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観行五蘊我見断ち(第二部) (思考過程を明示せず、要件通りタイトルのみ出力)

作者:釈生如更新時間:2025年02月26日

第十二章 雑談

一、愛随眠とは何か

愛随眠煩悩随眠とは、随眠の文字通りの意味は睡眠に伴うことであり、潜在的に作用し、背後で運行し、常に付き従うことを指す。五蘊の活動において、愛と煩悩は時処を超えて付き従い、緊要な局面に至れば愛と煩悩が顕現し、染汚業が生起し、染汚の種子が蓄積され、未来の苦が集起する。

愛随眠煩悩随眠が存在すれば、心は覆われ真実の理を見失い、愚痴によって智慧の光明が遮られる。故に些細な煩悩も無明であり、心は清浄ならず、暗黒に覆われ智慧光明は顕現しない。愛を断ずることは苦を断ずることであり、愛が重ければ苦も重く娑婆に生まれ、愛が軽ければ苦も軽く天界に生まれ、愛が無ければ即ち極楽である。

二、修行が功を奏した際の現象

正精進の修行を経た後、修行の方向性が正しければ利益を得、欲望が薄れ、執着と煩悩が減少し、身心に一定の変化が生じる。世間の無常・空・無我を了知し、物欲が淡泊となり、物質的色法への執着が軽減され、貪欲心が減少する。物欲が減じ、享受を貪らなければ、この世間で生活するに要する財物は極めて少ない。世間の物質に依存する習慣ある者は必ず貪欲が熾盛となり、金銭と物質の需要が多く、必死に財を求めてもなお不足を感じる。足るか否かは心にあり、物質金銭の多寡によるのではない。善く止足を知る者こそ心安らかに楽しむことができる。

正精進の修行が成就すると逆縁に遭遇するが、これは業障消除に大いに資する。金剛経に云う「世人の軽賎するが故に、この人は先世の罪業消滅を得る」と。修行が道に適って後、逆縁を感得するが、これら逆縁もまた修行の増上縁となる。逆縁は修行者の罪業を消除し、極めて小さな軽賎を受ける代償で重大な罪業を滅却する故、歓喜して逆縁を受け入れるべきである。時として、何も為していないのに誣告されることがあるが、黙然と忍べば逆縁は過ぎ去り業障が消滅する。もし忍ぶことなく反撃すれば、新たな業を造るのみならず、旧業も消滅しない。故に仏は忍辱を徳とし功有りと説き、福慧を増すとされる。境遇を善く処すれば道を助けることができる。

三、捨覚支と行捨の区別

捨覚支は七覚支中最後の覚支である。七覚支とは念覚支・択法覚支・精進覚支・喜覚支・猗覚支・定覚支・捨覚支を指す。捨とは一切の身心の負担と累贅を捨て去り、善悪・苦楽を問わず、あらゆる覚受を捨て去り、内心が清浄無為となることをいう。

行捨(不害)とは、不善なる行為の造作を捨て去ることを指す。例えば、元来ある者への復讐心を捨て去り、嫉妬心を捨てて他者を害する心を断つなど、悪行を捨て内心を清浄に保つか、善に住することをいう。ただし覚受自体は必ずしも捨て去られるわけではなく、喜楽や軽安などの覚受が残存する場合があり、捨覚支とは異なる。

四、無常法と常法は共に苦法なり

一切の法は無常であり、情緒もまた無常である。これらには生住異滅の過程があり、善悪を問わず持続不変ではあり得ず、永存しない。もし貪瞋痴の煩悩が引き起こす喜怒哀楽の情緒が永続不変ならば、衆生の結末は如何なるものか。結果は精神崩壊を来たし最終的に死に至る。たとえ煩悩性のない喜楽が永続しても、深甚な禅定は得られない。

世間の無常の法則は衆生の生存に適っており、もし法が常ならば衆生は耐え得ない。無常法が衆生を苦しめる如く、常法もまた苦しみを生む。故に世間は苦そのものである。

五、行陰の意義

変転流動して静止しない一切の法は行陰(行蘊)に属する。身心両面を含むが、身の動きは実際には識心の動きによる。識心が動かなければ身も動かない。相分の伝達もまた動きであり、塵境の生住異滅の変動は識の動きによって引き起こされる。識心の刹那も止まぬ思念及び種々の心理活動は全て識陰に属する。これらの変動する法が如理如法の認知を遮り真性を弁識せず、ただ動相の行を認めるならば、これらは行陰である。単に法の運転性・活動性を強調する場合は行蘊という。

六、何時になれば情執を断ち得るか

まず身見を明らかにし断除した後、我執を破り、その後初めて情執を断つ。情執は我執の後に徐々に断除される極めて困難なものである。貪欲が先にあり、後に情執が生じる。貪欲は三果で断尽するが、情執は第一から第二無量劫の間に断尽される。貪は粗雑で断じ易く、情は微細で特に断じ難い。

七、この仮想世界の存在意義

この仮想世界の存在は人為的に操作されるものではなく、衆生の業縁の必然的結果である。故に有意義か無意義かを論ずる必要はない。衆生に三界の業種が存在する限り、仮想世界は不断に出現し、衆生に業種を実現させ業報を受けさせる。学仏者はこの仮想世界を修行に活用することができる。

衆生は明らかに電気信号に直面しているのみであるにもかかわらず、色彩豊かで絢爛たる六塵世界を解釈する。それらの電気信号も実有ではなく、見えず触れぬ種子が幻化したものである。実は世間には何も存在せず、世間そのものも存在しない。衆生は翳病を有し、強いて世間と世間の一切法を分別する。世間及び世間の一切法は、有意義と見做せば意義あり、無意義と見做せば意義なし。法も物も場景も世界も心を持たず、衆生が心を持ち場景に意義を賦与する。世界に何らかの意義を賦与すれば、世界はその意義を持つ。心が無ければ世界も無く、心があれば一切の法がある。

