仏法雑談(第一部)
推理は、必ずしも証得ではありません。たとえば辟支仏が十二因縁あるいは十因縁を推究して、阿頼耶識 (Ālayavijñāna) のところまで推り進めると、識に至って還り、彼(阿頼耶識)を過ぎることができません。そうであっても、第八識を見出して証得したわけではなく、阿頼耶識を実証した者ではありません。阿頼耶識を実証する者は大乗菩薩であり、大乗見道であり、必ず大乗の善根・福徳・因縁と発心がなければならず、一つでも欠けてはなりません。もし外道や小乗にも大乗菩薩の発心があるというなら、それは必ず大乗菩薩です。なぜなら菩薩はどんな法を学ぼうとも、すべて大乗を中心とし、衆生を度し仏道を成就するためだからです。菩薩の心願を発しなければ、その行動と結果は必ず菩薩ではなく、必ず見道できず、必ず菩薩の果徳を有することはできません。さもなければ、外道の心を発しても成仏できることになってしまいます。それでは仏は、衆生に必ず大心大願を発させ、自利利他の菩薩の清浄な大願を発させ、仏道の修証の過程を完成し、円満に成仏することを強調する必要がなくなってしまいます。
辟支仏は生死の源を阿頼耶識のところまで推究したとしても、結局は涅槃滅度へと向かい、ついに菩薩の大道を行じて衆生を利楽することはありませんでした。この点だけでも、辟支仏は菩薩ではなく、阿頼耶識を実証していないことを証明するに足ります。種子が正しくなければ、根が正しくなければ、どうして正果があり得ましょうか。ある人々が悟りの前に、一切の法を第八識のところに帰し、その源はすべて第八識であり、その性はすべて仏性であると考えているのと同じです。そのような見解を持ってはいても、結局は理解と推理、想像であって、第八識を実証したわけではなく、明心の菩薩には属しません。
禅宗に話頭があります。大衆に参究させよ、万法は一に帰す、一は何処に帰す。無数の人々が、この一とは如来蔵 (tathāgatagarbha) であり、万法はすべて如来蔵に帰し、すべて如来蔵から来ると推測しました。しかし、そうであっても、依然として大乗見道には属せず、破参には属せず、真実義の菩薩ではまだありません。なぜなら依然として如来蔵を証得しておらず、一が何処に帰すかを知らないからです。何処かを知らず、如来蔵が何処にあるかを見出せなければ、依然として無明の中にあり、証悟までどれほどの道のりがあるかも分かりません。相似法は結局相似法であり、真実法に代わることはできず、真実法の功徳受用がなく、食を説くことは腹を満たすことができません。
阿羅漢と辟支仏はともに第八識阿頼耶識を実証したと言う人がいますが、もしそうなら、すべて菩薩と呼べばよいのに、なぜ阿羅漢や辟支仏と呼ぶ必要があるのでしょうか。仏法は小乗の四聖諦、中乗の十二因縁、大乗の菩薩の六度に分ける必要はなく、すべて菩薩法と呼び、明心見性と成仏を根本目的とすればよいことになります。実際には、まったくそうではなく、その区別は非常に大きいのです。
<h3 style="text-indent: 2em;">二十、識を明らかにすれば一切法を明らかにできる</h3>法法相通じており、この法を学んでもう一つの法が通じないということはありません。三界は唯心、万法は唯識であり、唯識をよく学べば、多くの経典が貫通するようになります。唯識を学び、識の運作を観行 (vipaśyanā-caryā) することは、非常に楽しみのあることであり、自分自身を了解できるだけでなく、他人や世界をも了解でき、次第に愚痴から脱して、無量の智慧を獲得できます。一切の法はすべて識の上に落实しており、識があれば一切法があり、識を明らかにすれば、一切法を明らかにでき、成仏できるのです。
