衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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仏法雑談(第一部)

作者: 釋生如 カテゴリ: 総説 更新時間: 2025年07月12日 閲覧数: 3829

第五章 戒律の章

一、戒を学ぶとは何か

例えて言えば、幼子が歩くことを学ぶようなものである。正常に支障なく歩けるようになるまでは、すべて歩行学習の段階にある。歩行を学ぶ際には、よろめきながら手に物を支え、体に寄りかかり、時に転倒して手足を傷つけることも免れない。足腰が熟達し、自由自在に東西南北へ歩み出せるようになって初めて学習は終了し、独行者と呼ばれる。しかし時折つまずくことは免れず、成人でも不注意に転ぶことがある。また幼子が言葉を学ぶように、片言二字から始まり、やがて文を成し、ついには自由に自心の意を表現して障りなく伝えられるようになって、言葉の学習は終わる。

菩薩が戒を学ぶのもこれと同じである。煩悩習気が心にまとわりつき、自らも気づかない。新たに戒律を受けてもその意義が分からず、いかに守るべきかも知らない。月々に戒を誦して道理を明らかにし、時に戒に背き、発見すれば即座に悔い、悔い改めてはまた犯し、苦労して手間をかける。軽戒は守り難く、重戒も犯してしまう。煩悩が断たれ、三果四果に至り、自由闊達、縁に随って自在となり、心に負い目なく、矩をも越えぬ境地に達するまで続く。重戒は犯さず、軽戒は守れるが、それでも時折不注意で軽戒に漏れは生じる。重戒を犯さず、軽戒を守る状態、これを「持戒」と呼び、初地から八地までに相応する。八地以降は習気が断じ尽くされ、任運自然となり、一切の戒律に対して持つことも犯すこともなくなる。

もし出家菩薩の十重戒、あるいは在家菩薩の六重戒に違反するならば、持戒とは呼べず、ただ戒を学んでいるに過ぎない。軽戒が守り難く、しばしば違反する場合も、持戒とは呼べず、ただ学戒である。戒を学ぶことは容易ではなく、幼子が言葉や歩行を学ぶよりも難しい。しかしこれは菩薩が成長する上で必ず通る段階である。この段階を過ぎて初めて菩薩大人、如来の子と呼ばれ、心は解脱を得て自在無碍となり、三界を駆け巡り、理と事が円融する。

二、戒律の守持において、修行者の身口が業行を犯さないことは既に良いことであるが、意業は守りにくい。もし心が常に一つの正念に住するならば、邪念が現れる機会はなく、これが戒を守ることである。正念とは何か。仏を念じ、法を念じ、聖賢僧を念じ、諸行無常・諸法無我・涅槃寂静を念ずることである。修心の法を多く深く理解すれば、意業は減少する。定力が増せば、意業も減少する。因果の理を理解すれば、心の警戒心は高まる。

戒を守るには、まず道理を明らかにすることが第一であり、自らの行為を無理に抑えることではない。理が明らかになれば、意根が薫習を受け、意業は自然と現前しない。一切の修行において道理を明らかにすることが最も重要である。知見が自らの身口意行を導く。次に、深い禅定は煩悩を伏せる力を持つ。最後に、因を識り果を達すること、つまりある事の起因が別の事の結果を招くことを理解し、身口意の一切の業行が造作されるその瞬間、自らの如来蔵がすべてを記録していること、果報は必ず現れることを悟れば、心の警戒心は高まる。これらにはすべて過程がある。戒を受け戒体を得た後は、戒体自体に非を防ぎ悪を止める功徳作用がある。菩薩戒体はなおさらである。菩薩戒は心を戒めるものである。完全に守り戒を犯さないためには、一定の菩薩果位に修めなければならない。それ以前は、戒を犯すことは免れず、その程度に差はある。菩薩戒を受けることには非常に多くの利益がある。自らの警戒心が大きくなり、さらに護法善神の守護が加わるため、道業の進歩は速い。

三、五戒の開遮について

一切の戒行は、衆生に大いなる利益、しかも根本的な利益をもたらすものであれば、遮らず開縁が許される。自己の私利のためではならず、一律に遮止される。個人の煩悩や悪習によって戒を開くことはできない。酒戒については、病気治療のためであれば薬酒を用いることができ、塗布も飲用も可能であるが、酒の味を貪ってはならない。殺生戒については、薬で細菌を殺すことはできる。その他の蚊や蟻、蝿、虫などに対しては、害心がなく故意に殺さなければ、犯戒とはならない。

