四念処経講話 第二版(新修)
第三章 受念処の観
大念住経における受念処の「受」とは何を含むのでしょうか。六識心の感受、つまり身心における感覚を含みます。六識の感受とは何でしょうか。眼根における眼識の感受、耳根における耳識の感受、鼻根における鼻識の感受、舌根における舌識の感受、身根における身識の感受、そして意識心の受、これらを指します。意識心の受は純粋に心の感受です。五識の感受は五根に生じる受覚ではありますが、実際には心の感受であり、五根本身に受はなく、識心に受があります。意識心の受も多くの場合、五根から離れることはなく、五識と共に生じる受がほとんどです。心に受があり、身体に受がある、これら全てが識心の受覚です。心の内側の感受を内受と言い、外の色声香味触に対する受を外受と言います。
原文:然り。諸比丘よ。如何にして比丘は受を観じて受に住するや。諸比丘よ。比丘が楽受を感じる時は、我楽受を感じると知り、苦受を感じる時は、我苦受を感じると知り、不苦不楽受を感じる時は、我不苦不楽受を感じると知る。
釈:では諸比丘よ、比丘は如何にして自らの感受を観じ、心を受に住まわせるのでしょうか。諸比丘よ、比丘が楽受を感じる時は、心に我楽受を感じると知らなければなりません。苦受を感じる時は、我苦受を感じると知り、不苦不楽受を感じる時は、我不苦不楽受を感じると知るべきです。
この節で世尊は比丘たちに受念処を観じ、受念処の観を修行するよう教えられました。常に自らの内なる様々な感受を観察し、全ての注意力を受に集中させ、感受を覚知し観じることで、受が苦であることを証得します。受は苦受・楽受・憂受・喜受・捨受の五種に分かれ、あるいは大別して三種となります。快適な感受は楽受、苦痛な感受は苦受、良くも悪くもない感受は捨受です。
受念処観を修行するには、如何に受を観じるべきでしょうか。身心の全ての感受を明瞭に知るべきです。つまり自らの心理状態と身体状態を常に把握し、無記の状態に陥らないよう注意しなければなりません。無記の時は観じることができず、妄想にふけったり昏沈している状態では、自らの内なる感受を知ることができず、観行が不可能です。故に四念処観を修行する時は、常に心に「知」を保ち、観行によって智慧を生じさせなければなりません。
もし心や身体に苦受・楽受・不苦不楽受が生じた時は、常に明瞭に感知すべきです。楽を感じていると知れば、心は楽受に散乱せず、妄想も昏沈も起こりません。苦受を感じる時も、自らが苦受を感じていることを知り、現在の苦悩・不快・煩悶などの感受をはっきりと把握します。これが定であり、慧でもあります。
不苦不楽受を感じる時も心で知らなければなりません。不苦不楽受は特別な感覚がないため気付きにくく、注意を向けにくいものです。現在の身心状態が特別良くも悪くもない時、内省せず心が粗雑であれば、この受に気付かず見過ごしてしまいます。不苦不楽の時は往々にして自己を省みず、色身を忘れて外界に攀縁しがちです。この時は心念を収め、注意力を身心の感受に集中させて観察すべきです。
常日頃から心に「知」を保ち、意念を集中させ、散乱も昏沈もなく、この知を維持するよう訓練すべきです。この「知」を保つ人の状態は、深沈で専一、思惟は細やかで観察力に優れています。知を失えば愚鈍で散漫になります。ただし無心の境地に至った修行者は例外で、彼らは全ての事柄に執着せず、感受も少なく、世俗法に心を留めません。
仏が弟子たちに求めるのは、常に禅定と観察力を保ち、智慧を開く基盤を作ることです。定と慧を備えれば、常に自他を観察し、諸法の根源と本質を知り、適切に対処できます。現在の身心の状態を知らず、他者の状況も把握できなければ、人事を適切に処理できません。物事を適切に処理するには、注意力をその事柄に集中させ、定と慧を一体として発揮させる必要があります。
不苦不楽受を常に感知できるよう心掛けるべきです。例えば座禅中に身体を忘れた時、身体の存在を感じない状態が不苦不楽受です。身体が快適であれば貪着し、苦痛があれば回避しようとします。不苦不楽受はこれらと異なり、特別な感情を伴わない状態です。
原文:若し肉体の楽受を感じる時は、我肉体の楽受を感じると知る。
釈:仏は、比丘が肉体の楽受を感じる時、明瞭に自覚すべきだと説かれました。肉体の楽受とは、座禅で気脈が通じた時の快適感、気血が充足した時の安楽などです。初禅の楽触は最も強く、軽安柔軟の境地となります。ただし肉体の受はあくまで身識の受であり、意識心と共に生じます。
原文:又、精神の楽受を感じる時は、我精神の楽受を感じると知る。
釈:精神の楽受は純粋に意識心の受です。貪愛を離れれば楽受も生じず、平静を保ちます。楽受に執着すれば欲界を離れられず、三界の法に執着すれば輪廻から解脱できません。
原文:或は肉体の苦受を感じる時は、我肉体の苦受を感じると知る。
釈:肉体の苦受を観じることで、無常・無我を覚知します。寒暑や病苦など、肉体の苦は常に変化し、精神の苦へと転じることもあります。
原文:又、精神の苦受を感じる時は、我精神の苦受を感じると知る。
釈:精神の苦受は意識の苦悩です。愚痴を断ち、四聖諦を観じることで苦の根源である貪愛を滅します。
原文:或は肉体の不苦不楽受を感じる時は、我肉体の不苦不楽受を感じると知る。
釈:不苦不楽受は身心の平衡状態です。忘我の境地に近く、観察には細心の注意が必要です。
原文:又、精神の不苦不楽受を感じる時は、我精神の不苦不楽受を感じると知る。
釈:精神の不苦不楽受は平静な状態ですが、全ての受が苦である真理を観じます。楽受も本質的には苦であり、求不得苦・壊苦・行苦に包含されます。
原文:かくの如く、内受を観じて受に住し、外受を観じて受に住し、内外の受を観じて受に住す。
釈:内受は身心の直接的な感受、外受は六塵縁影の感受です。究竟的には全て唯心所現ですが、小乗では内外を仮に分けます。
原文:或は受に生法を観じ、受に滅法を観じ、受に生滅法を観ず。
釈:受の生滅を如実に観じ、無常を証知します。感受の転変は全て縁起法であり、実体のないことを覚ります。
原文:更に智識によって成り、憶念によって成る受の思念が現前するも、彼は何ものにも依らずに住し、世間の何ものをも執着せず。諸比丘よ、比丘はかくの如く受を観じて受に住す。
釈:観行が熟達すると、智識と憶念が調和し、一切の執着を離れます。受もまた空なることを証し、十二因縁の鎖を断じます。最終的に心は無所住となり、我見を断じて解脱を得ます。