<h3 style="text-indent: 2em;">二十一、色について略談</h3>色とは色蘊のことであり、五蘊の一つであり、相貌・形体・色彩を有し、顕色・形色・表色・無表色を含みます。そのうち後の三者は法処所摂色です。顕色は青黄赤白であり、形色は大小方円長短寛窄であり、表色は色の形状・姿態、身体の運動や動作、行来去止などであり、無表色は色相の上に現れる美しさ、醜さ、魅力、趣、気質、学識、教養、平静、憤怒、明るさ、熱情などです。法処所摂色は色声香味触の上に現れる法塵であり、意根と相対し、意識が了別するものです。色には衆生色、男女の色相、宇宙の山河大地、植物・鉱物、家屋・宮殿などの無情物も含まれます。
『金剛経』はこう説いています∶「若以色见我,以音声求我,是人行邪道,不能见如来。」これは、如来を見ようとするなら、法身仏 (dharma-kāya-buddha) を見ようとするなら、真の仏を見ようとするなら、色相・声相をもって求めて見てはならず、色があり声があり六塵相のあるものは真の仏ではなく、報身仏 (saṃbhoga-kāya-buddha)・応身仏 (nirmāṇa-kāya-buddha)・化身仏 (nirmāṇa-kāya-buddha) であり、三十二相八十種好を具えていますが、これは化現した生滅のある仏であり、魔王波旬も福力のゆえに仏の相貌を化現できるのです。仏が涅槃の後、四祖の優波鞠多は波旬に釈迦仏の身相を化現させて目睹瞻仰させました。波旬は本当に仏の色相を化現し、林の中から歩み出て、後ろには一群の弟子が従っていました。優波鞠多は一見して真の釈迦仏だと思い込み、思わず礼拝してしまい、波旬は礼拝に耐えかねて正体を現しました。だから如来を見るには色相に執着してはならず、色相から見てはならないのです。
<h3 style="text-indent: 2em;">二十二、宗因喩</h3>それぞれの討論の題目は、一篇の小論文のようなものであり、自分自身に論点がなければならず、それから論拠を展開し、譬喩を用いて説明するか、具体的な事例を挙げます。
宗とは宗旨のことであり、自分自身の論点です。因とは証拠・論拠・事実であり、宗旨を補証するために用います。喩とは貼切で形象的な譬喩であり、宗旨を説明するためのものです。この本事を身につけてこそ、論壇に登って人と法を弁論できます。この本事がなければ、いかなる弁論にも参加してはなりません。台の下で口才を練習するくらいは構いません。しかし口才が良いことは、論理思惟が良いことと等しくなく、事実をはっきり言えることと等しくなく、真理を掌握したことと等しくなく、大智慧を有することとも等しくありません。口才は頭脳に遠く及ばず、論理思弁能力に及びません。
<h3 style="text-indent: 2em;">二十三、如来と二種の阿羅漢の解脱にはどんな異同があるか?</h3>仏と阿羅漢はともに三界世間の生死の纏縛を出離でき、ともに三界において解脱し、三界の生死の繋縛を受けません。しかし仏は究竟の解脱であり、分段生死 (pariccheda-maraṇa) を了しただけでなく、変易生死 (parināma-maraṇa) も了しており、一丝の無明も自心を纏縛していないため、究竟解脱です。阿羅漢の解脱はまだ究竟ではなく、無明がまだあり、変易生死もまだ了していません。慧解脱の阿羅漢は世間の因縁が尽きるのを待って初めて三界を出離し生死を解脱できますが、倶解脱の阿羅漢は時を待つことなく解脱でき、いつでも三界を出離し、生死を解脱できます。
阿羅漢が無余涅槃 (Anupadhiśeṣa-nirvāṇa) に入った後、無余涅槃は三昧 (samādhi) 境界ではありません。三昧境界の中には主人がいるはずであり、三昧境界に入る者がいて、将来には三昧境界から出る者がいることになります。しかし涅槃の中には主人がおらず、涅槃に入る人がいません。阿羅漢の五蘊十八界はすべて滅し尽くされ、意根も滅し尽くされれば、阿羅漢はもういません。無余涅槃に入る人がいないのですから、無余涅槃から出る人もなく、したがって無余涅槃は三昧境界には属さないのです。
