仏法雑談(第一部)
第十章 法義篇(2)
十九、推理は必ずしも証得を意味するものではない。例えば、縁覚(辟支仏)が十二因縁または十因縁を推究し、阿頼耶識に至ると、識のところで止まり、それ(阿頼耶識)を超えることはできない。そうであっても、第八識を見出し証得したわけではなく、阿頼耶識を実証した者ではない。阿頼耶識を実証する者は大乗の菩薩であり、大乗の見道である。大乗の善根・福德・因縁と発心が必ず必要であり、どれ一つ欠けることもない。もし外道や小乗にも大乗菩薩の発心があると言うならば、それは必ず大乗菩薩である。なぜなら、菩薩がどのような法を学ぼうとも、すべて大乗を中心とし、衆生を度し仏道を成就するためであるからだ。菩薩の願いを発していなければ、その行いと結果は必ず菩薩のものではなく、必ず見道することはできず、必ず菩薩の果徳を持つことはできない。そうでなければ、外道の心を発しても仏になることができることになる。仏が衆生に必ず大いなる心と願いを発し、自利利他の菩薩の清浄な大願を発して、仏道の修証の過程を完成し、円満に成仏すべきだと強調する必要はない。
縁覚(辟支仏)は生死の源を阿頼耶識にまで推究したとしても、結局は涅槃寂滅に向かい、菩薩の大道を行って衆生を利楽することはない。この点が縁覚が菩薩ではなく、阿頼耶識を実証していないことを十分に証明している。種子が正しくなければ、根が正しくなければ、どうして正しい結果を得られようか。あたかも、悟る前に一切の法を第八識に帰し、その源はすべて第八識であり、その本性はすべて仏性であると考える人々がいるようなものである。そのような見解を持っていても、結局は理解と推理、想像に過ぎず、第八識を実証したわけではなく、明心の菩薩には属さない。
禅宗には、大衆が参究すべき話頭がある。「万法は一に帰す、一は何処に帰すか」である。無数の人々がこの「一」は如来蔵であり、万法はすべて如来蔵に帰し、すべて如来蔵から来ると推測している。しかし、そうであっても、依然として大乗の見道には属さず、破参には属さず、まだ真実の義の菩薩ではない。なぜなら、依然として如来蔵を証得しておらず、一が何処に帰するかを知らないからである。何処かも知らず、如来蔵が何処にあるかを見出せず、依然として無明の中にあり、証悟までどれほど道程があるか分からない。相似の法は結局相似の法であり、真実の法に取って代わることはできず、真実の法の功徳受用がなければ、食について語っても腹は満たされない。
ある者は阿羅漢と縁覚はともに第八識阿頼耶識を実証したと言う。もしそうであるならば、すべて菩薩と呼べばよく、どうして阿羅漢や縁覚と呼ぶ必要があろうか。仏法を小乗の四聖諦、中乗の十二因縁、大乗菩薩の六度に分ける必要はなく、すべて菩薩法と呼び、明心見性と成仏を根本の目的とすればよい。実際には、全くそうではなく、その違いは非常に大きい。
十九、法と法は相通じ、ある法を学んで他の法に通じないということはない。三界は唯心、万法は唯識であり、唯識をよく学べば、多くの経典が貫通する。唯識を学び、識の働きを観行することは非常に楽しみであり、自己を理解し、他者と世界を理解し、徐々に愚痴を脱し、無量の智慧を得ることができる。一切の法は識に落ち着き、識があれば一切の法がある。識を明らかにすれば、一切の法を明らかにし、成仏することができる。
二十、色について略説する
色とは色蘊であり、五蘊の一つである。相貌、形体、色彩があり、顕色、形色、表色、無表色を含む。このうち後ろの三つは法処所摂色である。顕色は青黄赤白であり、形色は大小方円長短寛窄である。表色は色の形状、姿態、身体の運動や動作、行来去止などである。無表色は色相に現れる美しさ、醜さ、魅力、趣、気質、学識、教養、平静、憤怒、明朗、熱情などである。法処所摂色は色声香味触に現れる法塵であり、意根に対応し、意識によって了別される。色にはさらに衆生色、男女の色相、宇宙山河大地、植物鉱物、家屋宮殿などの無情物も含まれる。
