衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
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四念処経講話 第二版(新修)

作者: 釋生如 カテゴリ: 二乗の解脱 更新時間: 2025年10月10日 閲覧数: 1874
<h2 style="text-indent: 2em;">前  言</h2>

四念処経は、大念住経とも呼ばれます。この経の内容は四念処の修習です。すなわち、身を観じて不浄とし、受を観じて苦とし、心を観じて無常とし、法を観じて無我とすることです。修習が成就した後、三果あるいは四果を証得し、解脱を得て清浄 (viśuddha/pariśuddha) の涅槃を得ます。それゆえ、四念処の法を修学する目的は、我見 (satkāya-dṛṣṭi) を断除し、煩悩を降伏させ、解脱を得ることにあるはずです。修習の過程においては、心心念念が四念処の観行 (vipaśyanā-caryā) の上に住していさえすれば、日を経て功が深まれば、必ず身見を断じ我見 (satkāya-dṛṣṭi) を断じることができ、必ず解脱果を証得し、三縛結およびすべての煩悩の結縛を断除し、生死の結縛を解きほぐし、未来において永遠に三悪道の苦を受けず、六道輪廻の苦も受けなくなります。もしこのような観行 (vipaśyanā-caryā) を行わなければ、我見 (satkāya-dṛṣṭi) を断除することは難しく、三縛結も断除が難しく、生死の結縛は解けず、苦海から出ることもできません。

三縛結とはそれぞれ、我見 (satkāya-dṛṣṭi)、戒禁取見、疑見です。我とは何か、我見 (satkāya-dṛṣṭi) とは何でしょうか。いわゆる我とは、五陰 (pañca-skandha) 十八界の生滅無常の仮我のことです。色陰、受陰、想陰、行陰、識陰、および六根、六塵、六識という仮我を、これを我とみなすことが我見 (satkāya-dṛṣṭi) です。我見 (satkāya-dṛṣṭi) の中に身見というものがあり、それは色身を我とみなす知見です。身見も我見 (satkāya-dṛṣṭi) も断除してはじめて、邪見 (mithyā-dṛṣṭi) を断除し生死を出離することができます。我見 (satkāya-dṛṣṭi) を主として、あちこちで我を執着すると、その結果はどうなるのでしょうか。その結果、この生滅無常の仮我のために無量無辺の三種の業行を造作し、業行を造作した後には六道の中に拘束されて苦を受けることになります。我見 (satkāya-dṛṣṭi) とは一つの結であり、この結のために我々は六道に、とりわけ三悪道に縛られ、生死の大苦を出離することができないのです。

戒禁取見とは何でしょうか。解脱を得るために一つあるいは複数の戒律を定めて遵守することですが、しかしこれらの戒律は解脱に向かうところを指しておらず、定め方が如理でも如法でもなく、これに依って修行する者に解脱を得させることができません。もしこれらの如法でない戒を執取 (upādāna) して如法如理であるとみなし、それに従って遵守実行するならば、このような知見を戒禁取見と呼びます。戒禁取見とは一般に外道が施設した戒を指し、その戒法はただ色身の身行の上で支離滅裂なだけであり、正知見を得ることができず、解脱の智慧を持つことができず、自心の煩悩を降伏させることができず、そのような戒法を守っていても解脱を得て生死輪廻を出離することはできません。それらの戒法を執取 (upādāna) すること自体が一つの結縛であり、まして自らを六道輪廻の中に縛りつけ、生死の苦から脱することができないのです。

何が如理でなく如法でない戒なのでしょうか。定められた戒が心を修め心行を変えるためのものでなく、ただ身体の外相の上で手を加えるだけのものは、すべて如理でない戒禁取戒です。仏が定めた戒と一致せず、内包と目標のいずれも一致せず、解脱の目的に達しないものは、すべて如理でなく如法でない戒禁取戒です。これらの如理でなく如法でない戒を執取 (upādāna) することを、戒禁取見と呼びます。

