仏法雑談(第一部)
第十五章 善根と福德の篇(2)
十三、布施もまた仏恩に報いること
人それぞれ我執が非常に重く、仏法を学ぶことによって世間の真実相を認識して初めて、我執は徐々に融和されていく。前世において仏法を学んだ期間が長い者もいれば短い者もおり、それによって衆生の根基は異なっている。しかしどのような根基であれ、ひとたび仏法に入った者は、他の衆生に先んじて覚った者であり、慶びを感じるべきである。私たちの後ろには数えきれないほどの衆生がおり、人界の身すら得られず、ましてや仏法に触れる機会もなく、苦難は果てしなく続いている。私たちが成仏する時には、彼らがどのような生存様式の衆生であるかさえ分からない。したがって私たち仏法を学ぶ者は慈悲の心を起こすべきであり、自分自身を憐れむだけでなく衆生をも憐れみ、もし衆生を救い度そうとする心を発起できれば、自身の修行は急速に進むであろう。
できる限り多くの福德を修めよ。福德が多くなれば道業は進歩し、智慧は増長する。どれほどの人が修福を重視せず、長く仏法を学んでも仏法の知見は依然として浅薄で、智慧は少しも進まず、根本的な問題は福德の不足にある。積極的に修福する人々は進歩が速く、智慧も急速に増進する。修福が自分にとって有利なのか、それとも修福をしないことが自分にとって有利なのか、どうか皆さんよく考えてみられたい。
仏は福慧の両足尊であり、成仏には福德と智慧の両方が強調され、これらは相互に補完し合い、どちらか一方が欠けることはない。福德と智慧は双子の兄弟であり、分離できない。それぞれの人がある程度まで修行すると、福德が不足すると往々にしてある点で行き詰まり、停滞して進まず、中には退転する者もいる。これは私が一部の仏法修行者を観察して得た結論である。
仏法を修学するには次第がある。相を破る布施、相に住しない布施、布施の果報に執着しないこと、これらは凡夫には到底できない。もし布施の果報に執着するのを恐れ、相に着した布施を恐れて布施をしようとしなければ、永遠に福のない凡夫のままであろう。明心した後、ある程度の果位に修めて初めて、徐々に無相の布施ができるようになる。凡夫の位においては、布施は必ず相に着するものである。しかし相に着しても構わない。布施は結局のところ福を得ることができ、福德があれば道を得ることができる。これが最も重要である。
私たちが大乗の法を修学するには、阿羅漢のように自分だけを顧みて自分自身のことだけを考え、衆生の苦しみを考慮しないようではいけない。阿羅漢たちはみな自了漢である。自分の苦しみを終わらせる能力はあり、輪廻から出る力はあるが、仏によって焦げた芽と腐った種と呵責され、無為の坑に堕ちて仏法の根苗を生長させない。もし皆が阿羅漢のようであれば、この世界の衆生を誰が救うのか? 私たちは皆、仏菩薩に頼って救われているのであり、阿羅漢が法を伝えず、菩薩も法を伝えなければ、衆生は永遠に生死の苦海の中にあり、出る期はない。
私たちが得る一滴の恩も、すべて仏菩薩から与えられたものであり、衆生が六道で輪廻するのは、皆菩薩に頼って救われるのである。もし菩薩が法を伝えて人を度すことをしなければ、私たちが仏法に出会う日は決してなかったであろう。私たちは皆そうなることを望んでいない。ならば心を比べて、常に他の衆生の苦しみを思い、常に他の衆生を助け、苦悩を除く方法を考えるべきである。そうしてこそ、仏菩薩が自分を配慮してくださったことに背かず、自分を救う仏法に出会ったことに背かず、また仏菩薩の恩徳に報いることができるのである。
十四、放生の後、生死輪廻ということは改められるのか? 三宝を誹謗した後、命終われば地獄に堕ちるが、放生によって地獄の果報を避けられるのか? 他人に一万元の借金があるが、放生の後、借金は消えるのか? 放生の後、果を証し明心見性することは可能か、極楽世界に往生できるのか? 前世今世に殺した衆生の怨みの結びは解けるのか?
