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観行五蘊我見断ち(第二部) (思考過程を明示せず、要件通りタイトルのみ出力)

作者:釈生如更新時間:2025年02月27日

第七章 倶舎論第二十三巻(証果に応じて断ずべき煩悩)

第一節 初果に応じて断ずべき煩悩

一、原文:修惑を断ずるに具わること殊なるが故に、三向を立てん。謂わく、彼の二聖、若し先時に於いて、未だ世道を以て修断の惑を断ぜざれば、名けて具縛と為す。

釈:解脱道を修める者は、修行過程において断ずべき煩悩惑の差別甚だ大なるが故に、煩悩惑業を断じたる者を三つの果向に立て名づく。即ち初果向・二果向・三果四果向なり。頓根の信行人と利根の法行人、此の二種の聖道を修める者、若し先に世間道の善法に於いて修断の煩悩惑を断ぜざれば、此の人は即ち一切の煩悩を具足する凡夫なり。

此の意は、修道は凡夫より修行を始む。凡夫も亦た相応の煩悩惑を断ず。凡夫衆生は皆種々の修道過程を経る。最初は必ず世間法を修し、世間法に於いて悪を断ち善を修す。修行の内容は四正勤なり。四正勤未だ修め足らざれば、煩悩惑を断ずること能わず、即ち煩悩結縛を具足する凡夫なり。凡夫は見道前に主として三十七道品を修す。三十七道品は七覚分と八正道を含む。七覚分の中に定覚分あり、定覚分具足すれば、欲界の中下品の煩悩を降伏し断除す。

八正道の中にも正定あり、正定具足すれば、亦た欲界の下品煩悩を降伏し断除す。三十七道品具足して修すれば、戒定慧円満し、見道の条件具足して、因縁に遇い法眼浄を得、初果を証す。若し此等の修道条件を具足せざれば、因縁も亦た具足せず、見道有るべからず。多く人此の修行段階を越えて見道証果を説くは、即ち誤解の見道、大妄語のみ。

倶舎論原文:或いは先に已に欲界の一品乃至五品を断ぜり。此の位に至りて名けて初果向と為す。初果に趣くが故なり。初果と謂うは即ち預流果なり。此れ一切の沙門果の中に於いて必ず初めて得るが故なり。

釈:解脱道を修める者、或いは先に已に欲界の第一品より第五品の煩悩惑を断じたり。此時即ち此の人を初果向と名づく。初果に趣向するが故に初果向と為し、久しからずして初果を証得せん。初果は亦た預流果と称す。一切の出家沙門果の中に於いて必ず最初に証得する果位なり。

初果向は欲界五品の煩悩惑を断じ、然る後に初果を証得す。即ち凡夫位の初果向に於いて欲界五品の煩悩惑を断ずることを要す。凡夫何を以て五品の煩悩惑を断ずるや。上文の如く、凡夫は修道過程に於いて三十七道品を修し、悪を断ち善を修す。善を修すれば即ち悪を断つ。悪を断つは即ち欲界五品の煩悩を断ずるなり。若し善のみを修し欲界未到地定無く、或いは欲界未到地定具足せざれば、五品惑を断ずること能わず、初果向人と成ること能わず。未到地定を修するは即ち七覚分中の定覚分、八正道中の正定なり。若し欲界の未到地定足らざれば、正定具足せず、八正道の修道具足せず、正道有るべからず。

故に或る者の説く所の初果二果見道に禅定を要せず、未到地定を要せず、甚だしきに至っては定を修せずして証果するを説くは、此の言論は甚だ七覚分と八正道の理に背き、証果の真実理に背き、更に世尊と弥勒菩薩諸仏菩薩の教導に背く。説く所の証果は実無く、実無し。是れ仏法の修証を軽視するなり。亦た其れ三十七道品の実際修行段階を経ず、修行に於いて盲目にし、臆測の成分多きを証す。末法の世に多くの善知識、実に知識の収集と散播に善くするのみ、修証の理を知らず。

