衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

生如法師ウェブサイトロゴ

観行五蘊我見断ち(第二部)

作者: 釋生如 カテゴリ: 二乗の解脱 更新時間: 2026年08月11日 閲覧数: 4011
<h2 style="text-indent: 2em;">第五章 阿羅漢と解脱 </h2><h3 style="text-indent: 2em;">一、解脱とは何か
</h3>

解脱とは、一切の貪瞋痴の煩悩を離れることである。解脱とは、色声香味触法に対して心に掛碍がなく、また繋縛もなく、貪らず瞋らず、喜ばず憂わないことである。解脱とは、一切の人・事・物理に対して何ら掛碍がなく、また繋縛もなく、貪らず瞋らず、喜ばず憂わず、何があっても何がなくても同じであるということである。解脱とは、衣食住の用や行動に対して縁に随って応じ、何ら求めることがなく、貪得の心がないことである。解脱とは、この世の中に生きながら、止足を善く知り、その日暮らしで過ぎることを得て、分外の思いがないことである。解脱とは、過去を追憶せず未来を幻想せず、また当にも住せず、念念として留まらないことである。解脱とは、一切の人・事・物理に心を着けず、その苦・空・無常・無我を明らかにし、その来龍去脈を明らかにし、その幻化であって得るべからざることを明らかにすることである。解脱とは、一切の法に対して心が空であり、自在無碍であることである。

<h3 style="text-indent: 2em;">二、解脱と自在</h3>

一切の法を修習する目的は、一切の法の空性 (śūnyatā)、仮性および中道性を見抜き、それによって自心に智慧を得させ、一切の境界に対して心空無碍となり、功徳の受用を得て、世間の煩悩から解脱することである。

解脱は何の役に立つのかと問う人がいるだろう。解脱には何の役もない。何も用いず、貪執しなくなったこと、それが解脱であり、解脱とは束縛を離れて自在になることである。解脱には苦がない。籠を離れた鳥のように、自在に翔け、罠を脱した猛虎のように、山の上でも下でも思うままに遊び、手綱を脱した野馬のように、広大な天地を思うままに馳せる。また、自在は何の役に立つのかと問う人もいるだろう。自在にも何の役もない。何も用いなくてもよいこと、それが自在である。自在とは、ただ我という束縛のない感覚にすぎず、感覚さえもなければ、感覚があっても自在ではない。だから役に立たないのが最上であり、用いると何になるのか。用いることに何の用があるのか。有用であることはすべて累赘と束縛であり、すべて苦である。

解脱して無我となるには、毎日自分に問うべきである。私は食事をして何の役に立つのか。そして答える。食事は色身が存在するためである。さらに問う。色身が存在して何の役に立つのか。答える。色身の存在は生きるためである。さらに問う。生きることは何の役に立つのか……根を掘り、底を問い、砂鍋を割ってまで問い詰め、決して自分を軽々しく見逃さない。その後は、智者には智が見え、仁者には仁が見え、各々己の見を述べ、境界は紛々として彰われ、思想は紙上に躍如となり、差殊は自然に顕れる。反観し、反思すれば、次第に修道の中に入っていく。毎日このように自分に問い続ければ、いつの日か覚悟し、貪着せず、執着もせず、舒暢自在解脱となり、煩も悩もなくなり、最後には自ら超然と物外に出て、超脱洒落となるだろう。

<h3 style="text-indent: 2em;">三、解脱した人の心持ちはどのようなものか</h3>

解脱とは煩悩を断除し、心空無我となり、五蘊十八界に対して執せず取らず、色蘊を取着せず、受蘊を取着せず、想蘊を取着せず、行蘊を取着せず、識蘊を取着せず、色を取着せず、声を取着せず、香を取着せず、味を取着せず、触を取着せず、法を取着せず、財色名食睡を取着せず、名聞利養を取着せず、世間法を貪らず、縁に随って物に応じ、功利の心がなく、計較の心がなく、報いを求めず、権勢と名声のためでもない。趨炎附勢せず、自ら高ぶって自大にもならない。争奇闘艶し強取豪奪することなく、また自己を誇示することも好まず、爾虞我詐せず、心計に巧みでもなく、一切の法に何ら心を用いることなく、世間法は彼を拘碍できない。五蘊世間は畢竟空であり、何ら繋縛もなく、何ら掛碍もなく、取るも取らぬも了不可得であり、枷鎖は心に着かず、自在無碍である。