<h3 style="text-indent: 2em;">二十四、凡夫衆生の現量認知はすべて非量である</h3>娑婆世界では、人々は日常生活の常識を現量認知としていますが、これらすべての現量認知は、八地菩薩に修到したときには、すべて変わってしまい、適用されなくなるかもしれません。そのときになって初めて、もともとすべてがそういうものではないこと、一成不変のものや法則は存在しないこと、山は山でなくてもよく、水は水でなくてもよいこと、一切の物質色法の虚幻性が、物質色法の不安定さと信頼できないことを決定していることが分かります。
私たちは火には燃焼性があり、一切の物質色法を焼き滅ぼすことができると考えていますが、八地菩薩になると、必ずしもそうではないことが分かります。火の性質は変化し、一枚の紙さえ焼けないかもしれず、まして菩薩の色身などはなおさらです。私たちは水には浸没性があると考えていますが、八地菩薩になると必ずしもそうではないことが分かり、一枚の紙さえ濡らせないかもしれず、まして菩薩の色身などはなおさらです。私たちは石は食べられないと考えていますが、必ずしもそうではなく、大修行人は石を煮て山芋やジャガイモやサツマイモのように食べてしまうことが完全にできるのです。だから普通の衆生のいわゆる現量認知は、すべて間違っており、すべて非量なのです。衆生はあまり自信過剰にならないのが正しいのです。
泥人はすべて泥で捏ね上げられたものですが、禅定 (samādhi) がなければ、捏ねられるしかなく、普通の人は何を捏ねられるのでしょうか。生死輪廻の苦を捏ねるだけです。現代人は学語を喜び楽しみ、暗記を好み、知識を学ぶのを好み、学富五車を好み、禅定の中での実証を好みません。
<h3 style="text-indent: 2em;">二十五、回向とはどういう意味か?</h3>回向 (pariṇāma) とは、意根が功徳を他の衆生に送ることを願うことであり、他の衆生の意根も受け取ることを願うと、二人の如来蔵が配合して引き継ぎの仕事をします。蠢動含霊は福と慧を修める力がないため、他の衆生である諸菩薩たちの回向にすっかり頼っていくらかの福徳を積み、さらにこの僅かな福徳の力を借りて、その生命の質と階層を絶えず改善し、無数劫の後に、ようやく人として托生することができるのです。だから私たちはすでに人として托生し、しかも仏法を学んで修行する機縁に恵まれたのですから、私たちを度脱してくれた諸仏菩薩と善友に感謝すべきであり、どのように感謝するかといえば、諸仏菩薩が私たちを度脱したように衆生を度脱すべきなのです。
<h3 style="text-indent: 2em;">二十六、牢関とは何か?</h3>牢関とは、名の示す通りやはり監牢の関口です。監牢とは何でしょうか。三界が監牢であり、五陰世界が監牢です。監牢を出る関口はどこにあるのでしょうか。断我見 (satkāya-dṛṣṭi-prahāṇa) と断我執の上にあり、さらに如来蔵というこの我にも執着せず、心を空浄にすることです。これは如来蔵を証得した基礎の上でなければ語れないことです。だからこれが禅宗の第三関なのです。これができれば、生死の監牢の関口を出ることができ、三界において解脱し、五陰身の束縛から解脱できます。小乗から言えば、少なくとも三果阿那含の解脱功徳があり、心は解脱しており、貪愛と瞋恚の煩悩を断除し、命終に我執を断除し、一念無明を断除すれば、無余涅槃を取証する能力が備わります。
