仏法雑談(第一部)
第十二章 修行篇
一、皆様の参考となる修行の日課
朝夕それぞれ少なくとも30分間静座し、座中では楞厳咒(りょうごんしゅ)あるいは心経を唱えること。ゆっくりと、心を込めて唱えること。
毎日一善を行い、難しい場合は週に一善でもよい。毎日できる限り福を修め、できれば毎日仏に供養することが望ましい。その他の法は、縁と力に随って修行する。毎日自らの戒行と心行を点検し、自らの起心动念を点検し、常に自心を観照する。阿含経を読み、五陰十八界の概念的内実を明らかにし、毎日観行思惟を一小節行う。心経あるいは金剛経を読誦・暗唱し、一語でも思惟できればよい。歩行坐臥の際、心を一法に縁(よ)らせるか、楞厳咒を唱えるか、心経を唱えるか、あるいは念仏する。時間があれば、七つの識の機能体性を思惟観行し、さらに第八識の機能体性を思惟する。
各人の修行内容とレベルは異なるため、各自が実際の状況に基づいて修行内容を組み立て、一日たりとも無駄に過ごしてはならない。毎日さらに自らを顧み、内心を点検し、煩悩が少し軽減されたかどうかを見る。心境は平静で波立たないか。世俗への追求や執着は減ったか。享楽を好まなくなったか。次第に少しでも出離心が生じたか。心根は素朴に変わったか。世俗の智慧と仏法の智慧は増したか。自らの修行に対し大きな信心を持っているか。毎日の心理的な攀縁(はんえん)は減ったか。内心は清明で愉しいか。物事を処理する際に周到であるか……。
二、知識は証量(しょうりょう)に等しくない。現代人は知識が豊富だが、福徳と禅定が不足しているため証得できず、したがって受用もなく、生死の問題を解決できない。昔の人は経典を聴き法を聞くことが容易ではなかったが、実証は容易であった。真の仏法、明心見性の法に出会えば、参究する能力が生まれ、実証は早く、多くの人に証量があり、仏法の真実の受用があった。菩薩修行の果位は実際の証量を基準とし、知識の多寡で決まるものではない。各種の観行が十分でなければ、たとえ学識が豊富でも、相応する菩薩の果位にはならない。証量がなく、実際に証得していないからである。
逆に、どれほど文化や学識がなく、多くの仏法を学んでいなくても、真の仏法に触れれば、思惟観行によって理解でき、それを基礎にさらに多くの仏法を観行できるなら、その証量は大したもので、学識豊富な人よりも高く、生々世々(しょうじょうせせ)にわたって仏法の利益を得られる。今、多くの人が自分は証果した、明心したと言うが、果たしてそうなのか、それとも単に理論上の知識で実際には証得していないのか、自らが真剣に仔細に点検すべきである。生死の大事は曖昧にしてはならない。
三、末法の時代、大多数の衆生は口頭禅に過ぎず、学んだ法に対して理解の要素が多く、実証は少ない。定力が不足しており、実証は難しく、滔々(とうとう)と語っても無駄である。それは自らの証量ではない。自らが修められない内容、衆生が修めたがらない内容を全て否定し、菩薩の六波羅蜜(ろっぱらみつ)をこっそり何条か削り、仏法の頭と尾を切り落とせば、仏教の正法は早く滅び、衆生は長く生死の火坑(かこう)の中で自らを抜け出せなくなる。仏陀の教えを考慮せず、仏教事業の発展の前途を考えず、一方的に自らの誤った観念に従い、あるいは衆生の心理に迎合し、衆生の機嫌を取るだけで、衆生を導いて如実に修証させなければ、魔王が喜ぶことになる。
今、口頭禅がまだはびこっているが、さらに時が経てば、口頭禅すらなくなり、仏教は完全に衰微する。仏法が完全に滅びるまであと八、九千年あるというのに、こんなに早く戒定慧の三学から二つを削り、六波羅蜜を四波羅蜜に変えるとは、まさに身の毛もよだつ思いである。仏教の発展の歴史を振り返ってみよう。隆盛時はどのようであり、なぜ隆盛したのか。衰敗時はどのようであり、なぜ衰敗したのか。智慧ある者は見抜けるはずである。世尊の教えに合致し、完全に世尊の教えを遵守した時代には、必ず仏法は隆盛した。逆に仏陀の教えに背き、断章取義し、仏教の法と一致せず、さらに対立すれば、仏教は必ず衰微する。
