観行五蘊我見断ち(第二部) (思考過程を明示せず、要件通りタイトルのみ出力)
第五章 阿羅漢と解脱
一、解脱とは何か
解脱とは一切の貪・瞋・痴の煩悩を離れることである。色・声・香・味・触・法に対し心に掛かり縛られることなく、貪りもせず瞋らず、喜びも憂いもない。一切の人事物に掛かり縛られることなく、貪りもせず瞋らず、喜びも憂いもなく、有るも無いも同じである。衣食住に縁に応じて求めず、貪欲の心無し。世間に生きつつ足るを知り、過分の望み無し。過去を追わず未来を想わず、現在にも住せず、念々に留まらざる。一切の人事物に心執わず、その苦・空・無常・無我を明らかにし、その来歴を悟り、その幻化たるを得ざるを知る。一切の法を心空じ、自在無礙なるを解脱という。
二、解脱と自在
一切の法を修習する目的は、諸法の空性・仮性・中道性を見破り、自心に智慧を得て一切の境界に心空無礙となり、功徳の受用を得て世間の煩悩より解脱するためである。
或る者は問う:解脱に何の用あらんや。解脱には用無し。何も用いず貪執せざるが即ち解脱、解脱とは束縛を離れ自在となることなり。解脱に苦無きは、籠を離れたる鳥の如く自在に翔け、罠を脱したる猛虎の如く山野を闊歩し、手綱を断ちたる駿馬の如く天地を馳騁するがごとし。また或る者は問う:自在に何の用あらんや。自在にも用無し。何も用いざるが即ち自在なり。自在とは我の束縛なき感覚に過ぎず、感覚さえも無く、感覚あれば自在ならず。故に用無きが最上、用いる必要無し。用いること自体が重荷となり束縛となり、苦となる。
解脱して無我となるには、日々自らに問うべし:我が飯を食うは何の用ぞ。答えん:色身の存在のため。再び問う:色身の存在は何の用ぞ。答えん:生きるため。再び問う:生きるは何の用ぞ... 根を掘り砂鍋を砕くまで問い詰め、決して自らを容易に赦すこと無し。後に智者は智を、仁者は仁を述べ、各々己見を披瀝すれば境界は紛然と現れ、思想は躍如として差別自然に顕わる。反観し反思する時、次第に修道に入る。日々この如く自らに問えば、終に悟りの日を得て貪着せず執着せず、暢やかに自在解脱し、煩悩無く、遂には自ら超然として物外に超脱せん。
三、解脱者の心境
解脱とは煩悩を断じ、心空無我となり、五蘊十八界に執取せず。色蘊を取らず、受蘊を取らず、想蘊を取らず、行蘊を取らず、識蘊を取らず。色を取らず、声を取らず、香を取らず、味を取らず、触を取らず、法を取らず。財色名食睡を取らず、名利供養を取らず、世間法を貪らず、縁に応じ物に随い、功利心無く、計算心無く、報いを求めず、権勢名声を求めず。権勢に附せず自ら高ぶらず、奇を競わず強きを奪わず自らを顕さず、欺き計らず策を弄さず、一切の法に用心無く、世間法拘束する能わず。五蘊世間は畢竟空にして縛る所無く掛かる所無く、取ると不取と皆了不可得、枷鎖心に着かず自在無礙なり。
四、四果阿羅漢が八地菩薩の解脱証量に相当する所以
小乗の四果阿羅漢は無余涅槃に入るを得る。大乗は初地菩薩より煩悩を断じた三果聖人なり。地上菩薩は解脱正位に入り四果を証取し得るも、命終に四果を証取すれば無余涅槃に入るを仏は許さず、解脱正位に入るを禁じ、七地満心に至り四果を証取し八地菩薩位に入る。八地以上の菩薩は再び無余涅槃に入らざるなり。故に解脱の証量より見れば、四果と八地菩薩の解脱証量は相等し。初地満心も四果を証取すべからず、然らば仏戒に触れ呵責を受け、仏も菩薩が四果果位を証取せざるを護持せん。
五、阿羅漢・辟支仏の修行は五蘊を捨て涅槃を取る