禅定の上では初禅定があれば足り、あまり高い禅定は必要ありません。もちろん禅定は高ければ高いほど良いのです。しかし、ある人たちが言うように、必ず五陰身を木のように修めなければならないとか、滅することができなければならないとかいうのではなく、これは何地かの菩薩、あるいは八地菩薩になって初めて修到できるものです。禅宗の第三関の前後にいる人は、十行位と十回向位の菩薩に属し、八地菩薩からはまだ遠く離れています。
<h3 style="text-indent: 2em;">二十七、心が清浄であることは分別しないことと等しくない</h3>心が清浄 (viśuddha/pariśuddha) か否かは、分別するかしないかにあるのではなく、心を滅して用いないようにすれば清浄になるというのではありません。心が運行して分別する過程の中で、錯謬や異想がなく、無明や煩悩がないことです。何年も何か月も大寝をして、分別せず仕事をしない人がいますが、それは心が清浄だという意味ではありません。ある日目が覚めた途端、仕事をすれば貪瞋痴の煩悩が山ほど出てきます。諸仏は累劫にわたって衆生を度すことを止めませんが、その心は絶対に清浄です。如来蔵は永遠に清浄ですが、神様は運行と分別を止めたことが一度もありません。
<h3 style="text-indent: 2em;">二十八、菩薩の六度</h3>私たちが仏法を学んで如来蔵を証得し、明心見性し、真の菩薩になりたいなら、菩薩が修めるべき法を修めなければなりません。菩薩は菩薩の六度波羅蜜を修行すべきです。六度波羅蜜の第一度は布施 (dāna) 波羅蜜です。菩薩として必ず布施度を修めなければなりません。一方では衆生と善縁を結ぶためであり、布施して衆生の必要とするものを与えれば、衆生はあなたを信服し、あなたに従って一緒に仏法を学んで修行するようになります。他方では自分自身の福徳を修めるためであり、自分自身の福徳が具足してこそ、開悟する機会があり、真実義の菩薩となり、仏門に入ることができるのです。
明心した菩薩は仏門に入りますが、明心していない菩薩はまだ仏門の外にいて、真の意味での菩薩ではありません。だから菩薩になるにはまず必ず布施行を修め、自分の福徳を具足させなければなりません。さらに衆生と縁を結ばなければなりません。衆生と縁を結ぶことで、衆生を度す機縁も生じ、衆生は喜んであなたの随学弟子となり、あなたは衆生を連れて一歩一歩上へ修行を進めることができ、将来成仏したとき、これらの衆生はみなあなたの仏国土の中で仏法を護持してくれるでしょう。だから布施は非常に重要なのです。
第二度は持戒波羅蜜です。持戒によって心が規矩を越えなければ、清浄に下来ることができ、罪業と過ちを犯さず、悪業に牽累されることもありません。持戒によって心が清浄になってこそ禅定があり、定があってこそ観行と参禅ができ、それによって真理を明らかにし、第八識を証得できるのです。だから菩薩は持戒して心行を清浄にすべきです。犯戒の考えを持つ菩薩はいません。もし故意に犯戒するなら、それは真の菩薩ではなく、その人の性障 (kleśāvaraṇa) がまだ重く、まだ仏門に入る資格がなく、真の菩薩になれないことを示しています。だから真の菩薩になりたいなら、必ず持戒しなければなりません。初めは受動的に持戒することから、自動的・自覚的に持戒し守戒するようになり、最後には持つべき戒がなくなります。なぜなら心がすでに清浄であり、犯戒の心がなく、一切の行為造作が自性清浄心と相応しているからです。このときは能動的に持戒する必要がなく、持たずして持つこととなり、時時処処で身口意行が戒律に合致し、仏法に合致し、如来蔵の体性と一致します。これが心地戒を持つということです。
第三度は忍辱波羅蜜です。忍辱を修めるのも心を清浄にさせることであり、自分の性障を降伏することであり、衆生と善縁を結ぶことでもあります。衆生は私たちに多くの辱めの境を与えますが、心を忍んで伏せ、衆生に報復せず、衆生を瞋恨しなければ、衆生と冤讎を解消し、善縁も結ぶことになり、自分の心性や性障の煩悩も効果的に降伏できます。これは真の菩薩の心行であり、真の菩薩であることの標誌です。だから必ず忍辱波羅蜜を修めなければなりません。