たとえば、ある外道は、魚は水の中で自由気ままに生きており、もし我々が魚のように自在になれるなら、一日中水に浸かっていれば、将来魚のように自在な解脱を得られるはずだ、と言います。このように施設された戒法で自由と解脱が得られるでしょうか。得られません。また別の外道は、牛や羊は草だけを食べ、他の食物を食べないからこそ清浄 (viśuddha/pariśuddha) 自在なのだ、我々も草だけを食べれば、清浄 (viśuddha/pariśuddha) 自在な解脱が得られるはずだ、と言います。しかし草だけを食べることで本当に清浄 (viśuddha/pariśuddha) な解脱が得られるでしょうか。まったく得られません。断我見 (satkāya-dṛṣṭi-prahāṇa) は草を食べるか食べないかとは何の関係もなく、解脱は自心にあり、いかに心を用いるかにあり、智慧にあり、単なる飲食という一面だけにあるのではありません。

さらに別の外道は、解脱を得るには、無量劫以来造作してきたすべての悪業を全部消滅させなければならず、それによってはじめて解脱が得られる、と言います。それらの業はどのように消滅させるのでしょうか。彼らは多くの無意味な苦行で自分を苦しめ、あるいは一日に一麻一麦だけを食べ、あるいは土だけを食べ、あるいは長い間食べずに飢えに耐え、あるいは灰土の上に臥し、あるいは夏には火で焼き、冬には氷で凍らせます。要するに、さまざまな方法で自分の身体を苦しめ、こうすれば無量劫以来の罪業をすべて消滅させ、それによって解脱が得られると考えるのです。しかし、このように自分を苦しめることで、すべての罪業を消滅させることができるでしょうか。もちろんできません。考えてみてください、我々が無量劫以来に造作してきた罪業はどれほど多いでしょうか。無量劫以来に造った罪業は数え切れず尽きることもなく、地獄の罪業だけでも無量無辺の多さであり、まして餓鬼道や畜生道の業、その他の業は言うまでもありません。このように自分を苦しめるだけで、すべての罪業を消せるでしょうか。もちろん消せるはずがありません。とりわけ衆生に負っている債は、これらの方法では返済できません。

無量劫以来に造った罪業を、どのようにすれば消除して三悪道の苦を免れることができるのでしょうか。ただ我見 (satkāya-dṛṣṭi) を断じ、三縛結を断じ、心の中の一切の無明を断除するほかありません。もし誤った知見をひっくり返すことができ、心の中に我がなく、五陰 (pañca-skandha) の我は虚妄で真実でないと認めるならば、この我によって造作された罪業もまた虚妄で真実でないものとなり、こうして三悪道の罪業を免れることができます。我見 (satkāya-dṛṣṭi) を断じ、三縛結を断じようとするならば、五陰 (pañca-skandha) 十八界の無我性を観行 (vipaśyanā-caryā) し、五陰 (pañca-skandha) が仮我で空幻であり真実でないことを証得しなければなりません。これによってはじめて我見 (satkāya-dṛṣṭi) を断つことができます。外道のいわゆる戒行は、まったくすべての罪業を消すことができないので、それらの如理でない知見を戒禁取見と呼ぶのです。

三番目の結縛は疑結、すなわち疑見の結縛です。疑見とは何でしょうか。内心に決し了することができない法が存在し、五陰 (pañca-skandha) が果たして真実なのかどうか、生滅無常なのかどうか、果たして依り頼むことのできる滅しない我なのかどうか、未来世へ行くことができるのかどうかを、確定できないことです。これに対して疑惑が晴れず、ためらい決断できず、抉択できないならば、なお五陰 (pañca-skandha) に依り頼み、信頼することとなり、五陰 (pañca-skandha) に依って造作した三悪道の業は消除できず、業に随って三悪道に流転することになります。この疑見こそ煩悩の結縛であり、もし断除しなければ、必ず煩悩・惑・業・苦が滅することはありません。