盗戒については、他人が同意していないものを取れば犯戒となる。他人や集団のより大きな利益のためであれば、犯戒とはならない。厳密に言えば、自分のものでないものに対して、これを自己のものにしようと心に起せば、すでに犯戒である。淫戒については、自己の配偶者でない者と非梵行を行えば犯戒となる。ここには戒を開く条件もあるが、皆がまだ菩薩性を具えていない現段階では、暫く述べない。妄語、特に大妄語については、禅定を得ていないのに得たと言い、羅漢果を証していないのに証したと言い、明心していないのに開悟したと主張することは大妄語であり、必ず悪報を受けるが、通じて懺悔は可能である。その他は小妄語である。もし他人を助け救うためであれば、戒を開くことができる。大原則はこの通りであるが、具体的に事に遇った際には、智慧を用いて個別に対処する必要がある。私心や煩悩心がなく、衆生や集団のためであれば、状況に応じて考慮できる。五戒を犯しても懺悔でき、再び戒を受けることもできる。

四、仏教を学ぶ者の中で、五戒を厳格に守り少しも犯さず、満点を得られる者はどれほどいるか。五戒に多少の欠けがあっても八十分を得られる者はどれほどか。五戒の大部分を守り六十分を得られる者はどれほどか。おそらく皆非常に少ない。不妄語という戒については、守れる者は数人もいないと推測する。あるいは一人もいないかもしれない。それゆえ人は完全に誠実ではなく、完全に信頼できる存在ではない。

各人が完全に殺生をしないか。盗み、すなわち「与えられざるを取る」こと。他人が同意せず肯んでもいないのに、自ら取れば盗みである。自己に属さないものを、心で自己のものと認めれば、すでに盗みである。人を含めて、自己の配偶者に属さない者に対して心に邪念を生じることも盗みである。心が正常でなく、意図が真実で善でなければ、すべて邪に属する。他人の同意を得ずに勝手に他人のものを食べたり飲んだりすることも、すべて盗みに属する。多くの人は非常に勝手気ままに、自らの意のままに、構わず顧みない。ある者は手段を用いて他人に強制的に同意させようとする。他人が口では同意しても心では同意していなければ、依然として盗みである。盗みには名声も含まれる。名声を騙し取り、地位や権勢を騙し取ることも、すべて盗みに属する。

人は総じて縁に攀じることを好み、私利私欲に走り、縁に随わず、心を守らず、厚道でなく、多くを貪り求める。結果として戒を犯し、心は散乱して禅定を得られない。さらに五戒を受けず、そもそも受けようともせず、戒さえも受けたくない、守りたくない者がどれほどいることか。それでいて深い禅定や智慧を得ようとするのは不可能であり、ましてや果を証し悟りを開こうなどはなおさら不可能である。

五、増戒とは、再び戒を受ける意味である。増上縁とは、識心を生じさせるのを助ける一種の縁(法)である。増語とは、語は音声言語を代表し、音声言語を用いて義を顕わすことを増語と呼ぶ。法義を顕わすのを助ける言語音声を増語という。ここでの義とは菩薩摩訶薩の義を指す。

六、無為法を証得していない時の持戒は、すべて有漏であり煩悩を伴い、煩悩と相応する持戒は有漏持戒である。無為法を証得した後に加えて修める戒は増上戒である。心行が真に無漏である人、無漏持戒を行える人は、三果・四果の人および初地以上の菩薩である。彼らの心行は貪瞋痴の煩悩と相応せず、無漏である。

智慧を開く前提条件は数多くあり、戒はその一つに過ぎず、全てではない。ただ戒を持つだけでは不十分であり、福徳や禅定などの条件も必要である。無数の持戒者が智慧を持たず、ただ人身を保つか、あるいは天に生まれて福を享けるだけである。智慧がなければ戒行を良く守ることもできず、戒相が理解できず、戒の内包と目的が分からず、戒の開遮持犯を知らないため、ただ相に着手し、心を修めることを知らない。時に戒を犯しても気づかず、守戒していると思い込む。さらに多くの者は小乗の有相戒を守りながら、大乗菩薩の利他戒を犯している。

小乗戒は自己を修め、他人は顧みない。菩薩戒は、心を動かし念を起こすことが自己のためであればすでに犯戒である。真の大菩薩は、心心念念、衆生のためであるべきである。衆生に益があり、仏法の流布に益があるならば、たとえ自ら戒を犯して苦しんでも、衆生に有益なことを行わねばならない。時に小乗戒を守れば、大乗戒を犯すことになる。大乗の衆生を利楽する戒を守れば、小乗戒を犯すことになる。菩薩はこの時、善く抉択し、むしろ自ら小乗戒を犯してでも、大乗菩薩の心地戒を守持すべきである。

