釈:もし精神上の楽受を感受しているときには、自分が精神上の楽受を感受していると知っていなければならない。

精神上の楽受は純粋に意識心の受であり、肉体上の楽受と無関係かもしれず、関係があるかもしれない。精神の楽受を感受しているときには心の中で必ず知っていなければならず、もし知がなければ、散乱か昏沈のどちらかであり、専注した観行状態にない。人それぞれ精神上の楽受は少なくないだろう。好む事柄は数多くあるのだから、何を好もうと、いずれも精神上の楽受である。もし心の中に貪りがなければ楽受はなく、平静に対処し、あまり意に介さない。

精神面の楽受は主に好み、満足、貪愛、快楽であり、心の中で好めばそれが貪であり、欲界の法を貪れば欲界を出離できず、三界の法を貪れば三界を出離できない。貪りさえあれば、心が執著し、心が喜楽すれば、喜貪と執著に縛られ、解脱を得られない。ある物を好めばその物に粘りつかれ、心は解脱を得られない。心心念念が好むその物であれば、しっかりと縛られ、生死輪回の中にあって解脱を得られない。

肉体の楽受を感受しているとき、内心は了知すべきであり、精神の楽受を感受しているときにも、心の中で了知しなければならない。そうすれば現在の身心の中のいかなる法にも愚かではなく、知る時間が長くなれば反観が生じ、覚悟する機会が訪れ、楽受の実在性が無常であり、苦であり、空であり、無我であることを知るのである。

原文:或在感肉体之苦受者。知我在感肉体之苦受。

解釈:あるいは肉体上の苦受を感受しているときにも、心の中ではっきりと「私は肉体の苦受を感受している」と了知しなければならない。

肉体の苦受を感受しているとき、現前で絶えず着実に観察し了知して初めて、覚悟心が生じ、これらの感受はすべて生滅無常であり、虚妄で我に非ず、と知ることができる。肉体面の苦受は娑婆世界の至る所にある。たとえば四季の交代、環境の変異によって身体が受ける冷熱の触痛などである。いま寒い日に外に出ると、風が身体に当たって骨を刺すように感じるが、これが肉体上の苦受である。この骨を刺すような覚受は、肉体と精神のどちらの受が主か。このときは身体の覚受が主であり、同時に精神上の軽微な覚受があるが、人によっては精神上の苦受がないかもしれない。寒冷を苦とせず、意志が堅定で楽観的で、環境を意に介さない人である。

もし天気が寒すぎて肉体の苦受がとても深刻なら、一部の人は精神上の苦受が増える。身体の感受があまりにも苦しければ、心の中に煩悩が生じ、精神上の苦受が突出してくる。いつどの感受が主になるかは一定ではなく、両者は完全に平等に同調して現れるのではない。修行があり、意志が堅強で、追求するものがある人は、肉体の苦受をあまり意に介さず、精神は苦を感じない。これは人によって異なり、人の耐受力と追求次第である。

身体の苦受は時間が長くなると、精神の苦受に転換する。たとえば病気のとき、最初は針を打たれても心は苦と感じないが、毎日針を打たれれば、心の中で煩わしく感じるようになり、特に病状が良くならなければ、心に負担が生じ、精神の苦受が多くなる。だから感受はあるときは身体の面に偏り、あるときは心理の面、すなわち精神の面に偏る。突然打たれると、身体はとても痛むが、一部の人は心の中で反感を持たず、そのとき心の中には苦受がない。しかし打たれ続ければ、内心は耐えられなくなり、そのときは身も苦しく、心も苦しく、心の苦が比較的顕著になる。だから身心の感受は変化し、偏る面が移り変わる。

肉体の苦受を感受しているとき、心の中で知り、精神の苦受を感受しているときにも、心の中で知らなければならない。毎日外に出て風に吹かれ日に照らされ、重い肉体労働をすれば、肉体には苦受があり、家に帰れば身体のあちこちが痛く、どこも具合が悪い。あるいはリウマチがあると、身体がとても重く感じられる。これらはいずれも身体上の苦受であり、苦受が多くなれば、心の中はとても苛立ち、心の苦受が強くなり、ますます多くなる。身が苦しく心も苦しいとき、それが最も苦しい。ある人は仕事でとても疲れるが、疲れは苦なのか。しかし心の中は嬉しい。他人に打たれて、あなたはもしかするととても嬉しいかもしれない。だから色身の苦と精神の苦は、必ずしも同時に現れるとは限らない。

