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仏法雑談(第一部)

作者: 釋生如 カテゴリ: 総説 更新時間: 2026年04月12日 閲覧数: 1392
<h2 style="text-indent: 2em;">第五章 因果篇</h2><h3 style="text-indent: 2em;">一、老和尚を嘲笑した果報</h3>

昔、歯が抜けた老和尚がいて、食べる様子があまり見苦しかった。一人の小沙弥がこれを見て、彼にこう言った。「あなたの食べ方は牛が草を噛むようだ」と。この一言のために、沙弥は死後、五百世にわたって牛の身に堕ち、草を食み草を噛んだ。釈迦仏がこの世に住しておられた時、彼は人の身を得て、仏に従って出家し修道した。出家して沙門となったものの、前世の業が消え浄まっておらず、余業がまだ残っていたため、食べる時には依然として牛が草を噛むようであった。仏に従って修行してしばらくすると、阿羅漢果を証得したが、それでも食べる時には依然として牛が草を噛むようであった。

仏は彼にこう言われた。「あなたのその様子は多くの衆生に嘲笑されることになり、彼らはあなたによって悪業を造作することになる。その果報はあなたの以前の果報よりもさらに重い。あなたはすでに阿羅漢なのだから、天に住むがよい。人間の僧団に事が起きた時には、また降りてきなさい」。彼は仏の言葉に従って天に住み、事がなければ人間に降りてこなかったので、衆生が悪業を造るのを見るのを免れた。そのため仏が涅槃して娑婆世界を去った時でさえ、彼はそれを知らなかった。この羅漢は誰であったか。それは嬌梵波提である。因果は昭々として誤りなく、身口意の造作のその時点で、善悪を問わず、すべて記載され、すべて業種として収められる。因縁が会合する時には、必ず果報を受けなければならない。皆は身口意を慎んで護り、悪果に遭わないようにすべきである。

出家した沙弥が出家した老和尚を嘲笑しただけで、五百世が牛になるというほどの大きな悪報を得た。ならば、在家の人が出家者を嘲笑したら、どのような悪報を得るべきであろうか。在家の人が出家者が法を説くのを嘲笑したら、どのような悪報を得るべきであろうか。在家の人が出家者の説法を誹謗したら、どのような悪報を得るべきであろうか。在家の人が得道した出家者を嘲笑したら、どのような悪報を得るべきであろうか。在家の人が得道した出家者の説法を嘲笑したら、どのような悪報を得るべきであろうか。在家の人が得道した出家者の説法を誹謗したら、どのような悪報を得るべきであろうか。

因果は一般の人には思議しきれるものではない。慢心があって他人を嘲笑うのが好きな人は、相手が誰であろうと、悪報がある。嘘をついて他人を欺くのが好きな人、東のことを西と言い、西のことを東と言い、妄言綺語を弄し、常に正しく語らない人は、相手が誰であろうと、悪報がある。他人を呵責するのが好きな人(父母師長は除く)は、尊卑長幼をわきまえず、自分の聡明才智を誇示するが、これにも悪報がある。

要するに、身口意行の十不善業には、いずれも悪報がある。だから仏法を学ぶ者は因果をわきまえ、戒律を守り、身口意行を護り、善悪の別を識別し、断悪修善に努めるべきである。心性が転変し、聖賢人の心性に近づいてこそ、聖賢人となる機縁が生まれる。聖賢人となるための先決条件は、聖賢人の心性に近い心性を備えることであり、それによって初めて聖賢人となる資格が得られるのである。

<h3 style="text-indent: 2em;">二、凡夫が阿羅漢を妄議する</h3>

仏ほどの徳があれば、阿羅漢の聖者を焦芽敗種だと言うことはまったくできるが、修証の水準が阿羅漢に及ばない人は、たとえ誰であろうと、それを言ってはならない。言えば必ず悪報がある。凡夫の善根は阿羅漢の一本の毛にも及ばず、阿羅漢を焦芽敗種だと誹謗する資格はまったくない。証拠があってもだめであり、事実であってもだめで、必ず悪報がある。在家の人が普通の出家者について言ってもだめであり、これにも悪報がある。徳の高い人は徳の低い人について言うことができ、戒律を持つ人は戒律を持たない人について言うことができ、先に受戒した人は後に受戒した人について言うことができる。戒とはすなわち徳であり、出家戒を持つことは徳であり、菩薩戒を持つことは徳であり、敢えて出家することは徳であり、世俗を捨てて出家できることは徳である。修め証むことがあれば、なおさら徳であり、修証が高ければ徳も高い。徳の低い者は徳の高い者について言ってはならず、徳のない者はなおさら徳の高い者について言ってはならない。さもなければ悪報は軽くない。

