衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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仏法雑談(第一部)

作者: 釋生如 カテゴリ: 総説 更新時間: 2025年07月14日 閲覧数: 2497

第七章 仏法と外道の章

一、修行して仏となり涅槃に趣く二つの道

仏法を学び修行するには二つの道があります。どのような二つでしょうか。第一の道は、最初の仏である威音王仏のように果断な智慧を持ち、勇気をもって真理を探究し、他人の理論に依存せず、自らの智慧の潜在能力を開発し、智慧の成就を得る道です。第二の道は、現存する理論を信受した上で、努力して実証を行い、智慧の成就を得る道です。

最初の仏は、世の中が未開の時代に、いまだいかなる真理も発見されていない前に、ただ一人で非常に大きな忍耐力と毅力を持ち、大いなる恐れを知らない果断な精神で勇気をもって真理を探究し、新たな領域を開拓し、無限の荒地を十方世界の仏国土へと開きました。これはまた、仏のいない世に現れた独覚仏のように、世間法に対する一つの疑問から自らの過去世の善根菩提の種子を奮い起こし、衆生の生命の成り行きを探究しようと志し、十二因縁法と十因縁法を見出し、生命の源を証得したことに似ています。その源とは、一つは実体のない無明であり、もう一つは実在する第八識です。

真理とは客観的法則であり、真理とは客観的に存在する理法であり、真理とは世の中が運行する真実の姿であり、真理とは覆すことのできない事実であり、真理とはいかなる人の意志にも左右されない定律であり、真理とは衆生を解脱へと導く灯火であり、真理とは衆生を彼岸へと運ぶ船です。真理はもともと存在していましたが、ただ発見する者がいなかったのです。威音王仏は非常に大きな善根と勇気をもって、真理を探究する困難な道を歩み、それによって世間・出世間のあらゆる真理を発見し証明し、後世の人々のために真理への道を開拓しました。解脱を志す後世の人々は、この道に従えば解脱の終点に到達できるのです。

威音王仏はすでに後世の人々のために解脱涅槃へと趣く道を開拓しています。後世の人々は自ら新たな道を切り開く必要はありません。しかし、すでに開拓された真理の道に従う中でも、なおいくつかの枝分かれした道や曲がりくねった小道があり、道の始まりを見つけられず、航標を見失う可能性があります。これには、各自が威音王仏の真理を探究する果断さと智慧に倣い、勇気をもって実践と探究を行い、困難を突破して大道へと至る必要があります。

仏が修行する第二の道とは、諸仏がすでに発見した真理を信受した上で、改めてこれらの真理が確かに真実の理であり、すべて実証可能であり、発見可能であり、再現可能であることを一つ一つ証明する方法を考え出すことです。それによって智慧による解脱は、最初に真理を発見した諸仏と同等となります。なぜ真理を信受し、真理を理解し、真理を知りながら、なおそれを証明する必要があるのでしょうか。最初の仏は真理を探究し発見した人です。探究の過程において、発見のその瞬間が証明となります。したがって威音王仏が真理を発見した時、これを真理であると宣言できたのです。では第二の仏および後世の諸仏、そして未来世の衆生たちは、最初の仏が発見した真理を理解したとして、私が真理を発見した、真理は確かにそうであると言えるでしょうか。もちろんできません。信じることは証することではなく、同じ智慧を得たことにはなりません。再び試行と証明を通じて初めて、その所以を知り、それによって智慧も得るのです。こうして初めて真理を掌握し、獲得したと言えるのです。

「確か」という二文字は何を表すのでしょうか。それは自ら証明したことを表し、実際に経験したことを表し、実験したことを表します。実験し、理解した真理に合致し、前提と一致し、心に疑いがなくなり、無明の結縛を断って初めて、確かにそうであると言えるのです。ここに至って、智慧は最初の仏と同等となります。しかし歩んだ道は最初の仏と同じでしょうか。払った代償、経験した艱難は最初の仏と同じでしょうか。どちらも同じではありません。新たな領域を開拓する者が最も苦労し、払う代償は最も大きく、経験することも最も多いのです。

十方世界の無限の時空において、威音王仏はただ一尊のみであり、二つも三つもありません。最初の開拓者が持つ善根、福徳、智慧、毅力、果断さ、強さなどは、あらゆる常人には備わっていない資質です。大きな真理において、巨視的な真理においては、最初の仏を超える者は存在しませんが、具体的で微細な真理においては、すべての衆生が完全に自ら探究し発見することができ、何事も諸仏世尊に完全に依存する必要はありません。これもまた善根福徳智慧が深く厚い者だけが為し得ることです。