今の仏法は強大ではない。もしさらに仏陀の教えに背き、六波羅蜜を四つしか修めなければ、将来は四つすら修められなくなる。戒定慧の三学は、一学でも修めれば、将来は一学すらなくなる可能性がある。皆様各自で考えていただきたい。あなたは仏教に一石を投じるのか、それとも仏教の煉瓦を崩すのか。浮ついた時代が浮ついた衆生を生み、衆生の浮つきが時代をさらに浮つかせている。しかし、ある者はあえて衆生の浮つきを助長しようとする。いったい何のためか。
中国震旦(しんたん)の仏法は、狂禅の中で滅びた。自らは筋道立って話し、巧みに語っていると思い込んでいるが、中身がなく、実際に修証できず、したがって解脱の功徳受用は微塵もなく、智慧も狂慧と乾慧(けんえ)に過ぎない。しかし衆生は理解せず、大多数は素人で、騒ぎを見るだけであり、誰が巧みに語るかで誰に道があると判断し、どれほど長く付いて学んでも、永遠に元のままの知見で、進歩がない。三年五年、十年八年学んでも、依然として足踏み状態なら、あなたの学ぶ仏法に問題がある証拠である。問題のない仏法は、学べば日々進歩し、向上が速い。
六祖以前の学人は皆坐禅を重んじたが、六祖以後の学人は、六祖壇経を手にし、毎日滔々と弁じ立て、坐禅による実修をせず、もはや仏法を参究せず、あたかも壇経を自らが説いたかのように、自らはすでに全てを実証したかのように思い込み、自らに修めるべきものは何もなく、ただあちこちで口先を弄(ろう)するだけであり、これが道だと思い込んでいる。結果として、禅宗はこうして衰えて影も形もなくなった。これが歴史である。教訓を汲み取ろう。一点を覚えておくこと。どれほど多くの仏法を学び、どれほど多くの書物を読んでも、それらは自らのものではなく、自らの話題の種としてあちこちでひけらかすべきではない。これは乾慧よりもひどく、自らの前途を断つだけでなく、仏教の前途も断ちかねない。
自らが実際に証得していない限り、自らに道があると思い込んではならない。慢心が盛んになり、あちこちで論争しても何の意味があるのか。自らにどれほどの真実の智慧があるか、どれほどの真実の受用を得られるか、どれほどの解脱を得られるかを、よく秤(はか)にかけるべきである。自らを正確に秤にかけられることが智慧であり、自我を降伏させ、慢心を降伏させる過程でもある。他人を秤にかけるのはやめ、よく自らを秤にかけることが最も重要である。もし皆が衆生の欠点や弱みに迎合すれば、仏法は粉々にされてしまう。枝を断ち葉を抜く結果、真の仏法は滅び、実質を失う。仏教の前途も、私たち一人ひとりの手にかかっている。自分には関係ないと思い、顧みず、妄りに振る舞ってはならない。
四、ある種の名詞概念については、あまり心思いを巡らせて研究に没頭せず、名相に執着して精力と貴重な時間を浪費せず、名詞の真の意味をはっきりさせさえすればよい。そして義に依り語に依らず、理と事を思惟しつくし、明らかに説く。それらの名言・語彙の表面的な意味にこだわる必要はなく、義を得て言を亡(ほろ)ぼし、その根本義を取ればよく、文字・語彙上で際限なくこだわる必要はない。仏法の究竟義・真実義を深く理解することが最も重要である。それらの語彙・名言にこだわることは、研究に似ている。仏法は研究を最も忌み嫌う。実証者は黙々と事を行い修行し、言語の雑多な枝葉はできるだけ切り捨て、一切気にかけず、修行の思路が明らかになり、はじめて速やかに道に入れる。
