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観行五蘊我見断ち(第二部)

作者: 釋生如 カテゴリ: 二乗の解脱 更新時間: 2025年10月10日 閲覧数: 4348
<h2 style="text-indent: 2em;">第三章 いかに具体的に五蘊を観行するか</h2><h4 style="text-indent: 2em;">一、五蘊の観行は識心の観行を主とする</h4>

五蘊十八界の空・無我を観行するには、五根および五根に対応する五塵を観行するだけでなく、六識と意根、第六識・第七識に対応する法塵をも観行しなければならない。実は五塵に対しても意根は対応している。五塵が現れても意根が興味を示さなければ、五識を生じて五塵を了別することはなく、六識は五塵境と法塵境の存在を知らない。六識の出生はすべて意根が主宰しており、六識を生じる目的は五塵と法塵を了別し処理することであるから、意根は法塵に対応するだけでなく五塵にも対応している。六識のない場合、あるいは六識が了別する力のない場合には、いずれも意根が単独でこれらの法を観照し攀縁している。たとえば身根の場合、意根は常にあらゆる処で如来蔵 (tathāgatagarbha) に随って身体のあらゆる状況を了知しており、時に意識・五識に知らせ、時に六識に知らせない。たとえ意識に知らせても、意識にはなぜだか分からないのである。

五蘊の観行はやはり識心の無我を観行することを主とすべきである。五蘊の主体は識心であり、最も私と誤認しやすく、五根と六塵を我所と誤認する。我所の無我性は比較的認めやすいが、識心の私こそ最も見分けにくい。識心もまた法の一種であり、如来蔵の中で生じ滅しており、しかも刹那に生滅している。これらの法は真諦の角度から見れば生滅はなく、すべて如来蔵性であるが、世俗法の角度から見れば、如来蔵を除いて一切の法は生滅しており、現象は絶えず変幻し、有無が互いに対立している。変化しているのは識心の刹那生滅、識の種子が出ては滅して戻り、念念起伏して定まらないことだけでなく、塵境もまた刹那に変化しており、四大の種子が出ては滅して戻り、色法は生滅変異している。

禅定が比較的深くなると、五蘊十八界の法は心中で次第に独立して現れ、互いの癒着がそれほど緊密でなくなってくる。独立すれば各個撃破しやすいが、癒着していると比較的複雑で、より真実に見え、虚妄で無我であることを見分けにくい。禅定の状態では、識心の活動は比較的緩やかで微細になり、法への執着性は軽微となり、遮障は小さくなるので、事物の本来の面目は識心に見分けられやすくなる。それゆえ禅定の利益は極めて多く、事実の真相を澄明にし、識心の了別性と認知性を比較的客観的公正にして、智慧を開きやすい。学仏の人が禅定を修めないのはあまりにも惜しいことである。仏語を信じ、戒定慧を具足してこそ良い仏子である。

<h4 style="text-indent: 2em;">二、いかに無我を深く観行するか</h4>

五蘊を観行するとき、非常に深い禅定があれば、思惟は非常に深く細やかになり、法義の中へずっと深く入っていけ、法義の謎を一層一層解きほぐすことができる。観行・思惟するときには、ゆっくりと、細やかに、深く、自分の身口意と当座に照らし合わせ、できるだけ大きな範囲で探究し観行して、五蘊が私ではないことを識るようにしなければならない。色蘊がなぜ私ではないのか、受想行識蘊がなぜ私ではないのかを探究し、思考するときにはもう一つの「なぜ」を問い、この「なぜ」の疑問を解決し、深く細やかに思惟しなければならない。もし形式的な理解と承知だけで、本当に内心に落とし込めていなければ、すべての理論知識は空洞であり、根本問題も実際問題も解決できない。

どのように観行・思惟するのか。たとえば色身は私ではないと観行する場合、「私ではない」というのは一つの結論であるが、それは仏陀の結論であって私たちの結論ではない。それゆえこの結論は私たちとは関係がない。観行の後、私たち自身が確確実にこの結論を導き出して初めて、この結論は私たち自身のものであり、自分の智慧の結晶であり、解脱の功徳受用があるのである。仏陀の結論はただの引子にすぎず、参考の役割を果たし、自分の智慧を開発するために用いられるものである。私たちはこの結論に沿って、逆方向から観行・思惟することができる。なぜ色身は私ではないのか。色身は空だからである。なぜ色身は空なのか。色身は苦だからである。なぜ色身は苦なのか。これが最初の観行の入り口であり、私たちはゆっくりと思惟し、さまざまな根拠を探し求める必要がある。最終的に色身は確かに私ではないという結論を得る。これが身見を断じ我見 (satkāya-dṛṣṭi) を断じることである。