二、初果の断ずる所の粗重煩悩とは何を指すか。

凡そ法には粗相と細相の分れ有り。粗相は顕著にして容易に知覚し得、細相は粗相の後に現れ、弁別難く、仔細に観察して始めて知覚し得。世間法も出世間法も粗と細に分かたる。乃ち識心も亦た粗と細有り。

煩悩は法なり、而して心法なり。亦た粗と細に分かたる。粗煩悩とは粗重なる煩悩を指す。即ち煩悩中顕著なる部分、容易に察知し得る内容なり。重は甚だしき意。顕著なる粗相の煩悩は必ず甚だしき煩悩、或いは極めて重き煩悩、人皆見知し得る部分なり。存在すべからず、世間に容れられざる部分、最初に断ずべき煩悩なり。既に世間人も容れ難き粗重煩悩は、修行界に於いて、特に聖賢の法界に於いては、更に存在し現行するを許さず。

貪瞋痴慢疑悪見、此の六根本煩悩、各々粗と細の二大分あり。其の中細煩悩は更に細分可能なり。粗細は相対的に説く。最粗の部分を去り、細き部分も亦た粗細に分かたる。遂に分かつべからざる煩悩に至りては、最細極細の煩悩なり。此の部分の煩悩は凡夫全く発見弁別能わず。乃ち諸地菩薩も恐らく発見弁別能わず。八地以上の菩薩に至りて始めて断除す。稍々細き煩悩は、凡夫智慧足らざるが故に、自らも断除せず、発見弁別能わず。初果を証得し明心する者も弁別能わず。経験智慧足らざるが故なり。

凡ての煩悩は略して上中下の三品に分かつ。各一品も亦た上中下の三品に分かつ。上品の煩悩は顕著にして甚だしきは最も先に断ずべきなり。四聖諦修習の過程に於いて、初果向の段階に於いて断ずべきなり。粗重なる上品煩悩を断じて始めて初果預流果となる因縁有り。然らざれば初果向も証得能わず、況んや初果より四果に至るをや。

例へば貪煩悩は粗細九品に分かつ。更に細分すれば更に分かつべし。最粗の貪は甚だ重く、世間人容易に見知し得、容れ難きは存在すべからず。若し存在すれば即ち煩悩重き凡夫なり。例へば財物に対する大貪、男女欲感情に対する大貪、色身に対する大貪、名利に対する大貪等、枚挙に遑あらず。他の煩悩も亦た然り。甚だしき顕著なる部分は皆粗重煩悩に属し、初果或いは初果向の時に断ずべし。

若し人自ら証果し明心見性せりと説くも、其の煩悩尚重く、容易に人に発見され、容れ難きは、此の人を大妄語と判断すべし。仮令此の人理論多くを説くも、身口意行に現わるる煩悩を以てすれば、即ち凡夫と断定す。口才理論に依るべからず。理論知識は実際の証量を代表せず。

若し人自ら何某の果位を証得せりと説き、他に聞かしめ、他疑わば甚だ煩悩し、瞋心を起こし人を怒り罵り、悪を結べば、即ち此の人何も証得せざるを知るべし。其の煩悩余りに粗重、普通の凡夫を超ゆる故なり。所学の法を恃み衆人を蔑み誹謗する者、概ね粗重煩悩の凡夫と断定すべし。

三、問:須陀洹果の断ずる所の五蘊身を我・我所とする見解は、意根を我とする見解を断ずるか。

答:初果の我見断除は意根と意識共に断ず。二者共に五蘊の苦空無常無我を認む。但し初果の我見断除は徹底せず、二果は更に深入り、故に貪瞋痴煩悩薄く、三果は更に深入り、故に貪瞋痴煩悩を断除し、四果に至り我見徹底的に断尽し、我慢我執断じ、世間法に微塵も染まらず、有余涅槃を取る能力有り。即ち一切の煩悩を断尽して始めて四果阿羅漢を証得す。四果阿羅漢は無学位、更に修すべき法無く、断ずべき煩悩無し。