龍が海珠(かいしゅ)をくわえ、魚は顧みず。重点的な主要な法を捉え、他は一切気を散らさない。我見を断ち切れば、その後ろの事はわかる。まだ役に立たない自らの事をあまり研究する必要はない。賢明な者はまず門に入ってからだ。門の外で門の中の事を研究しても、多くの時間を浪費するだけである。多くの人はあの言語の葛藤(かっとう)を引きずることを好み、際限なく自らを縛り、出離できず、実に智慧がない。
五、自ら智慧があると思い込む多くの人は、禅宗の公案の前では手も足も出ない。またある者は自ら道があると思い込み、禅宗の公案を解説するが、全て世俗法に堕しており、俗人はこぞって読むのを好むが、その中にいったいどんな味わいがあるのかわかっていない。
ある者は仏法を学び、文字の殻に閉じこもり、文字を解体し、語句・語彙を研究に研究を重ね、表面的な意味が少しわかったと思い込むと、道があると思い込み、あちこちで貼り付け、慢心が大いに発する。実は、仏を学び修行することは、文字の殻に閉じこもることではない。功夫は詩の外にあり、菩薩の六波羅蜜に心を用いて修行し、煩悩を降伏させ、心性の修養を高め、福徳を培い、禅定を増強することに努めれば、菩薩となる条件を絶えず完璧にできる。終日文字の山に埋もれ、あの文字を研究することではない。もし仏を学ぶことが単なる文字の功夫なら、大学院生や博士は皆、大乗明心見性の菩薩になれるはずだが、実際はそうではない。
また、三帰依(さんきえ)も五戒も必要なく、ただ真剣に文字を参究すれば明心見性できると主張する者もいる。ならば外道は皆賢く利発な人々であり、外道は仏を信じる必要もなく、ただ仏法を研究すれば仏法を解悟できるはずだ。しかし、彼らは永遠に大乗実義菩薩にはなれない。たとえいくつか答えを知っていても大乗菩薩ではなく、智慧が生起せず、菩薩の心性がないからである。賢く利発な人はどこにでもおり、しばらく仏法を研究すれば表面的な内容がわかるようになる。しかし彼らは菩薩の心性を備えていないため、永遠に真の菩薩にはなれず、仏菩薩や護法善神の加護や庇護を受けられない。したがって真に証悟することもできない。
六、理論もまた実修の一部であり、しかも最も重要な部分である。学理を非実修と見なしてはならない。学理は正知見を得る主要な道である。正知見の指導があってこそ、正しい方法を取り、正しい方向に向かうことができる。生死の解脱は正知見と正慧に依存し、仏道の成就は正慧に依存する。世尊が在世の時は、ただ弟子たちに法を説き伝え、たまに禅定を教えるだけで、弟子を率いて具体的にどのように修行するかは教えなかった。弟子たちは法を聞いた後、皆一人で静かな場所を見つけ、世尊の説かれた法理を観行思惟した。思惟が通じれば法眼浄(ほうげんじょう)を得て証果した。多くの人は世尊が法を説いているまさにその時に証果した。それは聞きながら同時に思惟したからである。だから世尊は法を説く前に必ずこう言われた。「よく聞け、よく聞け。善く思念せよ。われ汝がために分別して解説せん」。
七、大乗仏法は般若系と唯識系に分かれる。般若の部分は六百巻の般若経であり、その他のいくつかの経文を含み、大乗仏法の基礎である。初地の菩薩まで学べば、基本的に学ぶ必要はなくなる。大乗仏法で最も深い内容は唯識であり、唯識を全て学び、全て証得すれば、成仏する。唯識上で比較的深い仏経は、全て唯識の種智(しゅち)に関わるものであり、地上の菩薩が修める内容である。『解深密経』と『深密解脱経』は比較的深い経典であり、さらに深い経典は、娑婆世界(しゃばせかい)にはおそらくなく、他方の世界には必ずある。
