仏法雑談(第一部)
仏法における技術的な修行とは、すなわち理論知識を学ぶことと理論知識を証することである。技術的に精進するとは、すなわち座禅を組んで定(samādhi)を修め、理論知識の研鑽に努め、刻苦して参究・研究・思考し、何らかの法を証得あるいは獲得し、何らかの果位と資格・名誉を得て、一つの結果を獲得することを期するのである。
心性における修行とは、五陰 (pañca-skandha) の無我性を観察し、自我を降伏させ、煩悩を降伏させ、心を柔らかく善くし、聖賢人の無我の心性を具え、私心と我心を取り除き、凡夫の煩悩の習性を降伏させ、それによって自利することができ、かつ人を利することを願うようになることである。具体的には、菩薩の六度の着実な実行であり、福德の累集と戒律の受持を徐々に完成させ、あらゆる人や事に忍んで自心を調伏し、怠惰懈怠の心を淘汰し入れ替え、禅定を修習して自心の観照力を高め、煩悩を降伏させ、般若 (prajñā) の空性 (śūnyatā) の理を薫習し、心を次第に空性に近づけ、聖賢人に近づけるのである。
心性と技術の修行は相乗効果を発揮すべきである。心性は眼であり、技術は足であり、眼が技術の方向と高さを決定する。仏法の修行は心性と技術を互いに結びつけて修めるべきであり、一方だけを修めて他方を顧みないのではなく、両足で歩んでこそ、バランスよく安定していけるのである。
いわゆる片方面の技術の次元の修行とは、理論研究だけを行い、我性を降伏させず、理論と実際が乖離しているということである。仏法は本来、衆生に自我を降伏させ、無我を証得させ、解脱と自在を得させるものである。ところが衆生が無我を修行する目的と結果は、かえって我性を増長させ、我執を増長させ、自我がますます膨張し、心性はかえって以前より劣り、修行の結果との落差が極めて大きい。これが心性を修めず、技術だけを修めた結果である。
技術の次元だけで修行し、心性の次元で修行しなければ、その結果は徳が位に伴わず、その後に大乱が起こる。仏法の修行を一つの資本と見なし、仏法の技術を習得した後には、自分はすべての人より高く、すべての人より強いと考え、人上の人になれるとし、この技術によってうぬぼれ、我慢を増長させ、他のすべての人を圧倒する資本とする。これはまさに深刻な我相・人相・衆生相であり、技術の次元だけの修行の結果であり、仏法に背馳する悲しむべき悪果である。深刻な場合は、我慢と我執によって仏法と仏教を壊乱し、衆生の仏法と仏教に対する信心を壊乱することにもなる。
修行方法は、片方面で理論研究だけを行う技術的な仕事であるはずがなく、より重要なのはやはり心性における育成と転換である。もし仏法の修行が技術的な用功修行だけであるなら、仏は衆生に清浄 (viśuddha) な大願を発させ、願力によって自らの修行を牽引し導かせることはなかっただろう。もし仏法の修行が技術的な用功修行だけであるなら、なぜある人々は日夜経教や各種の理論の研究に没頭し、各種の観行 (vipaśyanā-caryā) に精進して、常人には知り得ない理論を探求し出すことができ、学んで得るものがあるように見えながらも、貪瞋痴は依然として炽盛で、一生がもしかすると七住位・六住位・五住位のところで留まり、極めて多くの唯識理論を学んだにもかかわらず、なお一歩前へ踏み出すことができないのか。
もし仏法の修行が技術的な用功だけであるなら、なぜある人々は三五十年日夜座禅を組んで修行しても、なお初禅定を得ることができず、ある人々は一、二年で初禅定が現前するのか。ある人々は開悟して三十年経っても、なお初禅の影すら見えない。ところがある人々は仏法に触れて間もなく、理論に接触し、少し観行しただけで、各種の果位を証得することができ、仏法の多くの名相をまだはっきり理解していなくても、観行の智慧はとっくに生起している。
もし仏法の修行が技術的な用功であるなら、菩薩の六度は、技術上の修行なのか、それとも心性上の修行なのか。布施 (dāna) の度は、技術の次元に属するのか、それとも心性の次元に属するのか。持戒は技術の次元に属するのか、それとも心性の次元に属するのか。忍辱は技術の次元なのか、心性の次元なのか。禅定は技術の次元なのか、心性の次元なのか。