初果は未だ貪瞋痴有れども薄きに非ず。然れども初果の我見断除の功徳は貪瞋痴煩悩を有効に降伏せしむ。凡夫の如き顕著なる貪瞋痴現行せず。初果は修道過程に於いて三十七道品を修了し、八正道を具足す。即ち心地正直良善、修行の正道に在り。四正勤修了すれば、初果人の煩悩悪習降伏され、善法建立し、初果人の善を具足す。断悪修善の功徳を以て、初果人の解脱功徳受用を具足す。或る証果無き者の説く初果人と凡夫同じく貪瞋痴煩悩有るは、甚だ初果人を誹謗する言行なり。実際全く然らず。

若し凡夫と同等の貪瞋痴煩悩を有する初果人に遇わば、即ち此の人は偽初果人、凡夫の冒充と断定すべし。今世間詐術盛行す。仏教に於いても詐術多し。或る者は故意、大多数は無意識、只我執重く、自らを過大評価し、内省せず、人と争う。結果自らを害す。命終後大妄語を以て地獄に堕つ。

何故大妄語の罪業かくの如く重きや。楞厳経に曰く、譬えば貧人妄りに帝王を称すれば、王に捕らえられ斬首せられ、九族誅滅せらる。仏教に於いて凡夫聖人を冒充するは、世間に於ける帝王冒充の罪より大なり。聖人は帝王に遥かに勝れたり。聖人を冒充し仏教を乱し、衆生聖凡を弁ぜず、仏教修証の次序乱る。聖人冒充は波羅夷罪、断頭罪、死後地獄に堕ち罰を受け罪を贖う。

四、初果の断ずる所の見惑

禅定は未到地定より既に煩悩を対治し降伏す。煩悩を降伏し遮障を除き軽減して始めて初果を証得す。初果人は見地有れども、見所断の煩悩を断ず。然れども煩悩と三縛結を断ずるには必ず未到地定を要す。未到地定は修定を以て発起す。見所断の煩悩も四加行の修行及び三十七道品の修行を経て、見道時に一部の欲界煩悩を断ず。初果は見道時に見惑を断ずれども、思惑煩悩未だ断ぜず。故に更に修道を要す。思惑煩悩は見道後更に修道を以て漸次断除す。二果・三果・四果人の見地、見地透徹する程、我我所断除の程度深く、心空しく煩悩微細なり。

初果の見惑は初見道時に断ずれども、初見道も漸次修道の結果なり。修せざれば見惑を断ぜず。修道の内容は三十七道品と四加行なり。三十七道品の一つは禅定なり。三十七道品修せず或いは修め足らざれば見道せず、更に見惑を断ぜず。故に未到地定は初果人見道に具足すべき必要条件なり。

初果見道前に、従前の貪瞋痴煩悩を一定程度降伏せしめ、粗重部分を断除し、貪瞋痴煩悩の遮障せざらしむ。三十七道品修行過程に於いて、極重の貪瞋痴煩悩を漸次降伏し、煩悩漸次微薄、心漸次柔軟、智慧漸次明朗、遮障は密雲の如く漸次稀薄、智慧の陽光雲を透して現れ、見道す。見道前の煩悩薄きは従前の重き煩悩に比するのみ。二果の貪瞋痴薄きと程度異なり。共に相対的角度より説く。語彙同じくとも内包全く異なり、混同すべからず。