原文:又在感精神之苦受者。知我在感精神之苦受。

解釈:精神の苦受を感受するとは、心の中の苦を受けることであり、主に意識の苦受である。心の中でも「私は精神上の苦受を感受している」と知らなければならない。

もし心が細やかでなければ、精神・心霊上の苦受も観察しにくく、感知しにくい。実は衆生は精神面の苦受のほうが多い。敏感であればあるほど、さまざまな不満足、不成就、不本意を感知でき、憂愁、煩悩、苦痛、忍耐、苦しみといった煩悩がある。これが精神上の苦受である。愚痴で麻痺しているか、大雑把な人は、軽微な煩悩を感じ取れない。無心の状態に達した修行人は別であり、彼らは何にも意に介さない。

一部の畜生はとても苦しいのに、苦を知らず、覚悟がない。なぜ苦を知らないのか。愚痴だからである。人に生まれることはとても苦しいのに、なぜ多くの人が一生を生きて一生苦しみながら苦を知らないのか。これも愚痴だからである。衆生が愚痴であるため、仏は人間に来て衆生を教導し、衆生に五陰 (pañca-skandha) は苦であり、十八界は苦であり、三界はすべて苦であると告げ、衆生に苦を覚悟させ、それから出離心を発起させ、精進して仏法を修学させる。もし衆生が愚痴でなければ、仏が来て私たちを教導する必要はなく、仏は衆生に苦集滅道の四聖諦の法を説く必要もない。私たちが愚痴でこの道理を理解せず、苦諦を理解しないため、仏は来て私たちを教化するのである。

いま四念処を修めるのは、私たちを愚痴でなくすためである。時々刻々感受し覚知し、心の中に常に「知」があり、常に覚照があれば、因縁が成熟したとき、この受が苦であると知る。苦を知った後は、苦を滅する方法を考えるようになり、苦を滅するには仏法を修学するしかなく、四諦の理を修行して初めて苦を滅できる。苦を滅する方法は、四聖諦を学ぶことによって、心を滅すべきだと知る。心が滅すれば、苦は滅し、解脱を得る。どのような心を滅するのか。貪愛心を滅するのである。これも好き、あれも好き、何でも好きで、好きで好きで貪心が絶えなければ、自分は欲界に縛られ、解脱を得られない。実は貪っても何も貪れず、かえって貪によって生死業行を造作し、苦受・苦報をみな貪り寄せてしまう。

貪の結果は何か。結果はすべて苦受である。もし貪らなければ、心には求めるものがなく、貪求がなければ熱悩がなく、心の中は軽やかで自在、繋縛がなく、衆生はこれ以後二度と生死業行を造作せず、六塵境界に縛られず、心は解脱して出てくることができ、三悪道に繋縛されず、三界に縛られず、六道輪回の中から出られないこともない。衆生が自在でないのは、内心に貪嗔痴の煩悩があり、すべての法を執取 (upādāna) し、すべての生死業行を造作するからであり、そうすれば生死の果報を受けなければならず、こうして苦受がやってくる。だから衆生のすべての苦報は貪愛が根本なのである。

有受皆苦の道理を知って明らかにした後は、もはや貪愛せず、貪愛しなくなれば苦受は少なくなる。好めば好むほど貪愛し、心の中が清浄 (viśuddha/pariśuddha) でなければないほど、罣礙が多く、すべての事が思い通りでなければないほど、心はますます苦しい。私たちは精神の苦受を感受しているとき、心の中で知らなければならず、一つ一つの苦受をすべて知り、心の中に常に「知」を携えていれば、智慧が生じてくる。私たちのすべての法に対する感受は苦であり、楽しいときでさえ苦である。この苦諦を理解すれば智慧があり、これ以後二度と感受を追求せず、徐々に貪愛を離れることができる。