一つの善行がすべての善行に代わることはできず、まして清浄行に代わることはできない。清浄行によってこそ心が清浄となり、染汚心を消滅させ、染汚の業種を変え、果報が真に変わるのである。無所求は清浄行であり、貪らず瞋らず愚痴でないことは清浄行であり、無明を離れることは清浄行である。もちろん放生の善行の後、衆生と善縁を結び、福德が増加すれば、戒定慧の増進を支え、心が清浄になることで、証果や明心に役立つ。福德が増加すれば、悪業は一時的に現れず、怨親債主は自分の徳行を敬服して、追債を強化せず、もはや障害もせず、学法修道は順調になる。
十五、仏法の修証には極めて大きな善根と福德が必要
仏法が証し難く修め難いのは、衆生が三大無量劫を修行する必要があるからである。もし仏法が理解しやすく修めやすく証しやすいものであれば、衆生は三大阿僧祇劫も修行しなければ仏道を円満に成就できないことはないであろう。もし仏法が理解しやすいものであれば、仏は衆生が相当程度の善根福德と戒定慧を持つことを強調しないであろう。三蔵十二部経を五回読んだ人でも、仏法の端にすら触れず、悟道の影も遠く望めない。衆生は無量劫にわたり惑い倒錯し、虚妄の世間法に浸っているため、深遠な仏法を真に理解するのは容易ではない。
仏が四十九年間説法され、涅槃に入る時でさえ、無数の衆生が仏法を一知半解であり、中には一知半解すらない者もいた。阿難はまさに衆生の愚痴が度し難く、仏法を誤解するのを見て、仏の涅槃後百年で自らも娑婆世界を去らざるを得なかったのである。本来であれば禅定力と福德によって長く長く住世し、仏陀に代わって衆生を教化できたはずであった。仏涅槃後、一人の老和尚が小和尚に教える際、解脱道の法を「水老鶴」と誤って唱えた。阿難がそれを正そうとしたが、老和尚は改めず、むしろ阿難が老いてぼんやりして仏の説かれた法をはっきり覚えていないと言った。そこで阿難は悲しみ心を痛めて、娑婆世界を去ったのである。
繰り返し繰り返し強調するが、皆さんに多くの福を修め、善根と福德を多く養うよう勧める。しかし修福して善根と福德を養おうとする者は多くない。したがって仏法が分からないのは全く当然であり、仏法は修福を惜しむ福のない者が容易に理解し証得できるものではない。仏法を証得するには大いなる福德が必要であり、大いなる福德があって初めて大いなる智慧が得られる。小根小智では、深遠な仏法には確かに相応しくない。世間法の成就でさえ福德を必要とする。ましてや出世間に関わる生死の大事、ましてや自らの無量劫の煩悩という大事を解脱すること、ましてや仏道を成就するというこの上なく不可思議な極大事においてなおさらである。心に自分だけを持ち、自利だけを考える者が、どうして無我性の如来蔵の大法に相応しいことがあろうか。
十六、福德がなければ、定力はなかなか修持し上げられない。こちらで坐禅を始めると、人事が現れて妨害し、処理せざるを得なくなる。こちらでようやく入定しようとすると、あちらで妨害が現れ、やはり処理せざるを得なくなる。反省して点検してみよ、それぞれの人はどの面で絶えず福德を消耗しているのか? 反省して分かったなら、自分の福德を軽々しく浪費しないよう注意し、道業が速やかに増進するようにすべきである。現代社会は物質生活があまりに発達しているが、それは今の衆生の福德が大きく、仏世の衆生の福德が小さいことを示しているのか? 世の人は軽々しく福德の種を現金化して享受に用いるが、それは実に無智である。智慧ある者は往々にして福德を修道のために残し、世間法として現金化して享受や見せびらかしに用いない。
多くの人が世俗法の生滅するものを誇りとし、見せびらかしの資本とすることを好む。例えば私は某高官である、私は某の地位と権威を持つ、あるいは私は某であり巨富無比である、私は某の才能を持つ、私は某の優れた点を持つなどなど。これらは皆世間の虚妄法であり、頼りにならず、まもなく滅び、存在しても空である。世の人は空を体得し難く、ただ存在のみを知っている。
