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仏法雑談(第一部)

作者: 更新時間:2025-07-13 09:12:32

後 記

仏法の修行は技術的な側面か、それとも心の性質におけるものか

仏法における技術的な修行とは、理論的な知識を学び、それを実証することである。技術的に精進すること、すなわち座禅によって定を修め、理論的な知識を懸命に研究し、刻苦して参究・研究・思考し、ある種の法を得ること、ある種の果位や資格・名誉を得ること、何らかの結果を得ることを目指すものである。

心の性質における修行とは、五蘊の無我性を観察し、自我を調伏し、煩悩を調伏し、心を柔和で善良にし、聖賢の無我の心性を備え、私心と我心を取り除き、凡夫の煩悩の習性を調伏し、それによって自利を実現し、かつ喜んで他者を利することを指す。具体的には、菩薩の六波羅蜜(六度)を実践し、福徳の積み重ねを段階的に完成させ、戒律を受持し、一切の人や事に耐えて自心を調伏し、怠惰な心を淘汰し、禅定を修習して自心の観照力を高め、煩悩を調伏し、般若の空性の理を薫習し、心を次第に空性に近づけ、聖賢に近づけることである。

心の性質と技術の修行は互いに補い合うべきものであり、心の性質は目であり、技術は足である。目は技術の方向と高さを決定する。仏法の修行は心の性質と技術を互いに結びつけて修めるべきであり、一方だけを修めて他方を顧みないことはできない。両足で歩くことによって初めて、平衡と安定が得られるのである。

一方的に技術的な側面のみの修行とは、理論研究のみに没頭し、我性を調伏せず、理論と実践が乖離している状態を指す。仏法は本来、衆生が自我を調伏し、無我を証得し、解脱と自在を得るためのものである。しかしながら、衆生が無我を修行する目的と結果は、かえって我性を増長させ、我執を増長させ、自我をますます膨張させ、心の性質は以前にも増して悪化し、修行の結果との落差が極めて大きい。これが心の性質を修めず、技術のみを修めた結果である。

技術的な側面のみで修行し、心の性質の側面で修行しない結果は、徳が地位に見合わず、その後大混乱を招くことである。仏法の修行を一つの資本と見なし、仏法の技術を身につけた後、自分はあらゆる人より優れ、あらゆる人より強いと思い込み、人上人になれると考え、この技術を鼻にかけ、我慢を増長させ、他のすべての人を圧倒する資本とする。これはまさに深刻な我相・人相・衆生相であり、技術的な側面のみで修行した結果であり、仏法に背く悲しい悪果である。深刻な場合は、我慢・我執によって仏法や仏教を壊乱し、衆生の仏法や仏教に対する信心を壊乱することになりかねない。

修行の方法は、一方的に理論研究のみの技術的な仕事ではあり得ず、より重要なのは心の性質における育成と転換である。もし仏法の修行が単に技術的な努力による修行であるならば、仏は衆生に清浄な大願を発させ、願力によって自らの修行を牽引・指導させることはないであろう。もし仏法の修行が単に技術的な努力による修行であるならば、なぜある人々は日夜、経典や様々な理論の研究に没頭し、様々な観行に精進し、常人には知り得ない理論を探求でき、学び得たものがあるように見えるのに、貪・瞋・痴は依然として非常に激しく、一生涯おそらく七住位・六住位・五住位あたりで停滞したままなのか。極めて多くの唯識の理論を学んだにもかかわらず、依然として一歩も踏み出せないのはなぜか。

もし仏法の修行が単に技術的な努力によるものであるならば、なぜある人々は日夜座禅修行を三十年、五十年と続けても、依然として初禅定を得られず、一方である人々は一、二年で初禅定が現前するのか。ある人々は悟りを開いて三十年経っても、初禅の影さえ見えない。しかしながら、ある人々は仏法を学び始めて間もなく、理論に触れ、わずかに観行しただけで、様々な果位を証得できるのか。仏法上の多くの名相がまだ明確でないにもかかわらず、観行の智慧はとっくに生じているのである。

もし仏法の修行が技術的な努力によるものであるならば、菩薩の六波羅蜜(六度)は、技術的な修行なのか、それとも心の性質における修行なのか。布施波羅蜜は、技術的な側面に属するのか、それとも心の性質の側面に属するのか。持戒は技術的な側面に属するのか、それとも心の性質の側面に属するのか。忍辱は技術的な側面か、それとも心の性質の側面か。禅定は技術的な側面か、それとも心の性質の側面か。