『金剛経』に言う:「もし色をもって我を見、音声をもって我を求むるは、是の人は邪道を行く、如来を見ることを能わず。」これは、如来を見ようとするならば、法身仏を見ようとするならば、真の仏を見ようとするならば、色相や声相をもって求めて見ることはできず、色や声があり六塵の相があるものは真の仏ではなく、報身仏・応身仏・化身仏であり、三十二相八十種好を有する。これは化現した有生有滅の仏である。魔王波旬(はじゅん)も福力のゆえに仏の相貌を化現できる。仏が涅槃した後、第四祖優波鞠多は波旬に釈迦仏の身相を化現させて目撃し拝瞻させた。波旬は実際に仏の色相を化現し、林の中から歩み出て、後ろに一群の弟子を従えていた。優波鞠多は初めて見たとき、本物の釈迦仏と思い、思わず礼拝した。波旬は礼拝に耐えられず、もとの姿を現した。したがって、如来を見るには色相に執着してはならず、色相から見てはならない。
二十一、それぞれの討論の題目は、一篇の小論文のようである。自ら論点を持ち、それから論拠を展開し、譬えを用いて説明するか、具体的な事例を挙げる。
宗とは宗旨、すなわち自らの論点である。因とは証拠、論拠、事実であり、宗旨を補証するために用いる。喩とは適切で形象的な譬喩であり、宗旨を説明するために用いる。この本事を身につけてこそ、論壇に登り、人と法を弁じることができる。この本事がなければ、いかなる議論にも参加すべきではない。壇下で口才を磨くのはまだ良いが、口才が良いからといって、論理的思考が良いわけではなく、事実をはっきり説明できるわけではなく、真理を掌握しているわけではなく、大智慧があるわけではない。口才は頭脳や論理的思弁能力には遠く及ばない。
二十二、如来、慧解脱の阿羅漢と俱解脱の阿羅漢の解脱の異同
仏と阿羅漢はともに三界世間の生死の纏縛を離れ、三界から解脱し、三界の生死の係縛を受けない。しかし、仏は究竟の解脱であり、分段生死を明らかにしただけでなく、変易生死も明らかにし、微塵ほどの無明も自心を纏縛しない。したがって、究竟解脱である。阿羅漢の解脱はまだ究竟ではなく、無明が残り、変易生死がまだ残っている。慧解脱の阿羅漢は世間の因縁が尽きるのを待って初めて三界を離れ生死を解脱するが、俱解脱の阿羅漢は時を待たずに解脱し、いつでも三界を離れ生死を解脱できる。
二十三、問:阿羅漢が無余涅槃に入った後、無余涅槃は三昧の境界ですか?
答:三昧の境界には、中に主体がいるべきであり、三昧の境界に入る者がいれば、将来には三昧の境界から出る者が出てくる。しかし、涅槃には主体がおらず、無余涅槃に入る者はいない。阿羅漢の五蘊十八界がすべて滅尽し、意根も滅尽すれば、もはや阿羅漢はいない。無余涅槃に入る者がいない以上、無余涅槃から出る者もいない。したがって、無余涅槃は三昧の境界には属さないと言える。
二十四、娑婆世界では、人々は日常生活の常識を現量認知としている。しかし、これらのすべての現量認知は八地菩薩に修まると、おそらくすべて変化し、適用できなくなる。その時になって初めて、元来一切はそういうものではなく、一瞬も変わらないものや法則はなく、山は山でなく、水は水でなくなり得ると気づく。一切の物質色法の虚妄性が、物質色法の不安定さと信頼性のなさを決定づけている。
私たちは火には燃焼性があり、一切の物質色法を焼き尽くすことができると考えているが、八地菩薩になると、必ずしもそうではなく、火の性質は変化し、おそらく紙一枚さえ焼けなくなることを知る。ましてや菩薩の色身はなおさらである。私たちは水には没溺性があると考えているが、八地菩薩になると、必ずしもそうではなく、おそらく紙一枚さえ濡らせなくなることを知る。ましてや菩薩の色身はなおさらである。私たちは石は食べられないと考えているが、必ずしもそうではなく、大修行者は完全に石を煮て山芋やジャガイモ、サツマイモのように食べることができる。したがって、普通の衆生のいわゆる現量認知はすべて間違っており、すべて非量である。衆生はあまり自信を持たない方が良い。