原文:或在感肉体之不苦不乐受者。知我在感肉体之不苦不乐受。

解釈:観行する人は、肉体の不苦不楽受を感受しているとき、「私は肉体上の不苦不楽受を感受している」と知っていなければならない。

第三の受は不苦不楽受である。身体のいまの状態が不苦不楽であるとき、心の中でも知らなければならない。いまの身体はあまり軽くもなく、重くも煩重でもなく、あまり疲れても苦しくもなく、比較的適中で、中和してとても安定しているとき、ほとんど色身の存在を感じられない。これを忘身と呼ぶ。忘身とは、たまに身体の存在を知らないことであり、身体の感受は苦でも楽でもない。捨受のときには、往々にして色身の存在を感じられない。

ときに心の中で別の重要な問題を考えていて身体に注意を払わないとき、このとき身体は不苦不楽の受である。このような状況は多くない。禅定の功夫が比較的良ければ、身体の楽受は比較的多い。禅定の功夫が良くなければ、普段は身体の苦受が比較的多く、不苦不楽受もときに現れる。眠って夢のないときは、身体を感じない。六識がないからである。夢のあるときには、身体の疲労やだるさを感じることがある。

原文:又在感精神之不苦不乐受者。知我在感精神之不苦不乐受。

解釈:身体上の不苦不楽の感受は時々刻々知らなければならず、精神上・心理上・意識心上の不苦不楽の受も、時刻に知らなければならない。不苦不楽の受は比較的平和で安定している。苦や楽の感受があると、心は清静 (praśama) でなく、必ず騒がしい。これは衆生の心には平静で安定しているときがほとんどないことを示している。心理上・精神上は苦か楽かのどちらかであり、常に騒がしい。遊び楽しむときはとても楽しいように感じるが、楽しいとき心は清静で平静でなく、曲歓人散のとき、あの落寞な感受が苦である。楽しいそのときも苦であり、心の中ではこの感受が消えてほしくなく、楽しみが過ぎ去ってほしくなく、ずっと掴んでいたいと思う。そのとき心は苦しい。人・事・物・理を抓取したい、この抓取する心は苦しくないか。求めるものがあれば、すべて苦である。

一つ一つの楽受の中にすべて苦が含摂されているのではないか。どの楽受の中に苦がないか探してみることができる。苦には苦苦、行苦、壊苦の三種がある。壊苦とは、この事柄は人に楽受を生じさせるが、長くは続かず、この事柄は結局は消え去って見えなくなる。楽受を感じると同時に、心の中では失うことを心配する。これが楽受の中の苦受である。事がついに過ぎ去ったとき、心の中に喪失感が生じる。これも苦受である。享楽しているとき、楽受は遷流変化し、内心はこの楽受が終わってほしくないので、心の中は苦しい。しかも楽受は時間が長くなると、自然に楽と感じなくなり、心の中が慣れてくれば、楽受もなくなる。

昇進して富を得るとき、親族が集まるとき、楽受は多いが、同時に苦受もある。内心がとても喜楽なとき、心は平静でなく、それ自体が一種の騒がしく寂静でない状態であり、だから楽受自体が苦である。親族が集まれば、心の中は嬉しいが、嬉しい中にも苦悩がある。一方では親族が散ってしまうことを心配し、他方では集まりのために多くの準備をし、多くのことをしなければならず、とても面倒である。集まっているとき、さまざまな事を処理する必要があり、多くの矛盾があるかもしれない。これは苦受ではないか。すべて苦受である。正月や祝日に美食を作って楽しく食べるが、さまざまな準備をしなければならず、その後片付けもしなければならない。これもすべて苦である。実は苦のない楽は一つもない。楽すぎるとその楽が消えるのを恐れ、しかもこの楽のために代価を払わなければならない。だからこの世の中に純粋な楽はない。行苦とは、人・事・物・理を経験するときすべてに行苦があり、生住異滅があり、最後にはすべて消え滅び、長く存続できない。これが行苦である。老病死そのものが苦であり、楽しむべき事ではない。だから苦苦と呼ぶ。

最後に仏は私たちに一つの真理を告げる。すべての受は苦受であると。もし受の中に楽があれば、仏は私たちに受は苦であると観させず、感受を追求してはならないとも告げなかっただろう。もし受がすべて楽であれば、私たちは感受を断除しようと望まず、さらに感受を貪求するだろう。有受皆苦であるため、楽受も苦であり、苦そのものも苦であり、不苦不楽の中にもまだ苦がある。だからすべての受は苦なのである。