釈迦仏が菩薩であった時、衆生を救うために、やむを得ず小乗戒に背いた。それは衆生を成全し、正法を護持するためであった。正法を護持し衆生を救護するために小乗戒に背くことは、罪がないばかりか、功徳さえある。仏は経典の中で、悪世において正法を説く法師を護持するためには、刀杖を蓄え、破法の悪人を殺すこともできると説かれた。そうする者の功徳は、正法を説く法師よりもはるかに大きく、命終すれば仏の傍らに往生して仏の第二の大弟子となり、正法を説いた法師は命終して仏の第三の大弟子となるとされている。

我々は仏法を学ぶに先立って菩薩となり、最終的には仏となる。それゆえ大乗菩薩戒を良く学び、大乗菩薩戒を良く守持すべきである。これが自らの心を守持することである。菩薩戒と小乗戒が衝突した時、我々は自らの心地戒を善く護り、自己の個人的利益のためではなく、一切を大衆のため、仏法のためにすべきである。そうすれば成就は速い。

七、問:末法の時代、我々は如何に戒を持すべきか。仏法を初めて学ぶ者は五戒と八戒を持つべきで、久しく修行した菩薩は有相戒を持つ必要がなく、相を捨て相を分別せず、直接に大乗菩薩の無相の心地戒を持つことができるのか。

答:まず初学の菩薩と久修の概念内包を明らかにする必要がある。どの段階の人が初学に属し、どの段階の人が久修に属するか、それぞれの特徴は何か、心の状態はどうか。

久しく修行した菩薩は、多生多劫にわたり菩薩であったため、菩薩の習気を持つ。生まれながらにして煩悩が非常に軽微であるか、あるいは煩悩がなく、身口意行が清浄であり、人に教えられずとも自ずとそうであり、さらに無意識の習慣として衆生を善に導くことを好む。しかし自己を顕わすためではなく、完全に衆生が悪を棄て善に従うことを願う。菩薩が生まれながらにして煩悩が軽微か無いということは、ただ地上の菩薩が再来して初めて可能である。前世ですでに煩悩を断じており、今世は隔陰の謎があるため、時折ごく軽微な煩悩が生じる。これは煩悩習気と呼ぶべきである。

久しく修行した菩薩は、生々世世に菩提を証悟している。今世仏法に出遇えば、前世の修行の慣性と方法に従って自動的に修行し、速やかに禅定を生じさせ、間もなく自ずと果を証し再び明心開悟する。困難ではない。果を証し明心した後は速やかに前世の証量と繋がり、果位は前世の果位のままであり、禅定も前世の禅定である。もし修行を継続すれば、道業の進歩は速い。衆生を教化する面では、今学び今薫習する必要がなく、自然に如何に衆生を教化すべきかを理解する。衆生を貪瞋痴に向かわせず、衆生の煩悩を甘やかさず、自然に厳しい師となり、弟子に対して高い基準と厳しい要求を持つ。

ただこのような久修のみが、効果的に大乗菩薩の心地戒を持てる。なぜなら心地がすでに清浄であり、仏陀が制定した有相戒、例えば五戒や八戒を特に守る必要がなく、自然に戒を犯さず、身口意行が清浄だからである。初禅以上の禅定があり、煩悩が断たれ、心地が清浄であるという基礎の上に初めて、無相心地戒を持つことができる。心は戒相の束縛を受けず、心地清浄に影響しないことならばすべて行える。目的は衆生を救うことであり、自らの貪欲に随順することではない。

もし菩薩の内心にまだ貪欲があり、瞋恚があり、愚痴も甚だ重いならば、厳格に有相戒を持たねばならない。五戒八戒の一条一条を厳格に守持し、断固として犯さず、犯せば疾く首を痛めて心を発露し懺悔せねばならない。特に菩薩戒はなおさら厳格に守持して犯さず、少しも自らを甘やかし妥協してはならない。貪瞋痴の煩悩が一つも断たれていない菩薩、特に最も基礎的な未到地定すらない菩薩は、無相戒を持つ資格がなく、そもそも持つこともできない。なぜなら心地が清浄でなく、起心动念がすべて煩悩と相応するからである。有相戒を良く持ち、様々な事相から一歩一歩自心を束縛して矩を越えさせず、初禅定が生起し煩悩が断たれて初めて、相を捨てて心地の清浄を守ることを試み始められる。