四聖諦:苦聖諦・苦集聖諦・苦滅聖諦・苦滅道聖諦。其の中苦滅道聖諦は修道の真理、依る所の理論なり。此の理論の修学は初果前より始まり、四果阿羅漢に至る。故に修道は見道後始まるに非ず、四聖諦に接触する時より始まる。最初四念処観を修行する時より始まる。修せざれば如何にして見道せん。三十七道品中の四正勤:一、已生の悪法を断ぜしむ。二、未生の悪法を生ぜしめず。三、未生の善法を生ぜしむ。四、已生の善法を増長せしむ。此等の修善滅悪の修道内容は正に衆生の煩悩を対治す。対治して煩悩を降伏せしめ微細ならしめ、見道す。

第二節 修道に断ずる所の三界八十一品思惑

原文:地地に失徳九有り。下中上各三なり。論に曰く、失は即ち所治の障を謂い、徳は即ち能治の道を謂う。先に已に弁ぜり。修断の惑の九品差別の如し。是の如く上地乃ち有頂に至るも例すべし。断ずる所の障の如く一一の地中各九品有り。諸の能治の道、無間解脱九品亦然り。

釈:三界中の各地の過失と功徳総じて九種有り。九種中各々下中上の三種に分かたる。略して二十七種、各々更に下中上に分かたる。故に衆生の所有する思惑煩悩は細分して八十一种となる。

失は過失、衆生の過失は即ち貪瞋痴煩悩、修道の対治すべき障礙なり。徳は功徳、即ち煩悩思惑を対治する修道の獲得する所の功徳なり。若し修断の煩悩惑の九品差別を修せんと欲せば、即ち修道を修す。修道は即ち定を修す。定無くしては惑を断ぜず。欲界より三界頂の非想非非想天に至るまで、各地に九品の煩悩過失を断ずるを要す。能治の各品煩悩過失の修道も九品に分かたる。三界一切地の九品思惑断尽して無間断の解脱を得る。

所謂無間断の解脱は、身心刹那毎に解脱、各法に於いて解脱、何時も解脱。此の解脱は意識単独の獲得に非ず。最終的に意根の獲得する所なり。意根解脱すれば一切解脱、意根解脱せざれば一切解脱せず。意根若し解脱せんと欲せば、修道は深く意根に至るを修せざるべからず。此の深度に至るには必ず定を修す。定無くしては意根に至らず、意根智慧を得ず、智慧無くして解脱せず。故に解脱は定慧等持なり。意識の乾慧に非ず。

三界総じて九地に分かたる:欲界・色界初禅天・二禅天・三禅天・四禅天・無色界空無辺処天・識無辺処天・無所有処天・非想非非想天。各地相応の禅定境界有り。各禅定相応の煩悩思惑を対治す。是れ修道の功徳なり。而して思惑は過失、其の過失は禅定を以て対治す。禅定現前すれば修行の功徳現れ、其の功徳を以て煩悩思惑を対治し、其の後此の功徳を以て証果す。其の中禅定より引生する解脱の智慧証量有り。合して解脱す。

九地相応の九品思惑有り。欲界の貪瞋痴略して下・中・上の三品に分かたる。各一品更に下中上に分かたる。総じて九品:下下1・下中2・下上3;中下4・中中5・中上6;上下7・上中8・上上9。此等九種の思惑は欲界定と初禅定に於いて断ず。禅定無くしては一品も断ぜず、初果向を得ず、況んや初果をや。禅定の修行を越ゆるは修道に非ず。如何なる理論知識も思惑を断ぜざれば生死苦に随う。禅定の功徳は極めて大、越ゆべからず。戒律の厳持無くしては禅定修せず、修道に非ず、功徳無く、煩悩過失減ぜず、命終煩悩惑業に随い三悪道に流転す。

初禅天の貪瞋痴思惑は下・中・上の三品、各一品更に下中上に分かたる。総じて九品:下下1・下中2・下上3;中下4・中中5・中上6;上下7・上中8・上上9。二禅天・三禅天・四禅天・空無辺処天・識無辺処天・無所有処天・非想非非想天も亦た然り。総じて八十一种の思惑煩悩なり。