泥人形はすべて泥で捏ねて作られるが、禅定がなければ、ただ捏ねられるだけである。普通の人は何を捏ねることができるのか。生死輪廻の苦しみを捏ねるだけである。現代人は言葉を学ぶことを喜び、暗誦を好み、知識を学ぶことを好み、学識豊富であることを好むが、禅定による実証を好まない。
二十五、回向とは、意根が功徳を他の衆生に送ることを願い、他の衆生の意根もそれを受け入れることを願うことである。すると二人の如来蔵が協力して引き継ぎの仕事をする。蠢動含霊は福や慧を修める力がなく、すべて他の衆生や諸菩薩の回向に頼って、いくらかの福徳を積み、その微薄な福徳の力によって、絶えずその生命の質と次元を改善し、無数劫の後、初めて人に生まれ変わる。したがって、私たちはすでに人に生まれ変わり、仏法を学び修行する機縁を得たのだから、私たちを度脱してくれた諸仏菩薩と善友に感謝すべきである。どう感謝するかについては、諸仏菩薩が私たちを度脱したように衆生を度脱すべきである。
二十六、牢関とは、その名の通り牢獄の関所である。牢獄とは何か。三界は牢獄であり、五陰の世界は牢獄である。牢獄を出る関所はどこにあるのか。我見を断ち我執を断つことにあり、さらに如来蔵というこの我さえも執着せず、心を空しく清浄にすることにある。これは如来蔵を証得して初めて語れることである。したがって、これは禅宗の第三関であると言われる。これができれば、生死の牢獄の関所を出て、三界から解脱し、五陰身の束縛から解脱できる。小乗で言えば、少なくとも三果の解脱功徳があり、心は解脱して貪愛と瞋恚の煩悩を断ち、命終には我執を断ち一念の無明を断てば、無余涅槃を取証する能力を持つ。
禅定では初禅定があればよく、あまり高い禅定は必要ない。もちろん禅定は高ければ高いほど良い。しかし、ある者が言うように五陰身を木のようになるまで修めたり、滅したりする必要はない。それは何地の菩薩、さらには八地菩薩でさえも修めることができるものである。禅宗第三関の前後にいる者は、十行位と十回向位の菩薩に属し、八地菩薩にはまだ遠く及ばない。
二十七、心が清浄かどうかは、分別するかしないかにあるのではなく、心を滅して用いなければ清浄になるわけではない。心が運行し分別する過程において、誤りや異想がなく、無明や煩悩がないことにある。ある者は長年寝てばかりいて、分別せず何もしないが、彼の心が清浄であるとは限らない。ある日一旦目覚めると、何かをするたびに貪瞋痴の煩悩が山ほど出てくる。諸仏は劫を重ねても衆生を度することを止めないが、その心は絶対に清浄である。如来蔵は永遠に清浄であるが、運行と分別を止めたことは一度もない。
二十八、菩薩の六度
私たちが仏法を学び如来蔵を証得し、明心見性し、真の菩薩となるためには、菩薩が修すべき法を修すべきであり、菩薩は菩薩の六波羅蜜を修行すべきである。六波羅蜜の第一は布施波羅蜜であり、菩薩として必ず布施を修めなければならない。一方では衆生と善縁を結ぶためであり、衆生に必要なものを布施すれば、衆生はあなたを信服し、共に仏法を学び修行するようになる。他方では自らの福徳を修めるためであり、自らの福徳が具足して初めて、開悟し真実の義の菩薩となり、仏門に入る機会を得る。
明心の菩薩は仏門に入り、明心していない菩薩はまだ仏門の外にあり、真の意味の菩薩ではない。したがって、菩薩となるにはまず必ず布施行を修め、自らの福徳を具足させなければならない。さらに衆生と縁を結ぶことも必要である。衆生と縁を結べば、衆生を度する機縁もあり、衆生は喜んであなたの随学弟子となり、あなたは衆生を導いて一歩一歩修行を進め、将来成仏する時、これらの衆生はすべてあなたの仏国土で仏法を護持するようになる。したがって布施は非常に重要である。
