観行五蘊我見断ち(第二部)
聞所得慧と思所得慧は、四加行――暖・頂・忍・世第一法という四種の善根より前に生じる智慧であり、この二種の智慧は堅固さが足りず、逆縁に出会えば退失してしまう。思所成慧の後ろの修所成慧まで修めば、観行の智慧は退失しなくなる。四種の善根の中で忍善根が現れるとき、善根は初めて退せず、観行の智慧も退しない。四加行を修め終えた後に、初めて証慧が現れ、四聖諦を証得して生じる智慧、すなわち現量智・法智・類智などとも呼ばれるものが現れる。
<h3 style="text-indent: 2em;">第一節 聞慧</h3>原文:杂缘法念住总有四种。二三四五蕴为境别故。唯总缘五名此所修。彼居此中修四行相。总观一切身受心法。所谓非常苦空非我。然于修习此念住时。有余善根能为方便。彼应次第修令现前。谓彼已熟修。杂缘法念住。
解釈:四念住の中の法念住を修習する際には、さらに身念住・受念住・心念住を間雑して観修しなければならず、法念住のみに縁じるだけでなく、残りの三念住にも間雑して縁じなければならない。法念住の修習が対応する受想行識蘊の四種の境界はそれぞれ異なるため、色受想行識の五蘊を総じて縁じて法念住を観修しなければならないのである。行者は法念住に心を縁じる中で、苦諦の四種の行相――苦・空・無常・無我を修習しなければならず、全体から身・受・心・法の苦空無常無我の性を観行する。そして法念住を修習する際には、暖・頂・忍・世第一法のような他の善根もあり、修めた結果を方便によって検証することができるので、行者は次第に修習して、四種の善根を一つ一つ現前させなければならない。この四種の善根が現前したとき、行者がすでに熟練して雑縁法念住を修習したことを示している。
原文:将欲修习。此念住时。先应总缘。修无我行。次观生灭。次观缘起。以观行者。先观诸行。从因生灭。便于因果。相属观门。易趣入故。或有欲令。先观缘起。此后引起。缘三义观。此观无间。修七处善。
解釈:行者がこの法念住を修習しようとするとき、まず全体から五蘊に縁じて無我の行相を観行し、次に次第に五蘊の生滅を観察する。これは五蘊の無常の行相を観行するのである。さらに次に五蘊の縁起を観行する。これは五蘊の空の行相を観行するのである。観行者はまず身受心法の諸行を観行し、それが因縁に随順して生滅するものであると観じるので、因果の相属の角度から無我無常を観行するのが容易になり、四聖諦の理に入りやすいのである。ある人はまず五蘊の縁起を観察し、その後に蘊処界の三法義に縁じる観行を引き起こしたいと考える。この観行方法は無間断に七処善根を修習するものであり、すなわち色受想行識の五蘊についてそれぞれ苦・集・滅・道・味・患・出離を分別観察するのである。
原文:于七处善。得善巧故。能于先来。诸所见境。立因果谛。次第观察。如是熟修。智及定已。便能安立。顺现观谛。谓欲上界。苦等各别。于如是八。随次第观。修未曾修。十六行相。彼由闻慧。于八谛中。初起如斯。十六行观。如隔薄绢。睹见众色。齐此名为。闻慧圆满。
解釈:七処善を修める中で善巧を得た缘故により、先に観行したすべての境界において因果の諦理を建立でき、すなわち五蘊の苦集滅道を明らかにし、次第に五蘊の七善処を観察することができる。このように観行の智慧と禅定を熟練して修めた後には、四聖諦に順じた現観諦智を生じさせることができる。順現観諦とは、欲界と色界・無色界それぞれの苦諦・集諦・滅諦・道諦などに随順する智慧であり、この時点ではまだ現量の観行智慧はないが、暖法善根を生じさせることができ、四聖諦の理に背かない。
このように四念住と四聖諦の八種の義理について、その次第に随って観行し、従前修め出したことのない十六種の行相を修習する。行者は聞法によって得た智慧により、この八種の諦理の観行の中で、最初にこのような十六種の行相の観行を生じさせる。このときの智慧は、あたかも一枚の薄い布絹を隔ててすべての色相を眺めるようであり、ここに至って聞慧は修め満ちたのである。
聞慧が修め満ちたとき、四念住と五蘊を観じるのは、一枚の薄絹を隔てて色を見るようであり、色の輪郭は見えてもなお鮮明ではなく、ぼんやりとしている。聞慧が現れる前には、一切法を見ることはさらに朦朧として不明瞭であり、無明が非常に重い。聞慧まで修めると、無明はいくらか薄くなり、思慧と修慧まで修めると、無明はさらに薄くなり、証慧が現れるに至って、無明は一部分断除され、三縛結が断除される。