原文:此の中に於いて下下品の道の勢力、能く上上品の障を断ず。是の如く乃至上上品の道の勢力、能く下下品の障を断ず。上上品等の諸能治の徳、初め未だ有らざるが故に、此の徳有る時、上上品等の失已に無し。衣類を洗うが如く粗き垢を先ず除く。後後時に於いて漸く細き垢を除く。又粗き闇は小なる明能く滅す。細き闇を滅せんと欲せば大なる明を以てす。

釈:修道人は知るべし、下下品の道の勢力は上上品の煩悩障を断ず。上上品の道の勢力も下下品の煩悩障を断ず。上上品の能治の徳、初め修道上未だ現れざるも、一旦現れれば上上品の過失無く、上上品の思惑断ぜらる。例へば衣類を洗う時、粗き汚れ先ず除く、後に漸く細き汚れを除く。又粗き闇は小灯能く滅す。細き闇は大明を以て滅す。

原文:失徳相対の理も亦た然るべし。白法の力強く、黒法の力劣るが故に、刹那の劣道現行すれば、無始時来展転増益せる上品の諸惑、能く頓断す。久時に亘りて集める所の衆病の如く、少薬を服すれば能く頓愈す。長時に亘りて集める所の大闇の如く、刹那の小燈能く滅す。

釈:過失と功徳相対する理も亦た然り。善法の力強く悪法の力劣るが故に、刹那の劣道現前すれば、無始来増益せる上品貪瞋痴煩悩惑頓断す。久しく集める病、少薬を以て頓愈するが如し。長く集める大闇、刹那の小燈を以て滅するが如し。

能治の煩悩過失の道は即ち徳、即ち修道の起こす功徳なり。修道の功徳は戒定慧を含む。三者欠くべからず。戒も定の如く下中上品に分かつ。慧も亦た下中上品に分かつ。戒を以て心を制し散乱せず、定功配合すれば禅定現前す。禅定有るが故に四聖諦理及び大乗理に接触し融通し、智慧現前す。戒律厳守する程禅定深く、法義入心し理融通、煩悩薄く、徳大なり。故に持戒は徳、禅定は徳、智慧は徳。徳は功徳のみならず福徳なり。此の徳を以て後世善道に生ず。徳は根器、道を載する根本の器なり。徳有れば道有り、道有れば解脱す。

道と徳合して即ち道徳。徳高く名望重し。道徳高尚なる人、其の名望自然に重し。譬えば花香、自然に蝶を引く。道徳有る人、下品の人動かす能わず。動かせば即ち損を受く。因果許さず、徳も許さず。大動は大損、小動は小損。現世花報、後世果報、避くべからず。道徳巍巍たる故なり。譬えば国王位尊く権重し。辱すれば牢に入れられ斬首せらる。甚だしきに至っては九族誅滅せらる。勢力盛んなる故なり。

第三節 二果に応じて断ずべき煩悩

原文:若し先に已に欲界の六品或いは七八品を断ぜり。此の位に至りて名けて第二果向と為す。第二果に趣くが故なり。第二果は即ち一来果なり。遍く得る果の中に於いて此れ第二なるが故なり。

釈:若し先に已に欲界六品の思惑を断ぜり、或いは七八品断ぜり。此の位に修すれば即ち二果向、二果に趣向す。第二果は一来果、人天各一往来して有余涅槃に入る。一切の得るべき果位の中に於いて一来果第二位に在り。故に二果と称す。

欲界の六七八品思惑は前五品より深細、断じ難し。一旦断ぜば断徳高く、果位当然五品断徳の初果向・初果より高し。欲界の九品煩悩思惑は皆欲界の法に関わる。欲界の色声香味触法に対する貪瞋痴煩悩、欲界の飲食・衣具・生活資具に対する貪瞋痴煩悩、男女欲に対する貪瞋痴煩悩なり。第一品の下下品煩悩惑は最粗重、最混濁、最低劣、過失最重、最存在すべからず、最断ずべきなり。二品次、三品更に次、五品修断して初果向、凡夫と初果の間に在り。凡夫に摂され、三悪道を免れず。然れども三悪道に堕つる確率極めて少なく、初果位に至りて始めて三悪道流転の苦を滅除す。