もし天から降りてきて人の中に来たなら、人の中でどんなに楽な事でも、自分は楽と感じられるか。もちろんできない。人間と天の落差が大きすぎるため、心の中に深刻な喪失感が生じ、他人がさまざまな楽受に浸っているのを見ると、自分はとても苦しく、とても憂鬱に感じる。私たちは天に住んだことがあり、天がどのような境界であるか、どれほど殊勝で美しいかを知っている。もう一度人間を見れば、比較にならず、この落差はあまりにも大きく、心の中で嬉しいと感じられるだろうか。天女が天でどのような生活境界にあったか、こちらに来て農民に嫁いだら、どのような感受を持つだろうか。

もし一人が美しい事物に接触したことがあり、再び醜く卑しいものに接触すれば、心の中ではきっと受け入れられない。では、もし私たちが人間から突然天に行ったなら、低いところから高いところへの飛昇は、それは真の楽しみである。だからすべての楽受には相対的な差別がある。愚痴であればあるほど満足しやすく、楽を感じやすい。世間を見たことがある人ほど満足しにくく、楽を感じない。その人が経験した事物が多く、眼界が広く、見聞が広いため、善悪を見分ける智慧があり、容易に満足せず、容易に楽しいと感じない。

仏は弟子たちに不苦不楽の受も知ることを要求した。身体が不苦不楽の受を感受しているとき、心の中ではっきりしていなければならない。たとえば座禅のとき、さっきまで身体がずっと重かったが、いま気脈がいくらか通って身体が少し楽になり、感受が苦受から少しずつ不苦不楽の受に転じ、最後に身体に一種の楽受が現れる。この中には一種の不苦不楽の受があり、心が細やかなら感知できるはずである。ときに私たちは精力を集中して何かを考えていると身体を忘れる。身体は本来苦受であったが、このとき忘れれば、それは苦受でなく不苦不楽の受である。さもなければ苦受あるいは楽受を感知し続けることになる。

精神上・心理上の不苦不楽受も知らなければならない。心が麻痺していれば感じられない。明らかにこの事はとても苦しく辛いものであるのに、愚痴な人は苦痛を知らず、内心が麻痺している。修行の良い人、無心の人も心の中は麻痺しており、逆境や苦境に対して苦受がなく、順境に対しても楽受がなく、どうということも感じず、常に不苦不楽受と相応している。定と慧は連なっている。智慧があればあるほど、すべての受が苦であることを観察でき、もはや受を貪着しない。さらに智慧を修めば、すべての苦受の上に、不苦不楽受を感じることができる。

だから衆生の感受はそれぞれ異なる。これは各人の素質と智慧の程度、覚悟の程度、学法の程度、聡明さ、利口さによる。なぜ人によって感受が異なるのか。心の中の認知が異なり、智慧の境界が異なるからである。同じ事が起こっても、ある人はこのような感受を持ち、ある人はあのような感受を持つ。たとえばある村落に千年以上の大木があり、とても高大である。百人がこの大木を見に来れば、百の観念と見方がある。木は同じでも、人心が異なれば感受が異なり、知見・見方も異なる。一人一人の心に差別があれば、それぞれの事物が心の中に呈する状態が異なり、それから認知が異なる。認知が異なれば感受が異なり、感受が異なれば身口意行が異なり、身口意が異なれば造作する業行・果報が異なる。一つの事を感知し領会するのに、聖者も感知し、凡夫も感知するが、認知と感受はどちらも異なる。心が異なり、智慧の境界が異なることによるのである。

仏は私たちに定と慧を修める方法を教導した。私たちは各法の概念と内包を理解し、観行するとき、注意力はすべて自分の感受を観ることにあり、一つも雑思乱想がなければ、定はすぐに現れる。定があれば、さらに観行すれば、観行はますます深く細やかになる。だから定慧は同時に存在し、定慧等持なのである。