<h3 style="text-indent: 2em;">三、因果が三世に通じるとはどういう意味か?</h3>

因果は三世に通じており、三世とは前世、今世、未来世である。ならば、今行っていることや善悪の遭遇は、果であるかもしれなければ因であるかもしれない。いわゆる果とは、前世に因があり、今世に果を収めることである。では、いわゆる因とは、今世の行いを因とし、未来世に果があることである。他人があなたに対して善法であれ悪法であれ造作したなら、それは果かもしれなければ因かもしれない。もし果であれば、前世にあなたが因を種み、今世あなたがこの果を得るべきなのである。もし果ではなく因であれば、相手はあなたの身に因を種んでいるのであり、未来に果を得るのは相手である。これが因果が三世に通じる法則である。だから、今の遭遇は必ずしも果であるとは限らず、必ずしも因であるとも限らない。神通を持つ人か大智慧の人だけが、このことが果なのか因なのかを判断できるのである。

もし遭遇したことが果であれば、私たちは必ず随縁し、意に介さないことである。もし因であれば、私たちは造作に慎重でなければならず、人に対しても自分に対しても、できるだけ良い因と善い因を種み、将来良い善果を得るようにしなければならない。もし力を尽くしても何も変えられないなら、随縁すればよい。しかし最も基本的なこととして、自分が種むのはすべて善因であることを保証し、悪因を種まないようにして、未来世に悪果に遭わないようにすべきである。

因果において、因はごく細かいが、果は無限に大きくなる。菩薩は因果をわきまえているからこそ因を畏れ、凡夫は因果をわきまえないからただ果を畏れるだけである。菩薩は悪い因を種むことを恐れ、大きな悪果を得ないようにする。一方、凡夫は大きな悪果報が訪れて初めて、この運命が恐ろしいものだと感じる。しかし恐ろしいと感じても、なお覚ることはなく、恐ろしい果報が自分のひとつの細かい心行によってもたらされたことを知らない。因果というものは、やって来る時には誰にも止められず、どれほど強大な勢力があろうと、誰も因果には対抗できない。他人を攻撃するのを好む人、敢えて三宝を誹謗する人には、因果が非常に速くやって来る。洪水のように勢いを止められないのである。因果を明らかにすれば、私たちの心は太平である。

<h3 style="text-indent: 2em;">四、万法皆空ならば、因果は空か?</h3>

空とは、実ならざる幻化の義であり、生滅の義である。因果もまた生滅幻化で実ならざるものである。もし因果が空でなければ、業因を造作したら永遠に果報が現れ続け、果報は終わることがなく、衆生は永遠に業を消すことができず、永遠に解脱を得ることができない。これは不合理である。例えば地獄の業種が現行すれば、地獄の業の受報が終われば、その後は引き続き受報することはない。もし引き続き受報するなら、衆生は人の身を得ることができない。衆生の生死が了り、果報が終わって、初めて成仏する。もし因果が果てしなく受報され続けるなら、どの衆生も成仏できず、六道輪廻から脱することもできない。

人を殺す業の受報が終われば、その後は永遠に人殺しの業報を受け続けることはない。このような因果こそが合理的である。あなたが私に百元の借金をして、返せばそれで済み、この件は終わる。まさか永遠に返し続けなければならないのか。そのような因果は存在しない。因果は果たして空なのか空でないのか。もし空でないなら、私はあちこちで金を撒き、金を得た人は無量劫返しても返し切れなくなるだろう。そうすれば私は永遠に布施して福を修める必要はなく、座してその成果を享受すればよいことになる。これは不合理である。したがって、因果もまた空なのである。来たるところなく、去るところなく、報が終われば因果はなくなるのである。

<h3 style="text-indent: 2em;">五、因果もまたなぜ虚幻で実ならないのか?</h3>

果報は正報と依報に分けられる。正報は五陰身であり、依報は宇宙の器世間という生存環境である。因果の実現は、主に五陰身を通じて実現される。果報は五陰身に報われるのであるから、五陰身は正報であり、生存環境は依報であり、これもまた衆生の因縁果報を示している。五陰は幻化であり、十八界は幻化であり、私たちが生きている宇宙・器世界は幻化であり、生存環境は幻化である。だから、果報因果は幻化で実ならざるものである。

私たちのすべての果報がこれらの虚妄法の上に現れるのであるから、果報は虚妄である。例えば、あなたが受けた善報や悪報は、金持ちになったことであれ、病気になったことであれ、災難に遭ったことであれ、すべてこれらの虚妄法の上で受報しているのではないか。これらの虚妄法が虚妄であるなら、果報は虚妄ではないか。もちろん、すべて虚妄である。すべての果報は、五陰身の上に現れるほかない。五陰身が虚妄であれば、果報は虚妄である。しかもこれらの果報は生滅変異のものであり、無常である。無常のものは虚妄である。だから、一切の因果もまた幻化であり、一切の法は幻化であり、如来蔵を除いて、すべて幻化された法である。