もし以上の久修菩薩の特徴を持たなければ、すべて初学の菩薩に属し、厳格に有相戒を修持すべきである。身行と口行の束縛を廃棄し、勝手気ままに振る舞い、自らの貪瞋痴の煩悩に随順してはならない。ある者は肉を戒められず、酒を戒められず、葷腥を戒められず、どうしてもこれらの口福を享受したいために、「私は相を取らず分別しない。私は心地戒を持つ。葷腥を食べても内心に葷腥の相を着けない」と言い訳をする。それならば、直接に精進料理を食べるのがどれほど良いか。なぜわざわざ食事にこだわり、毎日菜式を変えて趣向を凝らし、繰り返すことさえ食べないのか。もし心がすでに相を着けていないなら、一年365日同じものを食べても飽きることはなく、善く足ることを知るべきである。春夏秋冬の四季、各一着の衣服で十分である。喉が渇けば水を飲めば良い。なぜそれほど気を遣うのか。他人の口や胃に入るわけではないのに。

現代の仏法を学ぶ者は、憐れむべきであり、愍れむべきであり、憎むべきである!明らかに善根が軽く鮮少であるのに、久修菩薩を自認し、明らかに五戒八戒菩薩戒を持てないのに、高らかに無相の心地戒を持つと叫ぶ。自覚が全くなく、皆高邁で空疎なスローガンを叫ぶ者である。このままでは仏教は必ず衰亡し、成就する者はいなくなる。世尊が親しく説かれた戒定慧の三無漏学を、今まさに戒学と定学を廃棄し、ただ乾いた慧の慧学のみを求めようとする。一人一人が仏法を説けば、口から川が流れ出るほど雄弁で理路整然としているが、実際には何の修為もない。目は高いが手は低い。これが現代仏教界の乱相であり、整えることができない。衆生の強大な慢心によるものである。

八、ある者は言う:「因縁の対境に遇い、取り上げ放下し、自在洒脱である」と。しかしこれは真の放下ではなく、自在洒脱でもない。自己麻痺である。真に放下するには、真に我見を断じ、初禅定を修めて煩悩を断ち、貪愛を断除して初めて放つことができ、洒脱になれる。この境地に修まっていなければ、真の放下ではなく、ただ愚かで脱していないだけである。

多くの人は束縛されたくないと願い、皆自在を望むが、何が束縛で何が自在かを知らない。そこで戒律を束縛と見なし、禅定を束縛と見なす。戒律の束縛を受けるのは自在でないと感じ、それゆえ戒律を要しない、拘束がないことを望む。知らず知らずのうちに、仏陀が戒律を制定した目的は、衆生に解脱を得させるためであり、それゆえ戒律を別解脱戒と呼ぶのである。衆生は戒を守り、戒を犯さなければ、因果の悪報はない。戒を守れば我見を断ちやすく、煩悩を降伏させ断除しやすい。煩悩を断除して初めて解脱を得て自在となり、心は矩を越えず、人に心なく、事に心なく、これが真の解脱である。束縛を受けない心があること自体が、解脱せず自在でない心である。戒衣は、また礼懺衣とも呼ばれ、解脱服とも呼ばれる。戒を受け、戒を誦し、経を念じ、懺悔する時にまとう。この法事によって、心は次第に解脱を得る。

九、心戒を守るとは何か

心戒を守るとは、心に起心动念を起こさせず、貪瞋痴の煩悩を起こさせないことである。これは難しく、必ず煩悩を断除しなければならない。煩悩を抑え伏せることさえ容易ではなく、しばしば抑えきれない時がある。現代の世間では、身口の戒さえ守りにくく、戒を犯す機会が多い。少し気を緩めれば身口の戒を犯してしまう。

なぜ身口の戒を犯すのか。心のためである。心に貪瞋痴の煩悩があれば、身口に業を造らせる。もし心を守ることができれば、身口は戒を犯して悪業を造らない。もし心が戒を犯さなければ、身口がどうであれ犯戒ではない。なぜなら貪瞋痴の煩悩心行がないからである。一切の戒は有心無心を基準とする。しかし一般人は他人の心を見極めるのが難しく、他人の身口を基準とする。当然、誤って評価することも多い。

小乗戒行は身口の業行を基準とする。身口が戒を犯さなければ良いのであり、心行がどうであろうと構わない。大乗菩薩は心地戒を基準とする。起心动念がすべて自己のためでなければ良い。真の大乗戒は守りにくい。例えば『瑜伽師地論』の菩薩戒は、初地以上の地上の菩薩のために制定されたものである。地前の菩薩は貪瞋痴の煩悩を断じておらず、守ることはできない。身口が戒を犯せば犯戒となる。地後の菩薩は心行を基準とし、心が衆生のためであれば犯戒とはならない。

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