以上の論文に述べられた聞慧の特徴と修行の過程とを照らし合わせて、自分の聞慧がどの程度まで修まったか、修習が満ち足りたかどうかを点検しなさい。たとえ修習が満ち足りたとしても、それはまだ聞慧の段階にいるに過ぎず、証慧からはまだ遠く離れている。もし何年も修めて、聞慧すら修め満ちていないのであれば、自分がどこに不足しているのかを点検し、どのように差を埋めるべきか、どのような措置を取るべきかを考え、馬に鞭を打ち加えるように、精進して道を修めるべきである。
<h3 style="text-indent: 2em;">第二節 思慧</h3>原文:思所成慧。准此应说。次于生死。深生厌患。欣乐涅槃。寂静功德。此后多引。厌观现前。方便勤修。渐增渐胜。引起如是。能顺决择。思所成摄。最胜善根。即所修总缘。共相法念住。
解釈:思所成慧は聞所成慧の準則に照らして語られるべきである。聞所成慧が満ち足りた後には、生死輪回に対して深く厭患を生じ、世俗に倦み、涅槃の寂静の功徳を欣楽するようになる。この後にはさらに多く、世間を厭離する観行が引き出され、世間の厭うべきことを現観し、このようにして修道と観行に対していっそう精進になり、観行はますます深まり、智慧はますます殊勝になる。ついには五蘊の苦空無常無我の諦理に随順しうる順決択分が引き出され、思所成慧に摂属される最勝善根が現れる。これが修めるべき、五蘊の全体から四聖諦の共相に縁じる法念住である。
共相とは、一切衆生の五蘊がすべて同じく苦空無常無我であり、すべての衆生の五蘊がこのような共通の属性を持つことを指す。これに対するのが別相であり、単体の衆生の五蘊の苦空無常無我の属性である。法念住は別相と共相という二つの角度から次第に観察してはじめて、修行が満ち足りるのである。
ここには思所成慧の持つ相貌と特徴が描写されている。最も主要なのは、五蘊世間に対する厭患心があり、三界世間に倦み、清浄な涅槃の功徳を憧れ、内心が五蘊の苦空無常無我の性に順従し、四聖諦の理に背かず、四念住に対して如理如実の決択を有し、順決択分を発起することである。順とは、四聖諦に順従し背かないという意味である。もし内心が無我・無常・苦・空の理に抗うのであれば、順決択分はなく、聞慧も満ち足りていない。
もし学人がまだ五蘊世間に対する厭離心を現しておらず、なお世間に欲求と希冀を抱き、世間法を讃嘆し、三界世間法に貪着して捨離しようとせず、世間の眷属に執着して情執が深重であるのであれば、それは思所成慧がなく、四聖諦の理に随順していないのである。そうであれば、修所成慧はなおさら満ち足りておらず、証道からはあまりにも遠い。数多くのいわゆる証果明心の人々の言動を観察することを通じて、世間を厭患する人は極めて少なく、大多数は世間に貪欲と希冀に満ちていることが分かる。だからこれらのいわゆる果は、真の果とあまりにもかけ離れており、その後世の果報を連想すると、嘆息を禁じ得ない。
ある人はこう言うだろう。我々大乗法を修学して仏道を成じようとする者は、五蘊を保有し、五蘊世間の中で修行し、自利利他すべきであり、五蘊世間を厭離すべきではない、もし世間を厭離すればそれは菩薩種姓ではない、と。この言は誤りである。菩薩は声聞縁覚と同じく世間に対して厭を生ずべきであり、ただ厭んでも離れないだけで、決して凡夫のように世間を喜楽し、世間に貪着することはない。世間が幻化であると知りながら、菩薩の智慧がどうして幻化した世間に何か希冀や欲望を抱くことがあろうか。欲があり貪があり喜楽があるということは、その智慧に欠けがあり差し違いがあること、空幻の理を明らかでないことを示している。菩薩は世間が空幻であることを知り、その心は淡泊で、欲なく求めないが、ただ道業と衆生のために、その願力に随って、世間を歩まざるを得ないのである。一方、凡夫の心は「歩まざるを得ない」のではなく、世間を欣楽し、世間に味着し、捨離することに忍びないのである。だから小乗の学人であれ大乗の学人であれ、思所成慧を修め出したならば、必ず世間に対して厭離の欲を生じるものであり、菩薩が欲を離れないならば、それは真の菩薩ではない。
聞所成慧と思所成慧の中にはいずれも禅定があるが、ただ禅定の深浅が異なるだけである。もし基本的な粗浅な禅定すらなければ、聞所成慧は満ち足りることはあり得ず、まして思所成慧や修所成慧は言うまでもない。どの種類の智慧も禅定と切り離すことができず、定がなければ心は乱れ、心神が集中せず、聞思は満ち足りず、定が浅ければ慧は浅く、定が深ければ慧は深い。その後の修所成慧の集積の過程では、禅定は必ず未到地定が満ち足りてはじめて参証成就でき、それによって見道する。未到地定が満ち足りていないときには、聞慧と思慧はあり得るし、修慧もあり得るが、修慧は満ち足りることができず、したがって見道もできない。