定があれば慧がある。禅定を得られなければ観行はとても困難であり、観慧が不足すれば観行もとても困難である。もし本当に観行をうまくやりたいなら、誰にも邪魔されないとき、一時間、二時間観行し、注意力がすべて観行の内容の上にあれば、自分を忘れ、心の中はすべて観行の法であり、そのとき身体状態も心理状態もとても軽やかで愉悦である。色身の気脈が貫通すれば、身体は軽やかで、心理的感受も心地よく、外の境界が来ても無関心でいられる。これが定慧である。だから修道は良いことである。修道しなければ、心理はとても煩乱する。

どの方法であれ、それを習得し、道理が通れば、修行はそれほど困難ではなくなる。難易は人にある。観行の方法に不慣れなときは、着手点がないと感じる。万事は始めのこの段階では多少困難がある。慣れれば、その中の観行内容を理解でき、それから自分で決心を下し、適切な時間と方法を見つけて努力して観行すれば、道に入ることができる。修行は徐々に陌生から慣れへと移り、慣れれば行住坐臥すべて観行でき、いつでもどこでも観察・観行を行い、智慧と禅定は同時に増長し、身体の覚受も良くなる。これが修行である。

原文:如是。或于内受观受而住。于外受观受而住。又于内外受观受而住。

解釈:このように観行した後、比丘たちはあるいは心を内受の上に住まわせて受覚を観、また心を外受の上に住まわせて受覚を観、さらに心を同時に内受と外受の上に住まわせて受覚を観る。

ここには内受と外受という二つの概念が関わる。受も内受と外受に分けられる。内身に対する感受は内受であり、外身に対する感受は外受である。内身とは色身の内の五陰身を指し、外身とは山河大地などの六塵境界を指す。内受には、一つは自分の身体上の感受であり、もう一つは心の中で回憶し思念するときに生じる感受であり、生じる酸い甘い苦い辛い味わいであり、外法に接触しないで生じる受覚である。たとえば身体の痛みを感受するのは内受であり、心の中である事を思い出して苦悶、憂愁、煩悩を感じるのは内受であり、座禅のとき身体がとても心地よく感じるのは内受であり、気脈が腸胃に通って心地よく感じるのは内受であり、座禅のときとても愉悦で心地よく感じるのは内受である。自分の身心世界をめぐる感受は、すべて内受である。

心が外界の色声香味触に接触するときに生じる感受は外受に属する。たとえば目が突然日光の照射を受け、まぶしいと感じるのは外受であり、一つの石が身体に当たって痛みと重さを感じるのは外受であり、耳が突然外の鋭い音を聞いて耳を刺すように感じるのは外受であり、同時に心の中で苦悩を感じるのも外受である。香りの匂いが漂ってきて心の中でとても香りが良いと感じるのは外受であり、臭いの匂いが漂ってきてとても臭いと感じるのは外受である。

実はどこに外があるのか。すべて内であり、仮に外と名付けるだけである。自分の六識が接触し了別するすべての法は五陰十八界の内にあり、すべて自分の内相分であり、厳密に言えばすべて内に属し、外界の六塵に対する感受を仮に外と説くのである。小乗は内外に分けるが、大乗法は内外を説かない。小乗の声聞人はすべてが如来蔵 (tathāgatagarbha) が出生した一切法であることを知らないため、内外界と内外受を分け出したが、実はすべて自分の五陰十八界の内の法であり、すべて六識心の心内法でもある。外界の色声香味触法が現れるとき、外触と外受がある。外界の触とは何か。日光が色身を照らし、風が色身に吹きかける。日光や風これらの法は外界に属するように見え、身体に触れて身心の感受が現れるのは外受に属するように見えるが、実は外の境界はなく、すべて心内の境界である。だからすべて内受なのである。

それからさらに内外受に同時に受を観て住する。いま修行して心量が比較的大きくなり、定力が増強されれば、同時に内受と外受を了知できる。たとえばいま身体がとても調和して心地よいと知り、また外の日光の照射を感受して身体が暖かくなっていると感じる。この二種の感受を心の中で同時に知る。このとき定力はさらに高くなり、慧力もさらに強くなっている。知る事が多ければ多いほどはっきりし、慧力が強くなれば、定力は必ず高くなる。定慧が具足すれば、すべての感受を内心ではっきり知る。日光が身体に照射するときの身体の覚受を心の中で知り、身体内の感受も知り、香りに対する覚受も知り、音を聞く感受も知り、すべての受を心の中で知る。定力が非常に強いとき、これらすべての法を知ることができる。