第四度は精進波羅蜜です。菩薩として、必ず仏法の上で精進して用功し、懈怠してはなりません。ではどの方面で精進するのでしょうか。布施の上で精進し、福徳を修めて衆生と善縁を結ぶ上で精進し、持戒の上で精進し、忍辱の上でも精進し、禅定を修める上でも精進し、自分の般若 (prajñā) 智慧を修める方面でも精進し、時時処処で精進修行すれば、善法は速やかに増長し、それによって速やかに明心見性できるのです。これが精進波羅蜜であり、生死の彼岸に到ることができるのです。
第五度は禅定波羅蜜です。菩薩は必ず禅定を修め、心を一境に住まわせ、散乱せず、昏沈もせず、定力を修出してこそ、様々な観行ができ、それから仏法を証得できるのです。この定には、一つは四禅八定の定であり、もう一つは心得決定の定です。大乗法に対して、如来蔵法に対して、菩薩はすでに心得決定し、確信して疑わず、退転しません。明心見性して真の菩薩になれる法、成仏できる法に対して、般若実相法に対しても、心得決定しています。四禅八定の功夫、特に初禅以前の未到地定 (anāgamya-samādhi) は、必ず修持して出さなければなりません。これは観行参禅の基礎であり、この定があってこそよく観行でき、自心本性を証得できるのです。だから禅定は非常に重要です。定があれば同時に福も生じ、これを定福と呼びます。最も重要なのは、定があれば大乗の般若智慧を増長できることであり、だから修定は生死の彼岸に到ることができるのです。
菩薩の六度の最後の一つは般若智慧です。般若とは何を指すのでしょうか。それは私たちの自性清浄心如来蔵を指し、神様は不生不滅の心体です。般若経典は主に600巻の『大般若経』であり、すべては如来蔵をめぐって宣説されています。『心経』『金剛経』など、さらに多くの般若方面の経典も、すべて如来蔵の般若体性を宣説しており、これらの内容を私たちは修習し、理を明らかにしなければなりません。理を明らかにした後、禅定を修出すれば、参禅することができます。これらの六度の条件が具足してこそ、参禅する能力があり、時節因縁が具足したとき、自性如来蔵を証得でき、明心見性できるのです。
菩薩の修行として、主にこの六つの方面を修めます。最後の一つは般若波羅蜜であり、これは最も重要な修行内容です。一切の修行は大智慧を獲得するためであり、智慧があれば一切法を成就でき、智慧に依拠してこそ解脱を得ることができ、智慧に依拠してこそ生死を度り仏道を成就できます。だから私たちは皆、努力して般若智慧を熏修し、如来蔵法を熏修すべきです。
<h3 style="text-indent: 2em;">二十九、なぜ有受皆苦なのか?</h3>苦には三種あります。苦苦、行苦、壊苦です。あるいは八苦に分けられます。生老病死苦、求不得苦、怨憎会苦、愛別離苦、五陰 (pañca-skandha) 熾盛苦です。行苦の行とは、運行と変化の意味であり、五陰の身心は少しずつ変化と毀壊が生じ、根本的に留まることができず、把握することができないため、五陰には行苦があります。壊苦の壊とは破壊・消散・変異を指し、五陰もまた把握することができないため、五陰には壊苦があります。一切の苦のそれ自体が一種の苦であり、これが苦苦の意味です。衆生には三苦、八苦だけでなく、拡大して細分すれば無量の数の苦があります。しかし愚痴な衆生は苦の中に身を置きながら苦を知らず、佛陀を煩わせて娑婆に来て苦聖諦を開示していただき、開示された後も、衆生は依然として苦を認識できず、苦を断くこともできません。