例えば、貧乏という果報、六根不具の果報、さらにすべての楽報と苦報は、これらの果報は幻化ではないか。すべて幻化であり、いずれも如来蔵が業種とさまざまな因縁に依って幻化したものであり、実法は一つもない。また例えば、あなたが善報を得て、昇進し金を得た、あるいは親族が再会した、財色名食睡など种种の善報は、これらの報はどこに報われるのか。すべて五陰身に報われ、五陰身の上に現れるのである。五陰身は幻化で、実ならず、虚妄である。ならば、これらの果報はなおさら虚幻で、幻化で、実ならざるものであり、真実の法ではないのである。

また例えば善報として、今世この世で国王になり、あるいは天に昇って天主になったとする。国王や天主の宝座は幻化ではないか。生きている宇宙、器世間、宮殿は幻化ではないか。錦の衣と玉の食は幻化ではないか。すべての僕、大臣、宰官、身辺の侍従は、これらはすべて幻化ではないか。接触するすべてのもの、これらはすべて善の果報に属する。これらの果報はどこから来るのか。如来蔵が業種と因縁に基づいて幻化したものである。だから、国王や天主になるという善報は幻化で実ならざるものである。

また例えば、殺されることや交通事故死といった悪の果報は、これらの果報はすべて五陰身が受け止めるものである。五陰身はなぜ殺されるのか。なぜ牢獄に入れられるのか。なぜあれほどの財産と親族を失うのか。これらはすべて悪報に属する。これらの悪報はどこから来るのか。すべて如来蔵が業種とさまざまな因縁に基づいて幻化した仮相であり、すべて五陰身の上に現れるものである。悪報を受ければ、覚受は苦受である。この苦受は識心の受ではないのか。識心の覚受はどこから来るのか。如来蔵が幻化したものである。一切の法は、善報であれ悪報であれ、すべて如来蔵が幻化したものである。如来蔵がなければ、一切の法は存在しない。

幻化したものであれば、それは生滅のものであり、実ならず、変異のものであり、空である。ならばそれは我ではなく、真実のものでなく、また我の所有するものでもない。これを無我と呼ぶ。如来蔵に依って言えば、すべては真実ならざる法であり、だからすべては空幻の法である。

<h3 style="text-indent: 2em;">六、衆生が貪食のために払う代価とは何か?</h3>

地球が形成された最初期には、まだ衆生はなく、人類もなかった。二禅天の光音天の天人たちが、飛行して地球の表面に降り立った。着地した後、地球の表面に厚く積もった地肥を見て、それはとても美味しいと感じ、好奇心から、天人たちはそれぞれ一口味見した。その結果、その一口二口の美味のために、天人たちの身体は重くなり始めた。飛べなくなった者もいれば、高く遠くへ飛べなくなった者もいた。食べるほどに身体は重くなり、飛べなくなり、こうしてこの天人たちは地球に留まり、天に帰れなくなった。彼らは人数が少なく、寂しさを恐れて、他の天人の仲間を呼び寄せた。仲間たちも地球に来て地肥を味わい、みな飛んで帰れなくなった。こうして、地球上の人類はますます集まり、これらの人々が地球最初の人類となったのである。

誰に借りがあってもよいのか。何を貪ってもよいのか。縁を結べば業縁によって結びつけられ、縁は分かちがたくなる。生きる観点が「食べられるなら食べる、何でも食べたいものを食べる、食べないと損だ」という人がいる。このような貪りの結果は何か。貪食のために、飲食に束縛され、解脱を得られず、欲界の中で無量の苦悩を抱えることになる。だから貪食は損であって得ではないのである。

<h3 style="text-indent: 2em;">七、どのように衆生を慈憫するのが正当なのか?</h3>

三悪道から出た衆生は、愛欲によって生じ、貪愛の後世の果報により、大多数は鬼道に行って業果を酬い、貪愛の軽い者は人間になり、天に昇ることができる。貪愛は水性に属し、水は下に流れる。下とは三悪道である。楞厳経の中で仏が説かれたことがあり、仏典を調べればわかる。男女の貪愛を結縁だと言って、学仏者に大いに奨励する人がいる。縁は確かに結ばれるが、善いか不善かは、仏の意に依れば、良い結果はない。六道輪廻、生死苦悩である。

ある人が出家してまもなく、恋人に引き留められて還俗し、再び出家するとまた引き留められ、このように七度も繰り返し、極めて苦悩した。あなたは解脱したいのに、彼女はあえてあなたに付きまとって解脱させようとしない。生死の冤家そのものである。一人が清浄になりたいのに、絶えず人に付きまとわれる。その味は、あまりにも苛み耐えがたいものである。中には、菩薩は衆生を慈憫すべきであり、妻子も衆生なのだから、なおさら慈憫すべきだと言う人がいるだろう。しかし慈憫は適切でなければならず、ほどほどにしなければならない。もし自分の家親眷属と縁ある人だけを慈憫し、すべての時間と精力をごく少数の数人に費やし、しかもこの数人の根器があまり良くないなら、これによって自分の道業を誤るのは、値打ちがない。このような慈憫は貪愛であり、解脱を得られず、仏が提唱するものではない。

