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観行五蘊我見断ち(第二部) (思考過程を明示せず、要件通りタイトルのみ出力)

作者: 釋生如 分類: 二乗解脱 更新時間: 2025-02-26 閲覧回数: 1998

第八章 倶舎論疏第二十三巻(聞思修証四慧)

聞所成慧と思所成慧は、四加行――煖・頂・忍・世第一法という四種の善根が生じる前に現れる智慧である。この二種の智慧は未だ堅固ではなく、逆境に遇えば退失する。思所成慧の次の修所成慧に至って初めて、観行の智慧は退失しなくなる。四種の善根の中で忍善根が現れる時、善根は不退となり、観行の智慧も不退となる。四加行を修し終えた後に初めて証慧が現れ、四聖諦によって生じる智慧、すなわち現量智・法智・類智などを証得するのである。

第一節 聞慧

原文:雑縁法念住には総じて四種あり。二三四五蘊を境とすること別なるが故に。唯五蘊を総縁するを名けて此の修とする。彼は此の中に住して四行相を修す。一切の身受心法を総観する。所謂非常・苦・空・非我なり。然るに此の念住を修習する時、余の善根有りて能く方便と為る。彼応に次第に修して現前せしむべし。謂わく彼は已に熟修し、雑縁法念住せり。

釈:四念住中の法念住を修習する際には、更に身念住・受念住・心念住を交えて観じ、単に法念住を縁とするだけでなく、他の三念住をも交えて縁とする必要がある。法念住に対応する受・想・行・識蘊の四種の境界がそれぞれ異なるが故に、色・受・想・行・識の五蘊を総縁して法念住を観修するのである。行者が法念住に心を縁けて修習する際には、苦諦の四行相――苦・空・無常・無我――を修め、総体的に身・受・心・法の苦空無常無我性を観行する。而して法念住を修習する時、他の善根である煖・頂・忍・世第一法が方便として修証を助け、行者は次第に修めて四種の善根を現前せしめるべきである。此等の四種善根が現前する時、行者が已に熟達して雑縁法念住を修習したことを示すのである。

原文:将に此の念住を修習せんと欲する時、先ず応に総縁して無我行を修すべし。次に生滅を観じ、次に縁起を観ず。以て観行者は、先ず諸行が因より生滅するを観ずれば、便ち因果の相属する観門に於いて、易く趣入するを得るが故なり。或いは先ず縁起を観ぜんことを欲する者有り。此の後三義の観を縁じて引き起こす。此の観無間に七処善を修す。

釈:行者が法念住を修習しようとする際、まず五蘊を総縁して無我の行相を観じ、次いで五蘊の生滅(無常行相)を観じ、更に五蘊の縁起(空行相)を観ずる。観行者が先ず身受心法の諸行が因縁によって生滅することを観ずれば、因果の相関関係から無我無常を観じやすく、四聖諦の理に趣入し易い。或る者は先ず五蘊の縁起を観じ、その後で蘊・処・界の三法義に縁ずる観を引き起こす。この観行方法は、七処善(色・受・想・行・識の各蘊について苦・集・滅・道・味・患・出離を観ずる)を間断なく修習するものである。

原文:七処善に於いて善巧を得るが故に、能く先来の諸所見境に因果諦を立てて次第に観察す。此の如く熟修して智及び定したる已に、便能く順現観諦を安立す。謂わく欲界・上界の苦等各別なり。此の如き八諦に随って次第に観じ、未だ修したることなき十六行相を修す。彼は聞慧によって八諦中に初めて此の如き十六行観を起こす。薄絹を隔てて衆色を見るが如し。此れに齊して聞慧円満と名づく。