欲界五品煩悩惑を断ぜんと欲せば、即ち戒を修し定を修す。欲界定生起すれば五品思惑煩悩を降伏断除す。此の煩悩惑を断じ、更に戒を修し定を修し、観行智慧を生じ、五陰苦空無常無我を証得し、三昧現前し、法眼浄を得、初果を証す。其の中禅定は鍵。欲界未到地定無くば一切煩悩惑降伏断除せず、初果向も得ず。

未到地定何故五品思惑を断ずるや。定は心を定む。先ず身を定む。身定まりて後心定まる。心定まれば心伏せられ、色声香味触法に趣くこと少なく、煩悩自然断ず。二果向・二果の断ずる所の煩悩惑は初果向・初果より微細深し。然れども未だ欲界の煩悩惑に属す。未だ一品を残して欲界の煩悩惑を断尽す。欲界未到地定有れば断除可能。色界定・無色界定は更に容易に断除す。

或る者の説く証果明心に禅定を要せず、煩悩を断ぜず、初果の煩悩も凡夫と全く同じ。此等の言論は此の人真の修道段階を経ず、自心凡夫の煩悩に相応するを顕す。所謂証果明心は甚だ疑わし。禅定無き人は禅定の功徳受用知らず、煩悩を断ぜず。其の煩悩当然凡夫と異ならず。然れども実際は然らず。禅定は断徳・福徳・功徳有り。修道の最重要鍵。禅定此の鍵無くば我見断除の智慧生ぜず。意識の理解は決定作用無く、意根の智慧こそ決定的。無明煩悩の存否を決定し、後世の趣向を決定し、解脱を決定す。

初果を証ずるは胎を脱ぎ骨を換うるに等し。意根は主心骨。如何なる骨は如何なる胎。意根無明煩悩断ぜざれば骨変わらず、凡夫胎を脱せず。中陰身に於いて入る胎は意根の骨に由る。何故禅定は意根の脱胎換骨を為すや。禅定は六識を降伏す。六識動き少なく、意根の六識支配調節減じ、攀縁心弱まり、心法義に住し、法義吸収消化の能力増強し、法義考量に専注し、漸次融通し智慧生じ、煩悩断除し解脱を得。禅定無くば六識六塵攀縁止まず、意根六識指揮止まず、法義に住せず、智慧生ぜず、煩悩止まず、解脱望無し。

第四節 三果に応じて断ずべき煩悩惑

原文:若し先に已に欲界の九品を離れ、或いは先に初定の一品を断じ、乃至無所有処を具離せり。此の位に至りて名けて第三果向と為す。第三果に趣くが故なり。第三果は即ち不還果なり。数は前に準じて釈す。

釈:若し先の修道に於いて已に欲界の九品煩悩惑を離れ、或いは色界初禅天の一品煩悩惑を断じ、乃至無色界無所有処天の煩悩惑を離れ、此の位に修すれば即ち三果向、三果に趣向す。第三果は不還果、再び人間に来ず、五不還天に於いて有余涅槃に入る。

三果の解脱智慧には多様有り。後述す。今の要点は、三果向已に欲界の一切煩悩惑を離れ、色界初禅の一品煩悩惑も断ぜり。欲界の一切思惑を離るるには欲界未到地定のみならず、色界初禅定を要す。最高無色界無所有処定を以て欲界の一切思惑を断ず。