智慧について、心の性質が良くない人の智慧とはどのようなものか。そのような智慧は菩薩や仏と相応するのか。精進には正精進と邪精進があり、邪精進は技術的な側面に属し、正精進は心の性質を修めることである。よこしまな心を持つ者が、仏法の中で真実の利益を得ることができるのか。菩薩が真に成就した証は慈悲喜捨であり、心の性質が転換していなければ、慈悲喜捨の心行は永遠に生じず、菩薩の果位は永遠に満たされることはない。

阿羅漢と菩薩の心の性質は、どちらがより優れているか。どちらの道業がより増上するか。どちらが最も仏に気に入られるか。どちらが最初に仏となるか。どちらが技術的な側面の修行であり、どちらが心の性質の側面の修行か。技術的な仕事に没頭する者を、仏は「焦げた芽、腐った種」(焦芽敗種)と罵り、無為の坑に堕ちたと言わなかったか。

仏法の修行の最終的な結果は必ず徳と才を兼ね備えたもの、すなわち才があり、なおかつ徳を持たなければならない。もし徳がなければ、才はただの歪んだ才であり、おそらく邪道に用いられ、悪業を造りながらもそれに気づかないかもしれない。世の中には才のある人は多いが、必ずしもそれを善業を造るために用いるとは限らず、悪業を造るために用いる人も多い。もし悪業を造るために用いるならば、むしろ才がない方がましである。

仏法の修行者は、徳を第一位に置き、最優先とすべきである。徳があれば、才がないことを心配する必要はない。もしある人が才だけを持ち、徳がなければ、才がどれほど大きくても、正しく用いられることはない。一方、徳はあるが才がない人は、徳と才を兼ね備えた人に育て上げることができ、その菩薩の心性によって、仏力の加護によって速やかに道を得ることができる。したがって、仏法の修行は単に技術的な仕事ではなく、最も主要なのは心の性質における修養である。無我無私の人こそが真の菩薩であり、心の中に自分だけ、個人の私利だけ、ひたすら自分だけを思う人、そのような人は真の菩薩ではない。

技術的な修行は、心の性質の修養よりも永遠に何倍も容易である。技術は努力して研究し、工夫して探求すれば、必ず文字から何かを研究し出し、収穫を得ることができる。そこに聡明さが加われば、少なくない技術を手に入れることができる。しかし、心の性質はどうか。百年かけても心の性質を調伏できるとは限らず、生まれつきの性質は変えがたい。技術を身につけた菩薩でも、心の性質が調伏されていなければ、依然として真の菩薩ではなく、名目上の偽の菩薩、成りすました菩薩に過ぎず、永遠に菩薩としての役割を果たすことはできない。

少なくない人々が苦心惨憺して日夜観行・研究・探求に努めながら、決して自分の心を研究せず、どれほど刻苦して仏法の科学技術を研究しても、我性や利己性を調伏できず、真に我見を断つことができず、真に明心して証悟することはできない。そのような人は、たとえ仏法の科学技術を掌握していても、菩薩ではないのである。

今のこの時代、どれほどの人々が仏法を学ぶ際に、単に技術的な仕事に没頭し、決して自分の心の性質に工夫を用いないのか。技術は身につけたが、徳が地位に見合わず、どこへ行っても自我を誇示し、自我をふるまい、結局行く先々で混乱を招く。仏法を学ぶのは、頭角を現すため、自我をふるまうためであり、決して自我を調伏するためではなく、無為のためではなく、無我と自心の煩悩の解脱のためではない。学べば学ぶほど高慢になり、学べば学ぶほど我が強くなり、学べば学ぶほど世の中が乱れ、ついには世の中全体が混乱に陥る。少なくない人々が仏法を学ぶのは、人より抜きん出るため、他人の肩の上に立つためであり、自我を消滅させ、自我を跡形もなく消し去ろうなどとは決して考えない。これは我見を断つことなのか、それとも我見を増長させることなのか。このように仏教が発展していけば、最後には天下大乱となるであろう。

したがって、もし真に自らを修め持つことを望むならば、必ず両方に力を注がなければならない。心の地に工夫を多用して自らを調柔するとともに、観行や参究にも工夫を多用し、努力して実証し、真の意味での聖賢となるべきである。

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