どのように疑見の煩悩を断除するのでしょうか。ある人は、私は五陰 (pañca-skandha) の苦・空・無常・無我の性を学び観察して、確かに我はないと考え、これによって五陰 (pañca-skandha) は無我であると確認し、心の中にもはや疑惑がなく、疑結を断った、と言います。では、意識が五陰 (pañca-skandha) の苦・空・無常・無我を思惟することで、内心の深処の疑惑を断除できるでしょうか。おそらくできません。意識の理解は意根の証を代表しません。二者のうち、修める者が得るのであり、意根が修めず、観察しなければ、証得できず、我見 (satkāya-dṛṣṭi) を断つことができません。無始劫以来、意根の自体が具えている深重な無明のために、意識の簡単で粗浅な思惟と理解では、意根の無明を根本的に消除することができず、我見 (satkāya-dṛṣṭi) を断つことができません。どのようにすれば疑結を断除できるのでしょうか。疑結を断除するには、必ず禅定を修めなければなりません。禅定の中で細かに観行 (vipaśyanā-caryā) し思惟するか、あるいは仏が説かれた四念処の観行 (vipaśyanā-caryā) の方法に従って、真実に用功し、ごまかしや手抜きをしてはならず、着実に八正道・七覚分を修行し、禅定と空三昧 (samādhi) を発起しなければなりません。

仏在世当時の大根器 (indriya) の衆生は、五陰 (pañca-skandha) 無我の理を聞くその当座に、繰り返し思惟観行 (vipaśyanā-caryā) することなく、四果阿羅漢を証得し、袈裟が身に着し、鬚髪が自ら落ち、神通が現前しました。たとえば大迦葉、舎利弗、須菩提などがそうです。それは彼らが前世で四果を証得してから現在まですでに無量劫が経っており、さらには三つの無量劫であり、その身分は仏の再來かもしれず、生まれながらに禅定があり、宿命通 (pūrvanivāsānusmṛti) があり、生まれながらに阿羅漢であったので、もちろん一言を聞いた途端にすぐ果を証得する姿を示現できたのです。意根が無量劫以前にすでに果を証得しており、神様は一度も断滅したことがなく、ずっと五陰 (pañca-skandha) 無我を知っており、意識が改めて苦労して意根を薫習し教導する必要がなかったからです。彼らの今世の五陰 (pañca-skandha) は新しく、意識も新しいのですが、仏法に出会って意識が少し思惟するだけで果を証得しました。このように果を証得すれば非常に速く、意根に引きずられることがないからです。

もし意識に宿命通 (pūrvanivāsānusmṛti) があれば、同様に生まれながらに五陰 (pañca-skandha) 無我を知っており、改めて断我見 (satkāya-dṛṣṭi-prahāṇa) して果を証得する必要はありません。しかし衆生を度し衆生に影響を与えるために、果を証得する姿を示現することができ、今世の意識は仏法の一言を聞いて、思惟することなく、五陰 (pañca-skandha) 無我を証得できるのです。そして意根はずっと知っているのであって、前世で果を証得したことのある人は、皆今世の証果が非常に速く、意識が改めて意根を薫染し教導する必要がありません。前世で果を証得した回数が多ければ多いほど、今世の証果は速くなります。意根に無明がなく道を障げないからです。意根が薫染され転じられたことのある人は非常に利口であり、意識が理解できさえすればよいのです。もし前世で初果須陀洹を証得していれば、今世ふたたび初果須陀洹を証得するのは容易ですが、二果斯陀含を証得するのは容易ではありません。意根が初果ほどの観行 (vipaśyanā-caryā) の智慧にしか相応していないからです。

前世で二果斯陀含を証得した人は、今世ふたたび二果斯陀含を証得するのは比較的容易ですが、三果阿那含を証得するのは容易ではありません。意根がまだ三果と相応しておらず、三果の内容を改めて観察し思量 (manasikāra/manana) してはじめて、意識と意根が三果を証得できるからです。前世で三果阿那含を証得した人は、今世ふたたび三果阿那含を証得するのは比較的容易ですが、四果阿羅漢を証得するのは容易ではありません。意根が四果の境界と相応しておらず、四果の内容を改めて観察し思量 (manasikāra/manana) してはじめて、意識と意根が四果阿羅漢を証得できるからです。これこそ、再來人が他人より速く果を証得し明心できる原因です。

以上で三縛結を解説しました。次から四念処の経文の講義を始めます。

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