菩薩の慈憫は、大多数の人を慈憫することを主とすべきである。精力を集中して修持を成し遂げれば、無量数の家親眷属と縁ある人を利益し、生生世世、無量劫にわたる父母妻子を利益することができる。主な精力を現在の一妻一子一父一母に注ぐべきではない。小愛と大愛を比べれば、小愛は取るに足らない。小愛に摂持されれば、道業に影響する。菩薩の眼差しは長遠で広大であるべきであり、自分の智慧の光で天下のすべての衆生を普く照らすことを発願すべきである。大慈大悲の心こそが真の菩薩心であり、小慈小愛はただ道を障るのみであり、速やかに捨てるべきである。

<h3 style="text-indent: 2em;">八、誹謗とは何を言うのか?</h3>

雑阿含経に記載されている。ある外道あるいはある居士が、世尊の弟子に仏法を請い教えた。弟子が回答した後、こう思った。「私のこの回答は、世尊の法教に適合しているか、世尊に背いたり世尊を毀謗したりしていないだろうか」。そこでこの弟子は世尊に伺って言った。「世尊、外道が私に仏法を尋ねました。私はこのように回答したのですが、あなたを毀謗していないでしょうか」。世尊は言われた。「あなたの回答は正しい。私を毀謗していない」。ここから私たちは知るべきである。話や言葉の表現が事実に適合しなければ、それが誹謗である。弟子が伝える仏法が仏の意に適合せず、仏と一致しなければ、それは謗仏である。もし仏がある法はこのようだと説かれたのに、弟子がこのようではないと言えば、それは謗仏であり、謗法でもある。仏の説かれた法教に対して「否」と一言言うだけで、すでに謗仏謗法なのである。

ならば謗僧もまた容易に成立する。謗僧はさらに、凡夫僧を謗することと、得道した比丘僧・菩薩僧を謗することに分けられる。前者の罪業はまだ軽いが、後者の罪業は相当に大きく、果報は思議すべからざるものである。比丘僧や菩薩僧を否定し、「否」あるいは「違う」「間違いだ」と一言言い、しかも事実がそうでなければ、誹謗罪が成立する。衆生は往々にしてこれらを意に介さず、他人を否定することに過失はないと思い、軽々しく「違う」「そうではない」と口にする。しかしこれは単なる過失の問題ではなく、罪業の問題であり、根本の問題に関わるものは往々にして地獄罪であり、後世には自分が勝義僧を誹謗した極大の悪報を受けなければならない。後世に本当に悪報を受けた時、往々にして自分がなぜこのような悪報を得たのかもわからず、うやむやのまま受報し、またうやむやのまま造業する。衆生とはこのように愚痴無知なのである。

<h3 style="text-indent: 2em;">九、重罪を犯したらどのように罪を滅するか?</h3>

破戒の前提は、すでに戒を受けて戒法を有していることである。戒を受けていなければ破戒ということはない。破とは破壊するという意味であり、戒を受けていなければ破とは言えないが、悪業の重い者には遮障もある。重戒を犯したら殷重に懺悔しなければならず、見好像を得て初めて悪業を消すことができ、戒を新たに受け直す必要がある。

重戒を犯しても、臨終に遮障がなければ、極楽世界に往生できる。しかし臨終の一念に、悪業の境界が心に現れれば、直ちに悪業に随って悪報を受けなければならない。臨終前に心の念頭を清浄にし、雑念が現れないようにしてこそ、三悪道に行かずに済む。初果向と初果を得ることでも罪を滅することができるが、業障に遮障されて初果向を得られないのが恐ろしいところである。

仏は重戒と重罪を犯した自分の弟子に対し、実相を説き、五陰の空相を説かれた。弟子は罪を滅しただけでなく、実相をも証得した。例えば勇施菩薩は開悟の前に、邪淫戒を犯し、人を唆して殺害する罪を犯したが、仏が大乗無生の理を説かれると、開悟して実相を証得した。阿闍世王は父を殺したが、仏が彼に五陰の虚幻不実を説かれると、阿闍世王の極重の罪は滅し、無根信を得た。しかし初果向は証得できなかった。罪があまりに大きかったからである。もし仏が彼に法を説かれなければ、無根信すら得られなかったかもしれない。しかし、もし阿闍世王が母を殺していたなら、罪を滅せるかどうかはわからず、無根信を得られるかどうかもわからなかったであろう。

受戒後に戒を犯すと、性罪すなわち心性罪と、戒罪すなわち戒律に背く罪とがある。受戒していない者には、性罪の遮障のみがあり、戒罪の遮障はない。しかし戒を受けなければ戒律が円満でなく、道業は増進できず、証果と明心見性を障る。