各人が観行の後に得る智慧、証る果位は必ずしも同じではない。因縁が異なり、観行に差別があるため、身見を断除する程度は異なり、どの程度まで証ったか、どの程度まで修めたかによるのである。たとえ初果を証ったとしても、異なる階層に分かれ、身心の受用と転変の程度も同じではない。たとえば子どもたちはみな一年生であるが、同じクラスでも学習の水準はまちまちである。証果は卒業に相当し、卒業時の各人の水準も同じではなく、早く卒業する者も遅く卒業する者もある。各行者が参究する法の範囲・角度・深さはそれぞれ異なり、思惟力が異なるため、証法の智慧にも差別がある。智慧が異なれば、煩悩の消除と行為の改变の程度も異なる。思惟が深く細やかであるほど定力は良くなり、定力が良くなるほど思惟は深く細やかになり、そうすると証る程度はますます深く、究竟したものとなり、心行の改变はますます徹底したものとなる。

<h4 style="text-indent: 2em;">三、色身は私ではないと観ずる入り口</h4>

衆生は普遍的に色身を私とし我所としており、外界の生存環境をも我が所有するものとしている。色身は私ではなく我所でもないと思惟・観行したいなら、まず生存環境である六塵境界は私ではなく我所でもないと思惟・観行し、その基礎の上で色身は私ではないと観行すれば比較的容易になる。

なぜこのように言うのか。外界の六塵は色身と同じく、いずれも如来蔵の中の地水火風空の五大種子から構成されており、性質は同じである。しかも外界の六塵は自心からの距離が色身より少し遠く、執着・思惟が軽いので、手がけやすい。仏は、外界の六塵は私たちの外身であり、私たちの外界とも言い、色身は内界・内身であり、内外は相輔相成して相通じている、と言われた。六塵は私ではなく我所でもないと確認するのは比較的容易であり、色身と六塵は同じ理である。こうすれば自心と色身の距離が開き、少し分割できるようになるので、改めて色身は私ではなく我所でもないと観行・確認するのはずっと容易になる。

世俗界で色身を研究する科学は医学と呼ばれる。中医学でも、色身の構造は山河大地と相似で同じく類同であると言い、身体を治療するとき、色身を神秘的で特別なものと見ず、山河大地として治理し、生存環境を治理するようにすればよいと説く。中医学のこの見方は非常に科学的で、仏法に近く、私たちに大きな啓発を与える。観行は一つの足がかりを見出し、手をつけるのが速くなる。

世俗の法には「流水は腐らず、戸枢は蠹まず」という言葉がある。色身も同様である。身体が詰まれば臭気が生じ、腐敗して腫瘍や癌細胞が現れる。器世間で四大が調わなければ、江河は堤を決し、地震・津波が起こり、火災・風災が氾濫し、滄海は桑田に変わり、桑田は滄海に変わる。色身もまたしかりである。四大不調ならば、気虚・血虚、風寒、上火、泄瀉、腫瘍・癌などが現れる。楞厳経の中の諸々の聖者も、外界の地水火風を観行し、さらに自身の地水火風を反観して、種々の三昧 (samādhi) を証り、成就を得たのである。それゆえ、六塵境界の観行から入るのは、色身を観行する一つの近道である。

<h4 style="text-indent: 2em;">四、色身を見破って解脱を得る</h4>

人体の解剖図を観察すれば、人体の動作は筋肉の伸縮によって形成された機械的なものであり、本当に動作している私があるのではないことが分かる。人体は意根が用いる道具であり、高精密・機械化・全自動のものであって、真実のものではなく、実際にはすべて如来蔵が編成したものである。このニューロン系統を見れば、正負極の電線の一群、乱れた麻縄の山にすぎない。そこから想蘊と受蘊が引き出され、行蘊と識蘊が作り出される。このように分解・組合せのできる肉体は一体何なのか。私なのか。それを私と見なせるのか。実はそれは何ものでもなく、根本的に私ではなく、私の所有するものでもない。ただ数十年、百年ほど使うだけであり、だめなら良いものと取り替えればよい。私たちはそれを見破り、心中の累赘を取り去り、軽やかに自在に解脱し、煩いも悩みもないようにすべきである。