釈:七処善を修習して善巧を得た故に、従来の観境に因果の諦理を確立し、五蘊の苦・集・滅・道を明らかにして七処善を次第に観ずる。かくして観行の智慧と禅定を熟達した後、四聖諦に順じる現観諦智が生じる。順現観諦とは欲界・色界・無色界の各々における苦諦・集諦・滅諦・道諦に随順する智慧であり、未だ現量智ではないが煖法善根が生じ、四聖諦理に背かない。四念住と四聖諦の八諦を次第に観じ、従来未修の十六行相を修する。聞慧によって八諦において初めて十六行相の観行が生じる。この段階の智慧は薄絹越しに物を見る如く朦朧としており、ここに至って聞慧は円満する。聞慧円満の時、四念住と五蘊を観ずることは薄絹越しの視界の如く、輪郭は見えるが未だ鮮明ではない。聞慧以前は更に無明が厚く朦朧としていたが、思慧・修慧に至れば無明が薄れ、証慧が現れる時には無明が断じられ三結が断たれる。以上の論述に照らし、自らの聞慧がどの程度修められているか、円満しているかを検べるべきである。仮に聞慧が円満したとしても、未だ証慧には程遠い。数年間修行しても聞慧さえ円満していないならば、何が不足しているか、如何に補い、如何なる措置を取り精進すべきかを検べる必要がある。

第二節 思慧

原文:思所成慧は此れに準じて応に説くべし。次に生死に深く厭患を生じ、涅槃の寂静功徳を欣楽す。此の後多く厭観を引き現前せしめ、方便勤修して漸増漸勝す。此の如き能く順決択する所の思所成に摂する最勝善根を引き起こす。即ち修する所の総縁共相法念住なり。

釈:思所成慧は聞所成慧の基準に従って修められる。聞慧が円満した後、生死輪廻に対し深い厭離が生じ、涅槃の寂静功徳を欣求するようになる。その後は厭離観が現前し、観行が深化して智慧が勝れる。五蘊の苦空無常無我に順じる順決択分が生じ、思所成慧に属する最勝善根(総縁共相法念住)が現れる。共相とは一切衆生の五蘊が同様に苦空無常無我であることで、法念住は別相(個別の五蘊)と共相の双方から観ずる必要がある。思所成慧の特徴は、三界への厭離と四聖諦理への随順である。未だ厭離心が生じず世俗に執着する者は思慧を得ておらず、修慧も具足しない。真の菩薩であれば、世間を厭離しつつも衆生救済のため留まる。厭離なき菩薩は真の菩薩ではない。聞慧・思慧には禅定が伴うが、未到地定を具足せねば修慧は円満せず見道も叶わない。

原文:上記の論文に準ずれば、即ち三義七処等の後に総相念住を起こし、煖法に入るなり。三義観とは蘊・処・界の三科義なり。七処善とは色の苦・集・滅道・味・患・出離を如実に知り、受・想・行・識も亦た然り。色を如実に知るには四智――法智・類智・世智・苦智――を以てす。

釈:三科(蘊・処・界)と七処善を観じた後、五蘊総相の法念住が生じて煖法に入る。七処善は各蘊について苦・集・滅道・味・患・出離を観じ、色蘊の観察からは法智(総相智)・類智(類別智)・世智(世俗智)・苦智(苦諦智)の四智が生じる。解脱者は十智(法・類・世俗・他心・苦・集・滅・道・尽・無生)を具えるが、七処善の修習はこれらの智を培う基盤となる。

第三節 修所成慧の四加行四善根

四念住の観行は四聖諦と密接に関わる。各念住で四諦を観じ十六行相を修すれば、煖・頂・忍・世第一の四善根が生じる。これらは見道前の修所成慧に属し、意根に熏習されて四諦に随順する。四加行の修習により身心に変化が生じ、煩悩が軽減され見道の因縁が整う。三十七道品の実修が必須であり、見道前には欲界の粗煩悩を断じ、細煩悩は見道後に断ずる。理論の学習は実修を補助するが、過度に依存せず実修を主とすべきである。四加行の段階で身心が清浄化されるのは見道への準備であり、単に煩悩が軽減されただけでは証果ではない。真の悟りには厳格な修行の積み重ねが必要で、安易な自己評価は危険である。

「1+1=2」の知識が聞思修証の何れに属するかは、その理解の深さによる。表面的な記憶は聞慧、論理的把握は思慧、実証的洞察は修証慧に相当する。仏法の真実も同様で、解悟と証悟の間には膨大な修行の蓄積が必要である。解悟した者は一旦所解を捨て、三十七道品に基づく厳格な実修に専心すべきである。名利心を離れ、禅定と観行に励み、漸次に証悟への因縁を整えるのである。

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