何故欲界思惑を断ずるは三果向にして三果に非ざるや。煩悩は先ず断じ遮障無くして後、更に五蘊を観察し深き見道智慧生じ、三果見道して三果を証得す。二果も亦た然り。二果向未到地定に於いて八品思惑を断じ、煩悩遮障を除き、更に五蘊を観察し二果見道智慧生じ二果を証得す。初果も然り。凡夫位の未到地定に於いて五品思惑を断じ、粗劣なる煩悩遮障を除き、五蘊苦空無常無我を観行し、最初の我見断除の智慧を得、初果を証得す。

此の見道標準を以て娑婆世界に幾許の真の小乗見道有るや。小乗真に見道せざれば五蘊死せず、如何にして大乗見道せんや。巷に満つる偽見道・虚見道、其の果位如何。後世の果報思えば冷汗流る。何故多くの人恐れ知らざるや。愚痴のみ。棺を見て涙せず、棺に臥す時涙出ず、三悪道に血を流す。

原文:次に修道に依り、道類智時に於いて衆聖の差別を建立する者は頌に曰く、第十六心に至り、三向に随って果に住し、信解・見至と名づく。亦た鈍利の別に由る。論に曰く、即ち前の随信行・随法行者、第十六道類智心に至りて名けて果に住す。向と名づくに復た非ず。前三向に随って今三果に住す。即ち前の預流向は今預流果に住し、前の一来向は今一来果に住し、前の不還向は今不還果に住す。阿羅漢果必ず初得無し。見道は修惑を断ずるを容れざるが故なり。

釈:三果向の後、再び修道に依り道類智生じ、衆聖の差別現る。第十六心に修すれば、三果向の断徳に随い三果位に住し、随信行の信解人と為す。随法行の見至人も亦た根の利鈍に由り差別有り。前の随信行・随法行者、第十六道類智心に至りて三果の住果と為す。向を捨て、向と名づけず。前の初果向・二果向・三果向に随い、今三果に住す。前は不還果向、今は不還果。而して阿羅漢果を証得するに向無く、中間果無く、直接阿羅漢果を証得す。阿羅漢見道すれば修断すべき無く、前三果修了して始めて阿羅漢四果を証得し、無学と為す。前三果は有学有修有断、第四果無学無修無断。

第五節 四果前に応じて断ずべき煩悩

一、阿羅漢は慧解脱と倶解脱の二種に分かたる。慧解脱の阿羅漢は初禅のみ、解脱智慧を主とす。倶解脱の阿羅漢は四禅八定或いは滅尽定を加う。阿羅漢は一切煩悩現行を断尽す。初禅以上の禅定無くば貪瞋我慢等の煩悩断尽すべからず。瑜伽師地論或いは阿毘達磨倶舎論に証拠有り。

如何なる煩悩も、最粗浅なるも禅定を要す。禅定無くば断除降伏能わず。欲界最粗重の五品煩悩を断じて初果向と為す。禅定深き程断ずる煩悩多し。色界禅定無くば欲界の貪欲煩悩断尽せず、瞋恚煩悩断尽せず、三果阿那含・四果阿羅漢を証得せず。故に仏法修証に於いて禅定は最重要、不可欠。禅定無くば実修・実証無し。或る者の説く禅定修せずして証果するは、此の人一切煩悩を具足し、我見を断じ証果せず、具縛凡夫なり。

煩悩断除の程度に依り証果を判断す。証果は煩悩断除と密接に関わり、禅定と密接なり。煩悩は無明、無明断じて智慧を得解脱す。煩悩有れば智慧無く、禅定無くば煩悩有り智慧無し。仏法は環状に連なり融合貫通す。若し各環節繋がらざれば、法は法、関卡越えず、実証無し。

二、何故我慢は障道の因縁なるや。

道は即ち無我、我慢は即ち有我。我と無我相背く。我重き程無我の道を障礙す。我を以て無我を観行するも、結局我に止まり、道を証得せず。瑜伽師地論に挙ぐる我慢は皆我を以て始む。我有れば必ず我慢有り。我慢は我の表現。故に一切煩悩は我に由りて生ず。我は罪根、元凶。若し人「我証果せり、我汝等に勝る、我最上」等の態度現わすは、此の人我重く、我見断ぜず。我慢重き人我見断ぜず。修道は不断に煩悩を断ずる過程。煩悩薄き程我見薄く、道に近し。三向四果は煩悩断除の程度に依り定む。