体系的に唯識を学ぶには、八つの識の体性を全て明らかにし、一つ一つ証得し、証得した後は再び縁に歴(へ)り境に対しこれらの識心を観察し、その互いの和合運作の関係を観察する。そうすれば智慧は速やかに発揮される。阿含経は根・塵・識の三者の関係を非常に明瞭に説いている。三者の関係を明らかにし、さらに三者が全て第八識から生じることを理解すれば、仏法は一定の基礎ができる。大乗仏法を学ぶに際し、小乗を軽視してはならない。特に小乗の観行方法、禅定を修める方法、三十七道品を修める方法は、私たちが大乗仏法を修行する上で非常に大きな助けとなる。よく学べば、大乗見道に入るのも速い。
八、一つの言葉を聞き、あるいは一つの事物を見て、十人いれば十種の観点があり、百人いれば百種の意見がある。なぜそうなるのか。各人の識心が異なるため、認知が異なる。認知が異なれば、感受が異なる。感受が異なれば、反応が異なる。反応が異なれば、言語・行為・造作が異なる。識心が一致した認知に達していないため、各々の認知の程度があり、一つの事柄について共通認識を持つことは不可能である。共通認識がなければ、一つの事の発展と成功を促すことは非常に困難である。世間の事が難しいのもここにあるのだろう。
一方、仏仏道同(ぶつぶつどうどう)である。なぜ道が同じなのか。それぞれの仏の修行がすでに円満に達しているからである。円満である以上、極みであり、皆極みである以上、程度は必ず同じである。しかもあらゆる面で同じであり、最も主要なのは智慧において同じである。したがってそれぞれの仏はあらゆる事柄について見解が同じであり、諸仏の間には永遠に意見の相違や争いはない。つまり、修行して智慧が高まる聖人ほど、彼らの間の相違点は少なく、共通点は多く、調和と默契ができ、共通認識に達する。
したがって私たちの修行の目標は、自らの智慧を増進させ、自らの知見を見地(得道後の知見を見地という)に変え、さらに見地をますます円満にすることである。そうすれば全ての事は円融無礙(えんゆうむげ)となる。
九、正しい聞思があってこそ正しい修証がある
炎熱の夏、道行く人が喉の渇きを覚え井戸を見つける。水は清く深いが、縄と水瓶を探しても見つからない。やむなく渇きをこらえ、清水を得て潤すことができず、井戸水があっても自らとは全く関係がない。仏法を学ぶ者もまた同様である。口では常に空を説くが、それを証明する方法がなく、ただスローガンを叫ぶだけで、依然として有の中にいる。常に放下(ほうげ)を叫ぶが、何を放下するか、どう放下するかがわからず、ただ常に執着するしかない。ただ方便の方法と手段がないからである。解脱の方式方法を理解することは重要である。そうでなければ、井戸の縁に立ちながら口が乾くようなものである。
仏法修行は、聞・思・修・証である。まず多聞、真の仏法を聞くこと。仏の説かれたものであり、仏理に合致すること。もし仏説に合致しなければ、多聞すればするほど生死が増す。次に思惟、理にかない法にかなうように正しく思惟すること。邪思邪解はさらに生死を増す。再び修、仏理に従って修めること。聞くことが正しくなければ、思うことが誤っていれば、修めればすぐに偏り、正しい道に上れない。最後に証、聞くことが正しく、思うことが透徹し、修めることが正確であってこそ、時節因縁が具足してはじめて真を証得できる。真を証得してこそ真実の受用があり、空しく放下を叫ぶのは、目標がどこにあるかわからず、やみくもに銃を撃つようなものである。多く福を積み、厳しく戒を保ち、常に定を修め、善く慧を修めよ。解脱の大道は目前にある。
十、如何に一仏乗を修行するか
仏法の中には実際には一仏乗しかない。たとえ小乗解脱道の法義も、成仏の法であり、一仏乗の中の一部分である。これは成仏に必ず修証しなければならない内容の一つである。小乗法に通達し、大乗般若法にも通達してこそ、初地に入り、如来家に入り、地上の菩薩となることができる。つまり、大根基の衆生は前世ですでに我見を断ち何度も悟っているため、直接大乗仏法を修学し、深甚な唯識の理を悟り、同時に小乗解脱道の法義にも通達でき、特に小乗を修学しなくても小乗の無学に到達できる。