八、執念を放下することは自我を放下すること

仏法において禁取戒とは、外道が設立した理に適わず解脱不能な戒を指し、仏弟子はこれを執取し守ってはならない。故に仏法修証において我見を断ずるには、外道の禁取戒を破棄し、その戒条を遵守せず、正しく如法に仏戒を護持して初めて我見を断ずることができる。従って我々も無意味な過去の誓願や邪願に執着し続け、精力と心力を空費する必要はない。執着があれば生死があり解脱しない。菩薩となるには大智慧が必要であり、菩薩の大智慧は世間のあらゆるエリートを超越する。衆生に利益なき事柄に菩薩は時間と精力を費やさず、利益あること、或いは大利益あること、最も重要なことのみを行う。

人前での不必要な体面問題を放下すること、即ち一種の自我を放下することである。他人からの無意味な評価や見方を気にせず、本来我無きに、不合理な評価を何故気にかける必要があろうか。正しいことを行い、人を利することを為し、時を浪費せず、仏菩薩と衆生に恥じぬ生き方をすれば、如何なる形でも良い。不合理な執念に固執し円融性を欠くことは愚痴である。執念があれば波旬がこの心理を利用し、愚行を為させる。無心であれば利用されず、付け入る隙もなく、悪果も生じない。仏陀は常に菩薩に、虚仮の名誉名声に執着せず、毀誉褒貶に心動かさず、ただ真理を堅持せよと教える。

自らの修行目標を調整し、直接目標に向かい、不必要な事柄に心を留めず、損得を計算しないこと。意気ではなく智慧を用い、他人の目における敗北者となることを恐れない。世俗法における成敗は全て幻化の仮相であり、世俗で敗れても仏法において成じ易い。他人の心中における不必要な自己像を考慮せず、それが即ち我である。様々な我を滅しこそ真の我見断者である。

九、過去現在因果経第三巻

原文:爾時太子。即便問曰。我今已知汝之所说。生死根本。復何方便。而能斷之。仙人答言。若欲斷此生死本者。先當出家修持戒行。謙卑忍辱。住空閒處。修習禪定。離欲惡不善法。有覺有觀。得初禪。除覺觀。定生入喜心。得第二禪。舍喜心。得正念。具樂根。得第三禪。除苦樂。得淨念。入舍根。得第四禪。獲無想報。別有一師。說如此處。名爲解脫。從定覺已。然後方知非解脫處。離色想。入空處。滅有對想。入識處。滅無量識想。唯觀一識。入無所有處。離於種種想。入非想非非想處。斯處名爲究竟解脫。是諸學者之彼岸也。太子若欲斷於生老病死患者。應當修學如此之行。

釈:シッダールタ太子が生死の根本を斷ずる方便を問うと、仙人はまず出家して戒行を修め、忍辱行を修し、閑静な地に住して禪定を修習すべきと答えた。初禪は欲界の惡不善法を離れ、有覺有観ある状態。二禪は覺觀を除き定生喜楽を得る。三禪は喜心を捨て正念を得て楽根を具足し、四禪は苦楽を除き淨念を得て捨根に入り無想報を得る。別の仙人師は無想処を解脫と説くが、実際は定から出た後に非解脫と知る。

仙人は続けて、色想を離れ空無辺処定に入り、有對想を滅し識無辺処定に入り、無量識想を滅して一識を観じ無所有処定に入り、種々想を離れ非想非非想処定に入ることを説く。これらは究竟解脫の彼岸であるとし、生老病死の患いを斷じるにはかくの如く修學すべきと述べた。

原文:爾時太子。聞仙人言。心不喜樂。即自思惟。其所知見。非究竟處。非是永斷諸結煩惱。即便語言。我今於汝所說法中。有所未解。今欲相問。仙人答言。敬從來意。即問之曰。非想非非想處。爲有我耶。爲無我耶。若言無我。不應言非想非非想。若言有我。我爲有知。我爲無知。我若無知。則同木石。我若有知。則有攀緣。既有攀緣。則有染著。以染著故。則非解脫。汝以盡於粗結。而不自知細結猶存。以是之故。謂爲究竟。細結滋長。復受下生。以此故知非度彼岸。若能除我及以我想。一切盡舍是則名爲真解脫也。仙人默然。心自思惟。太子所說。甚爲微妙。

釈:太子は仙人の説を聞き心に喜ばず、その知見が究竟的でなく煩悩結使を永断するものではないと考える。非想非非想処に我の有無を問う。我が無ければ非想非非想と言うべきでなく、我が有れば知覚の有無を問い、知覚無きは木石同然、知覚有れば攀縁が生じ染著して解脫できないと指摘。仙人は粗結を盡くしたが細結の残存に気付かず究竟と誤認し、細結が成長すれば下生を受けると諭す。真の解脫は我及我想を除き一切を捨てることと説く。仙人は黙然とし太子の説の微妙さを思う。

仙人の指す涅槃の道は戒定のみで解脱慧を欠く外道の道である。解脱は無我の智慧による煩悩結使の永断を要し、理論知見のみでは足りない。修行の初発心と究竟位は共に無明の我相を破り煩悩を断ずることにあり、理論知見の獲得が即ち学仏ではない。智慧あれば無明無く、煩悩無く、無明あれば智慧無く、智慧無ければ生死に在りて解脱せず。故に修行の検証は無明煩悩の薄減程度による。

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