衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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四念処経講話 第二版(新修)

作者: 釋生如 カテゴリ: 二乗の解脱 更新時間: 2025年10月10日 閲覧数: 1515
<h2 style="text-indent: 2em;">第二章 観身念住</h2><h3 style="text-indent: 2em;">第三節 色身の不浄を観ずる</h3>

原文:复次。诸比丘。比丘于皮覆包。充满种种不净物之此身。观察此身。上至头发。下至蹠底。知于此身。有发髦爪齿。皮肉筋骨髓。肾脏心脏。肝脏肋膜。脾脏肺肠。肠间膜胃。排泄物胆汁。痰脓血汗。脂肪泪淋巴液。唾液粘液。关节液尿。

解釈:さらに続けて言う。諸比丘よ、比丘は皮膚に包まれ、種々の不浄物で満ちているこの身体について、この身体を観察する。上は頭髪から下は足の裏の骨に至るまで観察すれば、この身体の上に頭髪・産毛・眉毛・手・足・歯・皮膚・肉・筋・骨・骨髄・腎臓・心臓・肝臓・肋膜・脾臓・肺・腸・腸間膜・胃・排泄物・胆汁・痰・膿・血・汗・脂肪・涙・リンパ液・唾液・粘液・関節液・尿などがあることを知るであろう。

この経文は、観身不浄の法を修行する上での鍵となるもので、世尊が比較的細かく説かれているので、私たちは文に随って観に入り、観行をより細かく行うことができる。これらの物は、頭髪を除いて、すべて表皮に包まれている。表皮は一見きれいなようだが、包まれているものはきわめて汚く不浄で、いずれも種々の生臭さや悪臭に満ち、血気と粘液に充満して、ぼんやりとした一塊である。単独で取り出したり、皮を剥いてみたりすれば、誰もが嫌悪を感じるであろう。これらの不浄物が色身を構成しているのであり、これほど汚い色身を、衆生は貪り執着して手放さないとは、実に愚痴である。

原文:诸比丘。犹如两口之袋。填进种种谷物。即稻粳绿豆。豆颗胡麻糙米。其眼者开解之。得观察。此是稻。此是粳。此是绿豆。此是豆颗。此是胡麻。此是糙米。

解釈:諸比丘よ、上述のこれらの物で満たされている色身は、まるで二つの口の開いた袋のようであり、多くの穀物がこの袋の中に詰め込まれている。袋を開けて見れば、一つ一つ数え出すことができる。これは稲、これは粳米、これは緑豆、これは豆粒、これは胡麻、これは玄米と、目で見ればすぐにどんな豆があるかがわかる。同じように、身体を開き、皮を剥けば、身体の中に何があるかがわかり、一つ一つ数え出し、観察することができる。

この色身は袋のようなもので、二つの口を縛り、中に種々の物を詰め込んでいる。頭頂が一つの封口で、足の裏がもう一つの封口であり、外側は皮で、中には種々の物が入っている。皮膚を剥けば、中には血肉・各種の液体・内臓・骨髄などがあり、観身不浄は皮膚の表面から観始めることができる。もし顕微鏡で皮膚を観察すれば、皮膚の表面がすべて細菌だらけであることがわかる。目の中に細菌があり、涙の中に細菌があり、鼻水・唾液、皮膚のあらゆる表面がすべて細菌である。部位ごとの細菌は、形や大きさ、数もみな異なっている。

身体の中のこれらの細菌や虫を専ら観察して身見・我見を断ずる禅観がある。これらの細菌には三頭六臂のものもあり、五彩に色づくものもあり、牙を剥き爪を立てるものもあって、きわめて獰猛で恐ろしい。それらは互いに殺し合い、殺し合いが終わると、数や種類のバランスが崩れ、身体は病気になる。皮膚病や胃腸病などは、いずれも細菌の数や種類のバランスが崩れたことによって生じるのである。胃が空腹を感じるのは、細菌が食べ物を欲しているからであり、身体の中に欲念が生じるのも、これらの細菌がかき乱した結果である。また胃に入った飲食物は、すべて細菌によって分解・消化され、食物が胃に下りると、細菌が食物を細かく分解して泥状にし、身体はその一部を吸収して血液の中に入れることができる。身体はこれらの細菌に依存して新陳代謝を行い、細菌も肉体に依存して生存し、衆生は細菌に依存して命を保ち、細菌は衆生の色身に依存して生存する。これらはすべて仏が見、仏が説いたことであり、仏眼は顕微鏡よりも無量倍も微細であるから、これらの細菌を見ることができるのである。