阿羅漢の四聖諦修行及び辟支仏の十二因縁修行は減法と捨法なり。五蘊世間を漸次に捨つ。彼等の心中に法有り物有り五蘊有るが故に、修行上不断に減少せしめ、心行業を減じ貪欲と一切煩悩を捨て終に涅槃を取る。阿羅漢らは確かに三界有り、五陰身有り、苦受有り、因果有りと認むる故、此等一切を捨て三界を出離せんと決す。取捨の心は巧偽を成す故、最上最真実の修行法に非ず。然れども此れは各修行者の必ず経るべき道なり。
然るに修行は層次と段階を分つ。先ず悪を棄て善を取る。心善くなりて後は悪も取らず善も取らず、取捨せずして中道に住す。菩薩は一切法が如来蔵の幻化たるを知り、心中に物無ければ捨つべきもの無く、一切法を取らず捨てず、貪らず厭わず、坦然と面し従容として衆生を度す。故に絶対に三界を離れ涅槃を取らんと欲せず。
六、阿羅漢の無余涅槃入りは灰身泯智にして万念俱灰に非ず
阿羅漢が無余涅槃に入れば、その三界世間法は消失す。正確に言えば、三界世間に阿羅漢なる者は存在せず。三界世間とは欲界・色界・無色界を包含し、器世間と称し極めて多き色法を含む。阿羅漢が無余涅槃に入れば、七識に相応する帯質境・性境・独影境等の色法生ぜず、第八識に相応する本質境色法も生ぜず。本質境無ければ帯質境・独影境・性境無し。此等の境界は三界業種が現出する依報世間法なり。正報は五蘊身なり。
万念俱灰は凡夫俗人のもの。聖人は心無く念無く願無く希冀無く、故に灰や俱灰を論ずるに及ばず。阿羅漢が俗人の如く万念俱灰となることは不可能なり。万念俱灰とは多くの希望と意願が実現できず大いに失望し、世間に於いて何の想いも念も無くなるを意味す。然れど意根には未だ多くの想いと願い滅せず、ただ実現できざるのみ。阿羅漢は灰身泯智なり。原義は五蘊世間に一切の願いを寄せず、故に五蘊身と解脱智慧を要せず、身心共に捨つ。仏は灰身泯智の語を以て阿羅漢の愚を形容す。灰身は現在の色身五蘊及び未来世無量劫の五蘊色身を滅し捨つ。泯智は三界解脱の智慧を泯滅す。即ち阿羅漢は身心を捨て解脱と寂静と名づく。
真実の解脱とは、一切の境界に面する時、境界無きが如く、欲無く求め無く、見て見えず聞いて聞こえず、用心無く、主動せず回避せず、染まらず触れず、極めて自在なること。仏陀は此の如く自在解脱し、五蘊身の解脱色妨げず、転識成智の七識心有り、身智共に在りて相離れず、如何なる天魔外道も為す術無し。此れ即ち仏陀の無住処涅槃境界なり。何の法にも住せず、無垢識の如く無為、真如の如く無為、然れども有為を妨げず、大円鏡智の如く有為にして無為、有為無為渾然一体となり、相離れず。此の境界比類無く、故に衆生の境界と仏陀の境界は比すべからず。
七、阿羅漢の第八識心体に在る業種
阿羅漢は有余涅槃に在り、縁に随い日を過ごし、五蘊世間一切の法を執取せず、心空無我なり。三界世間法の業種は漸次消失す。三界世間業種無ければ、後世にも三界世間無く、更に五蘊身の三界世間出生無し。阿羅漢の第八識に尚三界業種有らば、種子必ず現行し業行を酬償す。斯くの如くならば無余涅槃境界無し。
然れど阿羅漢が無余涅槃に入りて後、早晩再び三界世間に出現す。阿羅漢は涅槃前に大乗法を聞き、大乗法の種子を植え付けたれば、種子成熟すれば第八識は意根の識種子を出力し、意根を出生し中陰身に入り再び胎を投じ大乗を修学す。業種は意根に相応し、意根は業種に相応す。意根が三界世間を執取せざれば世俗業種を留めず、執取有れば引き続き善悪業を造作し、業種を留め後世業種に随い輪廻す。意根執取せず六識業を造作せざれば業種無く、業報を受けること無し。
八、入流とは