第二は持戒波羅蜜である。戒を保つことによって、心は矩を越えず、清浄になり、罪業や過ちを犯さず、悪業に牽累されることもない。戒を保って心が清浄になって初めて禅定を持つことができる。定があって初めて観行や参禅ができ、それによって真理を明らかにし、第八識を証得できる。したがって菩薩は戒を保ち、心行を清浄にすべきである。故意に戒を破ろうとする考えを持つ菩薩は一人もいない。もし故意に戒を破るならば、それは真の菩薩ではなく、彼の性障がまだ重く、仏門に入る資格がなく、真の菩薩にはなれないことを示している。したがって真の菩薩となるには必ず戒を保たなければならない。初めは受動的に戒を保ち、次第に自ら進んで戒を保ち守るようになり、最後には保つべき戒がなくなる。心がすでに清浄になり、戒を破る心がなければ、一切の行為や造作は自性清浄心に相応し、この時は能動的に戒を保つ必要がなく、持たずして持つ状態となり、時処所々で身口意の行いが戒律に合致し、仏法に合致し、如来蔵の体性と一致する。これが心の地の戒を持つことである。
第三は忍辱波羅蜜である。忍辱を修めることも心を清浄にし、自らの性障を降伏させ、衆生と善縁を結ぶためである。衆生が私たちに多くの辱めの境を与えても、心を忍んで降伏させ、衆生に報いず、衆生に瞋らず、そうすれば衆生との冤仇を解消し、善縁も結べる。自らの心性や性障の煩悩も効果的に降伏させることができる。これは真の菩薩の心行であり、真の菩薩としての標識である。したがって必ず忍辱波羅蜜を修めなければならない。
第四は精進波羅蜜である。菩薩として必ず仏法に精進して努力し、怠ってはならない。ではどの方面で精進すべきか。布施において精進し、福徳を修め衆生と善縁を結ぶことに精進し、持戒において精進し、忍辱においても精進し、禅定を修めることにも精進し、自らの般若智慧を修めることにも精進し、時処所々で精進修行すれば、善法は速やかに増長し、速やかに明心見性することができる。これが精進波羅蜜であり、生死の彼岸に到ることができる。
第五は禅定波羅蜜である。菩薩は必ず禅定を修め、心を一境に住し、散乱もせず昏沈もせず、定力を修めて初めて様々な観行を行い、仏法を証得できる。この定の一つは四禅八定の定であり、もう一つは心に決定を得た定である。大乗の法、如来蔵の法に対して、菩薩はすでに心に決定を得て、確信し疑わず、退転しない。明心見性して真の菩薩となり得る法、成仏できる法、般若実相の法に対しても心に決定を得ている。四禅八定の功夫、特に初禅以前の未到地定は必ず修め出さなければならない。これは観行や参禅の基礎であり、この定があって初めてよく観行し、自心の本性を証得できる。したがって禅定は非常に重要である。定があれば同時に福も生じる。これを定福という。最も重要なのは、定があれば大乗般若の智慧を増長できることであり、したがって定を修めれば生死の彼岸に到ることができる。
菩薩の六度の最後は般若智慧である。般若とは何を指すのか。それは私たちの自性清浄心である如来蔵であり、不生不滅の心体である。般若経典は主に600巻の『大般若経』であり、すべて如来蔵を中心に説かれている。『心経』『金剛経』など多くの般若に関する経典はすべて如来蔵の般若体性を説いている。これらの内容を私たちは修習し、理を明らかにしなければならない。理を明らかにした後、禅定を修め出せば、参禅することができる。これらの六度の条件が具足して初めて参禅する能力があり、時節因縁が具足すれば、自性如来蔵を証得し、明心見性することができる。