空気中にも細菌があり、どこにでも細菌がある。これらの細菌も衆生であり、将来仏になることもできる。それらにも意識心・意根・如来蔵がある。衆生が病気になって薬を飲むと、飲み始めのうちは効いて病を治せるが、長く飲んでいると効かなくなる。これを耐性という。なぜそうなるのか。薬を飲むのは細菌に対治するためであり、細菌は薬を飲まれると具合が悪いと感じ、以後は薬を受け付けなくなり、同じ薬は殺菌作用を失う。このことからも、細菌にも識心の分別があることがわかる。

身体の皮膚の表面がきわめて汚いことを観察し、さらに奥へと仔細に観察すれば、血液の中、筋肉の中、筋、骨、骨髄の中もすべて細菌であり、各種の粘液の中にも細菌があり、身体の中もきわめて汚い。このようにありのままに仔細に色身を観察すれば、次第に身体を貪り恋い慕うことはなくなるであろう。仮に美しい女性を見たとしても、その皮膚から観照を始め、皮膚の表面の細菌を観照し、観照し終えたら皮を剥いて、中の不浄なものを観照する。内から外へと漂う鼻につく臭い、清浄なところは一つもない。後にまた述べるが、美しい女性が死んで数日経つと、身体は膨張し、あざができ、色が変わり、形が変わり、その後膿が流れ出す。その先は各自で想像してもらおう。

衆生が貪着する色身は、実はきわめて汚く不浄なものである。たとえば食べる飲食物は土の中から生えてきたものであり、土の中には何でもあるので、どれほどきれいに洗っても汚いものである。食べ物を数口噛んで吐き出してみて、どんな状態かを見る。あるいは胃に飲み込んだ食物を嘔吐してみて、どんな状態か、どんな臭いがするかを見る。実は身体とは動くトイレであり、糞の袋であり、臭い皮の袋(臭皮嚢)とも呼ばれるものである。よく考えてみれば、身体も飲食物も、貪り愛着すべきものは何もないのである。

原文:诸比丘。比丘如是于皮覆包。充满种种不净物之此身。观察上至头发下至蹠底。知于此身。有发髦爪齿。皮肉筋骨髓。肾脏心脏肝脏。肋膜脾脏。肺肠肠间膜。胃排泄物胆汁。痰脓血汗。脂肪泪淋巴液。唾液粘液。关节液尿。

解釈:諸比丘よ、比丘はこのように、皮で覆われ包まれ、種々の不浄物で満ちているこの色身の上で、頭頂から足の裏に至るまで観察し、この色身の上に頭髪・産毛・爪・歯があり、皮・肉・筋・骨髄があり、腎臓・心臓・肝臓があり、肋膜・脾臓・肺・腸・腸間膜があり、胃・排泄物・胆汁・痰・膿血・汗液があり、脂肪・涙・リンパ液・唾液・粘液・関節液・尿があることを知る。

仏は比丘たちに、色身の不浄を引き続き観察するよう教え、頭頂から足の裏まで観察させる。真の観察を通じて、色身がこれほど汚く穢れていることを発見すれば、それはまるで刺繍を施した枕のようなもので、外見はそれなりに見えても、中に詰まっているのは汚いものばかりで、一つとして清浄なものはない。観察を重ねていくと、自分の色身に対して厭離の心が生じ、色身をあまり気にかけたり、貪り恋い慕ったりしなくなるであろう。

原文:如是。或于内身观身而住。于外身观身而住。又于内外身观身而住。或于身观生法而住。于身观灭法而住。又于身观生灭法而住。

解釈:色身の不浄を観察し終えた後、心はあるいは内身に対する観行に住し、あるいは外身に対する観行に住し、あるいは内外の身に対する観行に同時に住し、あるいは色身の生ずる法に対する観行に住し、あるいは色身の滅する法に対する観行に住し、あるいは色身の生法と滅法に対する観行に同時に住する。

