衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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観行五蘊我見断ち(第二部) (思考過程を明示せず、要件通りタイトルのみ出力)

作者: 釋生如 分類: 二乗解脱 更新時間: 2025-02-26 閲覧回数: 588

第十一章 瑜伽師地論第五十五巻(三種の現観) 

原文:復た次に。此の三種の雑染有り。煩悩雑染・業雑染・生雑染と謂う。断ぜんが為に故に、六種の現観を修す。知るべし、何等が六なるかを。謂く、思現観・信現観・戒現観・現観智諦現観・現観辺智諦現観・究竟現観なり。

釈:さらに、煩悩雑染・業雑染・生雑染という三種の雑染が存在する。これら三種の雑染を断じるために、六種の現量観行を修める必要がある。この六種の現量観行とは何を指すか。すなわち思の現量観行・信の現量観行・戒の現量観行・現観智諦の現量観行・現観辺智諦の現量観行・究竟の現量観行である。

煩悩雑染とは貪瞋痴の心行であり、これがある故に貪瞋痴の業行を造作し、それによって後世に雑染の生身を受ける。これらの雑染法を断ずるには、六種の現量観行を修習しなければならない。以下に各現観を解説する。

思現観とは四聖諦の理を如実に審査決定する思惟であり、諸法が苦・空・無常・無我であることを明らかに証悟する。外道の影響を受けず、四聖諦の理に退転しない。思現観が成就すれば正行が生じ、心が清浄となり歓喜を生じ、疑惑を断じ、永く善道に住し悪道に趣かぬ。これは意識と意根の思惟であり、意識単独では心行を転換できず、疑惑を断じ清浄心を得ることはできない。思現観には大乗法への思惟も含まれ、現観と呼ばれる所以は真理に符合した実証的智慧を具えるからである。

信現観とは三宝に対する決定不疑の清浄信を指す。この信は智慧を表し、智慧ある故に現観が可能となる。信現観を成就した者は仏法僧を誹謗する業を造らなくなる。三世諸仏の無量の功徳・福徳・智慧神通を如実に了知し、三宝への勝解を有し正行を修める。

末法において誹謗法は広く見られ、特に大乗非仏説を主張する者は大乗の法義を理解せず愚癡をもって断じる。法を非法とし非法を法とする逆説は重い誹謗罪となり地獄の果報を招く。

僧への誹謗も広く存在する。僧を非僧とし非僧を僧とする、あるいは出家者の過失を宣伝する行為はいずれも誹謗僧に当たり、衆生の信根を破壊する重罪である。

戒現観とは仏の制定した戒律を堅守し、三悪道の業を造らぬ境地を指す。戒現観を成就した者は故意の殺生・盗み・邪淫・妄語・飲酒を断じ、身口意が清浄無漏となる。これは預流果以上の聖者が具える境地である。

瑜伽師地論第五十五巻によれば、戒現観を具えた初果以上の聖者は五戒を破らず、心が三悪道と相応せず、十不善業を造らない。五戒を守れぬ者は初果以上の証量を持たず、その証果は誤りである。

我見を断じて初果を得た者は三悪道に堕ちない。その心が転換し三悪道業と相応せず、無我を証得した故に悪業を造らぬ。五戒十善に相応する心行こそが三悪道の業を断つ。

現観智諦現観とは加行道において福徳資糧を円満し、意根が善法に調熟した時、世間択分の辺際に随順して無間の善根を生ずる。意根の善根顕現により有情の仮法を初歩的に遣除し、粗重煩悩を断ずる。初果の見道は粗重煩悩を断じ、意根の証得により無間の智慧が生起する。

二果・三果においては更に中品・上品の煩悩を断じ、禅定と観智の双運道により究竟の断惑を成就する。これらは意根の証得による無間の智慧である。

現観辺智諦現観は三果・四果の見道後に得られる世俗智であり、法智・類智に属する。四聖諦各々の観察に忍可智と決定智を生じ、他者の難問に善く答える力を具える。

究竟現観は阿羅漢が修所断の煩悩を永断し、三界の生死を滅尽した智慧である。この境地に至れば五戒を破らず、妄語を造らず、世間の苦楽を自他作と計らぬ。この身が最後の生となり、後有を受けることない(留形住世を除く)。

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