<h3 style="text-indent: 2em;">四、なぜ四果阿羅漢は八地菩薩の解脱証量に相当するのか</h3>

小乗の四果阿羅漢は無余涅槃 (Anupadhiśeṣa-nirvāṇa) に入ることができる。大乗では初地菩薩から煩悩を断除した三果の聖者であり、地上菩薩は解脱正位に入り、四果を証取することができるが、もし証取すれば命終して無余涅槃に入らねばならないので、仏は菩薩の四果の証取、解脱正位への入を許さず、七地満心に至って四果を証取し、八地菩薩位に入る。八地以上の菩薩はもはや無余涅槃に入ることはない。だから解脱の証量から見れば、四果と八地菩薩の解脱証量は相等しい。初地満心でも四果を証取してはならず、さもなければ仏戒を犯し、仏に呵責され、仏もまた菩薩が四果の果位を証取しないよう護持される。

<h3 style="text-indent: 2em;">五、阿羅漢・辟支仏の修行は五蘊を捨てて涅槃を取ること</h3>

阿羅漢の四聖諦の修行および辟支仏の十二因縁の修行は、減法と捨法であり、五蘊世間を次第に捨てていく。彼らの心中には法があり、物があり、五蘊があるからこそ、修行の上で絶えず減らし、心行業を絶えず減らし、貪欲と一切の煩悩を捨てて、最後に涅槃を取るのである。阿羅漢たちは、確かに三界があり、確かに五陰 (pañca-skandha) 身があり、確かに苦受があり、確かに因果があると考えたからこそ、決心してこの一切を捨て、三界を出離するのである。取捨の心は巧偽となるので、だからといって最上最真実の修行方法ではなく、これが各修行者の必経の道ではあるが。

しかし修行には階層と段階がある。まず悪を棄てて善を取り、心が善くなった後は、悪を取らず善も取らず、取らず捨てず、心は中道に住する。菩薩は一切の法がすべて如来蔵 (tathāgatagarbha) の幻化であることを了知し、心中に物がないので、捨てるべきものもなく、一切の法に対して取らず捨てず、貪らず厭わず、坦然として向き合い、従容として衆を度する。だから絶対に三界を離れて涅槃を取ろうとは思わない。

<h3 style="text-indent: 2em;">六、阿羅漢が無余涅槃に入るのは灰身泯智であって万念倶灰ではない</h3>

阿羅漢が無余涅槃に入った後は、彼の三界世間法は消失して見えなくなる。正確に言えば、三界世間には阿羅漢という人がいなくなるのである。三界世間とは、欲界・色界・無色界を含み、これを器世間と呼び、極めて多くの色法を含む。阿羅漢が無余涅槃に入れば、七識に対応する帯質境・性境および独影境などの色法が生じなくなるだけでなく、彼の第八識に対応する本質境の色法も生じなくなり、本質境がなければ、帯質境・独影境および性境もない。これらの境界は三界の業種が現前させた依報の世間法であり、正報は五蘊身である。

万念倶灰となるのは凡夫の世俗人であり、聖人は心なく、念なく、願なく、希冀がないので、灰とも倶灰とも言えず、阿羅漢が世俗人のように万念倶灰になることはあり得ない。万念倶灰とは、心中に多くの希望と意志がありながら実現できず、それゆえ大いに失望し、世間において何の考えも念頭もなくなった状態であるが、意根にはまだ多くの考えと願いが滅しておらず、ただ実現できないだけである。一方、阿羅漢は灰身泯智であり、原文 五蘊世間に何らの願いも寄せないので、五蘊身と解脱の智慧を必要とせず、身心ともに捨てるのである。仏は灰身泯智という言葉で阿羅漢の愚を形容された。灰身とは、現在の色身五蘊および未来世の無量劫の五蘊色身をすべて滅し、要らないとすることであり、泯智とは三界解脱の智慧を泯滅することであり、阿羅漢は身心ともに要らないとすることを解脱と名付け、寂静と名付けるという意味である。