かつて禅宗の祖師は自分の宗門を継ぐ弟子を探そうとし、弟子の見解を詰問し、開悟しているか智慧があるかを観察した。すると弟子が口を開いて話すと、師匠は悟っていないと分かり、「お前は福が薄い、私の宗を継ぐことはできない」と言った。祖師の意味は、智慧が不足する重要な原因の一つは福德の不足であるということだ。私たちの思考が乱れてはっきりしないなら、常に自らの原因を探るべきである。
十七、三宝を供養する福德は最も大きい。仏への供養は、第一に毎日誠心誠意に仏に精進料理を供え、仮の像として供養せず、真の仏として供養すべきである。そうして得られる福德は、応化身仏を供養するのと同じ大きさである。精進料理であれば、生熟を問わず、野菜、穀物、油など、すべて仏に供えることができる。
第二の仏への供養は、念仏である。念仏の無量の功徳は、応化身仏を念ずる無量の功徳だけでなく、主に法身仏を念じ、自性仏を念ずることである。人々は皆自性仏を持っており、外仏を念ずるのは総じて自性仏を念ずるに及ばない。外仏に求めるのは、自らの仏に求めるに及ばず、自らの仏は何でも提供してくれる。外仏に帰依するのは、自性仏に帰依するに及ばない。自性仏はあなたを輪廻から導き出し、涅槃の彼岸へと至らせてくれる。
毎日真如の体性を探求し、その功徳を学び、それを理解し、それを尋ね求め、それを参究することは、すべて念仏であり、最後には念仏三昧を成就し、明心見性できる。すべての供養はこれに過ぎず、すべての念仏の方法は、このような殊勝さを持たない。念仏して仏となるには、法身を念じて初めて仏となる。ただ外仏を念じるだけでは仏にはなれない。法を供養するとは、毎日仏の経典を学び、読誦し、仏経の義理を思惟し、真実の義を探求し、世尊の教えに従って行うことである。一切の供養の中で、法供養が最も勝れている。僧を供養するとは、僧は和合の義であり、僧宝の身口意行を清浄にし、理にかない法にかなって四事供養し、僧人の正しく法にかなった教えに従い、出家の師の理にかなった教えに背かず、僧団の和合を守り、僧団が正法を弘めて天下の大衆を利するのを護持することである。
十八、三宝を供養する福は無量無辺に大きい
出家者の戒律に「一坐而食」というものがある。食事の際、飯が盛られると、座って食べ、食べ終わるまで座り続け、食べ終わると立ち上がって去る。途中で立ち上がって再び飯を盛ったり、歩き回って戻って食べたりすることは許されず、二度三度と飯を盛って食べることはできない。身体が立ち上がっただけで、すでに食事を終えたことを示す。仏世の出家者は日中一食である。なぜなら乞食は非常に時間を浪費し、日中一食は修行のための多くの時間を節約できるからである。もし毎日二度三度と乞食すれば、多くの時間を浪費するだけでなく、世の人や外道から嘲笑され、出家者は一日中乞食して食べてばかりで、貪食であり修行がないと言われる。第三に、多く食べると腸胃が常に動き消化し、心が清浄でなくなり、修行に影響する。多く食べることはまた自身の福德を消耗し、道業が修まらない。これらの要因を総合して、僧団は日中一食の戒律を制定した。
出家者が乞食するのは、同時に衆生が福田を種まく機会を得るためでもあり、衆生に修福の機会、解脱の機会を提供するためである。衆生が布施すればするほど、福德は大きくなり、解脱の機会は多くなり、解脱の確率は高くなる。出家者が乞食するからといって、衆生が貧しくなるわけではなく、むしろ衆生はますます富貴になる。また出家者が毎日一度乞食するからといって、仏教が徐々に滅びるわけでもない。仏教が滅びるには多くの要因があるが、主に衆生の善根と福德がますます少なくなり、衆生が仏法に出会って解脱する福がなく、加之波旬が仏教を破壊するため、仏教は必然的に衰微し、ついには滅亡する。衆生が出家者に布施することを、仏制は拒むことを許さず、衆生に福を種まかせて福を得させなければならない。そうしなければ衆生は福がなく、永遠に六道に流転して貧窮に苦しむ。自ら福田を種まくことができるなら、仏陀と僧侶、三宝に感謝すべきである。そうでなければいつ解脱できるであろうか?