慧が強いとき、すべての法をはっきりと分別する。智慧とは何か。知ること、それが智慧である。知らなければ智慧がない。一つ問われて知らなければ、智慧がないのである。一つとして知らないものがなければ、それが智慧であり、特に正しい知であり、誤った知でなければ、大智慧である。智慧がないときは、何の事も知らず、何を問うても三不知である。日常生活の小さな事でも、問われて三不知なら、この人には智慧がなく、自分を見抜けず、他の人・事・物も見抜けず、観察ができない。だから観行するときは、常に「知」を保つこと、それが定慧双修であり、すべての法を証得することになる。

原文:或于受观生法而住。于受观灭法而住。又于受观生灭法而住。

解釈:比丘はあるいは受覚の上に新たに生じた法を観行して住し、あるいは受覚の上の滅法を観行して住し、あるいは受覚の上の生法と滅法を観行して住する。

どのような法を生法と呼び、どのような法を滅法と呼び、どのような法が生じ、どのような法が滅したのか、観行するとき心の中ではっきりしていなければならない。どのような感受が生じたのか、なぜ生じたのか、感受にどのような変化があるのか、心の中ですべて知っていなければならない。たとえばいま心がちょうど不苦不楽受であるとき、突然一種の感受が現れ、無から有へ、これは新たに生じた一種の感受である。実は感受が生じるということは転化したことであり、元の不苦不楽受から苦受あるいは楽受に転じ、あるいは別の苦受に転じたのであり、この受が生じれば、あの受はなくなる。

またたとえばいまとても苦しいとき、突然100万を得れば、内心は苦痛でなくなり、楽しみに転じる。苦受が消え、楽受が生じ、受覚が転化したのである。この転化は完全な転化のこともあれば、不完全な転化のこともある。もし苦受が五分で、楽受一分に転化すれば、苦受は四分残る。楽受二分に転化すれば、苦受は三分残る。完全に楽であれば、苦はない。実は完全に楽受であるときにも、まだ苦がある。ただ苦受がとても深く細やかで、観察しにくいだけである。

この受が生じれば、あの受が滅する。心の中ですべて知っていなければならない。この知の中には定があり慧がある。定がなければ、心が散乱してどの法が生じ、どの法が滅したかを知ることができない。色身の上では、内受外受も同時に知る。このときの定慧は非常に強く、眼観六路、耳聴八方ができるかもしれない。定慧の強い人は、一つの事をしている同時に、他の事もすべて了知し、はっきり分析し、しかもうまく手配できる。この方面、あの方面の事を、同時に考え、考慮できる。これは人の精力が非常に充実しており、する事が非常に多く、効率も非常に高いことを示す。こうして仏法の修行は、世間法の上で応用され、受益を得るのである。

原文:尚又智识所成。及忆念所成。皆会有受之思念现前。彼当无所依而住。且不执着世间任何物。诸比丘。比丘如是。于受观受而住。

解釈:智慧の認知によって形成されたもの、および憶念によって形成されたもの、心念の中にはいずれも受覚に関する念頭が現れる。あなたがたはいかなる法にも依倚せずに住すべきであり、世間の中のいかなる物をも執著してはならない。諸比丘よ、比丘はこのように、受覚の上で受覚を観察して住すべきである。

受念処観を観行するとき、心は受の上に住む。観行の最後はこのようになり、心心念念がすべて受覚を体得することにあり、それが受の上に住むことである。この感受の心念は六識心のものであり、識心がさまざまな感受を体得し、さまざまな感受の虚妄無常性を観行し、一定の智慧を具えている。智慧のある識心を智識と呼ぶ。もし感受を知らず、感受が虚妄であることも知らないときにも識はあるが、智識ではない。観行が成功した後は、心心念念の中のさまざまな受を、心の中ですべて知っていなければならない。この識は智慧を具えており、それが智識である。