菩薩の修行として、主にこの六つの方面を修める。最後の一条は般若波羅蜜であり、これは最も重要な修行内容である。一切の修行は大智慧を得るためであり、智慧があれば一切の法を成就でき、智慧に頼って初めて解脱を得られ、智慧に頼って初めて生死を度し仏道を成就できる。したがって私たちは皆、努力して般若智慧を薫修し、如来蔵の法を薫修すべきである。
二十九、なぜ受あるものはすべて苦であるのか
苦には三種類ある:苦苦、行苦、壊苦。あるいは八苦に分けられる:生老病死苦、求不得苦、怨憎会苦、愛別離苦、五陰熾盛苦。行苦の「行」は運行と変化の意味である。五陰身心が少しずつ変化し壊れていくことで、根本的に留まることができず、把握できない。したがって五陰には行苦がある。壊苦の「壊」は破壊、消散、変異の意味である。五陰も把握できない。したがって五陰には壊苦がある。一切の苦そのものが一つの苦である。これが苦苦の意味である。衆生には三苦、八苦だけでなく、拡大して細分すれば無量の苦がある。しかし愚痴な衆生は苦の中にいながら苦を知らず、わざわざ仏陀が娑婆に来て苦聖諦を開示しなければならなかった。開示した後も、衆生は依然として苦を認識できず、苦を断つこともできない。
受は苦受、楽受、不苦不楽受に分けられるが、どの受も苦である。たとえ楽受の中にも行苦があり、楽受の後には壊苦がある。楽受の同時に、心には依然として苦があり、楽しい時は純粋な楽ではなく、さらに衆生は様々な楽受のために一定の代償を払わなければならない。したがって五陰世間には真に苦のない楽受は存在しない。
無色界では、非想非非想処天の禅定境界は非常に楽しいが、そこにも行苦がある。時間が非常に速く過ぎ、定中の八万大劫はあっという間に過ぎ去り、過ぎ去った後は一切の苦悩が現前する。衆生は楽しい時に楽が消えないことを望むが、この望み自体が苦であり、有所求の苦に属する。衆生が仏法を追求する時には苦労の代償を払わなければならず、これ自体も苦である。しかし苦の中には楽受があり、その後一切の苦は徐々に楽受や捨受に転化する。したがって私たちは精進して仏法を学修し、困苦や艱難を恐れず、修めれば最後にはすべて楽受や捨受に変わる。どのような受も無常であり、無常なものは苦である。したがって受あるものはすべて苦であると言う。
三十、「捨識用根」という説は正しくない。もし識心がなければ、誰が根を用いるのか。根はどのように用いるのか。根でもあり識でもある意根(第七識)であれば、六識を離れても用いることができるが、普通の人はそれはできない。一切の法は心によって支配され、心識がなければ修行を語ることはできない。私たちが仏法を学び修行するには、仏法の基本的な道理をはっきりさせて初めて手を下して修めることができる。
いわゆる捨識とは、六つの識をすべて滅して用いず、六根だけで修行し一切に対応することである。しかし、もし眼識がなければ、眼根は色を見ることができない。もし眼根だけで色を見ることができるならば、死人も色を見ることができ、眠っている時も色を見ることができる。そうなれば人は死なず、眠ることもない。六つの識がもし滅すれば、人は一切の法を了知できず、根があっても作用しない。根は六塵を受け入れる受納器であり、六識を生じるために用いられる。識がなければ根は用をなさない。したがって修行は捨識用根であると言うことはできない。私たちが用いるのは識であり、一切の法は識が起用し分別している。識のない衆生はあたかも一塊の木のようであり、思惟、分別、計画、打算、推理、判断ができない。
もし意識がなければ、前五識も存在できず、依然として根を了知することはできない。たとえ用いることができても、眼識は色の粗い相しか見えず、耳識は音声の粗い相しか聞こえない。意識心の分析、判断、推理、思惟がなければ、どんな法も了別することはできない。眼根は自ら自らを用いることはできず、眼識、意識、意根、第八識が和合して初めて用いることができる。耳根、鼻根、舌根、身根も同様であり、識がなければ根は何の作用も持たない。もし意根が単独で用いることができるならば、必ず四禅八定と神通が必要である。もし甚深の禅定があっても、意根は依然として六塵境界を了知できず、修行もできない。