<h3 style="text-indent: 2em;">十、明心見性の菩薩が悪業を造作したら果位を失うか?</h3>

菩薩瓔珞本業経の中で、仏は菩薩が菩薩に背く業行を造作すれば、三賢十地はすべて失われると説かれた。地前菩薩は煩悩が断じ尽くされていないため、時折煩悩によって悪業行を造作することもある。地上菩薩にはまだ煩悩習気が断じ尽くされておらず、煩悩習気によって些細な悪業行を造作することもありうる。それらの煩悩余習は非常に深細で、断じ尽くすのは容易ではない。一旦断じ尽くせば、八地に入り、八地菩薩となる。しかし八地以上の菩薩にもなお微細な無明、すなわち非常に微細な愚痴があり、極めて深細な仏法に対して無知があり、仏地に至って初めてすべて断じ尽くされる。

普通の衆生は我見を断じず、あるいは我見を断じ尽くしていない者は、なお我見のために三悪道に入る。衆生が造業するのは「我」のためであり、無数の煩悩は「我」から来る。だから修行を通じて我見を断じ尽くし、我執を降伏する必要がある。しかし人我執を断じ尽くしても、さらに微細な法我執が私たちの断じ尽くすべきものとして待っている。煩悩習気も軽視してはならない。地上菩薩には煩悩習気の現行があり、これも断つのが難しい。だから地上菩薩には過失が避けられず、微細な悪業行がある。もし仏戒に背けば、その菩薩の果位も失われる。

だから私たちは仏法を学び修行するにあたり、毎日自分の主要な煩悩結縛がどこにあるかを反観し、それを重点的に観行して解決し、深重な煩悩に自分の修行を障らせてはならない。煩悩が断除されたか否かと智慧の程度に依って、賢人と聖人に分けられる。我見を断じた初果・二果の人はなお賢人であり、聖人ではない。三果・四果の人と初地以上の菩薩こそが聖人である。地前菩薩は賢人であり、まだ貪瞋痴が断じられていないため、その徳行は聖人とするには足りない。真の聖人、聖人のすべての徳行を具足した者は、仏ただ一人である。

<h3 style="text-indent: 2em;">十一、地獄に下って懲罰を受けるのは第何識か?そのうちいくつの識が一緒に地獄へ行くのか?</h3>

意根と第八識が一緒に地獄に下り、その後すぐに六識が生まれる。意識は気づく。「おや!私はなぜ地獄に下ったのだろう」と。その後、身識は刑具による懲罰の強烈な痛みを感じ、意識は無比の苦痛を感じ、六識はすべて苦痛を感じる。意識はなすすべもなくさまざまな苦痛の苛みを受け、業報が尽きて初めて地獄から出られるが、どれほどの劫の時間が過ぎたのかも知らない。無間地獄には広大な大鉄床があり、地獄がどれほど大きければ、鉄床もそれだけ大きい。地獄は無辺広大であり、鉄床も無辺広大である。鉄床がどれほど大きければ、色身もそれだけ大きい。すべての刑具が同時に色身に加わり、隙間なく、全身のあらゆる部位が刑具の残酷な苛みを感じ、苦痛に耐えかね、痛みで気を失っても、すぐにまた目を覚まし、引き続き苛みを受ける。三宝を誹謗すれば、このような末路となるのである。

三宝の誹謗には、有根誹謗と無根誹謗がある。有根誹謗とは、その人の言うことが事実である場合を指すが、これにも罪がある。だから仏陀が僧のために制定された戒律は在家の人に見せることを許さない。在家の人が戒律を知って出家者が戒律を犯したと指弾するのを恐れるからである。そうすれば三宝を誹謗することになる。無根誹謗とは、事実がまったくないのにあると言い、事実を捏造することであり、罪過はさらに大きい。両者とも罪過がある。だから皆は三宝の過ちを言ってはならない。事実があるかなかろうと、口を閉じることをわきまえなければならない。果報は恐ろしく、見るに忍びないものである。過去に阿羅漢を誹謗した人がいた。阿羅漢は衆人を召集し、誹謗業を造った人に衆人の前で懺悔させ、その人の罪過を消させた。その人は衆人の前で阿羅漢に懺悔し、自分の罪過を消した。しかし命終後はやはり地獄に下って悪報を受けた。ただし悪報を受ける時間は短くて済んだ。もし懺悔しなければ、地獄から出るのは非常に難しく、地獄で受ける苦しみも非常に重いものであった。

もし三宝の中に、大小乗の果位を証得した聖賢人がいて、その聖賢人に対して誹謗業を造作したなら、その罪業は説くべからざるほど重い。仏法上の誹謗であれ、世俗の日常生活の個人的行為に対する誹謗であれ、事実であるかなかろうと、すべて罪過は無辺である。出家者の身口意行は、どのようなものであれ、指弾してはならない。さもなければ罪業深重で、必ず悪報を受ける。特に得道した出家者については、その身口意行の些細な過ちでさえ指弾してはならない。煩悩極重の人にとって、三宝の近くに住むことは必ずしも良いことではない。煩悩極重の人は誰に対しても悪業を造作しうる。相手が誰であろうと顧慮することなく、自分をコントロールできないからである。だからこのような人は、三宝から離れて住むほうがよいのである。