原文:准上论文。即是三义七处等后。起总相念住。入暖法也。三义观者。即蕴处界。三科义也。七处善者。如实知色苦。色集。色灭趣。色灭行。色味。色患。及色出离。如实知受想行识七亦尔。如实知色。是四智知。谓法类智。世智苦智。
解釈:上述の論文に照らして知るべきは、蘊処界の三科義および七処善を観察した後に、五蘊の総相に縁じる法念住を生起させ、暖法善根に入るということである。三義観とは蘊処界の三法に対する観察であり、七処善とは色蘊の苦、色蘊の集、色蘊の滅道、色蘊滅が修めるべき道、色蘊の味、色蘊の過患、および色蘊の出離しうる性を如実に知ることである。さらに受蘊のこの七処善、想蘊のこの七処善、行蘊のこの七処善、識蘊のこの七処善も如実に知る。これらはすべて色蘊の七処善と同じ理である。さらに色蘊を如実に知ることには四種の智が生じる。すなわち法智・類智・世俗智・苦智である。
解脱した人は十種の智を具える。法智・類智・世俗智・他心智・苦智・集智・滅智・道智・尽智・無生智である。五蘊の中の各蘊の七処善を如実に観察したことにより、智慧をもって色蘊を如実に知ることができ、色蘊を知る智慧には四種ある。すなわち法智・類智・世智・苦智である。法智は一切法を全体から、智慧をもってその無我無常苦空を観知することであり、類智は全体の法の中の同じ類の法に対する智慧の観知であり、世智は世俗界の中の法に対する智慧の対応であり、世俗の衆生の根機の利鈍に随って宜しく度化することであり、苦智は五蘊世間に対する如実の観察であり、智慧をもって世間の一切法がすべて苦であり、取るべからざることを知ることである。
<h3 style="text-indent: 2em;">第三節 修所成慧の四加行四善根</h3>一、四念処の観行と四聖諦には関係があるのか。四念住の観行の過程では、それぞれの念住において四聖諦の理を観行しなければならず、こうして合わせると十六の行相を観察したことになる。十六行相を満ち足りて観行すれば、四種の智慧の境界を獲得する。これが四種の善根である。この四種の善根が暖・頂・忍・世第一であり、四加行とも呼ばれる。これは見道の前に必ず経なければならない段階であり、四加行四善根は修所成慧に属し、この前は聞慧と思慧に属し、比較的浅く、意根にまで薫習されていない。意根に薫習され、意根が触動され変化し、苦空無常無我に随順して順決択分を発起してはじめて、修所成慧が生じる。修所成慧があって、満ち足りたときにはじめて見道する。だから四加行は非常に重要であり、皆が知っておくべきものである。私は少しずつこの方面の法を講じていくつもりである。
皆に補完して差し上げる必要のある理論は三十七道品であり、少し細かく講じて、一人一人が自分が三十七道品を修めているかどうか、またどの程度まで修めているかを知るようにさせる。最後に、見道の前の修道の過程で、禅定の中でどのような比較的粗重な欲界の粗煩悩を断除する必要があるかについても講じておく。細煩悩は見道以後にしか断除できず、見道の前には断除できず、色界の煩悩はなおさら断除できない。こうすれば小乗の法は、基本的にほぼ足りており、これ以上講じる必要はない。
修道とは、実は九割の時間が個人が用功する時間であり、聞法に使う時間はごくわずかで、理論の知見を吸収して修行を導き、偏った道や間違った道に逸れないようにする。理論の知見がほぼ足りるようになったら、完全に個人が専心一意に用功すべきであり、これ以上時間をかけて理論を学ぶならば、それは事を誤ることになる。だから私は今後あまり多くの法を講じたくない。皆の実修を誤らないためである。今後理論上の不足がまだあると気づけば、少しずつ補っていく。具体的にはあくまで実修が主であり、理論は足りればよく、貪って多くを求めても大きな役には立たず、時間の無駄になるだけである。