この色身は少し使えばそれでよく、執着する必要はない。全体の色身は、六識の機能・作用を含めて、すべて固定したプログラムを持っており、如来蔵が設計・編成し、意根に用いられているのである。もし誰かに平手打ちされ、拳を食らわされたとしても、済ませてしまえ、こだわるな。打つことはできず、打たれたのもあなたではない。もし誰かがあなたに無理難題を吹っかけても、済ませてしまえ。侵犯することはできず、傷つけられたのもあなたではない。世間には好きなようにさせればよい。善し悪しもどうでもよく、真実のものはない。本気になる必要がどこにあるのか。あなたは私と怨を結び、私は彼と仇を結び、あなたは私を憎み、私は彼を嫌う。煩悩するのはまったく道理がなく、意味がない。微生物の間の争奪から、国と国の間の戦争、世界大戦に至るまで、争いが収拾不能なほど続くが、まったく道理がなく、誰も倒せず、誰も打ち砕けない。生じては滅し、滅しては生じ、生もなく死もない。たとえ世界が数百万年消失しても、ただ乱れた麻縄の山が消失しただけである。

釈迦仏の親族は琉璃王によって数百人殺され、阿難は心を失って痛哭したが、仏陀はいつもと同じく心は水のように平らかで、恼まず恨まなかった。なぜ仏陀はこのように達観しているのか。すべての一切に真の人も真の事もなく、幻化した空のものであるからである。それゆえ仏陀は解脱しており、阿難は解脱していないので苦恼やまないのである。

<h4 style="text-indent: 2em;">五、いかに我見の落処を観察するか</h4>

自分の我見の落処を探すには、自分の貪求から観察すればよい。需求が多すぎればすなわち貪であり、不合理な需求はすなわち貪であり、求むべきでないのに求めるのはすなわち貪である。なぜこれほど多くの求めがあるのか。心中に私があるからである。色身を私と見、受陰を私と見、想陰を私と見、行陰を私と見るので、五陰 (pañca-skandha) のために貪求するのである。心中に私がなければ、少欲知足し、ほどほどで止め、過度に探し求め取ることはなく、まして如法でない手段、不合理な方式、さらには人を損なう方式で自らの利益を求めることはない。

心中に私のない人は、心を砕いて求め取ることはなく、まして手段を選ばず求めることはなく、縁に随って生きる。無我の人は事を行うとき、他人の立場に立って問題を処理し、他人の利益を考え、他人の気持ちを慮る。しかし、このような慮いは必ずしも他人の無理な需求に従うことではなく、他人の長期的で究竟の利益を出発点とするものであり、その用心と行為は必ずしも他人の理解と同意を得られるとは限らない。

心中に私のある人、我見の重い人は、我執も必然的に重い。人と接し事を処理するのにすべて自心を出発点とし、自我を重んじ、自分の観念・見解を基準とし、他人の意見や見方を求めず、他人の気持ちを考えず、往々にして自分の習気に従ってやってしまってから話し、先斬後奏し、他人の利益を侵犯したかどうかを顧みない。他人が自分に従わなければ、怒り狂い、報復手段を取り、自我の利益を取り戻し、心中の怨みの気を鎮めようとし、結果を顧みない。このように、自他との争いの過程で、自分が一度勝利するごとに、無我修証の道で一歩後退し、生死の苦の穴に一歩近づき、今世と後世の苦難はいくらか重くなるのである。

善く観察することは、修行の中で非常に重要な一環である。善く観察すれば、一切の事柄の中の真の利害得失を衡量でき、長遠の利益は永遠に現前の利益より重要であり、長期の効果は短期の効果をはるかに上回る。我見の重い人は目光が短浅で、往々にして眼前のわずかなことしか見えず、眼前の極小の利益に両目を欺かれる。これがいわゆる業障である。業障とは何か。往世の無明の業因が自分の我見・我執を増加させ、智慧の生発を障害し、事柄の真相を見分けられず、何が自分の真実の利益かを知らず、無益の事を極大の利益として求め、結果として道に背いて馳せ、得るものより失うものが大きくなるのである。