以上に紹介した色身の内の物について、さらに引き続き仔細に観察する。まず色身の上の生法を観じ、色身の上で次第に何が生まれてくるか、たとえば爪が伸び髪が伸び、皮膚に膿包が生じ、内臓器官の中に嚢胞や結石など各種の病気が生成することなどを観ずる。次に色身の上の滅法を観じ、何が身体の中から消えていくか、たとえば内臓器官の除去・摘出、各種の病気が消滅することなどを観ずる。そしてさらに、色身の生法と滅法を同時に観ずる。

原文:尚又智识所成及忆念所成。皆会有身之思念现前。彼当无所依而住。且不执着世间任何物。诸比丘。比丘如是。于身观身而住。

解釈:観るに観るうちに、智慧が生じ、色身に対する憶念も生じ、心の中は心心ともに色身に対する思慮で満たされる。このとき修行者は、心を色身に依倚させず、色身を客観的に見ることができ、色身を自分と緊密に結びつけず、心も世間のいかなる物にも執着しないようにすべきである。諸比丘よ、比丘はこのように色身の上で色身を観じて住すべきである。

これらの内容の観行がすべて完成すると、思想の中は色身の念ばかりになるが、色身に住することなく、心は色身に依存しない。なぜならそれは空で無我であり、無常変異するものであるから、心中で身体我の観念を取り除き、色身を空ずるのである。ただ身を亡ぼすことによってのみ、一種の空のじょう(定)に入ることができ、智慧の認知が生じて、身我見(色身を我とする知見)を断つことができる。さらに世間のその他のいかなる事物についても、心を住着させ貪着させず、執着せず、すべて空ずる。これらはいずれも真実ではなく、身体すら我でないならば、身外の物はなおさら我ではない。修行がここまで進んでも、この観念を認められないかもしれない。真に観行が完成し、智慧が具足し、その他の見道の条件もすべて具足したとき、心念は転換し、真に我見を断つことができ、三縛結もそれに随って断たれ、二度と三悪道に堕ちることはなくなる。

この理を認めることは容易ではない。今はただ意識心が知っているだけで、意根はまだ認めておらず、そのような覚悟の境地には達していない。ひとたび達すれば、意根が認め、身心の状態はすべて変わり、心念は転換し、逆転する。意識心の浅薄な知には大きな力がなく、意根が認めなければ、ひとたび事を為すとき、意根は依然として自己の従来の認知と理念に従って決定し、意識の認識に従って選択することはない。なぜなら身口意行は意識が主宰するのではなく、深層の意根が主宰し選択するからである。

たとえば、他人に百元を布施すると約束する場合、この考えは心の底から発せられたものではなく、口頭では約束したものの、ただ意識心が自分は他人に百元を与えるべきだと感じているだけで、意根はあまり望んでおらず、人に百元を与えることにどんな利益があるのかをわかっていないので、出金するときには心の中に惜しむ念が生じる。だからこそ、私たちは仏法を学ぶにあたって、深い禅定の中に入り、できる限り意根自身に仏法を思量(manasikāra/manana)させるべきである。意根がひとたび思量してわかれば、理に明るくなり、思想観念も行為もすべて転換する。観身不浄という法は、常に禅定の中で深く仔細に全面的に観行し思考すべきであり、自分は知った、それは簡単だ、そういうものだと思って、深い観行を軽んじてはならない。

以上に述べた内容が、身の上で身を観じて住するということである。これで四念処観の観身不浄の説明は終わりである。観身は観呼吸から始まり、出息も入息も知らなければならず、長い呼吸も短い呼吸も知らなければならない。呼吸するときの身体の状態を明確にし、長い呼吸のときの全身の状態を明確にし、身体の中に生じてくる法を知り、滅していく法も知り、一切の生滅する法を知り、身内の法も身外の法も知り、色身がいかに不浄であるかも観行しなければならない。観行が完成し、心中の色身の観念が確固たるものになったとき、色身を空じ、身体を我とし真実とする観念を取り去り、心念を空にする。色身を空ずるだけでなく、一切の法をも空じ、いかなる法にも執着しない。こうして身見と我見を断つことができるのである。

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