実は真の解脱とは何か。それは一切の境界に向き合うとき、境界がないかのようであり、欲なく求めず、見ても見ず、聞いても聞かず、何ら心を用いず、主動的でも回避的でもなく、熏染されず、沾染せず、極めて自在であることである。佛陀はまさにこのように自在解脱であり、五蘊身の解脱色を妨げず、転識成智した七識心を妨げず、身智ともに在って、互いに伴って分離せず、いかなる天魔外道もどうすることもできない。これが佛陀の無住処涅槃の境界であり、いかなる法にも住せず、無垢識 (amala-vijñāna) のように無為であり、真如のように無為であるが、有為を妨げず、大円鏡智 (ādarśa-jñāna) のように有為にして無為であり、有為無為は渾然一体となり、一つに打成し、相離れない。この境界は比類なく、それゆえ衆生の境界と佛陀の境界は比べようがない。

<h3 style="text-indent: 2em;">七、阿羅漢の第八識の心体にはどのような業種があるのか</h3>

阿羅漢は有余涅槃 (sopadhiśeṣa-nirvāṇa) の中で、縁に随って日を過ごし、五蘊世間の一切の法を執取せず、心空無我であり、三界世間法の業種は次第に消えていく。三界世間の業種がなくなれば、後世にも三界世間はなく、まして五蘊身が三界世間に生まれることもない。阿羅漢の第八識の中にまだ三界の業種があれば、種子は必ず現行して業行に酬い償わねばならず、そうなれば無余涅槃の境界はなくなる。

しかし阿羅漢が無余涅槃に入った後も、遅かれ早かれ三界世間に現れることになる。なぜなら阿羅漢は涅槃の前にすべて大乗法を聞いて大乗法の種子を植えており、種子が成熟すれば、第八識は意根の識種子を出力し、意根を生じ、中陰身に入り、再び投胎して大乗を修学するからである。業種は意根と相応し、意根は業種と相応する。意根が三界世間を執取しなければ、世俗の業種を留存できず、執取があれば善悪の業を引き続き造作し、業種が残れば、後世には業種に随って引き続き投胎輪回する。意根が執取せず、六識が業を造らなければ、業種はなく、業報を受けることもない。

<h3 style="text-indent: 2em;">八、入流とは何か</h3>

入流とは、解脱の聖道流に入ることである。解脱にはまず生死の束縛である我見 (satkāya-dṛṣṭi)・邪見 (mithyā-dṛṣṭi) を断除する必要があり、それ以降は三縛結を具する凡夫ではなくなる。入流の過程において禅定は不可欠であり、欲界の未到地定 (anāgamya-samādhi) 以上の禅定を具えて初めて我見を断じ、聖道流に入ることができる。禅定のみ、あるいは初禅定のみで、我見・三縛結を断除していなければ、聖道流に入ることはできず、さもなければ四禅八定を具する外道もすべて聖道流に入ることになってしまう。それでは外道の四禅八定を修めても解脱できることにならないか。すでに三縛結を断じていれば聖道流に入るのであって、入ってから断じる能力が生じるのではない。

<h3 style="text-indent: 2em;">九、佛陀の涅槃とは一切の法を滅することか</h3>

佛陀の涅槃と阿羅漢の涅槃には本質的な区別がある。佛陀は涅槃の後も、なお変幻して無数の五蘊身を現し、十方世界で衆生を度化するのに用いる。だから仏は五蘊身を解脱色と呼ばれる。仏が一つの世界で衆生を度化する縁が暫く了わると、色身を滅し、方便として涅槃と呼ぶ。たとえば釈迦牟尼仏が娑婆世界で涅槃されたのは、色身が暫く離れて滅したのであるが、釈迦仏は依然として娑婆世界の法主・教主・導師であり、娑婆世界の衆生は依然として釈迦仏の教化する弟子であり、同時に釈迦仏は無量無辺の五蘊身を化現して、十方世界で十方の衆生を教化されている。阿羅漢は涅槃の後には、もはや色身五蘊がなくなるので、阿羅漢の涅槃の後には解脱色がなく、彼らの涅槃は究竟自在ではなく、解脱が徹底していない。