しかしこのような根基は極めて稀である。一般的な衆生はまず小乗解脱道の法義を修学し、小乗解脱道の基礎を固め、我見を断った後、大乗上の明心見性を求めるべきである。小乗で我見を断った後、慧解脱の四果阿羅漢に修め、徹底的に人無我を証得してこそ、小乗解脱の理に通達できる。我見を断った後、煩悩を断ちたいなら、五蓋を降伏させ、初禅定を修め出してこそ、次第に貪・瞋・痴・慢の煩悩を断ち切り、心解脱慧解脱の阿羅漢となれる。しかし五蓋を降伏させることは容易なことではない。多くの人は一生かけても降伏できず、たとえ我見を断ち明心見性しても五蓋を降伏させられない。いったん五蓋を降伏させれば、初禅定に入る能力が生まれ、煩悩を断ち切る能力も生まれ、如来家に入る能力も生まれる。これが仏法修行の歩むべき道筋である。
十一、理を明らかにしてこそ放下できる
無色界の天人は色身がなく、常に定中にあり、定から出ない。彼らの識心の活動は非常に微弱で、思惟思考力がなく、ましてや仏法を参究する識心の活動はない。心理にも情緒がなく、想像・幻想がなく、回想がなく、打算がなく、煩悩がなく、苦痛がなく、歓楽もない。要するに、これらの心理活動は全て免れている。そうなると、彼らが我見を断ち、明心しようとしても、本当に道がない。ある者は色界の天人や無色界の天人の定功を学び、いつも定に入ろうとし、学んでも学んでも無明の中で流転するだけで、愚痴性を断ち切れず、三悪道の業は依然として免れない。私たちは色身があるため、仏法の修証に非常に大きな便宜を提供されている。色身があれば身口意行(しんくいぎょう)があり、仏法を修証できる。色身がありながらそれをよく利用して仏法を思惟観行し、参禅悟道せず、終日色身を放下と叫べば、結果として命終すれば自らを三悪道に置くことになる。なんと見事な放下か、本当に下に置いてしまう。
多くの人は手に三蔵十二部経を捧げ、大乗経典を捧げながら、様々な邪解と誤解を生む。経を読むのは経を理解するためであり、経を解した後ではじめて経を証得できる。誤った知見があれば速やかに修正すべきである。ただ自らの解釈が必ず正しいと偏執してはならない。自らの智慧が不足しているのに、死ぬまで自らの理を認め、誤りから出ようとせず、さらに他人を誤りに導き入れる。しかし現実には、このような人は非常に多く、打っても打っても引き返そうとしない。あなたがこうした人々を導く時、ある者は逆に噛みついてくる。種々の兆候から見て、娑婆世界の衆生の心の中の無明は、実に深重であり深重である。多くの人は彼の無明が少し軽減されるのを待つしかなく、そうしてはじめて度化できる。
十二、修行は生処(しょうしょ)を熟(じゅく)に転じ、熟処を生に転じる過程である。私たちは歴劫(りゃくこう)以来、世俗法に非常に慣れ親しみ、念念(ねんねん)が世俗の五欲六塵(ごよくろくじん)である。一方、出世間法については熏習(くんじゅう)が少なく、非常に疎遠である。修行を通じて、私たちの心を世俗法から次第に切り離し、世間法への用心を減らし、重心を徐々に出世間法へ移す。世間法を行う中で仏法を忘れず、仏法から離れず、常に仏法と照らし合わせ、因を知り果を達する。世間法と仏法を融合させ、一つにまとめる。最後には念念が仏法、念念が菩提となり、覚悟の心で一切を観照し、さらに覚悟と観照を融解し、無上覚、正等正覚に達し、円満の菩提果を得る。