四加行の修行の段階では、意根に有効に薫習されたため、身心ともに変化が生じ、心は従前より清浄になり、煩悩は軽くなり、身口意行はいくらか清浄に転変する。このようにしてはじめて、次第に見道後の聖賢の人の心行の品質と相応することができ、その後にはじめて見道する。だから、自分の身心が変化し、煩悩が軽くなったからといって、見道した、証果したということではなく、まだ遠く及ばない。大乗法において悟った悟ったと常に自分を疑う人々は、これらの法を修めておらず、満ち足りて修めていないのであれば、今後はこの疑を断ちなさい。疑う必要はない、自分は悟っていない、解悟でもない。悟った後も悟る前と身心世界の変化がほとんどない、あるいは全く何の変化もない、ただ知見がいくらか増えただけ、中には知見すら不足している人もいる、这样的人は三十七道品すら修めておらず、四加行にも至っておらず、ただ聞思の段階にいるに過ぎない、という人々がいる。そうであれば、このような誤解はあまりにも大きすぎる。なぜこのような誤解が生じるのか。
二、1+1=2を知っていることは、聞思修証の四種の慧の中でどの慧に属するのか。
聞思修証の四種の慧はいずれも1+1=2を知っているが、知と知の差はあまりにも大きい。一歳の子供でも1+1=2を知ることができ、犬さえ調教すれば1+1=2を知ることができ、大学教授も1+1=2を知っており、数学者も1+1=2を知っている。この間の差は一体どれほど大きいのか。1+1=2はゴールドバッハ予想の中の難題であり、中国の数学者では陳景潤と華羅庚だけがかつて論証と証明に着手したが、華羅庚および他の数学者も論証できず、有効な証明を与えられず、陳景潤も完全に証明できたかどうかは分からない。1+1=2を証明する能力のある人は一億人に一人もおらず、証明に着手できる人は一億人に一人を超えず、1+1=2を思索できる人は千分の一、万分の一にも満たず、1+1=2を知っている人は無数である。
だから我々は皆1+1=2を知っているが、この知の水分は一体どれほど大きいのか。同理に、多くの学仏人は四聖諦の理と如来蔵の法を学び、数年間学んだ、あるいは二三年しか学んでいない、さらには二三ヶ月しか学んでいないのに、自分は証した悟ったと言う。ここには当然相当な水分がある。大多数の人は修という段階まで至っておらず、如実に、着実に修行する因縁がなく、見道の因縁がすべて満たされていない。修慧と証慧を語るなど言うまでもなく、思慧があれば相当良い方である。だからこそ、学仏修行というこの道はそれほど容易に歩めるものではなく、自分を過大に評価し、仏法を過小評価してはならない。さもなければ旧業が消えないうちに新業を加え、後世はどうして解脱できようか。
幼稚園の子供や小学生、中学生たちは、1+1=2を実証しようとするなら、どのように努力すべきか。1+1=2を証明する因縁条件をどのように完備すべきか。一億分の一、十億分の一、百億分の一という実証の比率において、これらの子供たちが将来実証できる可能性はどれほどあると思うか。どのように努力すべきか。数学の天才でない限り、可能性はほとんどない。1+1=2の証明において最も重要なのは途中の論理演算のステップであり、結果はすでに与えられているが、途中の証明過程がなく、補完する必要がある。論証の過程では、結果を忘れ、結果を未知として扱わなければならない。論証過程の苦労は、陳景潤を知れば分かる。代償は非常に大きい。
仏教の中で四聖諦と般若唯識を修習し接触した仏子もいくらかいるが、すべての学仏人の中での比率はやはり非常に少ない。これらの人々の中で、大小乗の法に対して程度の差こそあれ知と解を有しており、四種の慧の中では大多数が聞慧に属し、少数が思慧に属し、極少数が修慧を有しているが、証慧という程度に達した人はおそらくごく僅かで、一億分の一の可能性がある。では、すでに四聖諦の理と如来蔵般若の空理を知りながらまだ実証していない学仏人は、どのように実証し親証すべきか。あるいはすでに仏法を理解し、仏法を解悟した学仏人は、どのように再び親証し実証すべきか。どのような因縁条件を完備し、どのような努力をすれば真に実証できるのか。
仏法を理解し、仏法を解悟したこの部分の人にとって、仏法を実証しようとするなら、自分の解したもの、悟ったものをすべて忘れ、結果を未知として、参究の過程に持ち込んではならない。これには修慧が必要であり、三十七道品、戒定慧、菩薩の六度を実修し、見道のための種々の条件を完備し、甚深な禅定の中で如理に参究しなければならない。だから仏法を解悟した人は、解したことを忘れ、従前学んだ知解を放下し、名利心・争勝心・虚栄心を捨てて、最初からやり直すことを厭わず、一歩一歩足跡を残し、着実に、焦らず躁らず、こうしてはじめて実証の可能性がある。途中で大きな代償を払わなければならず、非常に辛苦であるが、一滴の汗に一分の収穫があり、どれほどの代償を払っても値するものである。