衆生はみな、無明という用語は比較的含蓄であり、愚痴という用語は比較的粗野だと感じている。実はこの二つの語は同じ意味であり、仏陀はまさに愚痴という語をもって衆生の心性を表現されたのであり、これはすでに非常に含蓄的なのである。仏陀は時には弟子たちに一喝されることもある。咄!痴人め!と。実はどんな言葉を用いても、衆生の痴と愚を尽くし切って表現することはできず、何を言っても力が抜けず、何を言っても衆生は動じないので、沈黙するほかない。たとえ須弥山を梃子として用いても、衆生の心中の痴・愚・鈍を動かすことはできないのである。

<h4 style="text-indent: 2em;">六、いかにして塵を消すか</h4>

塵の生滅変異性、不実在性、虚偽性、空性 (śūnyatā) を証得すれば、その後、心は塵に対して空になり、浄まり、見解が変わり、知見が変わり、正見を具足し、心中に塵がなく、塵を見ても塵とせず、塵三昧を獲得し、塵三昧の中に処する。しかし塵は消えず滅せず、仮相はまだあり、ただそれに対する一切の認知が変わり、迷わず、顛倒せず、執取 (upādāna) しなくなるのである。

塵は心が了別する相であり、色相と心相、および非色非心相を含む。心は根であり、法は塵であり、この二つは鏡上の痕のようである。禅定がないために、法を学ぶとき、理は理、事は事で、永遠に別の二つのことであり、事に遇うと、理は後頭部へ逃げてしまい、事に阻まれてしまう。このように法を学んで、いつになったら解脱できるのか。

<h4 style="text-indent: 2em;">七、いかに速やかに我見を断除するか</h4>

我見を断じて初果乃至四果を証ることができるかどうかは、この人の身見・我見が軽微であるか重大であるかによる。身見の軽微な人は、色身がどうであるかをあまり意に介わず顧みず、特別に心を砕いて色身を世話することも少なく、色身の安危をあまり気にかけず、恐怖感も少ない。このような人は色身と五蘊をあまり執着しないため、我見を断じて証果しやすい。色身・五蘊をあまり意に介わないため、心中の掛礙が少なく、禅定を得やすく、五蘊の観行をずっと深く進めることができ、観行が得力すれば、我見を断じるのは比較的容易になる。

過去の修行人は善根・福德が深厚で、物質生活の発達していない世間に生きながら、物欲に制御されず、欲望が少なく、享受や娯楽を貪らず、無故に自分の福報を消耗することもなかったので、一心に道業の上で絶えず進歩することができた。今日の人は様子が違う。享受と快適な生活を貪りすぎ、心はさまざまな欲望に遮障され、業障は消除できないばかりか、むしろ増加し、道業はなかなか進歩しがたい。

過去の阿羅漢は頭陀行を行うことができた。身見・我見がなく、我執をも断除していたので、内心に私の安危に対する恐怖がなく、色身を取り巻く環境を意に介わず、ただ各種の心行を滅除して無余涅槃 (Anupadhiśeṣa-nirvāṇa) を証取することのみを願ったからである。現代人は非常に色身を意に介い、各種の栄養・保養・養生を行うが、業障の関係で、色身をどれほど上手に保養できた人がいるとも見えず、かえって身見を増加させたので、修行の上で突破するのは非常に難しい。色身への行き届いた世話は、最後から見れば得るものより失うものが大きく、小を得て大を失い、何が軽く何が重いかを知らない。すべて現代の生活環境の影響によるものであり、加えて善根・福德が不足しているため、盲目的に恣意的に自分の福德を消耗してしまうのである。

それゆえ、速やかに我見・我執を断除したいなら、常に自分の色身・五蘊を意に介わず、自分をあまり世話せず、できるだけ自分と生活環境を淡く見て、心を道業に用いるようにしなければならない。同時に、無故に恣意的に自分の福德を消耗しないよう注意し、福德は修道にとって非常に重要であり、たとえ諸大菩薩の福德があっても軽々しく消耗せず、福德を点滴に積み重ねてこそ、終に仏の福德を成就するに至ることができる。