十三、七覚支(しちかくし)のうち二番目は択法覚支(ちゃくほうかくし)である。ここまで修めれば択法眼(ちゃくほうげん)が生じ、接触する法が正しいかどうか、接触する法師に道があるかどうかがわかり、その後ではじめて正しい選択ができ、道を誤らない。これは証果開悟の前に備えるべき覚悟性であり、そうでなければ証果できず、開悟できず、得道できない。
まだ択法覚支を修めておらず、択法眼を得ていない段階では、修行はまだ力にならず、福徳・定力・智慧が全て不足している。師に智慧があるかどうか、智慧がどれほどかがわからず、法の正邪がわからず、頭が混濁して開けず、正法に出会っても学ぶことを知らず、邪法に出会っても避けることを知らない。そのため正知見を得られない。択法眼のない一部の人は、疑蓋(ぎがい)を除かず、法を疑い師をも疑い、法と師の双方を確定できず、このように修学すれば進歩も成功もしない。疑心が重いのは善法ではなく、福徳が欠けているからそうなるのである。弁別する能力があってこそ、疑いを除き、道業を増進できる。
十四、真に唯識に通達してこそ、弥勒菩薩の程度に達する。これは一朝一夕のことではない。最も基本的にも第八識を証得し、その後さらに禅定の修証を配合し、煩悩を断ち切り、煩悩習気を断ち切ってこそ、次第に一切法を証得でき、無明を破り尽くせる。『瑜伽師地論』の中の全ての法は、実証を要求される。基礎の法を証得しなければ、その上のレベルの法は証得できず、さらに上のレベルの法はなおさら証得できない。
したがって唯識を学ぶには、必ず大心を発して明心見性し、着実に菩薩の道を歩み、内門と外門の菩薩六波羅蜜を全て修行し円満にしなければならない。真に衆生の利益となる大心の菩薩となることを願い、仏力の加護のもとでこそ、唯識学を修め終え、妙覚菩薩の果位に至り、ただ成仏を待つことができる。仏を学ぶことは単に理論を学ぶことではない。その中には仏の清浄な大願を学び、仏の衆生に対する慈悲喜捨の心量を学び、仏の戒定慧を学び、仏の深甚な禅定を学び、仏が備える一切の功徳を学び、全てを成し遂げてこそ、私たち自身はじめて仏となる。
十五、世尊が在世の時、弟子に仏法を伝授する際は、弟子が現に修学すべき法を説き終えると、後は放っておかれた。残りの事は、弟子が独力で成し遂げた。当時弟子たちは皆世尊の法を聞き終えた後、自ら静かで人に邪魔されない場所を見つけ、定中で観行思惟した。世尊は弟子を率いて具体的に修行したことは一度もなく、弟子を率いて仏七(ぶつしち)をしたことも、禅七(ぜんしち)をしたことも、何七もしたことはなかった。皆弟子が自ら仏法を思惟観行し、独りで修行し、共修したことはなかった。
仏法を修学し、利益を最大に得ようとするなら、自ら多く思惟し多く観行し、他人に法をあまり細かく説かせないようにすべきである。もし自ら観行が少なければ、受ける利益も小さい。各人が払う代償が大きければ、得る利益も大きい。多く観行し、多く思惟し、間違いを恐れてはならない。間違えたら再び振り返り、他の方向に努力し、あらゆる方面を観行すれば、智慧も生まれる。観行は智慧を生み出す。観行は自らの事であり、できれば他人に代わらせない方がよい。大志を持ち、出来合いのものを求めず、自ら多くの精力と心血を費やし、多く思惟せよ。自ら修めれば自ら得、他が修めれば他が得、修めなければ得られない。修行実証した後ではじめて大智慧を得、真の解脱の功徳受用を得られる。
十六、生活・仕事・修行などのプレッシャーは心の感受である。心は毎日毎時毎刻感受しており、苦を感受し楽を感受し不苦不楽を感受している。プレッシャーは一種の逼迫感であり、苦受である。全ての受は根と塵が接触して生じる。六根が六塵に触れれば受が生じる。仏は『雑阿含経』の中で、貪愛を去り、受覚を減らすか、あるいは受覚を滅するには、触を減らすか、あるいは触を滅せよと説かれた。私たちは触を滅せないが、できる限り触を減らす。最善の方法は六塵の虚妄と無常性を観行することである。