<h3 style="text-indent: 2em;">十二、凡夫は聖人の行為をむやみに学んではならない</h3>

聖人の所為を、得道していない人は盲目的に真似てはならない。智慧が異なれば、用心が異なり、結果も異なる。心地を明らかにしていない人は、無相の相を見ず、無生の理を知らず、法を実有と見て、究竟を知らない。明心の人は、法が無生であること、相はもともと有らず、虚妄不実で人の眼を誑惑するものであることを知る。相を実有と見れば、業行があり、相を相と見なければ、業行もまた妄である。心智が異なれば、業果も異なる。昔、ある道人が諸仏菩薩の名号を褌にびっしりと書き、身に着けていた。一人の愚人がこれを見て真似をしたところ、数日後、血を吐いて死んだ。

聖心は学べず、ただその相だけを学び、そこに独特の用心があることを知らない。衆生は愚かであるがゆえに、自らを害してやまない。昔、丹霞禅師がいた。執相の人を度すために独特の手段を用い、木仏を焼いた。道人の心中には、無生を実証し、四相がなく、一切の相もない。木仏は仏に非ず、舎利は無い。舎利があろうがなかろうが、いずれも真仏ではない。真仏は無相であり、火にも焼かれず、水にも沈まず、風にも吹かれず、石にも打たれず、山にも圧されず、啼唾や罵倒、侮辱や誹謗も、いずれも着せず、たとえ上帝であっても、なすすべもない。衆生は蠢蠢として、丹霞を学ぶなかれ。木仏や石仏は、像をもって人に示すものである。心に恭敬を存すれば、福はすなわち増長する。礼拝できれば、その福は無辺であり、慢の幢を折り倒し、己の心を摧伏する。精進修行し、早く無生を悟り、己の心を識れば、それがすなわち仏心であり、見性成仏は、他によるものではない。

<h3 style="text-indent: 2em;">十三、衆生は愚痴で因果を信じないからこそ悪業を造作する</h3>

末法時期の衆生の心思は浮躁している。そしてある人はまさに衆生の浮躁した心理に順応し、衆生を喜ばせようとする。少しでも衆生の悪習に逆らわなければ、いったいどうやって衆生の悪習を転じさせ、どうやって衆生を解脱させるのか。衆生は貪婪であるだけでなく、愚痴でもあり、あえて刀の切っ先のわずかな蜜を舐めようとする。最後に得るものは何か。それを考える人はいない。多くの人は目先のわずかないわゆる利益だけを顧み、三悪道に行くリスクを冒している。見かけは大胆に見えるが、実は愚痴であり、目光が浅く、未来の久遠の大利益のために考えることができないのである。

大多数の人は実は個人の利益のために考え、計算している。しかし、行ったことは、利益を得られないばかりでなく、往々にしてすでに持っている利益まで失わせる。しかし、この点を考える人もなく、この点を見る人もいない。なぜか。無明愚痴のために、煩悩が自分の両眼を覆い、自分自身が見えず、真の利害得失が見えないからである。

因果について、多くの人は本当に信じておらず、常に幸運を期待する心理を抱き、因果はすべて他人の頭上に落ちるのであって、自分の身には落ちないと思っている。だから自分の利益のために、他人が自分の指示に従わなければ必ず何らかの悪果報があると言うが、自分の悪果報が間もなく到来すること、自分が今まさに悪果報の因を造作していることを知らない。私が初めて仏法を学び経書を読んだ時、因果に関するいくつかの真実の物語を読み、因果が真実で虚ならないことを信じ、身口意とも慎重に造作した。しかし今の学仏者は、仏経をまったく読まず、仏経が何を説いているのかを知らない。だから心が盲で因果をわきまえないのである。

今はネットワークが発達し、悪業を造るのは以前よりはるかに便利になった。指先を少し動かすだけで、悪業が全国各地に伝播する。実に嘆かわしいことである。自分が指先を動かした後の悪果が何であるかを警戒する人はいない。無知な者こそ恐れを知らない。心が塞がれ、他人に盲従し、善悪を知らず、大悪業を造下しても、悔恨を知らない。ある人々の悪業は、人に唆され教唆されたものであり、自分では知らない。例えば、「このようにやりなさい、何もないから。因果は私が担っておく。あなたには善果しかなく、悪果はない」と告げられ、一部の心盲の者がこの人の言葉を信じ、この人が本当に自分のために因果を引き受けてくれると思い込む。しかし因果が到来する時には、それぞれにそれぞれの果報があり、根本的に互いに代わることはできない。たとえ実の親であっても、なすすべもないのである。