三、倶生我見と我慢の区別

或る者は倶生我見と我慢の区別解せず、我慢を倶生我見と為し、四果に至りて始めて倶生我見を断ずと説く。此の誤解甚だ大。初果に於いて倶生我見を断ぜざれば初果人に非ず。我慢は意根最深甚の煩悩、意根の倶生我執に属す。倶生我見に非ず。倶生我執は四果臨証前に断ず。故に四果阿羅漢に至りて我慢現行無し。

我慢と倶生我執は我見に依りて有る。我見断じて後、我慢と倶生我執漸次微薄、遂に断尽す。我見断尽すれば我慢無し。故に倶生我見と我慢は相並べ論ずべからず。混同すべからず。

下意識に我有り。思索・分析・比較を要せず。此れ我慢、意根の認知、骨髓の如し。意根の我慢発見難く、抜き難し。卑慢・高慢・過慢を含む。心有れば必ず我慢有り。人皆我を知る。自惚れ或いは卑下、皆我見に基づく。極めて断じ難し。例へば嬰児人に抱かれんとするを見て不機嫌に背く。此れ生来の我慢、意根に伴う。意識比較無くとも意根に倶生の我見我慢有り。自己顕示・人より優れんとする者は我慢重し。誤りを指摘され不機嫌なるは皆我慢の表現。自らを善しとするは皆我慢。

意根の倶生我見は深固なる我見、五蘊を我と見做す。此の心理察知難く、故に多く人降伏断除能わず。意識の分別我見を断ずるを以て我見断証初果と為す。然れども意根の倶生我見断ぜざれば、意識の分別我見仮令断ずるも、意根に依り不断に我見生じ、無自覚に現行し、甚だ煩悩なり。

倶生我見は意識の我見に非ず。故に感覚に非ず。感覚は表層、意識の覚、意識の分別我見。分別を以て生ず。分別せざれば無し。意根の我見より発見容易、降伏容易。然れども降伏後再現し、断尽せず。意根の倶生我見断ぜざれば、意根に随う意識真に我見を断ぜず。命終の時当然意根の倶生我見煩悩に随い生死流転、三悪道を免れず。

三縛結を断ずる初果人は我慢有り。貪瞋痴弱化せる二果も未だ我慢の煩悩心所有り。三果に至り我慢を降伏し、或いは一部断除す。未だ断尽せず。断尽して四果と為す。意根の倶生我執は倶生我見より断じ難し。次第に於いて、先ず倶生我見と分別我見を断じて初果を証す。更に深化観行し、貪瞋痴薄く二果を証す。更に深化観行し初禅定を修し煩悩断除し三果を証す。意根の倶生我見徹底断尽し、倶生我執徹底断尽し、我慢消失し四果阿羅漢を証得す。

四、無明を破り煩悩を断ずるは正修なり

十二因縁中の無明・行・識・名色の前四支、名色の出生は即ち生死輪廻苦の相続。生死輪転の苦は全く無明に由る。無明は愚痴、愚痴は愚痴の業行を生じ、六識に貪瞋痴煩悩の身口意行を造作せしめ、悪業種子を貯え、生死苦相続す。故に修行は無明煩悩を破る。無明破られて智慧を得る。

無明と智慧は対立。秤の如く、智慧有れば煩悩無く悪業造作せず。煩悩有れば即ち無明未破、智慧未生、生死苦断ぜず。如何なる理論知識も無明破らざれば生死苦解脱無益。故に多理論収集は修行の方向に非ず。無明を破り煩悩を断じ智慧を増すこそ正道なり。

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