仏は経の中で、仏陀を供養する功徳は無量無辺に大きいと説かれている。特に仏陀が成道した直後の最初の食事と臨終の最後の食事を、もし機会があって供養できれば、その人は最も速やかに成仏し、他の人々を超越できる。仏陀が成道した後の最初の食事は、牧羊の女性が供養した羊乳であり、仏陀が臨終の最後の食事は、鍛冶屋の純陀が供養したものである。当時、非常に多くの人々が世尊に哀願して仏陀の最後の食事を供養しようとしたが、仏陀は許されず、鍛冶屋の純陀が供養を申し出て初めて、仏陀はうなずいて承諾された。それから仏陀は鍛冶屋の成仏について授記された。これは仏陀が前世に純陀に、仏陀が臨終の際に最後の飲食を供養することを約束していたからである。ここに見えるように、仏陀や三宝を供養する機縁を得ることは、その福が計り知れないものである。
十九、菩薩の六波羅蜜の中で、どの法が先導か
六波羅蜜の中で、般若が主導であり、根本であり、中心である。布施が先導であり、福德が基礎である。世間・出世間のいかなる法も、福德がなければ成功しない。布施は福を修めることであり、福があって初めてよく戒を持ち、定を修め、忍辱を修め、観行が成功し、明心見性できる。福德は基礎であり、持戒は助縁であり、禅定は前提である。観行は正行であり、観行によって初めて般若智慧を得られる。福德がなければ、戒を持とうとしても、戒を破ろうとする者が現れ、持戒は常に障害が多く、円満には至らない。福德が具われば、修行に障害はない。福と徳は常に結びついており、自己のためにしないことが徳であり、世俗法の享楽を求めないことが徳であり、衆生を利楽することが徳であり、徳があれば福がある。
仏が説く六波羅蜜の第一は布施による修福であり、これが具わらなければ、般若智慧を得ることは不可能である。もし先に般若智慧があるなら、私たちは修行する必要がなく、観照など何の役に立つのか? 六波羅蜜の概念、修行の内包を理解し、常に自分がどの程度までできているか、何がまだ具わっていないかを観察し、六波羅蜜の条件を円満にする方法を考えるべきである。 仏のもう一つの悲心は、後天の修行によって修められたものであり、仏の意識心すなわち妙観察智が表現した衆生への悲憫の心である。この心は仏の意識心である妙観察智の出現に伴って現れ、妙観察智が一時的に滅すると現れなくなり、生滅変化するものであり、永遠に存在できる心ではない。長存する心でない以上、仏の無垢識が生み出した虚妄であるゆえに、虚妄である。
仏の二種の悲心はどちらも動転しない。菩薩の意識心の悲心にはまだ動転がある。凡夫の意識心の時折の悲心はすべて境に随って転じ、いつでもあるわけではなく、恒常的に存在することもできず、また究極的でもなく、ましてや智慧性を具えていない。仏が悲心を生じるのは、境に随って流転せず、境を真実と認めず、対象を分けず、真に無縁の大慈、同体の大悲であり、あなたと私と彼とそれの区別や対待がなく、衆生を一律に平等に見る。
衆生が人を扱うのは往々にして不平等であり、自我を中心点として、少しずつ外に拡張し、外側の人ほど生じる慈悲心は少なく、あるいは全く慈悲心がない。中には自分にとって最も親しい人でさえ、少しの慈悲心も生じない者もいる。したがって衆生は私心が比較的重く、我心が重く、他人を考えることは少なく、あるいは全く考えず、他人の立場に立って問題を考えることができず、仏の無縁の大慈とはかけ離れている。
二十五、即身成仏についての問題であるが、即身成仏であれ即生成仏であれ、いずれも最後身菩薩である妙覚菩薩の事であって、凡夫には関係ない。即身成仏とは、弥勒菩薩のような妙覚菩薩でなければ即身成仏できないが、それでも時節因縁を選ばねばならず、これ以外に即身成仏する者は全くいない。
衆生の修行にはすべて次第があり、非常に高い次元を飛び越えて、凡夫から一躍して仏になることは不可能である。ただし、すでに仏となった者が表法として示現することはある。しかし仏が住世する仏国土には示現しない。一つの国土に二仏はいないからである。凡夫の衆生はまず阿含の解脱の理を修め、解脱の果を証し、それから大乗の般若と唯識の理を修学し、順を追って進むべきである。一生で明心見性できるのは、すでに相当に良い根基である。一般的な衆生は我見を断ち初果を証するだけでも難しくて難しく、手がかりすらつかめない。即身成仏のことなど考えない方がよい。一般的な衆生は如来蔵の法を学ぶだけでも理解できず、一生で如来蔵のすべての種子の機能作用を証して一切種智となることは不可能である。一般的な衆生は四禅八定の前の未到地定すら修められず、ましてや四禅八定と滅尽定を修め、無量の神通力、無量無数の分身を得ることは、根本的に不可能である。