<h3 style="text-indent: 2em;">十四、生死流転の業縁は貪愛である</h3>

因果は命終に現れる。秋の後に勘定するのに似ている。もちろん夏に勘定する場合もある。業果が非常に大きい時には、果報は早熟し、秋を待たずに勘定する。人が臨終の時、もし内心が貪念であれば、家親眷属を貪ることであれ、人間の生活を貪ることであれ、財を貪り情を貪ることであれ、すべて鬼道に受生しなければならない。もし臨終の一念が瞋念であれば、何を瞋るのであれ、比較的重い場合には、地獄に受生する可能性がある。

だから希望をすべて臨終に託し、自分は臨終に念仏でき、心地を清浄に保てると思い込むのは、非常に頼りないことである。臨終にどんなことが起こるかわからず、自分がどんな心念であるかもわからない。平時の心念すら把握できないのに、臨終に四大が分解し、業障が現前し、冤親債主が借財を討ちに来れば、極大多数の人は業縁に随って起心動念し、三悪道に行く。三悪道に入らないことは保証できず、福報が非常に大きい業行だけが例外で、天に昇って福を享受できる。

三悪道に入らないことを保証できるのは、第一に我見を断じること、第二に明心見性すること、第三に観無量寿経の地観の成就である。念仏して時至を予知しても頼りにならない。臨終に念仏の心が専一でなく、誠心が足りなければ、仏は迎えに来てくれない。九割以上の学仏者は、臨終に三悪道に受生し、そのうち大多数は鬼道に行った。なぜなら、百パーセントの人に貪心があり、誰も貪欲を断除していないからである。貪欲を断除するというのは、我見を断じた後に初禅定が生じ、定の中で貪欲と瞋恚を断除することであり、それ以外はすべて貪欲心がある。しかし初果と二果の人は、軽微な貪欲心があっても、三縛結を断じているため、鬼道に受生することはなく、欲界天か人の中に受生してさらに貪り続けるか、あるいはゆっくりと貪を断じていくだけである。

六道輪廻はこのように無情であり、情面を顧みない。真の修証がなければ、命終にはあっけなく業績に随って去り、貪念に随って去り、選択の余地はない。平時に訓練しておらず、訓練も成功していないからである。我見を断じた後の人だけが、訓練に成功した人なのである。

しかし本当に我見を断じ明心したのでない人は、なお訓練に成功しておらず、なお三縛結を断除しておらず、なお貪念に随って鬼道に受生しなければならない。これは避けられない。特に五戒や菩薩戒に違犯した人はそうである。無数の学仏者が自覚せず、毎日食べ物を貪り、着物を貪り、住まいを貪り、享受を好み、いわゆる自在を好み、華やかさを好み、快適さを好み、琴棋書画などさまざまな芸術を好む。これらの好みは煩悩結縛であり、自分を六道の中に縛りつける。これが心の病である。誰もが享受すべきものは享受し、一生を生きて損はしていない。自分を粗末に扱ってはいない。しかし後世はどうするのか。今の享受が重要なのか、それとも後世に三悪道の苦受を免除されることがより重要なのか。

さらにいくつかの高尚な修行方法がある。肉を食べる時に肉を食べるという想いを起こさないと言う。肉を食べる時に本当に肉を食べるという想いを起こさない者は、すでに心地を転じた人であり、済公和尚はその一人と言えるが、他に何人がそれをできるのか。すでに肉に興味がないのなら、なぜあえて肉を食べなければならないのか。畜生が一匹少なく死ぬほうがよいのではないか。臨終の時、肉の主が借財を討ちに来たら、借財を返さずに済む能力があるのか。

<h3 style="text-indent: 2em;">十五、なぜ学仏者は学べば学ぶほど磨难が多くなるのか</h3>

仏門に入って仏法を学ぶ人は、みな善根のある人であり、一生一世、数生数世で初めて仏法の修行を始めたのではなく、修行の時間は劫で計算される。三宝への信心が具足し、自身への信心が具足している人は、すでに十万劫もの長い間修行してきたかもしれない。十住位に入って菩薩六度を修行する人なら、すでに十万劫をはるかに超える修行時間を経ている。

大多数の人は、何らかの因縁があって仏門に入る。あるいは身体に病苦があり、あるいは諸事が順調でない。仏法を学んでしばらくすると、病苦が軽減し、事が順調になり、仏法を学ぶのは良いと感じる。仏法を学ぶことへの信心が具足した時、さまざまな障縁が現れ、さまざまな事が順調でなくなり、身体に病気が現れるなどの状況が起こる。衆生は無始劫以来ずっと造業しており、業障が非常に深重である。仏法を学び始めたばかりの時には、護法と菩薩たちが護持してくれ、重い業障が仏法の学びを障るのを許さない。この時期には、まだこれらの業を受けきれず、業報の現出は衆生に信心を退失させるからである。しばらく修行して、ある程度業障を受けきれるようになると、護法はもはや業障の現行を遮らなくなる。受けきれない業障は、まだ少しは遮ってくれる。こうして、しばらく学ぶと、自分の業障が現前したことに気づくのである。