仏には五蘊があるが、解脱している。解脱色は衆生の肉眼に見られることができ、世間のいかなる法にも繋縛されない。衆生もまた五蘊があるが、世間法に繋縛されているので、解脱を得ない。心が解脱すれば、色身も解脱し、五蘊はすべて解脱する。だから解脱とは、必ずしも色身五蘊を滅することではなく、如理如法でない心念と知見を滅し去り、心念を如理如実の知見・見地に転じることであり、それで解脱するのである。

<h3 style="text-indent: 2em;">十、処世の道</h3>

人の目は皆このようなものであり、白いピンポン球に猫の目を嵌め込んだもので、一つの機械的な装置にすぎず、真に受けてはならない。もし誰かがあなたに含情脈脈であれば、それはピンポン球から水が出たのであり、猫の目から流れ出たものである。構うことはない。大河となってあなたを溺れ死なせることはできず、丘を傾け岳を倒してあなたを押し流すこともない。構わずにおけばよい。もし誰かがあなたに秋波を送れば、それはピンポン球が光を放ったのであり、猫の目から投射されたものである。これも構わずにおけばよい。大自然の光のほうがこれより温かい。もし誰かがあなたを怒目して睨めば、これはピンポン球が火を発したのであり、猫の目から噴き出たものである。恐れることはない。あなたを燃やすことはできず、原野を焼き払う烈火にもならず、構わなければ自然に消える。

我を愛するも我を恨むも、我に関わりなく、我は自ら悠然自在である。一切を淡く見て、心は水のように静かであり、我は相に着かず、天下に事なく、天地は自ずと広い。もし天地さえも見えなくなったときには、本当に解脱したのであり、なんと素晴らしいことか。

<h3 style="text-indent: 2em;">十一、倶生我執を断除した阿羅漢は永遠に在家者ではない</h3>

問:倶生我執を断じれば心に掛碍がなくなり、自分や親族の生死に対する畏怖がなくなり、自分の財産の損失に対する畏怖もなくなるという見方がある。これはもちろん大いなる解脱を得たものであるが、このような状態は、出家するつもりのない在家居士に適しているだろうか。本当にこの境界まで修めたら、多くの仕事ができなくなるのではないだろうか。

答:まず言っておくが、倶生我執を断じ尽くした人は、小乗では四果の大阿羅漢であり、大乗では八地菩薩である。そして在家の人は四果の大阿羅漢まで修めることは不可能であり、在家の人は最高でも三果までしか修めず、三果まで修めることは非常に容易ではない。三果の人は世俗の中でほとんど世間法に興味を持たず、必ず方法を考えて出家するであろうし、しかも出家の機縁は非常に多く、家に対してはなおさら興味がなく、耐えられなくなる。出家しなければ、大多数の人は縁に随って日を過ごすが、それでも一部の執著は断除されておらず、居家の生活や仕事に対しても縁に随っており、執著性は大きくない。

一方、大乗の四果阿羅漢は八地菩薩の果位にあり、彼らは一般に娑婆世界には来ない。たとえこの世界に来たとしても、居家のあのような世俗生活、たとえば家を養い糊口を凌ぐために働くようなことは過ごさない。これは根本的にあり得ないことであり、彼らの福徳は比類なく広大であり、どうして世俗の仕事をして日を過ごすような低俗な事があろうか。衆生を度する事業はすべて縁に随っており、一丝の執著もなく、なぜわざわざ仕事や家養いに身を屈する必要があろうか。実は娑婆世界で初地菩薩や三果の人を見つけることさえ非常に稀なことであり、地上菩薩は一般に居家せず、みな出家して衆を度する。菩薩が多すぎて、みな出家して衆生の表率となる必要がない場合を除いては。

ページトップへ戻る