一般的な衆生は自分を度すことさえ難しい。ましてや無量無辺の衆生を度して、自らの仏国土の弟子とすることは、なおさら不可能である。衆生を度せなければ、無量の弟子を得ることはできず、弟子がいなければ、一人で一つの仏国土を成就することはできない。国王になるには補佐する大臣と千軍万馬が必要で、国家を建設し維持する。仏となるには、さらに多くの大菩薩が補佐して弘法衆生を度す必要がある。衆生を度したことがなければ、大菩薩の弟子が自分の左腕右腕となって弘法を補佐することはない。したがって娑婆世界の衆生はやはり堅実に一歩一歩修行すべきであり、高望みをせず、自分の道業を遅らせるべきではない。
二十六、修行はただ現在に生きるだけでなく、ただ現在だけを考えることではなく、最も重要なのは未来を考慮することである。未来に輪廻の苦しみを受けず、迷い無知がなく、無明がなくなるようにするのである。もしただ現在に生き、心に未来がなければ、前方を見通せず、道を誤りやすい。しかもこの現在は念念として生滅し、一つの現在と言うや、すでに過去となる。どこに現在があるのか? 過去の無数の現在はすでに消滅し、この現在はまさに滅びつつあり、以後の現在はまだ来ていない。あなたはどの現在を得ようとするのか? 過去の識心はすでに滅び、現在の識心は念念として滅びつつあり、未来の識心はまだ来ていない。あなたはどの心を得ようとするのか? 三心は得られず、得られないのは識心であり、無常虚妄の心である。生滅するものをどうして得られようか? どうして掴めようか?
しかし一つの心がある。後で得たものではなく、先天から存在する。たとえあなたがそれを望まなくても、それはあなたを離れず、あなたが天に昇ればそれに従い、地獄に堕ちてもそれに従う。あなたがどこへ行っても、それは付き従う。あなたが苦しみ悪報を受けても、それも嫌わず、無始劫以来、決してあなたを離れたことがない。この心はなんと素晴らしいことか! 修行とはこの心を証し、この心を明らかにし、その中の奥義を探求することであり、そうして初めて大智慧が開発され、大智慧があって初めて仏となり祖となるのである。
二十七、いわゆる世界は、一種の感覚に過ぎない。異なる心境には異なる感覚があり、異なる人には異なる感覚がある。ではこれらの感覚は何なのか? 何でもなく、幻化に過ぎない。ではどうするのか? 実のとおり理にかなっていない感覚を、実のとおり理にかなった感覚に変えれば、真実に回帰し、覚性に回帰し、一真に回帰し、涅槃に回帰し、寂静に回帰するのである。
二十八、実修する人には、特に意根について説明する必要はなく、彼らは実証できる。実修しない人には、解悟と証悟の違いを必ず教え、皆に解で満足せず、必ず実証するよう勧めるべきである。これは末法の時代の浮ついた衆生に対する特別な待遇であり、衆生の心は非常に浮ついており、苦労を厭い、戒を持とうとせず、定を修めようとしない。戒を持ちたい、定を修めたいと思っても、環境要因のため実行できず、したがって観行できず実証できない。ただ毎日本を読み、意識で理解するだけであり、ある程度理解すると、外に向かって自分は証悟したと言う。したがってこの特別な時期にいくつかの特別な法を説く必要がある。特別な衆生には特別に法を説くべきであり、これが衆生の根基に対応し、衆生の実際的かつ根本的な問題を解決するのである。
二十九、誰でも仏経や仏意を誤解する可能性があるが、自分の見解を断定的に表現しなければ、大きな過失はなく、必ずしも他人を誤導するとは限らない。仏法を学ぶ過程では、必ず何度も間違いを犯すものであり、誰でも免れない。重要なのは自分の見解に対してどのような態度を持つか、どの程度まで自分の見解が正しいと自信を持つかであり、この点は必ず加減を心得るべきである。誤りのないのは仏ただ一人であり、弥勒菩薩が説法しても、仏は百パーセント肯定されない。
開悟した菩薩の説法にも誤りがある。開悟していない時の説法は誤りがさらに多い。一般的な誤りは問題ないが、最も重要な点で誤りがあってはならない。なぜなら重要な点は、それに随学する衆生が証悟できるかどうかという重大な問題に関わるからであり、これは衆生の生命の転換点である。この転換点では必ず誤りがあってはならない。目標と方向に問題がなければ、残りはすべて小さな問題であり、修正して方向転換できる。私たちが仏法を学ぶのは、努力して勤め証悟を得ようとすることであり、証悟した後は、学ぶ法に随って、学びながら得ることができ、往々にして努力半分で倍の効果が得られる。