釈迦仏が娑婆世界に残された仏法は、爪の先ほどの土ほどしかなく、まだ衆生に残されていない仏法は、大地の土ほども多くあります。非常に多くの真理が、大きな心量と大きな智慧を持つ衆生によって開発され、発掘され、探究される必要があります。真理である限り、事実である限り、仏が説いたかどうか、残されたかどうかに関わらず、真理は真理であり、事実は事実であって、仏の態度によるものではありません。もちろん仏は決して真理を否定せず、事実の真相を軽視することはありません。

私たちは威音王仏の思考様式、真理を探究する方法、問題を処理する手法、そして威音王仏の人格、品格、菩薩格を学び、威音王仏のような善根福徳智慧を積み重ね、さらに諸仏及び仏法の光明の導きがあれば、必ずやより微細で細かな真理を開発することができます。信心もまた善根福徳智慧の現れであり、この三つがあれば向かうところ敵なしで、必ずや早く一切の真理を証得するでしょう。

二、仏在世の時には九十六種の外道がおり、彼らの修行は苦行が中心でした。世俗法の一切を捨て去りました。私たちが現在仏法を学ぶことは、彼らの精進と苦難に耐える精神には遠く及びません。彼らは故郷を離れ山中に住み、衣食住は非常に苦しく、草を食べ牛糞を食べる者もおり、自らを意図的に飢えさせて骨と皮になる者もいました。こうした行いは業を消すためであり、業が消えれば輪廻から脱することができると考えたのです。しかしこれは邪見であり、戒禁取見です。彼らが捨てたのはすべてであり、世俗の心は根本的にありませんでした。捨てることはこれ以上なく徹底していました。しかし彼らは成就したでしょうか。仏は苦行によって業を消すと言われますが、その業は消し尽くせるでしょうか。もし外道たちのような捨てる苦行の修行方法で成就できるなら、釈迦仏も常寂光土から出て人間界に来て八相成道し、四十九年苦労して衆生を度す必要はなかったでしょう。

世尊が出家したばかりの時、一人の外道の師に従い、苦行と四禅八定を修学しました。仏は四禅八定をすべて修め終えた後、これが道ではなく智慧を生み出さず、仏となることができないと気づきました。そして苦行を捨て、菩提樹の下で坐禅を組み、仏法を思惟しました。夜、明星を見て悟りを開き仏となりました。したがって修行には正しい理論による指導が必要であり、単純に捨てるという簡単な考えだけでうまくいくものではありません。なぜ捨てるのか、何を捨てるのか、どのように捨てるのかを知る必要があります。仏が教えられた方法に従って修行し、誰かが独創した方式や理論方法に基づいて無理に進めてはなりません。私たちのすべての修行理論と法則は、仏説に合致しなければ成就できません。なぜなら仏はすでに成就者であり、その教えられた方法はすべて正しく誤りがないからです。他の人々のものはそうではなく、石を頼りに川を渡ろうとするようなもので、到底川を渡ることはできません。仏の教えと経典を離れれば、何も成し遂げることはできません。仏弟子たちよ、心に留めなさい!

三、なぜ世尊在世時の外道たちは、帰依もなく戒も受けていないのに、世尊の説法を聞いて羅漢果を証得し、さらにはその場で涅槃に入ることができたのでしょうか。それぞれの仏が仏道を成就し衆生を度すことは、演劇のようであり、一座の一座全体、一組の人馬が世尊と共に演じる必要があります。世尊は一人芝居を演じることはできません。世尊が人間界に降りる前、兜率内院で既に計画を立て、多くの人々を先に人間界に生まれさせ、世尊の降誕を待たせました。

彼らは人間界に生まれるため、様々な階層、様々な場所、さらには九十六種の外道の中にも分布していました。彼らは外道の中に示現し、外道を率いて共に修行し、影響衆としての役割を果たしました。世尊は因縁に基づいて彼らを仏門に度脱することを示現し、仏門に入った後、ある者は世尊の右腕として世尊の弘法を補佐しました。ある者は世尊が涅槃に入ろうとする時に初めて世尊に度化され、こうして多くの外道の弟子たちを仏門に入れる影響を与え、仏法の殊勝さを顕現させました。これらの外道は羅漢の示現だけでなく、大菩薩の示現もあり、最後になって初めて世尊は彼らの真実の身分を明かされました。したがって彼らは世尊が説法し度化する時、速やかに果を証得できたのです。