受は苦受、楽受、不苦不楽受に分けられますが、どのような受であってもすべて苦です。楽受の中にさえ行苦があり、楽受の後には壊苦があります。楽受と同時に、心の中にも依然として苦があり、楽しいときは純粋な楽ではなく、しかも衆生は様々な楽受のために一定の代価を払わなければならず、したがって五陰世間には真に苦のない楽受は存在しないのです。
無色界の中では、非想非非想天の禅定境界は極めて楽しいものですが、そこにも行苦があり、時間が非常に速く過ぎ、定の中の八万大劫もすぐに過ぎ去り、過ぎ去った後には一切の苦悩が現前します。衆生は楽しいときに楽しさが消えることを望みませんが、この希望そのものが苦であり、有所求の苦に属します。衆生は仏法を追求するときに辛苦の代価を払わなければなりませんが、これもまた苦であり、しかし苦の中には楽受があり、その後一切の苦は次第に楽受に転化していきます。だから私たちは精進して仏法を修学し、困苦と艱難を畏れずに修めれば、最後にはすべて楽受と捨受 (upekṣā-vedanā) に変わります。どのような受であってもすべて無常であり、無常なるものは苦なるものです。だから有受皆苦と言うのです。
<h3 style="text-indent: 2em;">三十、捨識用根の含意</h3>捨識用根という言い方は正しくありません。もし識心がなければ、誰が根を用いるのでしょうか。根はどのように用いられるのでしょうか。根でもあり識でもある意根第七識だけが、六識を離れても起用できますが、一般の人にはできません。一切の法はすべて心によって支配されており、心識がなければ修行は語れません。私たちは仏法を学んで修行するなら、仏法の基本的な道理をはっきり理解してこそ、着手して修め始めることができるのです。
いわゆる捨識とは、六つの識をすべて滅して用いないようにし、六根だけを用いて修行し一切に対応することですが、もし眼識がなければ、眼根は色を見ることができません。もし眼根も色を見ることができるなら、死人も色を見ることができ、眠っているときも色を見ることができることになり、そうなると人は死ぬこともなく眠ることもなくなります。六つの識が滅すれば、人は一切法を了知できず、根があっても作用を起こすことができません。根は六塵を受け入れる受納器であり、六識を出生するために用いられるものであり、識がなければ根には用がありません。だから修行は捨識用根だと言ってはならないのです。私たちが用いるのは識であり、一切の法はすべて識が起用し、分別しているのであり、識のない衆生は一塊の木のようで、思惟・分別・計画・打算・推理・判断ができません。
もし意識がなければ、前五識も存在できず、やはり根を捨てることはできません。たとえ用いることができたとしても、眼識は色の粗相しか見ることができず、耳識は声の粗相しか聞くことができず、意識心の分析・判断・推理・思惟がなければ、どんな法も了別することができません。そして眼根は自分自身を自分で用いることができず、眼識・意識・意根・第八識が和合して用いることしかできず、耳根・鼻根・舌根・身根もすべて同じであり、識がなければ根はいかなる作用も持つことができません。もし意根が自分だけで単独に起用できるなら、四禅八定と神通がなければならず、もし甚深の禅定がなければ、意根は依然として六塵境界を了知できず、修行もできません。
<h3 style="text-indent: 2em;">三十一、エネルギーはすべて物質色法である</h3>音楽は声塵であり、四大から組成された物質色法です。物体が衝突して発せられる音は外声塵であり、私たちが聞いたなら、聞いたのは内声塵です。音楽の旋律は声に依ってあり、五塵の上の法塵に属し、法処所摂色です。もし楽譜を見て想像し出した音楽の旋律なら、それは独影境であり、もし楽譜も見ずに、凭空で想像し出した音楽の旋律なら、なおさら独影境であり、いずれも四大から組成された色法です。