順調でないことにはもう一つの重要な原因がある。修行が非常に得力な時には、後世で受けるべきだった果報を、今世に繰り上げて受けることになる。繰り上げて受けるというのは、すなわち重罪軽報である。悪の果報は繰り上げて受けるほどその報は軽く、善の果報は後回しに受けるほどその報は大きい。これは銀行に預金するのと同じ理屈である。預金には利息があり、仏法ではこれを孽息と呼ぶ。預金を繰り上げて引き出せば利息は少なく、悪業は軽く、善業も軽い。だから悪業は繰り上げて受けるべきであり、繰り上げるほどよい。善業は後回しに受けるべきであり、後回しにするほどよい。もし乗り越えられるなら、善業はできるだけ後回しに受けるべきである。そうすれば果報は非常に大きくなり、銀行預金はますます増え、複利を転がすのと同じである。

衆生が造業した業種は如来蔵の中に存在する。如来蔵は銀行のようなものである。この銀行の預金利率は相当に高く、最低でも百倍、最高は無量倍である。だから少し善法を種めば天に昇って福を享受でき、少し悪業を種めば地獄に下って苦しむことになる。しかも如来蔵という銀行は決して倒産せず、業種は失われない。つまり、善業悪業の果報は誰にも盗めず奪えず、自分自身が受けるしかなく、他人が代わることはできない。金剛経第十六品で仏は、人が金剛経を受持した後、先世に造った罪業がもともとその人を悪道に堕とすはずだったところ、もし人が彼を軽賎すれば、彼の先世の罪業は消滅し、人に軽賎される果報を受けただけで報いが終わると説かれた。これが重罪軽報である。

だから菩薩は明心見性した後、三悪道の業は消滅するが、なおさまざまな磨难があり、いずれも重罪軽報であり、人の中で苦を受け、永遠に三悪道に下って受報することはない。修行が一定の時期に達すると、受けきれるさまざまな業障が次第に現れてくる。これは良いことであり、後世でより大きな業報を受けるよりはるかにましである。これらの業報を受けた後は、障縁が減り、その後の修行は速くなる。

これらの業障の一部は護法神が掌握しコントロールしている。彼らは修行人を気遣っており、時には業障を遮り、時には遮らず、あるいは一部を遮り、他の一部を遮らない。だから私たちは仏法を学び修行するにあたり、毎日自分たちの護法神に回向 (pariṇāma) すべきであり、彼らがみな明心見性し、道業が絶えず増進し、護法の功徳が円満殊勝であることを願うべきである。自分自身が障縁に遭ったら愚痴をこぼさず、できるだけ福を享受せず、如来蔵の銀行から引き出すことを少なくすべきである。その善金は失われないが、引き出して享受すればなくなってしまう。しかも如来蔵の銀行に預金が多ければ多いほど、私たちは富貴になり、菩薩道を修める資糧が多くなり、成仏というこの道の上で、より速く進むことができる。仏法を修学する資糧がますます多くなり、道業の増進がますます速くなりますように!

<h3 style="text-indent: 2em;">十六、どのような人が三悪道の業を免れられるのか?</h3>

本当に我見を断じ、本当に明心して三縛結を断じた人だけが、三悪道に行かないことを保証できる。本当に我見を断じておらず、ただ心中で五陰は無我だと思っているだけであれば、三縛結は断じられず、三悪道は免れない。弘法して衆生を度す心は貴重であるが、自分が修持を成し遂げていなければ、衆生を生死から出離させることもできず、自分の道業も誤る。一旦煩悩愚痴の業種が現行すれば、直ちに三悪道である。因果は一つには発心にあり、もう一つは事実にもある。

自分がまだ得度していないのに先に人を度す者は、発しているのは菩薩心であっても、真の道行がなく、その後果もまた畏るべきものである。自分が三悪道を免除できるようになってから、出てきて弘法し衆生を度し、個人の道業を犠牲にするなら、それは構わない。ある人は言うだろう。「私は我見を断じました。私は明心しました。三悪道を免除できます」と。しかし本当に我見を断じたか、本当に明心したかは、自分が決められるものではなく、どの印証する人も決められるものではない。因果には自ずから道理がある。

ある人は、五戒を持ち犯さなければ人の身を得られると言う。しかし無色界天の天人は八万大劫の間心が清浄で、わずかの悪業も造らなかったが、命終の時、無始劫以前の悪業が成熟し、直ちに地獄に下った。欲界天の天人も色界天の天人も同様である。今世で悪業を造らなくても、無始劫以前に大悪業を造たことがあり、極めて多くの悪業がまだ受報されていない。命終に一旦それらの悪業の縁が熟すれば、即座に業に随って流転し、自主の能力はまったくない。本当に我見を断じ三縛結を断じてこそ、三悪道の業を消滅できる。しかし、さらに大悪業を造作すれば、なお三悪道に行って受報しなければならない。

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