三十一、音楽は声塵であり、四大で構成された物質色法である。物体が衝突して発する音は外声塵であり、私たちがそれを聞くのは聞いた内声塵である。音楽の旋律は音声に依って存在し、五塵上の法塵に属し、法処所摂色である。楽譜を見て想像した音楽の旋律は独影境であり、もし楽譜すら見ずに空想で音楽の旋律を想像するならば、さらに独影境であり、すべて四大で構成された色法である。
異なる物体が衝突すると、異なる音が発せられる。衝突の力が異なれば音も異なり、衝突の角度や時間が異なっても異なる音が発せられる。したがって異なる物体を叩き、異なる力と角度を用いれば、一連の異なる音が形成され、リズム感がある。これがいわゆる音楽の旋律であり、生滅変異し、非常に虚妄であり、執着できず、把捉できない。したがって音楽を好むことも愚痴であり、貪愛でもあり、生死輪廻を出られない。
これにより、エネルギーも物質色法であり、四大で構成され、物質の運動によって生じるものであり、消耗・逓減し、生滅変異無常であり、把捉できないと考える。熱は触塵であり、四大で構成され、物質色法であり、エネルギーである。電子の運動、水の運動はエネルギーを生み出せ、物質色法であり、実際の機能を持ち、六識によって感知される。音声も一種のエネルギーと言え、物体の運動エネルギーであり、エネルギーに属する。飲食の中にはエネルギーがあり、身体に力を持たせることができる。物質色法だけが身体に力を持たせ、温度や暖かさを持たせ、身体を変化させることができる。
物質の形態が変化すれば、エネルギーを生み出すことができる。形態が異なればエネルギーも異なる。水力発電は水の運動がエネルギーを生み出す原理を利用している。身体のエネルギーが少なければ、多く運動し、走れば熱量を生み出し、身体を温めることができる。電磁波、磁場は一種のエネルギーであり、飲食を成熟させることができる。
地大も一種のエネルギーであり、人を打ち殺すことができる。これが地大のエネルギーの作用である。火大も一種のエネルギーであり、命を活かし、人を焼き殺すことができる。水大も一種のエネルギーであり、堤防を崩し、人を溺れ死なせ、渇きを癒すことができる。エネルギーはまた一種の力とも呼ばれ、四大はすべて力を持ち、すべて力を形成できる。静止した物体は遮断や遮蔽の作用を起こせ、これも一種のエネルギーである。力がなければ、遮断の作用を起こせない。土地も一種のエネルギーであり、衆生や物体を支えることができる。力がなければ支えることができない。静止した川の水も一種のエネルギーであり、物体を浮かせ、載せることができる。
三十二、人は二つに分けられると、一つまたは二つとも死ぬ。蚯蚓は七つ以上に分けられても、すべて生きることができる。その理由は、虚空には福のない衆生が多く、身体がなく、常に投胎の機会を探しているからである。蚯蚓の色身は低賤で福がなく、これらの身も福もない衆生に適している。蚯蚓がいくつかに分かれると、衆生の如来蔵がすぐに他のいくつかの身体に投じ、蚯蚓のそれらの身体はすべて生き返る。一つは元の蚯蚓自身のものであり、残りは後から入った福のない衆生のものである。虚空の中に身のない衆生は非常に多く、身体に頼ることができず、皆苦しんでいる。したがって様々な衆生は投胎できる縁に遭えば、どんな胎でも気にせず投生していく。投胎後の運命や苦しみを考慮する余裕はない。