智慧について、心性の良くない人は、どのような智慧を持つのか。このような智慧は菩薩や仏と相応するのか。精進には正精進と邪精進があり、邪精進は技術の次元に属し、正精進は心性を修めることである。別に企みのある人は、仏法の中で真実の受用を得ることができるだろうか。菩薩が真に成就する標識は慈悲喜捨であり、心性が転換しなければ、永遠に慈悲喜捨の心行は生じず、菩薩の果位は永遠に満足できない。
阿羅漢と菩薩の心性は、どちらがより良いのか。どちらの道業がより増上するのか。どちらが仏に最も愛顧されるのか。どちらが最初に成仏するのか。どちらが技術の次元の修行であり、どちらが心性の次元の修行なのか。技術的な仕事に励む者たちを、仏は彼らを焦芽敗種であり、無為の坑に堕すと罵られたことはなかったか。
仏法の修行の最後の結果は、必ず徳才兼備でなければならない。才があるだけでなく、さらに徳がなければならない。もし徳がなければ、才は歪んだ才にすぎず、邪道に用いられ、悪業を造作しても知らないかもしれない。世の中には才のある人が多いが、必ずしもすべてが善業の造作に用いられるとは限らず、それを悪業の造作に用いる人も多い。悪業の造作に用いられるなら、才がないほうがまだましである。
仏法の修行者にとって、徳は第一位を占め、最前面に置かれるべきであり、徳があれば才がないことを憂えることはない。もし人が才だけを持ち、徳がなければ、才がどれほど大きくても、正しい用い方はできない。一方、徳があって才のない人は、徳才兼備の人に育成することができ、その菩薩の心性によって、仏力の加持で速やかに道を得ることができる。だから、仏法の修行は単に技術的な仕事ではなく、最も重要なのは心性上の修養である。無我無私の人こそ、真の菩薩である。もし内心里に自分だけがあり、個人の私利だけがあり、一心に自分のためだけを考える人は、このような人は真の菩薩ではない。
技術の修行は、心性の修養より永遠に何倍も容易である。技術はさえ功夫を注いで钻研し、研究すれば、必ず文字の中から何かを研究し出し、収穫を得ることができ、さらに聡明伶俐であれば、多くの技術は手に入れることができる。しかし心性はどうか。一百年かかっても心性を降伏できないかもしれず、秉性は移し難い。技術を身につけた菩薩でも、心性が降伏されていなければ、やはり真の菩薩ではなく、名義上の偽の菩薩、偽装した菩薩にすぎず、永遠に菩薩の役割を果たすことはできない。
多くの人が日夜苦心して用功し観行・研究・钻研していても、決して自分の心を研究せず、どれほど刻苦して仏法の科学技術を钻研しても、我性と自私性を降伏できず、真に我見 (satkāya-dṛṣṭi) を断できず、真に明心して証悟することができない。このような人は、仏法の科学技術を習得していたとしても、菩薩ではない。
今日この時代、どれほど多くの人が仏法を学んでいても技術的な仕事をしているだけで、決して自分の心性上に功夫を用いない。技術は身につけたが、徳が位に伴わず、どこへ行っても自分を持ち上げ、自我を振りかざし、最後にはどこへ行ってもそこを乱す。仏法を学ぶのは頭角を現すためであり、自我を振りかざすためであって、決して自我を降伏させるためではなく、無為のためでもなく、無我と自心の煩悩の解脱のためでもない。学べば学ぶほど高調になり、学べば学ぶほど我が重くなり、学べば学ぶほど天下が乱れ、最後には世の中までも乱されてしまう。多くの人が仏法を学ぶのは、人に出頭するため、他人の肩の上に立つためであって、自我を泯滅させ、自我を姿を消させることを考えたことが一度もない。これは我見 (satkāya-dṛṣṭi) を断しているのか、それとも我見を増長しているのか。仏教がこのように発展し続ければ、最後には天下大乱となる。
もし自分を真に修めたいなら、必ず両手ともに用いなければならない。心地上に多く功夫を用いて自分を調柔すると同時に、観行と参究にも多く功夫を用い、努力して実証し、真の意味での聖賢となるべきである。