異なる物体が衝突すれば、異なる音を発し、衝突の力度が異なれば音も異なり、衝突の角度と時間が異なっても、異なる音を発します。だから異なる物体を敲打し、異なる力度と角度を用いれば、一連の異なる音が形成され、リズム感があり、これがいわゆる音楽の旋律であり、生滅変異し、非常に虚妄であり、執着できず、把捉できません。だから音楽を好むのも愚痴であり、貪愛でもあり、生死輪廻を出ないのです。
ここから想到するに、エネルギーも物質色法であり、四大から組成され、物質の運動から生み出されたものであり、消耗と逓減もでき、生滅変異無常であり、把捉できません。熱は触塵であり、四大から組成され、物質色法であり、エネルギーです。電子の運動、水の運動も、エネルギーを生み出すことができ、物質色法であり、実際の功用があり、六識に感知されます。声も一種のエネルギーと言え、物体の運動エネルギーであり、エネルギーに属します。飲食の中にはエネルギーがあり、身体に力を持たせることができ、物質色法だけが身体に力を持たせ、温度と暖かさを持たせ、身体を変えることができるのです。
物質の形態が変われば、エネルギーを生み出すことができ、形態が異なればエネルギーも異なります。水が発電できるのは、水の運動がエネルギーを生み出す原理を利用したものです。身体のエネルギーが少なければ、多く運動し、走れば、熱を生み出し、身体を温めることができます。電磁波、磁場は一種のエネルギーであり、飲食を成熟させることができます。
地大も一種のエネルギーであり、人を打ち殺すことができるのは、地大のエネルギーの作用です。火大も一種のエネルギーであり、命を生かすこともでき、人を焼き殺すこともできます。水大も一種のエネルギーであり、堤防を押し流すことができ、人を溺れ殺すことができ、渇きを癒すことができます。エネルギーは一種の力とも呼ばれ、四大はすべて力を有し、いずれも力を形成できます。静止した物体は遮挡と遮障の作用を起こすことができ、これも一種のエネルギーです。力がなければ、遮挡の作用を起こすことはできません。土地も一種のエネルギーであり、衆生を承托し、物体を承托することができ、力がなければ承托できません。静止した河水も一種のエネルギーであり、物体を漂浮させ、托載することができます。
<h3 style="text-indent: 2em;">三十二、なぜミミズは身を何段かに分けても死なないのか?</h3>人は二段に分けられれば、一段でも二段でも死にます。ミミズは七段あるいはそれ以上に分けても、すべて生きていられます。その原因は、虚空中には多くの無福の衆生がいて、身体がなく、いつも投胎の機会を探しているからです。ミミズの色身は低賤で無福であり、これらの身なき無福の衆生に適しており、ミミズが何段かに分けられた後、衆生の如来蔵はすぐに他の何段かの身体の中に投じられ、ミミズのその何段かの身体はすべて生きることになります。一段は元のミミズ自身のものであり、残りはすべて無福の衆生が後から入ったものです。虚空の中には身なき衆生が非常に多く、身体に依拠できず、みな非常に苦悩しています。だから各類の衆生は、投胎できる縁に遇えば、どんな胎であっても投生してしまい、投胎後の運命と苦しみを考えることができないのです。
大千世界の衆生は多すぎて、三悪道の苦難の衆生は数え切れません。一人の衆生の身上の細菌だけでも無数であり、ましてすべての衆生の身上のものはなおさらであり、まして虚空の中のものはなおさらであり、まして十方世界のものはなおさらです。だから私たちはすでに人身を得て、しかも仏法に遇ったのですから、精進して修行し、人身を保ち、もう三悪道に落ちてはなりません。あれほど多くの衆生のために考え、自分の無始劫の父母親族のために考え、精進して修行すべきであり、天下の衆生を憐れむために、発心して精進修行すべきです。一度人身を失えば万劫復帰し難く、幸いにも仏法に遇えたのはどれほど容易でないことか、必ず機会をつかんで修め出し、以後広く無量の衆を度すべきです。あの苦難の衆生を見て、自分で大誓願を発し、自利利他することは難しくないのです。