六塵は外六塵と内六塵に分かれる。外六塵は私たちが根本的に接触できず、触れるのは全て内六塵である。それらは外六塵の影であり、自らの如来蔵が顕現した仮象であり、真実ではない。仮象であり実相でない以上、私たちは逆に自らの心を調整し、心が六塵の境界に対する執着性と攀縁性を減らすようにしなければならない。こうして境界を淡く見れば、心の中の苦受が減り、プレッシャーが軽減する。
心を修め、智慧を増長し、境界を認める以外に方法はない。私たちの娑婆世界は堪忍世界であり、至る所に苦受があり、至る所にプレッシャーがある。ただ絶えず自らの心を調整し、自らを説得し、境界を認め、攀縁を減らすしかない。これが真の修行である。外の境界は私たちに変える力がない。修行を通じて自らの心を変え、それによって自らの内六塵を変え、境界が私たちの心に随って転ずるようにする。これは地上の菩薩の境界である。少なくとも私たちの心が常に境界に随って転ずることは避けなければならない。修行は私たち生々世世の事柄である。修行しなければ生々世世に苦受があり、生ごと世ごとに、私たちはただ業を掴み、他には何も掴んでおらず、結果は全て夢一場、空しいものである。プレッシャーを動力に変えることに長け、努力して修行し、よく遊べ。
十七、内心が常に何かを求めて清浄になれない時は、世俗法を求める心を仏法を求めることに向け、世俗法を求めないか、あるいは少ししか求めなければ、心は清浄で雑念がなくなる。五陰が世間で享楽することを求めなければ、心は落ち着き、心根の染汚(せんま)が減る。私たちの自性清浄心を多く学ぶこと。それは一切法において無所求でありながら五陰の衆生を利益し、無数の有為法を造作するが、心根は無為無漏である。私たちはまさにその清浄性に依止し、心根が次第に清浄になるようにすべきである。
私たちがたとえ何かを求める時も、世俗法においては度を越さず、足りればよく、貪り求めれば求めるほど、仏法上の利益は得られなくなる。たとえ大きな福報を修め出しても、人天福報を求めてはならない。ただ早く得道し、道業が絶えず増進し、多く有縁を度化することを願うべきである。世俗法は少ししか求めず、仏法上の追求は必ず持たねばならず、さらに清浄な大願を発し、願力に頼って私たちをより速く進歩させる。世法を貪り求めれば堕落するが、仏法を貪り求めることは善であり、これを努力精進という。菩薩六波羅蜜の一つに精進波羅蜜がある。精進波羅蜜が具足しなければ、得道できない。
十八、私たちは生まれた後、両親が人としての道理を教えてくれる。それは一生涯だけでなく、後世の多生にわたって使い尽くせないほどである。ただ料理の仕方を教えるだけで、種子として残る。再び人となれば、見ればすぐにでき、しかも上手にでき、多生多世にわたって使い尽くせない。両親が私たちによく学べと教えれば、私たちは次の世では自ら進んで学ぶことを好み、督促する必要がない。では私たちが仏法を修学すれば、仏法を少し学ぶごとに、全て種子として残される。
この種子を軽視してはならない。未来世には大木に成長する。星の火も原野を焼き尽くす。したがって私たちは世俗法に貪着してはならない。いずれにせよ、これらの世俗法は滅び去り、未来世に持っていけない。過去無量世、私たちが追求した世俗法は全て私たちを見捨てた。私たちが能動的にそれらを放棄したのではなく、実際に持っていけなかったからである。今世も同様で、臨終に至ればこれらの人事物と別れざるを得ず、「やむを得ない」という心があれば、生死輪廻の苦しみを受ける。精力を修道に向ける方がよい。世俗法は間に合えばよい。世俗の利益を捨てなければ、仏法中の殊勝な利益は得られない。私たちは善く思惟し選択し、智者となるべきである。