第二の理由は、当時の外道は皆、輪廻から解脱し、生死を離れようとしており、出離心が非常に強かったことです。ただ正しい修行方法がなかっただけでした。彼らの多くは世俗を遠く離れ、五蓋は既に修除され、甚深な禅定は既に発起し、四禅八定は既に具足していました。したがって彼らの根性は非常に良く、五戒を受けていなくとも、身口意の行為には全く犯戒の現象が存在せず、ただ最後の観行の智慧が具足していなかっただけです。これは世尊が正しい解脱の道理を用いて導く必要がありました。

以上の道理に基づき、彼らが世尊の解脱道の説法を聞く時、解脱の智慧が発現し、速やかに相応の果位を証得できたのです。一見容易に見えますが、実際には彼らも長い時劫修行し、大きな代償を払い、世俗法を捨て去り、ひたすら生死の解脱を願っていたのです。では私たちが今、果を証得し解脱を得ようとするなら、自らの条件が具足しているかどうか、出離心があるかどうか、心の中の世俗法がどれほど離れているか、禅定はどうか、心がどれほど清浄か、外道たちと比べてどれほど差があるかをよく見る必要があります。

もし自分が外道ほどの心の清浄さを持たないなら、私たちは世尊が教えられた解脱修行の次第に従い、三十七道品を修行し、これらの向法次(助道の法)をよく修行して初めて道を証得できます。三宝への帰依、清浄な戒律の受持を含み、これによって自らの身心を律し、自心を清浄にし、心を止めて定を得るのです。私たちの現在の末法時代は、人心が濁悪で、汚染が深刻であり、情報は繁雑で、心の縁は非常に重く、静止することは非常に困難です。そうなると定を修めることは非常に困難です。普遍的には定力が不足しており、世尊在世時の外道とは比べものにならず、果を証得しようとするのは実に大きな困難です。世尊はおっしゃいました。正法の時期には、衆生は戒を保てば成就し解脱を得られますが、末法の時期には、戒を保つだけでは解脱できず、ましてや戒を受けず保たなければ、なおさら解脱できません。

五戒、八斎戒を保つだけでなく、菩薩戒を厳守する人々でさえ、解脱の影さえ見ることができない者がどれほどいることでしょうか。なぜならこれらの人々は心で戒を保つのではなく、心の中に戒がなく、ただ身体で戒を保っているだけで、内心は相変わらず世俗法に貪染しているからです。そうなると定を修めることは非常に困難であり、観行の智慧を持つことができず、どうして成就できるでしょうか。したがって私たちは、あの外道たちが帰依も戒も受けずに果を証得したからといって、自分たちも帰依せず戒を受けなくて良いと考えることはできません。世尊の教えに背くことはできません。これはうまくいきません。私たちの根基はあの外道たちにはるかに及びません。私たちは仏法の内道を学んではいますが、心性は全く異なります。やはり世尊の教えに従い、まず次法(助道の法)を修め、戒律を厳守し、三宝に帰依し、三宝と護法龍天の加護に頼って解脱を得るべきです。

四、世界には多くの宗教がありますが、どれも衆生を生死輪廻の苦から離脱させることはできず、単なる精神的信仰に過ぎません。なぜならそこには衆生が依り頼んで解脱を得るべき実質的な内実がないからです。仏教はそうではありません。仏教は衆生に生命の実質をありのままに認識させる教育です。仏陀はこの五濁悪世に苦労して来られ、四十九年間弘法して衆生を度し、様々な異なる側面から衆生に生命の実質的な意義を理解させ、生命の源と帰趨を知らせました。衆生はこれに依って修学すれば、自ら及びすべての衆生の生命の意義を認識し、無量劫以来の生死輪廻の根源を知ることができます。

したがって自心を覚り、それによって自らの生命の源を探求し、生死の苦難を徹底的に解脱して究極の解脱の道へと向かい、最終的には自らの福徳と智慧を円満にして究竟大覚世尊となります。そして無量億万の衆生を率いて、同様に生死輪廻から脱し、一切法を円満に覚り、無上の大涅槃を証得するのです。他の宗教は主に人を善へと導くこと、良い人となり良い行いをし、人と善を為すことを中心とし、最終目標は天に昇り福を享受することです。しかし福が尽きれば、再び三悪道に落ちて苦しむことになります。それらの宗教は六道輪廻に言及せず、衆生に六道の輪廻があることを明らかにせず、六道輪廻の根源も知らないため、衆生が依り頼んで六道輪廻の生死の苦から離脱することはできません。

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