観行五蘊我見断ち(第二部) (思考過程を明示せず、要件通りタイトルのみ出力)
第二章 無我を実証する方法
一、親証実証とは何か
円覚経原文:善男子よ。如何が我相なる。諸の衆生の心の証する所の者を謂う。善男子よ。譬えば人ありて、百骸調適し、忽ち我が身を忘る。四肢弦緩し、摂養方に乖き、微かに針艾を加うれば、則ち我の有るを知る。是の故に証取して、方に我体を現ず。
釈:仏は言われた。善男子よ、我相とは何か。我相とは一切の衆生の心が実証するものである。善男子よ、譬えばある人が全身の調和がとれ、突然我が身体の存在を忘れた状態になる。四肢が緩み、身心が極めて静寂となり、身体の位置を感じなくなる。この時軽く鍼を打てば、我の存在を知る。これによって我を実証し、我の観念が生じる。
これは身を亡う境界であり、その後における我の実証である。身体を実証する時、同時に我を実証する。身体は我、覚知は我、五蘊は我である。我の存在を実証すれば、我見が現れる。ここには身体の気脈と心の空性、我見断滅の関連性が示されている。気脈が通じると身体の覚知が薄れ、心が空となり身を亡う。身を亡した後、再び覚知が生じれば、身体・覚知・我の存在を現前に実証する。
衆生の心が実証する我相とは、心が体得し現量で感知する身体・覚知・五蘊である。これを実体験として確信する故、身体を我と認め、覚知を我と見做す。能所の対立が生じ、我相が現れる。
仏は譬えをもって衆生の我相を説明される。全身の気脈が完全に通じ、一点の滞りもない時、身体の感覚を忘れる。四肢は自然に緩み、心は四肢に注意を向けず、自己の状態や方位も知覚しない。これを身を亡うという。心に色身の我がなく、覚知も稀薄な時、軽く鍼を打たれると直ちに我を感知する。色蘊と受蘊の我相が現れる。これが我を実証する方便である。無我の実証も同様に現量による体得が必要で、思惟推量ではない。
二、脳内補完とは何か
豊富な想像力で構築された、実践によらない結論を脳内補完という。これは誤解に過ぎず実体がない。多くの人の証果や開悟は、修証ではなく想像力の産物である。
意識を半ば麻痺させて初めて真の修行が始まる。聡明な意識は道を妨げる因縁である。愚直な者こそ道を得る。修道は愚者が行うもので、聡明な者は想道に留まる。想道は幻影に過ぎず無益である。
三、解門と行門の区別
解とは理の理解であり、思惟・推論・想像などを含む。実証前の準備段階であるが、過度に傾くと観行を阻害する。行は理を体得するための実践であり、禅定・観行・参究など具体的な修行を指す。戒律を守り、煩悩を調伏し、禅定の中で参究する過程が必須である。
多くの人が解門を行門と誤解し、悟りの門を自ら塞いでいる。観行は現量境界の自然な現前を伴い、三昧が生じる。想像は独影境に過ぎず、真の観行ではない。
四、我見の薄滅による断除
我見我執の軽重は衆生によって異なる。薄い者は断じ易く、重い者は修行によって薄めた後初めて断見が可能となる。修行は漸進的過程であり、目標は自己の実情に即して設定すべきである。
五、観行と想像の相違
観行は六根総動員の現量了別であり、意根の認証を要する。想像は意識単独の非量了別で、意根に影響を与えない。観行には定力が必要であり、現量境界による意根の確信を伴う。
六、三十七道品未満では証果不能
初めて我見を断ずる者は三十七道品の修得が必須である。禅定・観行の困難さは現実に修行する者が知る。前世で我見を断じた特殊な者を除き、真の証果者は極めて稀である。
七、我見断除の判断基準
三十七道品未修では我見を断じ得ず。四正勤・八正道の不備、煩悩の未減、四相の現存は未証の証左である。真の断我見には法眼清浄・三昧現前・身心転換を伴う。
八、我見断除不能の原因
色身五蘊の無主性を観じ、四大の支配から解脱する理が明確であっても、我見の打破には自力(戒定慧)と他力(縁起)の和合が必要である。福徳を積み善縁を結ぶことが重要。
十、有所得心と解脱
果への執着は我見を増長し、生死に繋ぐ。無所得心こそ解脱の要である。
十一、三昧の重要性
観法成就の基準は三昧現前である。日観三昧を得て初めて次観に進める。真の証悟には前世の修行因縁が関わる。
十二、禅定と我見断除
未到地定以上の禅定が煩悩断除の基盤となる。禅定なき観行は戯論に堕す。
十三、見地の真義
見地は修証の階位を指す。現量による実証を経て初めて聖者の地位を得る。臆断は疑情を断たず、真の智慧を生じない。