智識の中はすべて受覚であり、最後にはこの種々の受覚も捨てなければならない。受を観ることも無常であり、受を観ることに住んではならない。岸に至れば船を棄てるべし。観の上に住めば心は空でなく、観から智慧を出したら、もはや観に住んではならず、すべての受も空にしなければならない。受覚も空であり、無常であり、苦であり、我に非ずと覚知し、内心の深いところでこの点を認識できれば、我見 (satkāya-dṛṣṭi) を断じることができる。心の中でこれ以上受を貪着せず、感受を執著せず、受を滅しなければならない。受を滅するとはどのような思想的境地か。阿羅漢たちのように、感受を真実と認めず、さまざまな感受を執取せず、さまざまな感受を追求しなければ、もはや貪愛しない。内心の感受を滅除することも、生死輪回を滅する一つの環節であり、十二因縁の中には受の生死の鎖があり、因縁法を修行するにも受を空にしなければならない。

受念処観の観行の最後には、内心の中のすべての受を捨てるべきであり、それから心は無所依、無所依にして住する。心の中でいかなる法にも依らず、いかなる事物にも依頼してはならない。すべて虚妄であり、何も頼りにならないからである。依頼する心も生死であり、輪回を脱しない。すべての受を捨てた後は、内心は空空蕩蕩とし、一法にも着かず、五蘊がすべて虚妄であると認めれば、我見 (satkāya-dṛṣṭi) を断じることができる。受覚を心の中で依らないだけでなく、世間の中のいかなる法・いかなる物にも依らず、執著もしなければ、心念は空になる。このときに至って声聞の三果・四果の境界である。これが受を観る全過程である。

仏はこれらの観行をすぐに説き終えたが、弟子たちが教えを受けて修行し成就するのに要する時間は等しくない。数年修める者もあり、数か月修める者もあり、数日修める者もあり、数時間でこれらの内容を修め終え、小乗声聞の果位を証得し、四念処観の観修を完成する者もある。大乗人であれ小乗人であれ、一人一人根基が異なり、根基が異なれば修道の速度も異なる。修行は各人の福報にもよる。福報がなければ、絶え間なく観行するためのまとまった時間がない。福報のある人は時間を割いて連続して観修でき、すぐに修め終えることができる。修行は福報とも一定の関係があり、定力とも大きな関係があり、慧力とはさらに大きな関係がある。

ある人はもともと心が清浄 (viśuddha/pariśuddha) で、心の中で乱れた考えを思ったことがなく、座って観行すれば、一修で成功する。ある人は心の中の攀縁が重すぎて、心念を効果的に収めることができず、どう修めても妄想の山であり、修行はとても困難である。智慧が十分でない人は、観を修めてもどんなに功夫しても観行できず、いくつかの名詞概念さえはっきり理解できず、観行はさらに困難である。衆生の根基は千差万別であり、修行の速さは人によって異なる。一人一人が具える修行条件がどれだけ具足しているかによる。条件が具足しないほど修行は遅く、条件が具足するほど修行は速い。ある人はいつも自分には修行する時間がないと言い、忙しく疲れている。原因は何か。福報が具足しないからである。

なぜ福報が具足しないのか。前世に貪ったか、あるいはけちで布施 (dāna) しようとしなかったか、あるいは煩悩・性障 (kleśāvaraṇa) が重く、福徳が集まらず、福報を消耗するところが非常に多く、煩悩が現前して発作を起こせば、必ず福徳を損なう。一人一人が自分の心行を点検し、自分の六度の条件を点検し、自分の福徳を早く具足させ、多く自分の原因を探し、自分の不足を見つけ、それから不足を補う方法を考えなければ、自分を変えなければならない。一方的に外界の原因を強調し、自分の原因を探さなければ、事に何の役にも立たず、修行にも不利であり、これらの原因がどのように生じたかを認識すべきである。

なぜこのようになるのか。実はすべて自分の原因である。誰が自分をこんなに忙しくさせ、こんなに生活のために奔走させたのか。あの天人たちはなぜ生活のために奔走しないのか。あの菩薩たちはなぜ十方諸仏国土で生活の問題を考慮しないのか。他の人はなぜ修行する暇な時間があるのか。原因を見つけたら、補う方法を考え、もう以前のようであってはならない。多く福を修め、多く慧を修め、貪嗔痴を減らし、さまざまな煩悩の習気を減らし、自分が福徳を流失させるのを少なくし、多く福徳を集積させれば、福が多くなれば修行は速くなる。

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