<h3 style="text-indent: 2em;">三十三、衆生に無明がなければ成仏する</h3>衆生は無始劫以来、無明があり、心は明になったことが一度もありません。もし衆生の無明が断じ尽くされて無明がなくなれば、それが仏です。衆生は仏になったことが一度もなく、もし衆生が仏になったことがあれば、永遠に衆生に戻ることはありません。『円覚経』にはこの段が語られており、世尊は例を挙げてこう説かれました。金鉱から真金を精錬し出せば、真金は永遠に金鉱に戻ることはない、と。つまり成仏した後は永遠に衆生に戻らないということです。これはまた、衆生が無始劫以来無明を有していることを示しており、これには何の道理も語れず、法爾如是です。『楞厳経』第四巻の中で、阿難も世尊に無明はどこから来るのか、なぜ無明があるのかと尋ねましたが、世尊は無明には来処がなく、原因がなくして存在しているのであり、もし原因があれば、それは無明ではない、と説かれました。
仏法を学んで修行する目的は成仏するためであり、仏は大智慧の成就者です。だから私たちの修行の究極の目標は大智慧を獲得するためであり、智慧解脱、智慧成仏であり、一切の方法手段はすべて智慧を獲得するためです。智慧があれば無明がなく、無明があれば智慧がなく、無明を破って智慧を得ます。それなら私たちは布施波羅蜜を修めば、智慧を獲得でき、彼岸に到ることができます。持戒波羅蜜、忍辱波羅蜜、精進波羅蜜、禅定波羅蜜も、すべて智慧を獲得でき、彼岸に到り、究竟解脱を得ることができます。
波羅蜜とは彼岸に到ることであり、生死の此岸を離れるという意味です。私たちの本覚心には無明がなく、生死がなく、生死のこの岸にないだけでなく、ないのでもありません。神様は生死のないあの岸にあり、またあの岸にあるのでもなく、あの岸があるのでもなく、これこそ本覚の中道性です。私たちが修行してすべての無明を破除し、究竟智を獲得すれば、本覚と相応し、生死もなく、生死がないのでもなく、すなわち仏地の解脱色を有します。涅槃にありながら、涅槃に入らず、これが仏地の無住処涅槃であり、在在処処に不自在なく、不解脱なくあります。もし私たちの修行方法が智慧を獲得できず、解脱を得られなければ、真実の受用がありません。私たちは再び思考し、正しい修行方法を選択して、より速く仏地へ向かい、究竟智を獲得すべきです。
<h3 style="text-indent: 2em;">三十四、多くの学仏者はほとんど意識と潜在意識の区別が分からない</h3>多くの心理学者などの社会人は仏法を信じ学んではいませんが、意識と潜在意識を比較的はっきり区別できます。私たちのような仏法を学び唯識を学ぶ者が、二つの区別が分からないとは、言ってみれば本当に汗顔慚愧です。唯識学者・唯識学家・専門家の観察思惟の智慧が、もし禅定と般若唯識の智慧のない心理学者にも及ばないなら、何を唯識の専門家・学家・学者と呼ぶことができるでしょうか。なぜこのような状況が現れるのか分かりません。
甲:私はこう理解しています。一部の学者、芸術家、科学研究者は、常に研究するために日夜思い悩むことが多く、そのため定力が比較的強く、しばしば三摩地 (samādhi) 状態に入っても自覚せず、だから微細なものを観察できるのです。
乙:そうです。彼らには禅定がありますが、意図的に修め出したものではなく、極めて大きな興味と愛好があるのです。彼らは宗教の枠組みに執着せず、宗教の是非対錯にも執着しません。私は多くの宗教徒がかえって自分自身を制限し、思惟概念の世界に生きているのを見ました。これらの学者は研究・探討の仕事に情熱と責任感を持っているので、専注して一心になれ、他の人や事には興味を示さず、真理と事実を発見できるのです。