入流とは解脱の聖道流に入ることを言う。解脱にはまず生死の束縛たる我見邪見を断除せねばならず、此れより後は三縛結を具える凡夫ならず。入流の過程に禅定不可欠。欲界の未到地定以上の禅定を具え、我見を断じて聖道流に入る。禅定あるいは初禅定のみにて我見三縛結を断除せざれば聖道流に入れず。然らば四禅八定を具える外道も皆聖道流に入るべきなり。斯くの如くならば外道の四禅八定も解脱を得るや。既に三縛結を断てば聖道流に入る。入流後に断つ能力を得るに非ず。
九、仏陀の涅槃は一切法を滅すことか
仏陀の涅槃と阿羅漢の涅槃は本質的に異なる。仏陀涅槃後も十方世界に無量の五蘊身を化現し衆生を度化す。故に仏は五蘊身を解脱色と称す。仏が一世界にて衆生を度化する縁暫く了れば色身を滅し方便に涅槃と名づく。例えば釈迦牟尼仏は娑婆世界にて涅槃し色身を暫く離れ滅せり。然れど釈迦仏は依然として娑婆世界の法主・教主・導師なり。娑婆世界の衆生は依然として釈迦仏が教化する弟子に属す。同時に釈迦仏は無量無辺の五蘊身を化現し十方世界に十方衆生を教化す。阿羅漢涅槃後は再び色身五蘊無く、故に阿羅漢の涅槃に解脱色無く、彼等の涅槃は究竟自在ならず、解脱不徹底なり。
仏には五蘊有れど解脱せり。解脱色は衆生の肉眼に見え、世間の如何なる法にも縛られず。衆生も五蘊有れど世間法に縛られ解脱を得ず。心解脱すれば色身も解脱し、五蘊皆解脱す。故に解脱は必ずしも色身五蘊を滅すに非ず、不如理不如法の心念と知見を滅し、心念を如理如実の知見見地に転ずれば即ち解脱す。
十、処世の道
人の目とは白きピンポン玉に猫目を嵌めたる機械的装置に過ぎず、真に受くる要無し。若し人より情を含めた眼差しを受けば、それはピンポン玉の出水、猫目より流れ出るもの、大河と成り汝を溺れしめず、丘を傾け山を倒すこと無し。理る要無し。若し人より秋波を送られば、それはピンポン玉の放光、猫目より投射するもの、大自然の光は此れより温かなり。若し人より怒目を向けられば、それはピンポン玉の発火、猫目より燃え出るもの、汝を焼かず燎原の火と成らず、理らざれば自然に消えん。
我を愛し我を憎む、我に関わること無し。我は悠然として自在なり。一切を淡く見、心静かなること水の如し。我は相に着かず、天下事無く天地自ら寛し。若し天地さえ見えざる時至らば、真に解脱せり、何と善きことぞ。
十一、俱生我執を断じた阿羅漢は永遠に在家者ならず
問:俱生我執を断てば心に掛かり無く、自他及び親族の生死に畏怖無く、自己の財産損失に畏れ無し。此れは大解脱を得たるも、出家を望まぬ在家居士に適切か。真に此の境界に至れば、多くの仕事ができぬと思わる。
答:先ず俱生我執を断尽したる者は小乗にては四果大阿羅漢、大乗にては八地菩薩なり。在家者に四果大阿羅漢の境界至ることは不可能。在家者の最高は三果まで。三果人は世俗に於いて世間法に興味無く、必ず出家の方便を求む。出家の機縁多く、家に對する興味更に無く、耐え難きを感じ、出家せざる者は多くは縁に随い日を過ごすも、尚一部の執着未だ断除せず、居家生活と仕事にも縁に随い、執着性少なし。
大乗の四果阿羅漢は八地菩薩果位に在り、彼等は通常娑婆世界に来たらず。仮に此の世に来たりても在家の世俗生活を営まず、家を養い仕事に就くなど全く不可能。彼等の福徳は比類無く広大、如何にして世俗の仕事にて日を過ごす等の低俗事あらんや。衆生を度す事業は皆縁に随い、一片の執着無し。何故仕事と家事に屈せんや。実を言えば娑婆世界に初地菩薩と三果人を見出すことさえ稀有なり。地上菩薩は通常出家し衆生を度す。菩薩数多き時を除き、皆出家して衆生の表率となる。