<h4 style="text-indent: 2em;">八、自分が断我見の状態に属するかを如実に判断する</h4>

問:次第に五陰の無常・苦・非我を観察し、受想行識において我見・我所見を生じなくなった後、さらにどのように増上できますか。その後の方向は何ですか。それとも、このような作為のない寂静の状態をしばらく保持した後、自動的に生已尽・所作已作・不受後有を自証できるようになるのでしょうか。実践の過程では、定から出た後のごく短い時間(一、二時間)で、猿心がまた戻ってきて、また抓取し作為しようとします。このように循環を繰り返すので、どこかで仏陀の教法と完全に接続できていないのではないかと思うのです。

答:自ら作証して「我生已尽、所作已作、不受後有」とすることは、四果大阿羅漢の境界であり、私たちはそれは考えるまでもなく、まず初果をしっかりと、真に手に取ってから、後のことを言いましょう。初果は、前世で我見を断っていない人にとっては、すでに非常に困難なのです。

五受陰の苦・空・無常・無我を観察するとき、五受陰が確かに苦・空・無常・無我であると本当に認めているかどうかを正しく判断しなければならない。これは非常に重要であり、極めて重要な鍵となる箇所である。自分で無我だと思えば無我である、というわけにはいかない。観行・思惟しているときは心が非常に清浄 (viśuddha/pariśuddha) なように見えるが、定から出て観行していないときには、心中にまだ私があり、心はまた清浄でなくなる。これは真に我見を断じておらず、真の無我ではないことを示している。ならばさらに引き続き観行し、功夫を続けなければならない。

<h4 style="text-indent: 2em;">九、自心を反観する</h4>

人が自分を讃美し誇るのを聞くと、心に喜びと心地よさを感じる。これは何の心か。人が責め諷刺するのを聞くと瞋恨する。これは何の心か。自分に関係のない人・事・物を見ても意に介わない。これは何の心か。自分と密接に関係する人・事・物を見ると特に注目する。これは何の心か。これらの心はどのように生じ、どのように変化するのか。またどのように滅するのか。このときの心は、五陰の中のどの陰によって引き起こされたものか。この五陰はあなたなのか。各人はみなこの心を執着し、この受覚を執着しているのではないか。

<h4 style="text-indent: 2em;">十、苦集の方便断と究竟断</h4>

四聖諦の修行の順序は、苦を知り、集を断じ、滅を慕い、道を修めることである。あるいは、苦を知り、滅を慕い、道を修め、集を断じることである。集を断じることは、方便断集と根本断集に分けられる。方便断とは、禅定がなく証果していないとき、意識が自分を降伏・圧伏して悪業を造らず、悪業を少なく造らせることである。根本断集は究竟断であり、煩悩を断除した後は、意根に悪業を造作する考えと動力がなくなり、意識の降伏と圧伏を用いなくても、自動的・自覚的に悪業を造らなくなる。こうすれば古い悪業の種子は消除され、新しい悪業の種子は積集されず、後世には苦がなくなる。

苦はどのようにして来るのか。生命の最初期には、五蘊世間はなく、苦もなかった。意根は無明のために外へ攀縁し、知りたいと望んだので、如来蔵は世界を出生し、続いて五蘊身を出生した。五蘊は世間に生き、意根の無明のために、如理でない悪業を造作し、業種が積集されて、後世の苦報がある。学仏修行した後、絶えず苦諦を思考し、苦の来源が前世に積集した悪業であることを明らかにすれば、苦を断つ方法を講じ、修道を始めて悪業行を積集しなくなり、無我を証得した後、無明・煩悩を断除して、初めて次第に苦を滅するのである。

<h4 style="text-indent: 2em;">十一、観行の功夫が不足すれば観念は変えられない</h4>

問:意識は私ではないと観行するとき、どうしても証拠が見つかりません。師は、意識は一つの法塵を了別した後に消滅し、それから別の法塵の上で運行するとおっしゃいました。しかし私は、この「知」ることができる意識心がやはり私であるように感じます。絶えず変化してはいますが、この「知」という性質は変わっていません。私はかなり困惑しています。