大千世界の衆生はあまりにも多く、三悪道の苦難の衆生は数え切れないほどである。ただ一つの衆生の体の細菌だけでも無数であり、ましてやすべての衆生の体の細菌、ましてや虚空の中のもの、ましてや十方世界のものである。したがって私たちはすでに人身を得て、しかも仏法に遭ったのだから、精進して修行し、人身を保ち、再び三悪道に堕ちてはならない。あれほどの多くの衆生のことを考え、自ら無始劫の父母や親族のことを考えても、精進して修行すべきである。天下の衆生を憐れむために、心を発して精進して修行すべきである。人身を失えば万劫復し難く、幸い仏法に遭うことはどれほど容易でないことか。必ず機会を掴んで修め出し、後で無量の衆生を広く度すべきである。あの苦難の衆生を見て、自ら大誓願を発し、自利利他することは難しくない。
三十三、衆生は無始劫以来、無明を持ち、心は一度も明らかになったことがない。もし衆生に無明がなければ、無明を断ち尽くせば、それは仏である。衆生はかつて仏になったことがない。もし衆生がかつて仏になったことがあれば、永遠に再び衆生に戻ることはない。『円覚経』にこの段があり、世尊は例えを挙げて言う:例えば金鉱から真金を精錬すると、真金は永遠に金鉱に戻ることはない。つまり成仏した後は永遠に衆生に戻らないという意味である。これもまた衆生は無始劫以来無明を持っていることを示しており、これについて道理を講ずる必要はない。法爾如是である。『楞厳経』第四巻で、阿難も世尊に無明はどこから来るのか、なぜ無明があるのかと尋ねた。世尊は無明には来所がなく、原因なく存在すると言い、もし原因があれば、それは無明ではないと言った。
三十四、仏法を学び修行する目的は成仏のためであり、仏は大智慧の成就者である。したがって私たちの修行の究極の目標は大智慧を得るためであり、智慧による解脱、智慧による成仏である。一切の方法手段は智慧を得るためである。智慧があれば無明はなく、無明があれば智慧はない。無明を破れば智慧を得る。では私たちが布施波羅蜜を修めれば、智慧を得て彼岸に到ることができる。持戒波羅蜜、忍辱波羅蜜、精進波羅蜜、禅定波羅蜜もすべて智慧を得て彼岸に到り、究竟解脱を得ることができる。
波羅蜜とは彼岸に到ること、生死の此岸を離れるという意味である。私たちの本覚心には無明がなく、生死がなく、生死の此岸にもなく、また彼方にないとも言えない。それは生死のない彼岸にあり、また彼方にあるとも言えず、彼方があるわけでもない。これが本覚の中道性である。私たちが修行してすべての無明を破り、究竟智を得れば、本覚に相応し、生死もなく、生死がないわけでもない。すなわち仏地の解脱色がある。涅槃にありながら涅槃に入らず、これが仏地の無住処涅槃であり、在在処処に自在ならざるなく、解脱せざるはない。もし私たちの修行方法が智慧を得られず、解脱を得られなければ、真実の受用はない。私たちは再び思考し、正しい修行方法を選択して、より速やかに仏地に向かい、究竟智を得るべきである。
三十五、多くの心理学者などの社会人々は仏法を信じ学ばないが、意識と潜在意識を比較的はっきり区別できる。私たちのように仏法や唯識を学ぶ者は、両者の区別を分けられず、言うまでもなくまことに汗顔の至りである。唯識学者、唯識学の専門家、その観察思惟の智慧が、もし禅定も般若唯識の智慧もない心理学者にすら及ばないならば、何をもって唯識の専門家、学者、研究者と言えようか。なぜこのような状況が生じるのか分からない。
甲:私はこう理解している:ある学者、芸術家、研究者は常に研究するため日夜考え続け、その結果定力が強く常に三摩地の状態に入るが自覚せず、したがって微細な観察ができる。
乙:そうだ。彼らには禅定があるが、わざわざ修めたものではなく、非常に大きな興味と関心があるためだ。彼らは宗教の枠組みに執着せず、宗教の是非善悪にも執着しない。私は多くの宗教徒がかえって自らを制限し、思考概念の世界に生きているのを見てきた。これらの学者は研究探求の仕事に情熱と責任感を持ち、したがって専心一意に集中でき、他の人や事には興味がなく、真理と事実を発見できる。