答:これはまだ如実に観察しておらず、観行の功夫が欠けているため、認識が不足し、観念を変えられないのである。四聖諦の中の苦諦は、苦・空・無常・無我である。仏が苦諦を説かれる順序、無常・空・苦・無我に注意せよ。これは一環が一環を絡め、次第に連なるものである。観行するときは、次第に従って観行しなければならない。最初のものを完全に観行し出したとき、第二の結論を引き出すか、あるいは導き出すべきであり、第二のものを観行し出したとき、第三の結論を引き出さなければならず、第三のものを観行し出したとき、第四の結論を導き出すべきである。もしそうでなければ、障害と抵抗が現れる。どのような障害か。無始劫以来の固有的な思想観念が自分を障害し、従前の観念を転換できず、新しい観念と認知を形成できないようにしているのである。たとえば、無常の法は空であって、得るべからず、掴むべからずのものである。あなたは無常を知っているだけで、空の思想に入ることができなければ、そこで停止してしまい、先へ進めず、観行できなくなる。

もし空という段階を完全に観行できても、空はすなわち苦であるという思想観念を形成できなければ、阻害が現れ、観行は停滞して先へ進めなくなる。もし五陰はみな苦であると観行できても、苦の根本は私ではないという結論を導き出せなければ、最後のボトルネックが現れる。どのようにすればこのボトルネックを突破できるのか。あるいはどのようにすれば各々のボトルネックを突破し、従前の固有的な誤った思想観念を変えられるのか。私たちは深く考え、さらに深く考える必要がある。その中で、持戒、禅定、如理思惟、および福德、願力は非常に重要であり、これらの方面の修持を重視すべきである。

<h4 style="text-indent: 2em;">十二、断我見は色身を変化させることではない</h4>

断我見とは、五蘊の不真実性、空性、無我性を観行することであり、身体を何らかの姿に変えることでも、身体を不具で不完全なものに変えてから初めて色身は無我であると確認することでもない。身体を変えるのは禅定の力に依るのであり、断我見を用いず、禅定を修めるだけで色身を変えることができる。身体が麻痺し不具となった人々は、やはり我見が深重ではないのか。もし観行を通じて色身を黄金に変えられるなら、かえって我見はもっと重くなるかもしれない。鍵は思想認識の上にあり、現量で色身は偽りで、空で、真実でないと認知し、思想を変えるのであって、身体を変える必要はない。不具人と観じてはならない。万一定力が増強され、身体に本当に毛病が出たら、それこそまずくはないか。身体は組合せられたものだと観じればそれでよい。

<h4 style="text-indent: 2em;">十三、断我見の最も重要な鍵は観念を変えることにある</h4>

断我見にはまず旧い思想観念を変え、新しい思想観念を建立し、新しい認知体系を持つことが必要である。無常の現象に対して明晰な認知を持ち、五陰世間の無常、生滅変異を十分にしかつ清明に認識し、生滅変異する法を空と無我として確立しなければならない。しかし、このような思想観念を確立するのは非常に困難である。現象は観察しやすいが、観念は変えにくく、正しく如理な観念を樹立することは、世間法の無常を観行するより何倍も難しい。無常は実は観察しやすいのであるが、有に習慣しているために空と確認しにくく、空を知っても無我と確認できないのは、旧来の私という観念が突破しにくいからである。

そこで意識的に観念の改变を訓練する必要がある。どのように訓練するのか。たとえば一つの玩具の自動車を取り、分解しては組み、組んでは分解し、それからその中に真実の玩具の自動車があるかを観察する。鉄片の山から組み立てられたものは玩具の自動車なのか。玩具の自動車というものが存在するのか。玩具の自動車は因縁所生法であり、自主できず、生住異滅し、生滅変異し、それ自体は空であって、私という性質を持たない。さらにプラスチックの人形を分解したり組み立てたりして、人形を形成する因縁性、人形そのものの生滅変異の無常性と空性を観察してもよい。繰り返し繰り返し試験と観察を行い、それによって次第に有の観念を打破し、空の観念を樹立し、新しい観念・認知を形成してこそ、はじめて断我見がしやすくなるのである。

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